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刀狩り

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著者:藤木久志、出版社:岩波新書
 この著者の本には、いつも目が大きく開かされる思いです。難しく言うと、刮目(かつもく)に値する本です。
 秀吉の刀狩りによって日本人は武装解除され、それ以来、日本人はながく丸腰の文化を形成してきたというのが今の私たちの常識です。でも、この常識は本当なのか。この本を読むと、まったく違った日本人像をもたざるをえなくなります。
 ちなみに、私は、日本人は聖徳太子の「十七条の憲法」以来、和をもって貴しとなしてきた、争いごとを好まず、裁判沙汰を嫌う国民性があるという常識も間違っていると考えています。だって、あの「十七条の憲法」をよく読んでみてください。このところ(もちろん、聖徳太子のいた当時のことです)、裁判があまりにも多い。裁判官も賄賂をもらっていいかげんにしている。もっと仲良くしないとダメじゃないかと、当時の日本人に反省を迫っている文章なのです。争いごとを好まないどころか、あまりに争いごとを好むから、ホドホドにして、せめて裁判は減らせと聖徳太子は言ったのです。
 まちがった常識のひとり歩きは恐ろしいものです。戦国時代に日本にいた宣教師ルイス・フロイスは、「日本史」のなかで、このように書いています。
 日本では、今日までの習慣として、農民をはじめとして、すべての者が、ある年齢に達すると、大刀と小刀を帯びることになっている。
 このころ、刀と脇差は、自立した男たちのシンボルでした。それは、なにも武士だけでのことではなかったのです。つまり、武装解除された丸腰の民衆像というのは、虚像でしかありません。
 当知行(とうちぎょう)の原則とは、中世の山野河海は、村々の自力(武装と闘争)によって、つねに確保できているかぎり、自分の村のものであるという鉄則のこと。
 自検断(じけんだん)とは、村の治安を守るために、また、ナワバリ争いのときに守るために武器をつかい、人を殺す権利も村ごとに行使すること。
 同じ宣教師ロドリゲスは、成人の祝いとしては、名前を変えること、前髪をそること、刀・脇指を帯びることの3点セットで成り立っていたと指摘している。
 サムライとは武士ではなく、刀をさすおとな百姓のことであり、刀をさす資格のない小百姓をカマサシと呼んでいた。 山村では、ふだんの山仕事のとき、村の男たちは脇指をさして山に入っていた。
 ルイス・フロイスは、秀吉の刀狩りのポイントは、武士でない者からすべて刀を没収すること、つまり刀のあるなしで、武士と武士でない者とを峻別しようとすることにあるとした。刀狩令は身分を決めるためのものと見抜いたのだ。
 刀狩りのあと、村々の現実はどうだったのか。徳川時代にも、村々には、弓・ヤリ・鉄砲・長刀・刀など、さまざまな武器がたくさんあり、祭りの場でつかわれ、紛争の場に持ち出されていた。
 寛永18年(1641年)に、新潟・魚沼と陸奥・会津との間で国境争いがあった。このとき、会津方は、鉄砲150挺、弓60張、ヤリ100本ほど持ちだしたと越後側は非難した。それほどの武器を会津の村々が持っていたというわけである。
 徳川幕府は、秀吉の刀狩令について積極的に受け継いだ形跡はなく、また廃棄した様子もない。
 肥後の加藤忠広(清正の子)が改易され、小倉から細川忠利が移ってきた。寛永10年(1633年)、忠利は次のように指令した。
 庄屋は刀・脇指をさすこと。百姓は脇指をさせ。持たない者は、すぐに買い求めてさせ。もし、ささないなら過料をとる。
 1635年(寛永12年)に、肥後藩内に1603挺もの鉄砲があり、天草一揆のあとの1641年には、2173挺へ136%に増えていた。それほどの鉄砲が村々にはあった。
 1642年(寛永19年)、尾張藩は、町人や百姓がふつうの刀・脇指はいいが、大刀、大脇指はダメ。ただし、鞘の色は派手すぎてはいけないという法を出した。外観だけ規制されていた。江戸町人も同じで、長刀や大脇指をさしているのを取り締まる必要があるとされたほど(1648年)。町人たちは、ふだん外出するときも、脇指を身につけていた。
 一揆のときには、鉄砲をつかわないという原則が人々のあいだに貫徹していた。それは領主側も同じことだった。うーむ、すごいことですよね、これって・・・。
 第二次大戦が終わって、全国で武器が没収された。このとき、長野県だけで5万本をこえる日本刀が、熊本県でも2万本をこえる日本刀が没収された。拳銃は1万挺、小銃も猟銃も、それぞれ40万挺近くが没収された。これほど日本人は武器を持っていたのである。日本刀は全国で530万本はあったとされている。つまり、日本人はこれだけ大量の武器をもっていながら、自ら抑制し凍結してきて今日に至ったのである。平和を守るための強いコンセンサス(共同意思)が働いていたというわけである。
 なるほど、なるほど、日本人は決して丸腰ではなかった。それでも、平和を守ってきた。ルールを守って平和を維持してきたのだ。このことがよく分かる素晴らしい本です。

税金裁判物語

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著者:関戸一考、出版社:せせらぎ出版
 税金のとり方って、富める者に弱く、貧しい者からは苛酷に、というのが古今東西変わらないとは思いますが、このごろの日本は一段とそれがひどくなっている気がします。大企業の裏金は膨大なもので、そこに政治家と暴力団が甘い汁のおこぼれにあずかっています。私の住んでいる町の一角に暴力団専用の駐車場がありますが、高級車がズラリ並んでいます。不景気な世の中なのに、どうして彼らだけはもうかっているのか、不思議でなりません。開通したら赤字必至の九州新幹線の建築をめぐって、用地買収から土木建築まで、すべてにわたって自民党の有力政治家のふところをたっぷりうるおしているという話が伝わってきます。なぜ、税務署はあるところから取らないんでしょう。その気になればガッポリ税収をかせげるはずなのに・・・。
 この本は、税金裁判を専門とする弁護士がいわば手引書として書いたものです。実際に扱った事件をもとにしていますから、大変わかりやすく書かれていて、参考になります。
 税務署が漫然と推計課税をし、それが著しく過大な認定であったときには、更正処分それ自体が国家賠償法上の違法行為となる。このような判例があることを知りました。
 課税処分取消訴訟で、更正処分が取り消されると、還付加算金として年利7.3%の金利がつく。判決確定まで10年かかると、元金の7割がプラスされて返ってくる。これは大変大きなメリットがある、ということです。
 マルサとリョーチョーは異なるもの。リョウチョーは令状のない任意調査なので、断ることができるし、調査理由の開示を求めることができる。
 安易に修正申告してはいけない。修正申告してしまえば異議申立はできない。なぜなら、修正申告は、当初の申告が間違っていたことを自らの自由意思で認めることなのだから。あとでこれをひっくり返すのは非常に難しい。
 ですから、税務署員は甘い言葉と恫喝によって、なんとか修正申告をさせようと迫るのです。だから税務署に更正処分を打たせるべきなのです。
 著者は勇気を出して税金裁判を起こそうと呼びかけています。でも、そのまえに5つのポイントがあるとしています。
 1、本人に十分な怒りがあるか。これがないと長い裁判は続けられない。
 2、取引先が協力的か。取引先が非協力だと致命傷になることがある。
 3、更正処分の内容が本人の実態とかけ離れているか。
 4、どの程度の資料が備えてあるか。所得額が争点となったときに、それを具体的に裏づける資料が必要である。
 5、争点がどこになるか。この点は、国税不服審判所の裁決を検討すれば、だいたい予想がつく。
 税務署をむやみに恐れる必要はありません。しかし、ときによって報復調査を仕掛けてくるという嫌らしい体質をもっていることも忘れてはいけません。ですから、軽々しい気持ちで税金裁判を起こすべきではないのです。やはり、何事も、やるからには徹底して、肚を固めてのぞむ必要があります。
 さあ、あなたも不等な課税処分には断固としてノーと言いましょう。権利は、たたかってこそ自分のものになるのです。

歴史学を見つめ直す

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著者:保立道久、出版社:校倉書房
 私と同じ団塊世代である著者は、10年ほど前から日本の歴史社会の構成について、封建制という概念は放棄すべきであると考えるようになったと言います。なるほど、本書はサブ・タイトルとして、封建制概念の放棄とあります。
 日本の武士道を封建制にもとづくものとして対外的に紹介したのは、あの有名な新渡戸稲造が英文で出版した「武士道」でした。ところで、この本のなかで新渡戸はカール・マルクスの資本論を引用し、封建制の活きた形は日本に見られると注意を喚起したというのです。ええーっ、新渡戸とマルクスと、どんな関連があるのか、びっくりしてしまいました。私も学生時代に1度だけ「資本論」を通読し、さらに弁護士になってからもう一度「資本論」を読み直しました。正直いって、私には難しすぎて、よく理解できませんでした。今は、ともかくマルクスの「資本論」を読了したという達成感が残っているだけです。
 この本は、マルクスは本当に当時(江戸時代です)の日本が封建制であると認識していたのか、その根拠は何であったのかを解明しています。マルクスは、イギリスの外交官であったオルコックの旅行記(日本滞在記)「大君の都」を読んで書いたのだが、この旅行記は、必ずしも信頼できるものではないとしています。むしろ、マルクスは、資料批判が必要なこの「旅行記」をふまえて、皮肉を述べていたのだとしています。そして、結論として、先ほど述べたとおり、日本の歴史的な社会構成は、封建制という用語ではとらえられないとしています。
 著者は、また万世一系の思想というのは、中国(唐)そして朝鮮(新羅)の王朝が次々に大きく変わっていくなかで、日本ではそんなことはないという、きわめて新しい(当時としては、の意)イデオロギーであったことも明らかにしています。
 中国や朝鮮において天命をうけた王の家系は百代にもわたって続くという百王思想に対して、日本では天皇は現人神であって万代にも続いていくというイデオロギーの表明であった。つまり、万世一系の思想というのは、日本内部で完結するものとして語られたのではなく、東アジア諸国との対比のなかで語られたものであった。うーむ、なるほど、百に対する万の違い、そういうことだったのかー・・・。
 そもそも、奈良時代半ばまでの王権はきわめて神話的・未開的な色彩が濃く、天皇の神的血統は近親結婚のなかで再生産されていた。たとえば、天武天皇は兄の天智天皇の2人の娘と結婚した。天武王統は、天智天皇の血のまざった子どもに王位を与えようと固執したため、天武王統の男子はほぼ皆殺しされてしまった。少なくとも、8世紀半ばまで王族内婚制は生きていた。
 「君が代」は古今集にのっているが、この古今和歌集は、10世紀初頭、醍醐天皇の権威が確立すると同時に、それを祝うために編集された、きわめて政治的なテキストである。つまり、「君が代」は醍醐天皇に対する天皇賀歌なのであって、単に目上の人に対する寿歌ではない。そこをあいまいにしてはいけない。ふむふむ、なるほど、そうなんですね。
 この本を読んで、平安時代を始めた桓武天皇と朝鮮半島の結びつきの強さに改めて驚かされました。桓武天皇の母が百済王氏である高野新笠であるということは前から知っていましたが、桓武天皇が百済王家救援のために朝鮮半島への出兵まで意識していたとは知りませんでした。ただし、現実には、それよりも国内の陸奥への出兵を優先させたのです。陸奥の反乱をおさえた坂上田村麻呂も渡来氏族だということも知りました。ちょうど、あの有名なアテルイが活躍したころのことです。
 そして、桓武天皇の3人の子どもの乳母も渡来氏族の出身でした。乳母というのを軽く見てはいけません。相当の実権を握る存在だったのです。まだまだ、歴史には解明されるべきことが多いことを知らされます。
 著者は網野善彦氏を評価しつつ、同じ歴史学者として厳しく批判しています。長く網野ファンとしてきた私としても、はっと居住まいをただされるような内容です。
 後醍醐天皇が破産するまでの天皇制は実際的な政治権力だが、それ以降は「旧王」としてイデオロギー的な権力に骨抜きになった。
 網野氏は鋳物師などの商工民から漁民・杣人などにいたる実に多様な生業に携わる人々を非農業民として一括する。しかし、農業と非農業の複合構造の解明こそが必要である。などなどです。肝心なところを紹介する力がないのが申しわけありません。ともかく、網野史観が絶対正しいというものでないことだけはよく分かりました。
 やはり、学問の世界は厳しいんですね。

世界監獄史事典

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著者:重松一義、出版社:柏書房
 半年ほど、ほとんど毎週のように土曜日の午後、刑務所に被告人の面会に出かけていました。太宰府駅からタクシーに乗っていくのが最短コースです。帰りに天満宮に立ち寄り、熱々の梅ヶ枝餅をほうばって帰ったことがあります。本来収容されるべき拘置所が建て替えのため臨時に刑務所に収容されていたのでした。冬の刑務所の寒さは尋常なものではないようです。布団のなかに入って身体が温まるまでかなりの時間がかかり、それまでとても眠れないとこぼしていました。夏は夏で、カンカン照りの炎暑の部屋になります。
 この本は刑務所について、古今東西、過去と現在をあますところなく紹介しています。
 アメリカでは連邦・州・郡それぞれに属する3つの司法機関が独自に刑務所をもっている。全米の受刑者の数は1993年に133万人をこした。人口10万人あたり500人以上が刑務所に入っている計算になる。これはもちろん世界一。1980年に比べて、連邦施設の受刑者は1.5倍以上に増え、今の状態が続くと、連邦刑務所だけでも毎週
1143人分もの施設を増やさなければならない。
 カリフォルニア州は全米の受刑者の6分の1をかかえる。もちろん全米のトップ。中国に次ぐ第二の刑務所人口。予算増は深刻。1993年度の州予算の8.6%に相当する 33億ドルが刑務所費用。他の予算は減っているのに、刑務所だけは施設の拡大とそれにともなう2600人もの看守増を見込んでいる。どこも定員の2倍近い過密ぶり。
 2000年2月、アメリカの刑務所人口は、ついに史上初めて200万人をこえた。そこで、アメリカでは囚人1人1日43ドル(4700円)で民間に委託する民営刑務所が300億ドル規模の刑務所ビジネスとして急成長をとげている。
 全米の民営刑務所に収監中の囚人は、11万2千人。そのうちCCAという会社は一社だけで半数の7万人の面倒をみている。安上がりで効率的な刑務所管理がうたい文句。
 ニューヨークには、11階建の拘置所がある。定員900人。16歳以上の男子専用。近くに女子専用拘置所もある。こちらは12階建。
 サンフランシスコの沖合にあるアルカトラズ監獄に見学に行ったことがあります。凶悪囚300人を収容していました。あのアル・カポネもいたことで有名です。映画の舞台にもなりました。狭い獄舎が当時のまま保存されていて、こんなところに閉じこめられてしまったら、まさにカゴの鳥だと実感しました。対岸のサンフランシスコの街がすぐ近くに見えるのですが、現実には水流が速くて冷たくとても泳ぎで渡れるものではなく、脱獄に成功した囚人は1人もいないそうです。
 それにしても刑務所や拘置所へ面会に行くたびに、所内で働いている職員のみなさんは本当に大変だなと実感します。いろんな囚人がいて、その接遇に日々苦労しておられると思います。その労働条件の改善のためには、労働組合が絶対に必要な職場ではないかと感じるのですが、いかがでしょうか。

皇帝ペンギン

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著者:橋口いくよ、出版社:幻冬舎
 映画「皇帝ペンギン」を小説化したものです。映画を見ていない人におすすめの本です。皇帝ペンギンたちの過酷な生が、見事な写真と文章で生き生きと描き出されています。
 映画を見ているものにとっては、撮影裏話というか、どうやってこんな過酷な自然条件のなかで撮影できたのか紹介してほしいところでした。ぜひ知りたいところです。
 お父さんペンギンたちは、わが子(まだ卵)を足の上にのせてマイナス40度の厳冬期を過ごします。吹きすさぶブリザードのなかで、背中を丸め肩寄せあって押しくらまんじゅうしながら耐え抜く姿には、ついつい涙が止まらないほどの感動を覚えました。
 皇帝ペンギンたちは繁殖期を迎えると、南極大陸のある地点を目ざして一列になって行進します。そこで、互いの配偶者を探し求めるのです。その求愛ダンスはまるで真冬の大舞踏会。空を見たり、おじぎをしたり、お互いのくちばしでなであい、踊るのです。ユーモラスというより、いかにも真剣で、厳かな儀式だとしか思えません。
 ついに、わが子が誕生します。卵をまず抱えて温めるのは、父ペンギンの役割です。母ペンギンが父ペンギンへ、そーっと上手に卵を手渡しします。おっと、手ではありません。足渡しでした。
 父ペンギンは受けとった卵を足の上に乗せ、自分の身体でスッポリと覆い、冷たい氷の上にじっと立って、3ヶ月間、飲まず(雪を食べますが)食わず(本当に絶食します。おかげで体重は半分以下になります)で過ごすのです。そのあいだに、母ペンギンは海に出て腹いっぱい食べて戻ってくるのです。ところが、繁殖地点と海は遠く離れていて、ペンギンは往復とも歩いていくのですから、なんと3ヶ月という時間がかかるのです。
 ペンギンの子どもたちの姿が実に愛らしい。ぬいぐるみそっくりです。外見上まったく見分けがつかないと思うのですが、ペンギン親子と夫婦は呼びあう声でお互いをきちんと認識しています。これって、すごいことですよね。
 そして、ペンギンの子どもたちには保育所まであるというのですから、驚きです。子どもたち同士が固まって集団をつくって生活するのです。
 こんな過酷な極限状態のなか、家族をつくって生き抜いているペンギンたちに、つい大きな拍手を送りたくなります。
 あなたが、最近、生きるのにちょっと疲れたな、そう思ったときに、この本を手にとってパラパラとめくって写真を眺めてみてください。きっと、何か大きな力を身体のうちに感じることができると思います。

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