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フィンランドに学ぶ教育と学力

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著者:庄井良信、出版社:明石書店
 フィンランドというと、おとぎ話のムーミンの国、最近では携帯電話で世界をリードするノキアの国、古くはソ連が攻めてきたのを撃退した国、というイメージを持っていました。この本によると、初めて知ったことですが、国際学力調査で世界ナンバーワンの国だそうです。ノキアは突然変異の企業ではなかったのです。読解力と科学力で1位、数学で2位、問題解決能力で2位、総合で学力世界1というのです。たいしたものです。この本は、その秘密を探っています。
 フィンランドの学校は、ほとんど学校格差がなく、総合制。学校内で能力別指導はなく、ランキングも否定されていて、非選別型の教育がなされている。学級規模は19.5人。子ども一人ひとりに対してきめ細かい指導が補習を含めてなされている。
 フィンランド人の読書好きは世界でも有名で、1年間に1人平均17冊の本を借りるほど、図書館の利用率はきわめて高い。子どもが12歳になるまで、親が本を読んで聞かせるが、それは父親の役目。授業参観も父親の参加率はきわめて高い。既婚女性の就業率は80%。7歳以下の子どもを持つ女性のうち、4分の3がフルタイムで労働している。乳母車でバスに乗ると、母親も子どももタダになる。バス自体も段差がない。
 学力の高い子と低い子とが一緒に教育を受ける総合制は、子どもにとって学ぶ意欲を高めている。社会的な平等が教育にとって重要だと考えられている。
 人口520万人のフィンランドでは、1人でも子どもの学力を遅れさせるのは社会にとっての大損失となる。教師は教育大学を出た修士であることが必要。それほど教師の給料は高くないが、自由がある。夏休みは6月から8月半ばまで、2ヶ月半もある。
 フィンランドは、小、中、高そして大学まで、授業料は全部タダ。教科書も無償。大学生は返済不要の奨学金がもらえるので、経済的にも親から自立できる。交通費や美術館などの入場料も学生は半額。高校進学率は71%。大学はすべて国立。
 教師は国民のロウソク。暗闇のなかに明かりを照らす人、人々を導く存在、正しい知識やモラルの持ち主、テーブルの真ん中に立っている一本のロウソクのように教師は、その村や町の中心人物である。
 学校の検定教科書制度は1992年に廃止された。教師は教科書を使わない授業を自分で考えて実施している。子どもに、自分が努力すれば何ごとも成し遂げることのできる、自分が主人公であるという自信を持たせる、自己効力感をもたせることに重点がおかれている。だから、子どもは自尊心が高く、何ごとにもねばり強くあきらめない性格をもつことになる。
 いやあ、これって、すごいことですよね。これだけでもフィンランドは素晴らしいと思います。
 フィンランドは北海道よりも人口が少ない。経済競争力は世界一だが、実は失業率は 8.8%と高い。
 国民はブルーカラーかホワイトカラー階級のどちらに属するかの意識が明確であり、大学で学ぶ学生の多くはホワイトカラー階級の子どもである。
 離婚率の高さも世界でトップクラス。結婚したら半分は離婚するという統計がある。
 大学では、学生組合の代表が運営に参加しているし、その代表者が文部大臣になり、首相になっていっている。それほど、教育が大切にされている。
 いやー、ちっとも知りませんでした。日本はフィンランドに大いに学ぶべきだとつくづく思いました。

墜落まで34分

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著者:ジュレ・ロングマン、出版社:光文社
 9.11のUA93便の話です。まったく悲惨としか言いようがありません。日本人学生1人をふくむ乗客40人が、跡形もなく地上から蒸発してしまいました。現地には大きな穴があいたものの、散乱する機体などはまったく見えなかったのです。犠牲者の遺体のほとんどは皮膚の一部があるだけで、その下の骨や軟組織は残っていなかったと報道されています。
 目撃者は現場には何もなかった。飛行機はどこに行ったのかとみな不思議がった。飛行機には、極めて引火性の高い燃料が1万ポンド(4500キログラム)も積載されていた。ぼろぼろになった聖書が発見された。表紙は傷んでいたが、なかは読める状態だった。結び目のついたネクタイも一本地面に落ちていた。岩の上で日光浴をしていた蛇が、攻撃しようと口をあけ、とぐろをまいたまま焼け焦げていた。ボイスレコーダーは、クレーターの下、8メートル掘ったところから回収された。
 時速575マイル(925キロ)のスピードで地面に45度の角度で激突した。だから、すべてが粉々に砕け散ってしまったのだ。
 44人の乗員乗客の総重量は3400キロあった。ところが、回収された遺体は手足や指などの一部だけで、272キロのみ。しかも、回収された遺体の60%は身元が確認できなかった。外傷が激しいため、死因は「断片化」と記載されていた。現場には一滴の血も認められなかった。このように、ジェット旅客機が地上に激突すると、すべてが見事に消失してしまうことがよく分かりました。
 ですから、UA93便が撃ち落とされたわけではないと著者は強調しています。遺物がないことがそれを証明しているというのです。なるほどと思います。ミサイル攻撃で撃ち落とされたのなら、機体の残骸が広い範囲に散乱したはずだから。これは納得できます。
 それでは、いったいハイジャックされた飛行機のなかでは何が進行していたのか。本書は、乗客からの携帯電話とメールで、それを再現しています。
 ハイジャックされたとき、客室乗務員はコックピットに電話して「このトリップのことで、ご相談したいことがあるんですが」と言うことになっている。パイロットも乗務員も逆らわないように教育されている。
 ハイジャック犯は、乗員や乗客の電話をほとんど制止しなかった。乗客たちは不安におののきながら自由に電話しており、そのことで危害を加えられる必要はなかった。おそらくテロリストたち4人は、わずかな人数で抑えこむには乗客が多すぎたので、電話を妨害するのはリスクが大きいと考えたのだろう。
 ハイジャック犯は4人とされているが、乗客は3人しか目撃していない。残る1人はどこにいたのか・・・。ちなみに、ほかの3機にはテロリストが5人ずつ乗っていた。このUA93便だけなぜ人数が少ないのか。
 「リンダ、よ。UA93便に乗っているの。ハイジャックされたわ。機内にテロリストがいて、連中は爆弾を持っているの」
 「連中ったら、2人のノドを掻き切ったのよ」
 「高度がどんどん落ちていくわ」
 「これから犯人に熱湯を浴びせて飛行機を取り戻すわ。みんながファーストクラスに走っていく。私も行くわ。じゃあね」
 「あなた、よく聞いて。いまハイジャックされた飛行機の中なの。この電話は機中からよ。あなたに愛していると言いたくて。子どもたちにとても愛してると伝えてね。ごめんなさい、言葉が見つからないわ。犯人は3人。私、冷静になろうとしているんだけど。世界貿易センタービルに飛行機が突っこんだんですってね。もう一度あなたの顔を見られるといいけど」
 「いよいよみたい。みんなでコックピットに突入する気だわ」
 「用意はいいか。ようし、さあ、かかれっ(レッツ、ロール)」
 ハイジャック犯たちは、乗客がコックピットに押し寄せるのを防ぐため、翼を左右に揺すってボウリングのピンのように倒そうとしたのだろう。捜査陣はこのように見ている。なんと勇気ある人達でしょうか・・・。
 44人の乗員・乗客が、顔写真とともに、その生い立ちと生活ぶりが紹介されています。34分間も狭い機中で葛藤させられ、ついに乗客がテロリストたちに勇敢にたち向かっていく情景の再現には心をうたれます。
 テロリストをうみ出す状況を一刻も早く根絶したいものです。もちろん、暴力には暴力で、ということではありません。暴力と報復の連鎖は、どこかで断ち切るしかないのです。ですから、アメリカのイラク占領支配は一刻も早くやめさせなくてはいけません。日本の自衛隊がイラクの人々を殺し、また殺される前に、みな無事に日本へ帰国できることを切に願っています。

戦後政治の軌跡

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著者:蒲島郁夫、出版社:岩波書店
 自民党システムとは、経済成長を進めながら、その成果の果実を、経済発展から取り残される農民等の社会集団に政治的に分配することによって、政治的支持を調達しようとするシステムである。
 高度経済成長を前提としてきた自民党システムは、経済の長期的な停滞によって維持不可能になってきた。都市居住者にとって、農村への手厚い予算配分は、税金のムダづかいであり、環境破壊でもある。また、それにともなう利権構造もウサンくさく見える。
 1960年代に登場した自民党システムは70年代に強固なまでの完成をみて、その後も自民党政権の存続を支え続けた。皮肉なことに、自民党の経済成長があまりにも成功し、それにともなう都市化によって保守票が減少し、自民党システムそのものがジリ貧になっていくという現象が見られた。問題なのは、自民党政権の長期化が構造汚職と深く結びついていることである。党のスキャンダルが、浮動票に頼っている都市の自民党候補者を直撃する。そして、利益誘導型の政治家が相対的に栄える。この悪循環のなかで田中角栄型政治家が栄え、自民党そのものが弱体化する。
 逆説的だが、自民党が経済発展を成功させるほど、自民党の首を絞めるような政治的な帰結果がもたらされたのである。他方、このような社会的変動により台頭したのが、新中間層である。この新中間層は、自民党の経済発展政策によって恩恵に浴する集団である。その意味で、彼らは基本的には自民党政権の存続を望んでいた。ただし、彼らは日本の経済発展によって利益を受けるのであって、自民党システムから直接的な利益配分を受けているわけではない。彼らは、自民党体制維持のために資源を過大に浪費することを望まないし、また、その権力乱用や政治腐敗にも嫌悪感をもっている。そのため、もっとも合理的な行動として、自民党政権の継続を前提に、自民党を牽制すべく投票する、いわゆるバッファー・プレイヤーとなった。
 私は、このバッファー・プレイヤーという言葉を初めて知りました。すでに使い慣らされた業界用語なのでしょうか?
 自民党一党優位体制のなかで、保守的で、かつ自民党に批判的なバッファー・プレイヤーは、これまでは社会党に投票するか、棄権するかの選択しかなかったが、保守新党の誕生は、このような有権者にもうひとつの選択肢を与えた。
 ふむふむ、なるほどなるほど・・・。なかなか鋭い分析ですね。
 バッファー・プレイヤーとは、基本的に自民党政権を望んでいるが、政局は与野党伯仲がよいと考えて投票する有権者のこと。自民党政権が長く続き、野党の政権担当能力が不足している状況のなかでうまれた、日本独自の投票行動を示す有権者である。これが80年代から90年代にかけての日本人の投票行動の特徴である。
 こうしてみると、2005年9月の総選挙では、バッファー・プレイヤーが残念なことに眠っていたことになるのでしょうね。
 日本の政治参加の特徴は、「持たざる者」が比較的多く政治に参加していること、世界的にみて、日本における政治参加と所得との相関関係はきわめて小さい。所得水準の低い農民が政治により多く参加するため、全体的にみて所得と政治参加の相関関係がほとんどなくなる。アメリカでは所得の高い人ほど政治に多く参加しており、所得と政治参加には強い正の相関関係が見られる。アメリカは自ら登録しなければ投票できない仕組みですから、社会に絶望した低所得層は登録せず、投票もしないわけです。
 沈黙の螺旋とは、多数派の意見が沈黙を生み、多数派の支配が螺旋状に自己形成されていく状況をさす。人々は自分が少数意見の持ち主になることをなるべく避けたいという気持ちがあり、多数意見に同調したり、声高な意見に逆らわず沈黙を保ったりするようになる。この同調や沈黙がますます多数派の声を大きくし、少数意見を小さくする。
 これまでの自民党政治は経済成長の利益をいかに分配するかという「分配の政治」であったとすれば、小泉政権の登場は、それからの訣別を意味している。小泉政権の業績が上がれば上がるほど、自民党は支持基盤を失っていく構造になっている。小泉が自民党総裁ひいては首相に選ばれたのは、自民党が党内革命が必要なほどに危機的状況にあったからである。
 著者も団塊世代の1人です。団塊世代は激しい学生運動の波をかぶっているので、政治的意識が高いかというと、全然そうではない。ただし、大卒については脱イデオロギーが顕著だということは言える。無党派層の大きさ。民主党への投票は自民党への2倍。政治的関心は高いものの、特定の政党への帰属は弱く、イデオロギー的にも中間に位置している。大卒の団塊世代は政治的関心の高い無党派層の中核に位置し、日本の政治に一定の流動性と変化を与えている。
 どうして、かつての社会参加の情熱が団塊世代になくなってしまったのか。不思議でしようがありません。やはり内ゲバによる挫折感や連合赤軍事件の悪影響がいまだに尾を引いているのでしょうか。
 著者は熊本出身でネブラスカ大学農学部を卒業して今や東大法学部教授です。「運命」(三笠書房)に、その経過が述べられていますが、感動的な本でした。

全盲の弁護士 竹下義樹

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著者:小林照幸、出版社:岩波書店
 活字中毒の私には、目が見えなくなったら絶望するしかありません。でも、まったく見えないのに点字本で法律書を理解して司法試験に合格した人がいるのです。信じられません。しかも、今や2人のイソ弁(居候弁護士。つまり、所長に雇われている弁護士)、職員8人をかかえる所長でもあるというのです。経営手腕もなかなかのようです。実にたいしたものだと感心してしまいました。
 竹下弁護士の話は私も何回か聞いたことがあります。本当にこの人は目が見えていないんだろうかと疑いたくなるほど敏捷な身のこなし、そしてダミ声に近い野太く迫力のある声で自己主張していくのに圧倒されてしまいました。いえ、決して竹下弁護士の悪口を言っているつもりではありません。人間としてのスケールの大きさにただただ圧倒されてしまったということなのです。
 この本は竹下弁護士の生い立ち、そして司法試験に合格するまでの苦難の道のりを刻明にたどっています。苦労人が必ずしも世の中にいいことをするとは限りません。それは田中角栄をもち出すまでもありません。妙にねじれたり、カネ、カネ、カネと我利我利亡者になってしまう苦労人を何人も見てきました。それは弁護士も同じことです。苦学して司法試験にせっかく合格したんだから、あとは楽させてくれとばかり、過去の苦しさと訣別して、ぜいたく三昧にふける弁護士も少なくないのが現実です。でも、そこが竹下弁護士は違います。障害者問題、福祉問題を終生の課題として離さないで、今もがんばっています。本当に偉いものです。
 竹下弁護士は、小学生のときは弱視でした。つまり生まれつきの全盲ではありません。相撲にうちこんでいました。この相撲のぶつかり稽古によって中学生のときに全盲になってしまったのです。やむなく竹下少年は盲学校に入り、弁論部に入ります。全国盲学校弁論大会に出場し、「弁護士になります」という夢を堂々と語りました。なんとか、ボランティアの助けもかりて、龍谷大学法学部に入学することができました。大学に入学して早々、暮らすの自己紹介のとき、司法試験を受けて弁護士になると述べ、周囲からアホやと思われてしまいました。なにしろ、それまで龍谷大学から司法試験に合格した学生は1人もいなかったのです。
 大学でマッサージのアルバイトをしながら法律の勉強をはじめました。そのころは、盲人が司法試験を受けたことがありません。法務省に問い合わせをします。法務省が盲人の受験は不可能ですと回答しました。そこで支援の学生と一緒に上京し、法務省に乗りこんで受験を認めるよう直談判します。この運動の途中で、弁護士になって何をしたいのかが鋭く問われました。障害者問題に取り組む弁護士になりたい。これがこたえでした。
 彼女の親の反対を押し切って学生結婚しました。ようやく点字による受験が認められ、司法試験を受験します。しかし、もちろん簡単に合格できるような試験ではありません。しかも、試験会場には、立会人が5人もいるのです。点字の問題文にも間違いだらけ。
 国会の予算委員会で参考人として、点字による司法試験のハンディをなくすよう訴える機会を与えられました。委員会が終わったあと廊下へ出ていると、当時の稲葉法務大臣が激励の握手を求めてきました。
 点字六法は全51巻、12万円もしました。ボランティア仲間がカンパを集めて買ってくれたのです。
 9回目にして、ついに司法試験に合格。このくだりは何度読んでも目が曇ってきます。たいしたものです。ボランティアの手作りの点訳本200冊、録音テープ1000本によって合格をかちとることができたのです。周囲の援助と本人のがんばりが、ついに夢を実現させたわけです。
 竹下弁護士は弁護士になって3年目から、売上はトップクラスでした。10年たって、独立して竹下法律事務所を構えたのです。生活保護行政のあり方を問う。山口組とたたかう。何のために弁護士になるのか、その原点を忘れることなく活動しています。それも見事です。いま、日本に全盲の弁護士はまだ2人だけ。でも、ロースクールには全盲の学生が何人かいるそうです。
 竹下弁護士は美術館にもよく行きます。ラジオを持参して球場でプロ野球も観戦し、大相撲も見ます。いえ、スキーもし、ネパール登山もしました。ええーっ、そんなー・・・。私だって行ってないのに・・・と叫んでしまいました。
 法廷で証人の顔が見えなくても聴覚だけで、ウソを見破るというのです。うーむ、なかなかそこまでは・・・。明日に生きる元気の出てくる本です。

武士道と日本型能力主義

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著者:笠谷和比古、出版社:新潮選書
 本の題名からすると、なんだか固苦しくて面白くなさそうですが、とんでもありません。読みはじめたら胸がワクワクしてとまらないほどの面白さです。そうか、武士道って、そういうことだったのか。年功序列制度って、今に生きる日本型の能力主義のシステムだったのか。よくよく納得できる内容でした。
 きわめつけは甘木市の秋月郷土館にあるという島原陣図屏風「出陣図」です。島原の乱(寛永14年、1637年)に際して、秋月藩黒田家(5万石)が総大将の藩主黒田長興(ながおき)以下、2000人が出陣したときの行列を200年後に8年の歳月をかけて再現したというものです。見事な屏風絵ですが、その解説がまた素晴らしい。江戸時代の軍制がよく分かりました。
 総大将である大名を中心とする旗本備(はたもとぞなえ)は本営であり、作戦司令部として防御的なものであって、直接に戦闘に参加することはない。大名家の軍団のなかの最強の武士と部隊は「先備」(さきぞなえ)に配備されているのであって、大名主君の周囲にいるのではない。一人前の武士であり、自己の判断で敵との厳しい戦闘を勝ち抜きうると考えられている有力家臣たちは最前線の「先備」に配備されることをもっとも名誉としていた。大名家の軍事力のなかで、もっとも重要な要素は足軽部隊の鉄砲の威力であったが、これも「先備」に重点的に配備され、先手の物頭(ものがしら)の指揮の下に戦闘全体をリードする役割を担っていた。
 前線の指揮進退は、あくまで先備の旗頭(はたがしら)の裁量に委ねられている。つまり、中枢に位置する藩主の権威と身分は高いけれども、実際の活動は藩主のトップダウン指令という中央統轄型ではなく、むしろ出先ごとの現場優先・現場判断型の自律分散的なものであった。
 このような解説を読んで、ぎっしり2000人の将兵が出陣する様子を描いた「出陣図」の実物を、この目で一刻も早く見てみたいと思っています。
 著者は、あの「葉隠」も誤解されていると強調しています。「武士道とは死ぬことと見つけたり」という有名な一句は、実は逆説なのだというのです。
 武士道とは、武士としての一生を、いかに理想的な形で生き抜くことができるかということを本質的な課題としていた。
 「葉隠」は、決して忠義の名のものに武士に対して奴隷のような服従を要求するものではない。自己の信念にテラして納得のいかない命令であったなら、主君に向かって、どこまでも諫言を呈して再考を求めるべきであるとする。すなわち、「葉隠」にあっては、まず自立した個人としての武士の完成が要求されているのである。
 武士道における忠義とは、阿諛追従(あゆついしょう)でもなければ、奴隷の服従でもない。主体性をもち、見識をもった自立的な武士の、責任ある決断としての献身的な行為なのである。だから、主君の命令がどうにも納得できないときには自己の意見を申し立てるし、主君を諫めて悪しき命令を改善する方向にもっていくように努力もする。忠義とは、そのような自立的な立場を堅持したうえでの献身の行為なのである。
 逆に、主体性や自立性が希薄な武士というのは、主君の命令に対して逆らいだてはしないから、よそ目には、いかにも主君に忠実であるかに映るのであるが、実のところそれは、主君の意向にただ唯々諾々と従っている媚びへつらい者にすぎない。
 江戸時代、藩主が酒と女におぼれて藩政をかえりみなくなったとき、主君「押込」がなされた。身柄を拘束され、大小の刀も取りあげられて座敷牢に監禁され、藩主は交代させられるのである。身近なところでは、久留米の有馬藩でも押込はあっています。
 この「押込」には形式が必要であった。藩主が表座敷に現れたとき、家老・重臣たちは藩主の面前に出て列座し、「お身持ちよろしからず、お慎みあるべし」と述べる。そして家老たちの指揮の下に目付・物頭たちが主君の大小の刀を取りあげ、座敷牢に監禁する。これは表座敷でなければならなかった。というのは、家老達の私欲にもとづいた陰謀ではなく、正々堂々たる藩の公式的な政治的決断としての行為であることを内外に宣言するものであった。つまり、これは謀反(むほん)ではなく、物理的強制力をともなう諫言という家老の職務的行為なのであった、というものなんだそうです。
 徳川吉宗は享保の改革のとき、足高(たしだか)制を導入した。これは能力主義的抜擢人事を展開しながら、なおかつ同時に旧来の権利関係を尊重した身分制的原理の擬制が貫かれている。この足高制によると、低い家柄の幕臣を上級役職に抜擢登用することが可能になる。これによって、武士と足軽のような下級武士との断絶を克服することができた。
 現実に、農民身分の出の者が幕府の財務長官である勘定奉行にまで一代のうちに昇進していった実例がある。幕末の外交で活躍した勘定奉行の川路聖謨(としあきら)は、日田の代官所構内で生まれた。父は一介の庶民でしかなかった。やがて、父は御家人株を買って就職した。その子は能力があったので、トントン拍子に出世していった。
 年功序列と呼ばれている制度は、非能力主義的なエスカレーター型自動昇進方式ではなかった。それは能力主義的原理にもとづく競争的な昇進方式であった。職務経験を通したスキルアップを基礎とするOJT型の能力主義的昇進システムであった。
 徳川時代の武士道思想のなかに「御家の強み」という言葉がしばしば出てくる。堅固な御家とは何か、つまり永続する組織とは何かということである。
 武士の社会はいわゆるタテ社会であるから、主君の命令と統率のもと、決して苦情やわがままを口にせず、全員一丸となって一糸乱れぬ行動をとって目標に邁進していくような組織というのは誤りなのである。このような絶対忠誠の精神にもとづく組織は、外見上は強固なように見えて、実は非常にもろくて滅亡することは遠くない。そうではなく、自己の信念に忠実であり、主君の命令であっても、疑問を感じる限りは無批判に随順せず、決して周囲の情勢に押し流されていくこともない、自律性にみちあふれた人物をどれだけ多くかかえているかに組織の強さは依存する。
 自負心が旺盛で、主体的に行動する者たちは、主命に反抗的な態度をとることもしばしばであるが、このような自我意識が強烈で容易に支配に服さないような者たちこそ、御家つまり組織のためには真に役に立つという逆説的な関係が存在していた。
 これは、今日の組織にも十分生かされるべきではないのか。著者はこのことを何度も強調しています。なるほど、なるほど、私もよく分かります。まったく同感です。
 私と同世代の学者ですが、学者って、ホントにすごいと感嘆します。

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