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青春の砦

カテゴリー:日本史(戦前)

(霧山昴)
著者 大谷 直人 、 出版 新潮社
 太平洋戦争末期、静岡県の清水高等商船学校の生徒たちの日々。兵学校化しようとする動きに抵抗し、叛逆するものの、あえなく挫折、そして戦死。
昭和18年から20年の日本敗戦までの3年間、新設された清水高等商船学校の生徒たちの一連の実際の行動が小説となっています。
 作者は、その第1期生であり、生き残って戦後まもなく(昭和26年)1月から5月にかけて書き上げた。そして、さらに26年後に清書をして、400字原稿1360枚を900枚までに削った。18歳のときの話を26歳のときに書き、52歳になって刊行した本。
 本文2段組みで300頁もありますが、その息も詰まる切迫感のなか、私は飛行機のなかで暑さも忘れて必死に読みすすめました。
 吉野教官は結婚を約束する女性がいた。しかし、戦場に駆り出される前、吉野は別れ話を切り出した。それに対する返事の手紙をこっそり盗み読んだ。
 「あなたは、道連れにすることを拒否するとおっしゃられました。あなたが、この戦争で犠牲になるのを免れない覚悟は、前々から知っていました。結婚したら、私を否応なしに不幸の中に放りこんでしまうことになるから、結婚を解消してくれとの申し出は、よく分かりました。私にとって、大事なことは、20年の生涯に、あなたとめぐりあい、そして愛し愛されたということに尽きます。私にとって、愛されること以上に、愛すること、愛する人がこの地上に生きていることが喜びであり、生き甲斐でした。結婚を解消しても、この喜びも生き甲斐もなくなりはしません。あなたが、万一、戦死されることがありましても、愛した人を失った悲しさと、好きな人を愛しもせずに見送った後悔とは、どちらが深く大きいでしょうか。悲しみには耐えようとも、後悔だけはしたくありません」
 いやあ、20歳前後で、お互いに今は元気なのに今生の別れをしなくてはいけないという戦争の恐ろしさ、重圧をひしひしと実感させる文章ですね…。
 商船学校が兵学校化しようとするとき、心ある教官が生徒に次のように訓示した。
 「諸君の若い肩に、世界はあまりにも重い。それでも屈服してはいけない。諸君が倒れたら、次の者がその荷を背負うことになるのだから、諸君はわれわれ老人を越えて行け。諸君が老人を越えるときにのみ、そのために若者が生き抜くときにのみ明日がある。希望がある。若者よ、老人を越えて行け」
 そうなんですよね。後期高齢者入りを目前にした私は、いつまでも気持ちだけは若いのですが、若者が心を奮い立たせて、私たち「老人」を雄々しく乗り越えていく状況を心から待ち望んでいます。ストライキだってデモだって、多少の迷惑かけるのは気にせずに堂々とやったらいいのです。すると、私たち「年寄り」は、恐らく「まゆ」をひそめることでしょう。でも、そんなこと、たいしたことではありません。自分の思うところに突きすすめていったらいいのです。
大変な状況に置かれていた戦前の若者の息吹きに触れた思いのする本でした。
 青年劇場で劇になったようです(残念ながら、見ていません)。古い本ですが、気になったので、本箱の奥から本ををひっぱり出して読んでみました。良かったです。
(1985年12月刊。1200円)

孤島の冒険

カテゴリー:人間

(霧山昴)
著者 N.ヴヌーコフ 、 出版 童心社
 千島列島の沖合で、たまたま船の甲板に出ていたところ、突如として押し寄せてきた大波にさらわれ、ようやく島にたどり着いた。しかし、そこは無人島。14歳の少年が、どうやって1人、島で生きていくのか…。
 今から30年も前の、まだソ連だったころの話です。47日間、たった1人で生き抜いた実話が物語になっています。
 小さな無人島ですが、幸いなことに泉が湧き出していて、小さな池になっていましたので、飲み水には困りませんでした。そして、食べ物です。まず、山でゆり(百合)を見つけ、その根(ゆり根)を食べました。少年は、ゆり根を食べられることを知っていました。学者のお父さんと一緒に山に入って、ゆり根を見つけて食べられることを教えてもらっていたのです。そして、野生のネギ(マングイル)も見つけました。お父さんから、シベリアの山を一緒に歩いたとき、いろんな食べられる草を教えてもらっていました。食べられるときは食べてみたので、はっきり覚えていたのでした。
次の課題は、火です。マッチがないなかで、火をつけるというのは難しいと思います。土台になる石に少しへこみをつくり、弓のつるを棒のまわりにまきつけて、弓を早くまわす。周囲には乾いた苔(こけ)と木っぱを置いておく。すると、火がついた…。
実は、写真がないので、本当のところは、弓のつるをどうやって早く動かしたら、乾いた苔が燃え出すのか、私には分かりません。それでも、ともかくこの少年は火を起こすことができたのです。一度、火を起こせば、次からは簡単です。タネ火を保存しておいたら、火をおこすのは自由自在になります。
 ニューギニアの密林に日本敗戦後も10年間も潜んでいた元日本兵たちは、メガネのレンズを2枚組みあわせて火を起こしていました。やはり、生き延びるためには、知恵と工夫が必要なのですよね。
 魚釣りをしようとしましたが、うまくいきませんでした。適当なエサが見つからず、返しのある釣り針がつくれなかったのです。魚のかわりをしたのが、イガイという小さな貝です。岩に付着しているイガイを焼いて食べるとおいしいのでした。
 島に流れ着いてからの8日間で、人間にとって一番大切なことは困難を恐れないこと、気を落とさないことだと知った。こんなことは何でもないこと。もっと嫌なことだってあるんだ。自分に、そう言い聞かせる。そうすれば、絶体絶命だと思うような状態からでも、抜け出す道は、きっと見つかるのだ。
 島に来てから、少年は、なんて自分は物知らずなんだろうと何度も悔(く)やんだ。もっと、大人たちから、いろんなことを教えてもらっておけばよかったと反省した。
 もうひとつ気がついたことがある。それは、どんな立場に立っても、決してあせるなということ。あせり出すと、もう手違いばかり。自分で自分を疲れさせるばかりだ。
少年は無人島で風邪もひいた。それでも、お湯をわかして、のばらのお茶を10杯も飲むと、4日で治った。やはり生命力が旺盛なのです。
かもめを弓矢で撃ち落として食べようとしたが、かもめに充てることは出来なかった。そして、かもめのひなは可愛くて、可哀想で殺して食べることはできなった。
 お父さんが言ったことを少年は思い出した。
 「運命が、きみを悪夢の中でさえ見たこともないような所に追いやるかもしれない。生き抜くためには、そこでも普段のままの自分でいること。物事をよく見きわめ、チャンスをとらえ、行動するのだ。いつも、どの仕事も、どんなに嫌な仕事も、最後までやり抜く。ひとつ所を、穴があくまで叩(たた)く。そのとき、愚か者が叩くような叩き方はしないこと。そうしたら、何でもやり遂げることができる」
 いやあ、実にすばらしい父親です。きちんとコトバで、こんな大切なことを息子に伝えられるなんて…、感動します。
 少年は大波で打ち上げられた無人の船に入りこみ、そこで火を起こして船の煙突から煙を出しているうちに眠ってしまった。そこをソ連の国境警備隊に発見されました。いやあ、すごい知恵と勇気のある少年の冒険談です。
(1989年4月刊。1340円)

足利義満

カテゴリー:日本史(室町)

(霧山昴)
著者 森 茂暁 、 出版 角川選書
 室町幕府の三代将軍・足利義満は、足利尊氏(たかうじ)の孫。
 義満は室町幕府体制を確立したが、その政治手法は、一筋縄ではいかない、したたかなものである。そのしたたかさ故に、義満は、それまでの父祖、それ以降の子孫たちがなしえなかった数々の偉業をなしとげることができた。義満には、目的のためには手段を選ばないところがあった。そして、専制君主としてのすごみすらあった。
 義満は38歳で出家したが、それ以降、義満の権勢はピークに達し、その権力は公武の「政道」(施政の大綱)を担当し、「朝務」(朝廷の政務)を代行するところまでに到達した。
そもそも室町時代について「暗黒の時代」「つまらぬ時代」と言われてきたのは、とんでもない間違いであって、この時代は日本の歴史にとって画期的な時期だと見直されている。
 義満は、南北朝の対立による動乱を収束させ、南北朝の対立を克服したうえで、公武統一政権を樹立し、国家体制を整備して合戦のない平和国家の骨格をつくりあげた。
 義満は、かつては「狡猾(こうかつ)姦獰(かんどう)の賊」と指弾されていたが、今日では、「公武に君臨した室町将軍」として評価されている。
 義満は、太政大臣(だじょうだいじん)にまで上りつめ、自らを上皇に擬するような振る舞いをし、子息の義嗣をあたかも皇太子にすえるかのような行動をしたことから、「王権の簒奪(さんだつ)」を狙ったのではないかとの指摘があった(今谷明『室町の王権』、中公新書の1990年)。私も、この本を読んで、大変な衝撃を受けました。しかし、今では「天皇家の血」という観点から、否定的な考えが優勢とのこと。なるほど、ですね。
 義満が51歳という若さで死んでしまったことが、「野望」達成を妨げたのではないでしょうか。
 足利尊氏も義満の父の義詮も、権大納言(ごんだいなごん)どまりだったが、義満は21歳で権大納言となったあと、最終的には太政大臣にまでのぼりつめた。
 この本では、将軍や管領(かんれい)が発する書面の形式をとても重視しています。本のオビには発給文書1000点を分析したようなことが書かれています。花押(かおう。ようするに、独特のサインです)の位置だけで、どんな状況で出されたのか、どれほど重要かが判明するのです。室町幕府と鎌倉公方(くぼう)との緊張関係についても初めて認識しました。
 同じことは、大内義弘との関係もあてはまるようです。義満に優遇された結果、大内義弘は強大化し、かえって義満に脅威を与え、警戒されるようになったのでした。
 室町幕府の運営にとって、九州はきわめて重要な地域であった。九州は変革のエネルギーの噴火口として、油断ならない地域だった。九州探題にはしかるべき一門の武将を置いて九州を統治させた。九州支配には格別の意を用いた。うひゃあ、そうなんですかー、九州なんて京都からみたら、とるに足りないところじゃないかと思うのですが、違うようです。
 お盆休み、涼しい喫茶店に入って400頁もの大著を必死で読みふけりました。著者は私と同じ団塊世代で、福大の名誉教授です。
(2023年4月刊。2300円+税)

ゴリラ裁判の日

カテゴリー:生物

(霧山昴)
著者 須藤 古都離 、 出版 講談社
 ゴリラは人間と会話ができます。お互いに意思疎通できるのです。それは手話によります。ノドの構造上、発音のほうは人間と同じにはいかないようです。
この本は、ゴリラがコンピューターによって意思を言語で表現できるようになったという状況を前提としています。今はまだ出来ませんが、近いうちに実現できるのかもしれません。今だって、寝たきりの病人が頭のなかで考えていることをコンピューターの手助けを得て表現できるわけですので、手話が出来るのだったら、コンピューターを駆使して会話できるようになるのも、間近のことでしょう。
 私も山極寿一・元京大総長のゴリラに関する本は何冊も読んでいますので、ゴリラが一般的に争いを好まない動物だということは承知しています。著者も最後に、少しばかり、この本には事実に反する記述があると告白し、謝罪しています。
 それはともかくとして、大変面白く、一気読みしてしまいました。つまり、ゴリラに感情があるのか、人間と何が違うのか、という点が物語として読めるよう掘り下げられているからです。
 動物は人間よりも劣っていると誰もが考えているし、動物の命は軽視される、人間の命を守るために動物が殺されても、誰も疑問に思わない。しかし、人間だって、粗暴で、矛盾を抱え、利己的な存在だ。
学者証人が法廷で次のように証言した。
 「人間と動物の違いは複雑な言語体系をもつか否かにある」
 では、主人公のような手話をこえて、コンピューターを駆使して話ができるようになったゴリラは人間ではないのか…。法廷でゴリラ側の弁護士がこう指摘したとき、陪審員の一人が反応した。そうか、ゴリラも人間なのか。そして、ゴリラだって、「神の子」なんだ。そうすると、ゴリラを人間として尊重すべきではないのか、人間とは違うものとして、その主張するのは間違いではないのか…。
 その陪審員は自分の考えを根本から改める必要があると考えた。そして、行動した…。
 ゴリラについては、「何匹」とか「何頭」ではなく、「何人」と数えると聞いています。なるほど、そのとおりでしょう。
 私も、もう少し若ければアフリカに行ってジャングルのゴリラを観察するツアーに参加したいと思いますが、それはあきらめています。エジプトのピラミッドや、ペルーのマチュピチュの見学をあきらめているのと同じです。今はできるだけ日本国内をもう少し旅行したいと考えています。
 私は読む前はアメリカの裁判の話なので、てっきりアメリカの弁護士の書いた本の翻訳本だと思っていましたが、途中で、日本人の若手(30代)の作家によるものだと知り、驚きました。たいしたものです。人間とは何かを改めて考えさせる本として、一読をおすすめします。
(2023年3刊。1750円+税)

読み書きの日本史

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)
著者 八鍬 友広 、 出版 岩波新書
 よくリテラシーというコトバが登場します。もとは、読み書き能力(識字能力)のことでしたが、近年、大幅に意味内容を拡張していて、情報の内容を批判的に取捨選択する能力にまで高められている感がある。私はなかなかなじめなくて、使いこなせないコトバです。
話しコトバを獲得するには、学校に通ったり、特別な訓練を必要としない。しかし、文字の読み書きは、生得的な能力ではなく、長年にわたる習練の結果によって初めて獲得されるもの。
 そうなんです。私が毎日毎朝、フランス語を聴いて書き取りをしているのは、フランスで生活したいというよりも、フランスの文化に直に接したいという願望からなのです。
 かつての日本に角筆(かくひつ)というものがあることを初めて知りました。墨などをつけるのではなく、紙の表面に先の尖った棒状のものを押しつけて、へこみをつけるもの。
一文不通は「いちもんふつう」と読む。読み書きの能力が一定の水準に達していないことを指して使われたコトバ。
「往来物(おうらいもの)」とは、手紙文例集のこと。私は江戸時代の産物とばかり思っていましたが、実は、平安時代に始まるとのこと。平安期に続々と刊行され、鎌倉・室町に続いていったのです。かの敦煌(とんこう)石窟から発見された敦煌資料のなかにも手紙文の形式・文言を記載したものが大量に発見されているというのですから、驚きます。
日本の往来物は、学校で教科書が登場して、とって代わるまで、800年以上も継続した、世界でも特異なもの。「往来」は、一種の模範文例として、手紙を書くためのテキストブック。これに対して「消息」は、実際の手紙を指す。江戸時代の「商売往来」は、最大のヒット作だった。
近世から明治初期にかけてが、往来物の最盛期だった。現在、残っているものだけで7千種類ある。しかし、実のところ、1万をこえるのだろう。
『道中往来』は、仙台の書肆(しょし。本屋)が刊行し、きわめてよく普及した旅行記という往来物だった。
百姓一揆のときの百姓側の要望書が「目安」と呼ばれ、これらが往来物の一つになった。江戸時代、寺子屋が流行した。地方では「村堂(むらどう)」としていた。
寺子屋の師匠が亡くなったとき、千葉県内に建立された「筆子碑」は3000基もあった。寺子屋のなかには「門人張(もんじんちょう)」をつくっているところもあった。
近江国神崎郡北庄村(滋賀県東近江市)にあった時習斎寺子屋には4276人もの寺子が入門したという記録が残っている。ここで、女子の入門者は2割ほどでしかなかった。
江戸時代にやってきた、ロシアのゴローヴニン(軍人)やアメリカ人のマクドナルドやイギリスの初代終日公使オールコックは、いずれも日本人の識字能力の高さに驚いている。
村の男子の1割ほどが文通できたら、村請(むらうけ)制が実施可能だった。
昔は本を読むのは音読(おんどく)、つまり声を出して読みあげるのが一般的だと思っていました。しかし、この本では黙読もフツーにおこなわれていたというのです。そうなんですか…。
 世の中、知らないことは、ホント多いのですよね。
(2023年6月刊。1060円+税)

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