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金沢城のヒキガエル

カテゴリー:未分類

著者:奥野良之助、出版社:平凡社ライブラリー
 いやー、面白い。ホント、おもしろい本です。たくさん本を読んでいると、ときどき、これっていう本にぶちあたります。そんな本です。カエルの本ですが、人間の生き方まで考え直させる、そんな素晴らしい本です。
 カエルはわが家の庭にもたくさんいます。小さなツチガエルと梅雨時のミドリガエルです。この本に登場するのは、大きなヒキガエルです。昨年、金沢城を見物してきましたが、金沢城内にまだ金沢大学があったころ、大学教授が10年のあいだ、夜な夜な城内を徘徊し、夜行性のカエルたちの生態を調べあげたのです。うーむ、学者ってすごーい・・。
 ところが、ヒキガエルたちは、最後には絶滅してしまったのです。メダカも今や絶滅の危機に瀕していると言いますが、カエルの世界も安穏としておれない世の中になってしまいました。みんな人間のせいなのです。罪深い人間です。いつまでも万物の霊長なんて威張ってはおれないはずなのですが、てんで、その自覚に乏しいのが人間です・・・。
 著者は、金沢城本丸跡付近にいるヒキガエルのうち1526匹について個体識別し、 10年間も観察しました。
 ヤマカガシはカエルを専門に食べるヘビだ。だから、ヤマカガシを見たらカエルはすくんで動けなくなる。そんな話がある。そこで、著者は生まれてまもない小さなヤマカガシをヒキガエルの前に置いた。すると、どうだろう。ヒキガエルはのそのそと歩いてヤマカガシをのぞきこみ、ぺろっと舌をくりだして頭から呑みこんでしまった。カエルがヘビを食べるなんて、ええーっ、そんな・・・。
 カエルの個体を識別するため、4本の足から1本ずつ、計4本を切り落とす。カエルは前足に4本、後足に5本の指をもっている。だから、左前足、右前足、左後足、右後足の順に切りとった指の番号をならべて4桁の数字をつけ、それを個体番号とするのだ。カエルの足を切り落とすとき、そのたびにカエルは目をつむり痛そうな顔をする。最後には全身からうっすらと毒液をにじませる。相当こたえているようすだ。だから、いつも、ゴメンネ、と声をかけて切ったと著者は弁明する。
 ヒキガエルは自分の繁殖池をだいたい決めて、めったに変えない。ヒキガエルは乾燥に適応していったグループで、オタマジャシから変態して上陸するや、繁殖期以外は一生、水の中には入らない。ヒキガエルは日没後に活動し、雨がふると時間にかまわず出てくる。
雨が降ってヒキガエルが活動をはじめるのは、降雨とともに地表にあらわれる好物の餌を求めてのことである。
 ヒキガエルは虫やミミズ、ナメクジやカタツムリなどを食べている。ミミズの一匹でものみこむと、満足してねぐらに帰り、当分、地面に出てこない。ヒキガエルは信じられないほど無欲で、わずかな餌で満足し、蛙生の大半を寝て暮らしている。
 蛙は口からは水を飲まず、体表から土のなかの水分を吸収している。だから、ねぐらの土が湿ってさえいれば水分は補給できる。ヒキガエルは乾燥に強く、体重が半分になっても死なない。
 変温動物のカエルは身体の芯まで冷えきって代謝はほぼ止まってしまうから、冬眠中はほとんどエネルギーを使わない。ヒキガエルの一年のなかで、冬眠の4ヶ月ほどが一番安全な時期でもある。
 ヒキガエルの繁殖は交尾とはいわず抱接という。メスが産み出した卵に体外でオスの精子をかける。そのため、オスがメスの背中に乗り前足でしっかりと抱きかかえる。オスの前足は前年秋から太くなりはじめ、繁殖期にはポパイの腕のようにたくましくなる。そのうえ、前足の指の背側に黒いざらざらしたかさぶたのようなものが発達して、メスに抱きついたときのすべり止めの役を果たす。メスは、卵でお腹がふくらんでいる以外に変わりはない。オスはメスの2〜3倍もいるので、抱接できないオスは多い。
 オスは昂然と頭を高くかかげてメスを待つ。しかし、お互いにまったく没交渉で、それぞれただひたすらメスの来るのを待つ。オス同士でのナワバリ争いというものはない。カエルは動いているものにとびついて抱きつく。相手がオスだったとき、そのオスは鳴いて間違いだと教える。これをリリースコールという。おい、はなせよ、というわけ。
 ヒキガエルは夏は夏眠、秋にちょっと働いてすぐに冬眠。春に10日ほど繁殖に精を出したらすぐに春眠する。
 ヒキガエルのオスは3歳で成熟し、最高11歳まで生きる。メスは4歳で成熟して卵を生み、最高9歳まで生きる。オタマジャクシから子ガエルになって上陸したあとの夏に 97%の子ガエルは死んでしまう。
 ヒキガエルはケンカしない。餌をとる場所も寝る場所も共有。他の個体に干渉せず、勝手に生きている。ほぼ完全な個人主義者の集まりが、ヒキガエルの社会である。オス同士も争うことはない。
 ヒキガエルにも障害をもつものがいる。著者の観察したなかに3本足のカエルがいました。でも、立派に8年間は生きのびたのです。あくせくせずに生きているカエル社会の話です。人間社会も参考とすべきではないでしょうか。
 実は、この本は私が大学生時代のころの観察をもとにしたものなのです。そのころの様子も軽妙なタッチで描かれています。公務員削減などで人間社会にうるおいがなくなっていることの問題点も指摘されています。ちょっと気分転換したいと思うときに読む本として、おすすめします。

ナポレオン戦争全史

カテゴリー:未分類

著者:松村 劭、出版社:原書房
 ナポレオンは兵站支援システムの名人だった。作戦開始に先立って計画される兵站計画は、補給処と交付所の作戦配置および補給所要の見積りがきわめて優れていた。兵士と兵站段列は、4日分の非常用糧食を携行していた。そして、主補給基地と中間補給基地はもちろん、作戦部隊に随伴する前方段列にも所要の補給品を準備し、持続的に追送していた。
 ナポレオン軍は驚くほど迅速に機動した。1805年、フランス北部海岸から西部ヨーロッパを横断したウィーン、アウステルリッツに至る800キロの戦略的機動は、20万の兵力が1日平均20〜25キロの移動を5週間続けた。これは、ジンギス・カーン軍の速度に匹敵する。
 ロシア会戦のときは、これがうまくいかなかった。輸送用の四輪荷車の通過可能な道路網がなかったのも一因だ。ナポレオンが準備した兵站支援能力では越冬が困難だったので、ロシアに対する勝利は年内であることが絶対条件となっていた。
 ナポレオンは敵に弱点を示して決戦に誘いこみ、各個に撃破するのが得意だった。二つの敵の間に主力を配置し、ナポレオン軍を挟撃しようとするように敵を誘致して、各個に撃破する。これを内戦作戦という。やむなく内戦態勢になるのではなく、自分から求めて内戦態勢に入る。だから、当然、最悪事態になることを覚悟し、ひそかに秘密の対策も講じていた。不利な態勢と見せかけて、不敗の態勢をとっていたのだ。もっともワーテルローでは失敗した。
 ナポレオンは、ジャコバン党の活動家になり、フランスに対抗するコルシカ国民革命の独立運動に身を投じた。このため、フランス軍は、砲兵中尉だったナポレオンを罷免した。ナポレオンはコルシカ島に生まれたイタリア人である。
 フランス革命のあと、ジャコバン党とジロンド党の対立抗争のなか、ナポレオンは砲兵大尉として復職に成功した。そして、英国派が故郷コルシカの財産を奪ったので、ナポレオンはフランス派に転向した。
 ロベスピエールに認められたナポレオンは1793年9月に大佐となり、トゥーロン包囲戦に砲兵指揮官として参加し、功績をあげ、准将に昇任した。1795年8月にロベスピエールが失脚すると、ナポレオンも軍職を剥奪され、牢獄に入れられた。その後、軍隊から追放され、投身自殺しようとして、セーヌ河畔を放心状態で徘徊したこともあった。このとき、昔の友人が救ってくれた。王党派の反乱にナポレオンが見事に対処した功績で、中将に昇任する。
 1796年3月、28歳のナポレオンはイタリア正面軍司令官に任命された。
 それ以降のナポレオンの戦った戦闘がすべて図解されています。もう少し詳しい解説があると良いという不満が残りましたが、概観することはできます。図解についても、通常の軍史ものよりも簡略すぎて、ナポレオン軍の動きが、もうひとつ分かりにくいという弱点があります。
 ナポレオンの一側面を知ることのできる本でした。

「戦火のなかの子どもたち」物語

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著者:松本 猛、出版社:岩崎書店
 いわさきちひろの絵は何度みても、いつ見ても本当にいいですよね。眺めているだけで、心がほんわか、身体全体がじわーっと温まってくる気がします。
 いわさきちひろは1973年夏、55歳で亡くなりました。この本は、ちひろの長男猛が絵本の制作過程を紹介したものです。絵も素晴らしいのですが、絵本がどうやって出来上がっていくのか、その過程の試行錯誤が紹介されていますので、とても興味深いものがあります。
 「戦火のなかの子どもたち」は、直接的には日本におけるベトナム反戦のたたかいに呼応して出来上がった本です。ちひろは、自分の少女時代の第二次大戦の惨禍の経験をふまえて絵を描いています。
 ベトナムに一度も行ったことがなくても、ベトナムの写真やポスターを参考にしながら、ちひろはベトナムの子どもたちを生き生きと描きました。
 戦争の悲惨さを描くのに、その残虐ぶりを直接的に絵に再現するのではなく、あくまで可愛い子どもの姿を描くことによって、そんな子が殺される戦争の悲惨さを浮きぼりにする。これがちひろの絵です。
 絵本をつくるときには、原画を広い8畳の和室に並べて、ストーリー展開を考えていきます。絵本になったときの印象を確認し、構成と言葉を考えていくのです。絵本が完成していく様子が図解されて、手にとるように分かります。
 ちひろは絵本の画面の流れをどうつくるかに腐心した。前ページの絵に出てくる風の余韻を残し、次に登場する少年の絵の印象をしっかりしたものにするためには、たとえ一枚の絵としての力が減少しようとも、この場面を強くしすぎるわけにはいかない。このように考えるのです。
 自分は、どんなにかわいい子どもたちが犠牲になったかを伝えるために、できるだけかわいい子どもを描く。
 「戦火のなかの子どもたち」の主題は傷ついた子どもの心だった。
 花の好きなちひろには、たくさんのシクラメンが届けられた。アトリエのなかにはシクラメンの花で一杯、あふれるほどだった。
 国会議員で忙しい夫をかかえ、大家族で暮らすちひろは、絵を描くときには出版社の確保した宿舎にカンヅメになったりしていた。
 子どもたちの愛らしい、生き生きとした絵に強く心が魅かれます。あのころの輝く瞳をいつまでも忘れたくないものです。

植物のこころ

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著者:塚谷裕一、出版社:岩波新書
 クローン人間というのは不気味ですが、クローン植物は身近にありふれています。ヒガンバナは有名です。この本によって、キンモクセイもクローンだというのを知りました。ニホンスイセンも、シャガもそうなのです。シャガはわが家の庭にもたくさん咲いています。いえ、どんどん延びて広がり、まるで雑草です。でも、シャガの花は可愛いですよ。
 冬から春にかけては庭仕事が楽しい季節でもあります。雑草も少し勢いがありません。蚊はいませんし、太陽もちょうどいいくらいです。夏のカンカン照りはたまりませんよね。
 黄水仙とクロッカスが咲いています。あっ、そうそう、チューリップの芽がぐんぐん伸びています。
 風が強いところや、常に何かに擦られたり触られたりするような環境下では、植物は背が低くなり、花も早く咲くことが多い。毎日なでていたら小さいうちから花が咲いたというのも、この現象の一つであって、ストレスが昴じて急いで種子をつけようとしたわけだ。それを、なでられて気持ちがいいから、恩返しに早く花を咲かせた、などというのは、あまりに人間中心的な、都合のいい解釈である。
 熱帯の森には、シロアリとアリが非常に多い。アリは森のごみ掃除を引き受けている。アリと共生する植物がたくさんいて、それをアリ植物と呼ぶ。アリ植物は、川のそばとか台地の上など、土地からの栄養補給が乏しいところに多い。そういうところでも昆虫はたくさんいるから、アリはせっせとほかの昆虫を餌につかまえてきては、食べかすをアリ植物に与えている。
 なんという融通無碍な植物という生き方。オビに書かれた文句のとおりです。私たち人間も見習いたいものです。
 春はもうすぐです。沈丁花の花が咲いています。チューリップの花は、植えたのが全部咲くと500本をこえるはずです。写真でお見せしたいほど、それは見事なものです。私は、毎年、チューリップの花に囲まれて春を満喫する幸せを楽しんでいます。あなたも一度、わが家の庭を見にきてください。もちろん見物料なんかいりませんよ・・・。

人間の暗闇

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著者:ギッタ・セレニー、出版社:岩波書店
 ナチスのつくったユダヤ人絶滅収容所のひとつ、トレブリンカ収容所の所長だったシュタングルに女性ジャーナリストがインタビューしました。70時間にも及ぶロングランのインタビューです。そして、関連する人々も取材しています。私は見ていませんが、映画「ショアー」の原作本といえる本です。
 絶滅収容所と強制収容所は違うもの。絶滅収容所は占領下のポーランドに4ヶ所だけもうけられていた。ここでは、生き残るチャンスはなかった。ユダヤ人とジプシーをただ殺害するだけの目的で建設された。強制収容所はナチスの新秩序に抵抗する人間を拘束して再教育するための刑務所的施設としてつくられた。再教育の不可能な囚人はスパイなどとして処刑されたが、大半の囚人は比較的短期間のうちに保釈された。1941年に巨大な奴隷市場がつくられたが、生き残るチャンスはまだあった。これに対して絶滅収容所から生還したのは、わずか87人のみ。
 ユダヤ人とジプシーの大量虐殺は、ヨーロッパ中の劣等種族を抹殺するというナチス・ヒットラーの巨大な構想の第一歩にすぎなかった。ナチスは、それをロシアでまず始め、1941年から1944年までの間に700万人の市民を虐殺した。ついで、ポーランドで、非ユダヤ系ポーランド人300万人を殺害した。
 シュタングルはトレブリンカの前にゾビボール絶滅収容所の所長でもあった。ここで、1942年5月から1943年10月までのあいだに25万人のロシア人、ポーランド人、ユダヤ人、ジプシーが殺された。そして、1943年10月14日、数百人の囚人による武装蜂起が起こった。これらの25万人は、収容所に着いてわずか数時間のうちに跡形もなく殺害された。周辺に住む人々が知らない、気がつかないはずはなかった。夜ともなると、空が真っ赤に燃え上がり、たとえ30キロ離れていても、あたりにはくさい臭いが漂っていたのだから。甘いような、なんとも言えない臭いだった・・・。
 シュタングルがトレブリンカ収容所長だったあいだに90万人が殺されています。その殺害に責任があるとして、終身刑を宣告されました。死刑ではなかったのですね・・・。シュタングルは確信的な古参のナチ党員でしたが、妻はナチ嫌いでした。
 シュタングルは、自分は何ひとつ不正なことはしていない。常に命令に従い、命令以外のことはしてこなかった。個人的に誰かを傷つけたこともない。起こったことはすべて戦争の悲劇であり、世界中どこでも同じだった。このように答えました。同じようなセリフを日本の軍人たちも言っていましたね・・・。
 なぜ、あんな残酷な方法をとる必要があったのか? この問いに対して、シュタングルは次のように答えました。
 いきなり殺すわけにはいかなかった。大量の人間を制御する必要があった。それがあって初めて実行できたのだ。何百万もの人間、男性、女性、子どもを殺害するために、ナチスは単なる肉体的な死がかりではなく、精神的な死と社会的な死を与えた。それは単に犠牲者だけにではない。殺人を行った加害者に対しても、また、それを知っていた傍観者に対しても。そして、さらに、ある程度まで当時、考えたり感じたりすることのできたすべての人間に対して・・・。
 ナチスは現実から目を閉ざしがちな人間心理を巧みに利用して、大量殺人システムをつくりあげた。ヨーロッパ東西のユダヤ人に格差があることに注目した。西側のユダヤ人は現実を把握する能力が高く、事実を知れば抵抗するかもしれないという心配があった。だから、いろいろの偽装工作がなされ、到着した犠牲者は欺かれた。ガス室へと続く回廊に裸で5列に整列させられ、抵抗することなく殺されていった。
 東ヨーロッパから移送されてきたユダヤ人には偽装工作は不要だった。ある種の集団暗示だけで事足りた。犠牲者は到着後2時間以内に全員殺された。この2時間のあいだ、息つく間もなく何も考えさせないようにしていた。これは何千人という人間を殺害するために注意深く計画され、巧妙に利用された時間だった。
 シュタングルにとって、収容所に到着した犠牲者は、もう人間とは思えなかった。物体だな。物以外の何物でもなかった。ただの肉片の塊に過ぎなかった。
 トレブリンカ収容所でも武装蜂起が起きた。その中心人物、ゼロ・ブロッホは、皆の勇気を引き出す言葉と自信と力を与えることのできた人物だった。
 当時、ユダヤ人を匿ったり助けたら、すぐに射殺された。それでも救助しようとする人が収容所の周辺に少数ながらいた。
 強制収容所の看守をしていた人間が、仕事を嫌がって転属願いを当局に出したらどうなったか。多くは処刑されたり、強制収容所へ送られた。
 トレブリンカ駅の駅長がポーランド抵抗組織のメンバーであり、ドイツ軍の動静を観察するために送りこまれた人物であることが紹介されています。この駅長は、収容所に入る列車と人間をずっと数え続けたのです。そして、120万人が殺されたと証言しています。
 コルチャック先生と子どもたちはトレブリンカ収容所で殺されましたが、それはシュタングルの着任する前のことでした。
 シュタングルはアメリカ軍に逮捕され、収容所に入れられましたが、そこからやすやすと脱走しました。アメリカ軍は、むしろナチスに理解を示し、逆にその犠牲者に対しては共感に乏しかったのです。シュタングルはローマに逃げ、そこから教会の力を借りて南米に逃走します。小説「オデッサ・ファイル」があるように、ナチス高官の逃亡を助ける組織としてオデッサの名前は有名ですが、その存在は確認できないとされています。むしろ、ナチス高官の逃亡を助けたのは、赤十字とバチカン・ルートだというのです。
 カトリック教会はボルシュヴィズムに対して大きな不安を抱いていた。教皇ピウス12世は個人的にドイツを好んでおり、反ユダヤ主義的な考え方の持ち主だった。教皇が沈黙したことによって、戦後のナチ戦犯の逃亡にローマの司教らが手を貸す事態を招いた。
 そして、逃亡に成功したシュタングルはブラジルで本名をつかって生活していたのです。サンパウロのオーストリア大使館にも本名で届け出しています。その生活は、あまりゆとりのあるものではなかったようです。いろいろと深く考えさせられる本でした。

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