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民族浄化を裁く

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著者:多谷千香子、出版社:岩波新書
 著者は検事になったあと、ヨーロッパで旧ユーゴ戦犯法廷判事をつとめて退官し、現在は法政大学法学部の教授です。
 実は私は著者と司法試験の口述試験を受ける直前に一緒に口述試問の練習をしたという記憶があります。そのときから英語もフランス語もペラペラで、世の中にはすごい人もいるんだなあと感心したことを覚えています。
 民族浄化の実像は、血で血を洗うバルカンの歴史が生んだ民族の怨念の再来とか歴史の必然などと片付けられるものではない。それは当時の指導者が仕掛けた権力闘争がわざと引き起こしたものにすぎない。共和国の独立による旧ユーゴ連邦分裂の危機を千載一遇のチャンスとして積極的に利用し、他民族の攻撃から自民族を守ることを口実に自分の権力基盤の確立を目ざして、国土の分捕り合戦をしたのだ。他民族が集団殺害を計画していると嘘の宣伝をして、あたかも身に危険が差し迫っているかのような現在の不安を強調したり、他民族に天下をとられて二級市民の悲哀をなめることになるかもしれないという将来の不安を煽った。そして、過激で分別のない若者や前科者などの無法者が民族浄化の実行部隊として使われ、野放しのまま放置された。指導者たちは、表では彼らの犯罪の取り締まりを約束しながら、裏では実行部隊を利用した。
 民族のモザイクといわれる旧ユーゴでも、ボスニアを除けば、それほど異なる民族が入り組んでいるわけではない。
 そして、ユーゴの民族の違いは、客観的事実というよりは、歴史的に作られた各民族の自己認識の問題といった方が正確である。セルビア人、クロアチア人、スロヴェニア人、マケドニア人、モンテネグロ人は、いずれも5〜7世紀にこの地に南下してきた南スラブ人の一分派であって、血統的にはすべて南スラブ人。言語も南スラブの方言程度の違いしかない。ええーっ、そうなんだー・・・。ちっとも知りませんでした。まったく別々の民族がいりくんでいるのだとばかり思っていました。
 しかし、彼らが独自の民族として自覚し、主張するのは、別々の歴史を歩いてきたことによる。セルビア、マケドニア、モンテネグロは500年にわたってトルコの支配下におかれ、スロヴェニア、クロアチアはオーストリア・ハンガリー帝国の支配下におかれていた。この違いが大きい。歴史の違いは、埋めることの難しい、宗教や文字を含めた文化の違いをもたらし、各民族の自意識にしみ込んでいった。
 モスリム人も、血統的にはセルビア人やクロアチア人と変わらず、トルコ支配下でイスラム教に改宗した者の子孫にすぎない。トルコは、異教徒には比較的寛大だったが、イスラム教への改宗者には課税しなかった。
 旧ユーゴの崩壊は、国際社会の対応のまずさを抜きにしては論じられない。胎動してきたボスニア紛争の大きな引き金を引くことになったのは、ドイツによるクロアチアの独立承認である。ドイツに批判的だった他の先進諸国も、ドイツに追随してクロアチアの独立を承認したことは、致命的な状況判断の誤りであり、紛争がボスニアに拡大するのをほとんど決定的なものにした。
 民族浄化をすすめた民兵の残虐行為はナチスに酷似している。それが特殊な出来事ではなく、人間性に本来的に根ざしたものであり、これからも起こる可能性がないとは言えないことを示す。暗い一面であっても、変わらないものなら、それを直視する以外、正当な対処方法はない。将来の紛争の予防策は、同じような残虐行為を繰り返しかねないこの人間性を直視することから始めなければならない。
 ユーゴ戦犯法廷の判事の一人に日本人がいて活躍していたこと、それがこのようなコンパクトな形で日本人に知る機会を与えてくれたことに感謝します。

なぜフィンランドの子どもたちは「学力」が高いか

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著者:教育科学研究会、出版社:国土社
 2004年暮れ、OECD(経済協力開発機構)は2回目の国際学力比較調査(PISA)を発表した。
 日本は「読解リテラシー」が8位から14位に、「数学リテラシー」が1位から6位に低下した。新聞各紙は、日本の学力が世界のトップから転落、と報道した。
 これに対して、フィンランドは、「数学リテラシー」が2位、「読解リテラシー」と「科学リテラシー」は1位、「問題解決能力」は3位、総合して1位だった。
 これまで、日本と韓国は理科と数学のテストで突出していた。しかし、それはなんらかを犠牲においてかちとられたものであった。それは人格形成において、である。両国とも塾教育がすさまじい。そして、詰めこみ教育、無理にたたきこむ。したがって人格形成において欠陥がうまれる。批判的な能力とか忍耐とか思いやりというのが本当の意味での学力を形成する。そこには、もちろん社会批判も入っている。さまざまな困難をかかえている現代社会で、それらを解決するのにふさわしい知識や技能や態度を教育のなかで、どうやって子どもたちに身につけさせていくのか、それを今、真剣に考えなければいけない。
 PISAで、日本の場合、記述式の設問について無回答が多い。それは、日本の子どもたちが考えることを放棄してしまうから。格差が広がり、全体として低下したというより下が多くなってしまった。これを放っておいて全国テストなんて、とんでもないことだ。
 1992年から、北欧では教科書検定は一切なくなった。各国とも、国語教科書のなかに公民教育、自然の教育、いのちを大事にすることが取りあげられている。「生きる力」を育てることを貫いている教科書だ。
 教育費は、給食費をふくめて、すべて無償で、公費でまかなわれている。義務教育費は国が57%、地方が43%を負担し、高等教育は国が100%負担している。
 総合性の教育は、授業中、先生が説明しているときでも、できる生徒が席を移ってもできない子に教えにいく。子ども同士で教えあうことは、子どもにとって喜びでもある。
 教科書は教師が自由に選ぶ。基礎的な教科書は貸与される。学習書的なものは交付される。宿題や塾は、ほとんどない。子どもたちは朝9時から午後2時まで学校にいる。先生は放課後は翌日の教材を準備する。そのあと時間があったら、子どもの家庭を訪問する。教師は夜になると地域の親たちを教える。アルバイトだけど、国が100%補助する。
 教員の社会的地位、信頼の高さは、教職をもっとも優秀な人がつく職業にしている。これは、日本のような「でもしか」教師ではないということです。
 フィンランドの学力世界一の優秀さは、次の3点にある。第1は、学力水準(平均点)の高さ。第2は、学力格差の少なさ、第3は、社会経済的背景の影響における教育の優秀さ。
 地域には、図書館とその分室が、コンビニ(スーパー)よりも多いほど。国民が図書館をしており、本をよく読んでいる。小学校のクラスは20人ほど、中学と高校は16人が標準。小学校で70人、中学も高校も150人程度。校長も授業を担当し、学級を担任する。
 うーむ、フィンランドの教育と日本との違いがよく分かりました。それなら、いま小泉内閣のすすめていることはいったん凍結して、本書での提案をもう一度考えてみるべきではないか。つくづく、そう思いました。

ジャンヌ・ダルク

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著者:高山一彦、出版社:岩波新書
 おけましておめでとうございます。本年も楽しみながら続けるつもりですので、どうぞご愛読ください。
 オルレアンの少女、ジャンヌ・ダルクについて私たちが詳しく知ることができるのは、彼女が裁判にかけられ、何人もの証人が調べられて、それが書面で残っていることによります。しかも、その裁判は、実は2回あったのです。1回目は処刑されたときのことですが、処刑されたあと、彼女の復権(名誉回復)のための裁判がもう1回あっているのです。敵に捕まって、いきなり処刑されたというわけではありません。裁判があったというのは面白いことですよね。2回とも、いわゆる教会裁判です。1回目の処刑裁判は、ジャンヌ自身が追求に答えて語ったところが詳しく調書に記載されて残っています。
 2回目は、ジャンヌの母親がローマ教皇に訴えて、ジャンヌが火刑されて25年後に行われた「やり直し裁判」です。そこでは、故郷の幼なじみや、オルレアンでともに戦った戦友・市民たちなど、100人をこす人が証人として証言していますが、この記録も残っているのです。これが、ジャンヌ・ダルク処刑裁判記録として全2巻の大部な本になっているそうです。私たちは、その要点を岩波新書で簡単に知ることができるわけです。
 ジャンヌ・ダルク自身が剣をふるって敵と戦ったことはない。旗印しを好んで手にしていたのは、敵を傷つけないためとジャンヌ自身が法廷で供述している。
 ジャンヌ・ダルクが登場するのは、1429年春、4月29日のこと。ロワール川中流にあるオルレアンの町をイギリス軍が包囲して半年に及んでいました。
 ジャンヌの処刑裁判は、1431年2月21日午前8時から、ルーアン城内の国王礼拝堂を法廷として始まった。このとき、修道院長ら聖職者が42人出席している。
 ジャンヌの生まれたトンレミ村は現在、人口200人前後のささやかな集落。オルレアンの町の包囲が半年も続いて絶望状態と思われていたのに、ジャンヌの出現によって10日足らずで解放された。
 火刑を執行したイギリス側は、火刑の最中に火勢をいったん止めて、焼けた死体を見物人に示して、娘が死んだことを確認させ、遺骸の灰を残らずセーヌ川に捨てさせた。これは、当時すでにジャンヌを聖女視する風潮が大衆のあいだに芽生えていたことを物語るもので、イギリス側は、ジャンヌの遺骸が聖者の遺物として崇敬の対象となることを防ごうとした。
 1455年6月11日、オルレアンにいたジャンヌの母からの再審の訴えをローマ教皇カリクスト3世は認め、ジャンヌ復権の裁判が始まった。1456年7月7日、判決が下された。
 前の裁判と判決は名実ともに欺瞞、中傷、不正、矛盾、明確な過誤を犯すものであり、被告の改悛、その断罪および諸結果を含め、過去および現在にわたり無効であり、否認されるべきものであることを宣言する。
 国王による調査から数えると復権の成立まで7年の歳月をかけ、あらゆる階層にわたってのべ110名あまりの証人を調べた裁判の結果の判決でした。
 実は、ジャンヌ・ダルクの処刑裁判のとき、ジャンヌの改悛事件というのが起き、いったんは火刑を免れそうになったのです。破門判決文の朗読のさなかに火刑台を目の前にすえられて火刑の恐怖に怯え、自分が聴いたと称してきた「声」は作り話であったと否認し、男の服装も捨てると誓約したということです。ところが、数日後、牢内で誓約を破って再び男の服装を身につけたことから、ジャンヌは今度こそ救済の余地のない戻り異端として教会からの破門という判決を受け、火刑に処せられました。
 ジャンヌは火刑台の上で息絶えるまで、「イエズス様、イエズス様」と叫んでいたと後の復権裁判のとき、修道士たちが証言しています。
 この本は、ジャンヌの改悛なるものは、かなりの混乱のなかで、ほぼ強制的に行われたものだとしています。そして、裁判記録にも重大な書き換えがあると指摘しています。いわば今日にも見られるような政治的裁判劇であったということでしょう。
 人間ジャンヌの素顔を知ることのできる面白い本です。

亡国

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著者:平野貞夫、出版社:展望社
 小泉に踊らされてはならない。オビに大書きされている言葉です。本のサブ・タイトルには民衆狂乱し、「小泉ええじゃないか」ともあります。著者は最後は自民党から参議院議員となった人ですが、長く衆議院事務局の職員として働き、その後、園田直衆議院副議長の秘書として2年間、前尾繁三郎衆議院議長の秘書を4年つとめました。
 政界を引退した今、著者は次のように述懐しています。
 政治とともに馬齢を重ねた私にとって、政治は私の生きる証ではあったが、残念ながら生きる希望にはなりえなかった。
 若いとき、政治家とは心の底に憂国の思いを抱いている人たちではないのかと畏敬の念をいだいていた。しかし、現実に遭遇したのは、これが日本の政治家と我が目を疑うようなことばかりだった。
 あくなき権力闘争と金権政治の腐臭に満ちた国会内で、謀略と嘘で固めた国体政治の裏方として、長く働いてきた私は、ここに亡国のドラマを書きつづる。
 メディアを通じ、魔術師小泉が全身で演じた狂気の催眠術によって国民は洗脳されたのではないではないか。アメリカの投機資本の餌食になってはならないのだ。
 自民党をぶっ壊すと言って民衆の支持を受けた小泉純一郎が自民党を亡霊のようによみがえらせ、日本の国をぶっ壊すことになるとすれば、これは一大事である。
 ええじゃないか、ええじゃないかと踊り狂っているあいだに、私たちの国がどこに向かってすすんでいくのか、忘れ去ってはいけない。
 以下はこの本に書かれていることではありません。小泉・自民党が先の総選挙で大勝したのはメディアによる世論操作に成功したから。自民党は「コミュニケーション戦略チーム」(略称・コミ戦)をつくり、「コミ戦戦略統括委員会」をつくった。チームのメンバーは自民党職員で幹事長室長、自民党記者クラブ担当、政調会長秘書、広報本部長、遊説担当、情報調査局員、それに広告代理店「ブラップジャパン」(B社)の担当者。小泉政権は低IQ層への働きかけ」を具体的にすすめた。小泉政権が照準にした「低IQ層」とは、主婦層と子ども中心、シルバー層、具体的なことは分からないが小泉首相のキャラクターを支持する層、閣僚を支持する層で、平たくいうと、お上の言うことを疑いもせずに信じ、従順に従う層だ。
 テレビ局を味方につけ、ターゲットにされた「低いIQ層」はそれまでの棄権から投票へ駆り立てられた。小泉劇場効果で若者を中心に投票率は7%上がり、そのほとんどが自民党に投票した。フリーターやニートたちが、生活は今は苦しいが、小泉改革で、将来はきっと生活を楽にしてくれると考えて自民党に入れた。また、コミ戦は、候補者には郵政しかしゃべらせなかった。有権者はみんな見事にひっかかった。
 うーん、このように言われてしまうと、本当に嫌になってしまいます。若者よ、しっかりせよ、そう簡単に騙されるなよ。自分を苦しめているものの正体を見破り、怒りをもって批判しよう。こう呼びかけたい気分です。

黄金国家

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著者:保立道久、出版社:青木書店
 太宰府に流され、怨みのうちに死んだといわれる学問の神様・菅原道真を取り巻く当時の社会状況を、この本を読んではじめて知りました。
 菅原道真は対外関係に対処するための有能な官僚と認められ、出世していった。895年(寛平7年)には、東宮大夫の藤原時平にならぶ異例の権大夫に任命され、897年(寛平9年)、醍醐天皇が即位すると、藤原時平とならんで補佐する位置についた。900年(昌泰3年)、宇多上皇の息子・斉世親王と道真の娘のあいだに宇多の初孫が生まれるや、王位をめぐる争闘に巻きこまれ、醍醐天皇の側が警戒して太宰府に流された。そこで怨みをのんで死去することになる。宇多天皇と次の醍醐天皇という父子関係の矛盾に悩まされていたわけである。
 このころ、朝鮮半島から新羅が日本に来襲するという危惧が高まっていた。朝鮮半島では、当時、後三国の内乱といわれる本格的な内乱の時代が到来していた。新羅からの日本来襲は893年(寛平5年)から翌年にかけて急に激化した。肥後国松浦郡に新羅の賊が来襲し、翌月には肥後国にまで押し寄せた。奈良時代以来はじめて、西国における明瞭な戦争状態が現出した。894年には対馬へ、新羅から大将軍3人、副将軍11人、大小船百艘、乗人2500という大軍が侵攻してきた。
 この状況で、宇多天皇は菅原道真を大使とする遣唐使を発表した。まもなく、それは取り消されてしまった。やがて(907年)、唐は崩壊する。道真が死んで4年後のことである。
 菅原道真が死んだあと、朝廷に不幸が連続した。まず醍醐天皇の皇太子が21歳で死去(923年)。すぐに道真左遷の詔書を取り消し、右大臣に復し、正二位を追贈した。ところが、925年に代わった皇太子も5歳で死亡。930年に、清涼殿に落雷し、そのショックから醍醐天皇は病気となって、3ヶ月後に死去した。
 菅原道真が朝廷で活躍していた当時、朝鮮半島も中国も大きくゆれ動いていたのでした。そのなかで外交手腕を発揮した有力官僚としてメキメキ出世していったということを初めて知ったというわけです。
 ところで、この本の表題である黄金国家というのは、8世紀初めまでは日本にとっては新羅こそ黄金の国であったが、陸奥に金が発見されてから、日本は一転して新羅の商人の中継なしに、直接に唐の海商を相手に豊かな黄金を支出するようになったということです。
 まだまだ日本史にも知らないことがいっぱいあると、つくづく思ったことでした。

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