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中世ロワール河吟遊

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著者:アンドレ・カストロ、出版社:原書房
 この夏、トゥール近くのシャトーホテルに3泊し、ロワール川流域のシャトーを2日間かけてじっくり見てまわりました。フランス語でいうと la vallee de  la Loire といいます。 vallee というのは、一般に谷のことですから、行く前の私のイメージは、川の両岸に山が迫っていて、そそりたつ崖を利用したお城が点々と存在するというものでした。行ってみると、まったく違っていました。私の愛用する仏和大辞典によると、 vallee は普通、川の名とともに用いて平野を流れる大河の流域を言う。その場合は、日本の谷の概念からは遠い。まさに、そのとおりでした。見渡す限り広々とした平野をゆったりと大きなロワール川がたおやかに流れています。崖に立地しているお城(シャトー)はむしろ少なくて、たいていは平地にあるのです。
 夏の暑い陽差しのもと、2日かけて6つのシャトーを観光タクシーで見てまわりました。よく修復され、保存も行き届いている見事なお城です。往時を十分しのぶことができます。さぞかしシャトーの主の貴族たちが優雅な生活をしていたのだろうと想像しましたが、この本を読むと、それは見事に裏切られます。たいていのシャトーは実に陰惨な過去を秘めているのです。
 そもそもロワール河流域は、その昔はフランスの中心部でした。歴代の王が好んで滞在していたのです。それは国境から離れて安全だったことにもよります。ロワール河流域の別名はフランスの庭でした。15世紀にジャンヌ・ダルクが活躍したころ、ロワール河流域のシャトーは栄えていました。16世紀には、プロテスタント派(ユグノー)とカトリック派とに貴族が別れ、お互い見つけ次第に皆殺しするという限りない内戦状態にありました。キリスト教って憎悪の宗教なのかと、ついつい思ってしまいます・・・。
 スペインのフェリペ2世の無敵艦隊がフランスの海岸をゆっくりと遊戈していた。狙いはイングランドのエリザベス女王。しかし、フランスにとってもこれは脅威であった。カトリック派の貴族の首領でもあったギーズ公はフランス王アンリ3世にとって脅威であった。ギーズ公はブロワ城に三部会を招集することをアンリ3世に要求した。3部会ではギーズ公派の方が多く、国王派は全議席の4分の1も占めていなかった。
 ついにアンリ3世はギーズ公の暗殺を決意する。ブロワ城のなかの隠れ小部屋に45人隊を引きこみ、ギーズ公が1人になるように仕掛けたところを一気に襲いかかった。そして、弟のギーズ枢機卿も引き続き暗殺された。2人の死体は切り刻まれ、焼かれ、灰はロワール河に投げこまれた。
 うーん、実に凄惨な情景です。今もブロワ城に行くと、その部屋はあり、ギーズ公が暗殺される場面を描いた大きな油絵がかかっています。
 シャンボール城にも行きました。狩猟のためにつくられたという広大かつ華麗・荘厳なお城です。17世紀後半、ルイ14世の宮廷はシャンポール城にあったようなものでした。昼間は狩猟、夜は舞踏会と賭博でときを過ごすのです。
 私がまわったのは1日目がシュノンソー、シャンボール、ブロワ、アンボワーズ、2日目がヴィランドリーとアゼル・リドーです。シャトーめぐりも疲れるものではありました。
 シュノンソーは、川にまたがるお城として有名ですが、さすが別名「6人の奥方のお城」と呼ばれるだけあって、その優雅さは現地に立って見ても、なるほどとうなずかせるだけのものがありました。アンボワーズ城の近くにレオナルド・ダビンチの博物館があって、そこも見てきました。ここでレオナルド・ダビンチが晩年を過ごしたのですね。知りませんでした。てっきりイタリアで死んだとばかり思っていました。
 意外と良かったのがヴィランドリーです。花と野菜の庭園があり池もあって、庭が幾何学的に配置されて見事で、お城とほどよく調和していました。毎日の管理・手入れが大変だろうな。休日ガーデニングにいそしむ私は心配になったほどです。
 泊まったシャトーホテルは東京の酒井弁護士の紹介でした。広大な森のなかにある貴族の館です。日本人の団体客(といっても10人ほど)が夜7時に到着し、朝8時半には出発していきました。シャンデリアの輝く食堂で夕食をとったくらいで、シャトーホテルの周辺の森をゆっくり散策する時間がなかったのが気の毒でした。
 私も、20年ほど前にドイツの黒い森(シュバルツバルト)の森のなかの保養地(有名なバーデンバーデンの近く)に1泊したことがあります。例によって夜遅く着いて、朝早くの出発です。ドイツ人の老夫婦たちが食事のあと楽しそうにダンスをしていました。何泊するのかと訊かれて、1泊するだけと答えると、目を丸くして驚かれてしまいました。こんな保養地に来て、たった1泊とは・・・。だから、私は今回は3泊してみたのでした。やっぱり3泊すると、ゆったりして心地よい気分をたっぷり味わえました。

収容所から来た遺書

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著者:辺見じゅん、出版社:文春文庫
 司法修習生の原田さんから、最近読んで面白かった本としてすすめられて読んだ本です。
 関東軍は終戦直後には主要部隊を南方戦線に引き抜かれ弱体化していたところ、国境をこえて侵攻してきた150万のソ連軍にたちまち圧倒され、8月15日の終戦後、武装解除のうえ捕虜となりました。そしてシベリアへ連行されていくのです。その数、60万人と言われています。最近まで政財界の裏で暗躍していた瀬島龍三もシベリア送りとなり、日本人捕虜の団長として活動したことがありました。
 ラーゲリと呼ばれた収容所で辛く厳しい捕虜生活が始まります。この本を読むと、その辛さ、厳しさが想像できます。空腹にさいなまれ、希望を失って死んでいく捕虜が続出しました。
 この本の主人公は、満鉄調査部でソ連研究にあたっていたインテリでした。ところが、ソ連は彼を日本のスパイだと疑ったのです。ときはスターリン治世下ですから、それも当然のことです。
 主人公は私の亡父の一つ年下にあたりますが、東京外国語学校(現在の東京外国語大学)のロシア語科に入りましたが、1928年の3.15事件のとき、共産党シンパとして逮捕され、退学処分を受けていました。
 ラーゲリで主人公たちはこっそり集まり、俳句をつくっていました。アムール句会と名づけられています。仲間たちが次々に日本へ送還されていくのに、主人公はずっとラーゲリに残されたままです。そのうち不治の病にかかります。ソ連当局が十分な治療を拒否し、いよいよ誰の目にも死期が迫ります。周囲で相談し、主人公に遺書を書いてもらうことになりました。
 書かれた遺書は全部で4通、ノート15頁にわたるものでした。その遺書を仲間たちが丸暗記して日本へもち帰ることにしたのです。というのも、ソ連当局に見つかるとスパイ行為として重労働25年の刑を受けてシベリア奥地に送られるからです。そうやって暗記された遺書が、日本に帰った仲間たちの手によって復元され、日本で帰りを待ちわびていた妻のもとへ届きます。それも1通や2通ではありません。なんと7通もの遺書が届いたのです。
 つくづく人間愛っていいなと思い、胸が熱くなりました。1954年8月に亡くなった主人公の自宅に7通目の遺書が届けられたのは1987年のことです。実に33年もたっています。すごいことです・・・。

明智光秀冤罪論

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著者:井上慶雪、叢文社
 本能寺の変が起きて信長が死んだのは6月2日の午前4時ころ。明智光秀が京都に入ったのは、その5時間後の午前9時。したがって、光秀は本能寺の変の主役ではない。誰かが、信長をほとんど丸腰状態で京都に呼び出し襲ったのだという説が展開されています。学術的にはナンセンスと評価されているかもしれませんが、この本にもありますようにケネディ暗殺事件では今も大きな謎が解明されていませんし、本当のことをもっと知りたいと思わせる十分の本でした。
 光秀が信長から、このキンカン頭めがー、と言われながら公衆の面前で頭を叩かれた等々の話は、すべて後世の物語でしかなく、史実に反するとされています。
 信長は家康と違って、征夷大将軍への就任を断ってしまいました。正二位右大臣にまですすんだあと、突如として官位を返上しています。ところが、信長はそれまで、右近衛大将(うこんえのたいしょう)だけは兼任していました。これは、武家の棟梁としての地位を確保する意義のあった位なのです。
 信長は、本能寺へ安土城から大名物茶道具を運び入れました。そして、京都に来たのは、最高位の茶道具を入手するためだったというのです。おびき寄せたのは博多の豪商茶人島井宗室でした。この本は、信長暗殺は黒田官兵衛が仕掛けたものであり、実際に本能寺を襲撃したのは蜂須賀ないし細川の軍隊だとしています。ここらあたりまでくると、本当かな・・・、という気もしてくるのですが・・・。
 信長と長男信忠の遺骸が焼け跡に見つからなかったのは有名な話です。ただし、この本が「武功夜話」を根拠としている点は、その偽書説の感化を受けている私には了解できないところではあります・・・。
 歴史的大事件には、疑問点も大いにあるものだと痛感した次第です。

擬態

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著者:上田恵介、出版社:築地書館
 さまざまな生き物が、だましあって生きていることに目を見開かされます。この本の表紙写真は、虫食の痕まで葉っぱそっくりのコノハムシです。ちょっとやそっとでは、とても見破れません。
 別の種類のメスに擬態してオスを誘い、うまく近づいてきたらパクッとそのオス魚を食べてしまう魚が南アメリカ(ギアナ)にいるそうです。
 擬態というのは、姿や形だけではありません。音声をまねする音響擬態まであるというのです。驚きました。托卵する小鳥がいますよね。たとえば、カッコウはヨシキリに托卵します。
 ヨシキリのヒナは、親に食べ物をねだるとき、大きな口を開けて、「シッ」という1音を間をおいてくり返し鳴く。だから巣内のヒナ全員が鳴くと、途切れなく「シシシシ」と聞こえる。親鳥は、目の前の大口に刺激され、騒々しい声にも励まされ、すべてのヒナが口を閉じて静かになるまで、せっせと食べ物を運ぶ。
 ところで、カッコウのヒナは宿主の卵を全部外に押し出してしまうから、巣内にたった一羽だけ残ることになる。大きな口をあけても、口は一つでしかない。しかし、カッコウのヒナのエサをねだる声は、一羽しかいないとはとても思えないほどのにぎやかさで、「シシシシ」と、まるでたくさんのヒナがそこにいるかのように鳴く。つまり、カッコウのヒナは、たった1羽でも十分に食べて成長できるように、そのねだり声をヨシキリの1巣分のヒナがいて、エサをねだっているかのように擬態させ、宿主の行動を操っているのです。
 小鳥もモノマネが上手です。ヒヨドリは、近くの梢でツーピーツーピーと歌っていたシジュウカラが飛び去ったあと、同じ替え歌で鳴き返す。これは私も実際に体験しました。聞き慣れない小鳥のさえずり声が聞こえるのですが、そこにいるのは、いつも見慣れたヒヨドリでした。まさか、と思いました。この本を読んで謎がとけました。
 モズは、もっとすごい。10から20種類前後の小鳥の鳴き真似をする。キビタキはツクツクホーシーと鳴くことができる。
 生き物の世界って、本当に奥が深いんですね。

高瀬川女船歌

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著者:澤田ふじ子、出版社:幻冬舎文庫
 いやあ、うまいですね。すごく読ませます。まさしくストーリーテラーの極致です。しっぽりとした江戸情緒にみるみる引きこまれていきます。なんとなく幸せな気分になります。とかくもめごとの絶えない憂き世ではありますが、それでも案外、捨てたものではないのですよね、この世の中は・・・。
 京都の町なかを流れる幅4間の高瀬川。岸は柳の並木となり、平底の高瀬船が往来します。高瀬川は角倉了以が幕府の許可を得て7万5千両の私費を投じて開削し、年間1万両もの収入を得ていた。その代わりに、毎年銀2百枚の運上銀を上納していた。
 その高瀬川の船溜りにある旅籠(はたご)「柏屋」に働く人々が章ごとに人を変えて主人公として登場します。それぞれに重い過去を引きずっているのです。1章1章が完結しているようで、また、全体として見事な綾を織りなしています。その人情豊かな話が、春の川面に吹きわたる風のように、いくらか冷やっとしつつ、また、あたたか味も感じさせながら、読み手の心の中を吹き抜けていきます。そんな情緒にみちた時代小説です。すべてがハッピーエンドではありません。それでも、生きてて良かったよね、そんな、ほっとした思いにしてくれるのも間違いないのです。
 ちょっと落ちこんだとき、気分転換にもってこいの本としておすすめします。

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