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白バラの祈り

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著者:フレート・グライナースドルファー、出版社:未来社
 いま上映中の映画「白バラの祈り」の完全版シナリオが本になっています。
 1943年2月18日、ミュンヘン大学でゾフィーは反ナチのビラをまきました。それが見つかり、ゲシュタポに連行され、裁判にかけられます。なんと裁判で死刑が宣告され、4日後にはギロチンにかけられてしまいました。ビラを大学にまいた、それだけで、たった4日間の裁判によってギロチン刑とは・・・。とても信じられません。
 この本は、旧東ドイツの秘密警察の文書保管所にあったゾフィーの尋問調書によって取調べ状況を刻明に再現したという点に価値があります。
 ゾフィーは普通の女子大生であったようです。ヒトラーユーゲントのメンバーにもなっています。ゾフィーは婚約しており、彼はドイツ軍大尉で、東部戦線にいました。ゾフィーの弟もドイツ軍兵士です。
 ゾフィーは、ナチが精神障害をもつ子どもたちを毒ガスで処理したことを知って、大変なショックを受けました。それを尋問官に問いただすと、彼らには生きる価値がないという答えが返ってきました。なんということでしょうか・・・。尋問官は、ユダヤ人殺害も子ども殺しも、すべて嘘だと言いはります。
 そして、ゾフィーに対して、兄を信頼して単に手伝っただけじゃないのか、と甘い声でささやきかけます。助命しようという良心があったのでしょう。でも、ゾフィーは、きっぱり断わりました。それは真実ではないと言い切ってしまいます。
 ゾフィーの国選弁護人は、被告人であるゾフィーと目を合わせようともしません。彼の言葉は次のとおりです。
 長官、私はなぜ人間にこのようなことができるのか、まったく理解できない。私は兄の被告ハンス・ショルに対して適正な刑を求める。妹の被告ゾフィー・ショルには、やや穏やかな刑を望む。彼女は、まだ若い娘だから。
 ゾフィーは、法廷で堂々と自分の信念を貫きます。裁判官に向けた彼女の言葉は次のようなものです。
 私がいま立っている場所に、もうすぐあなたが立つことになるでしょう。
 この言葉を聞いていた傍聴席の人は怒りというより、困惑と不安にさいなまれていました。直ちに判決が言い渡されます。死刑の宣告です。ハンス・ショルが叫びます。
 今日はぼくたちが処刑されるが、明日はおまえたちの番だ。
 ゾフィーの方は、恐怖政治は、もうすぐ終わりよ、と言いました。
 法廷内にいた司法実習生が、すぐに恩赦の嘆願書を提出するよう両親にすすめます。しかし、直ちに却下されるのです。
 最後の面会のときの父娘の会話が紹介されています。父は、すべては正しいことだった。おまえたちを誇りに思っているよと呼びかけます。ゾフィーは、私たちは全責任を引き受けたわ、と答えました。もう、おまえは二度とうちには帰ってこないのね、という母に対して、ゾフィーは、すぐに天国で会えるわよ、と答えたのです。
 ゾフィーは、1943年2月22日の午後5時、ギロチンにかけられました。
 このとき死刑になったのは、7人です。そのほかにも、13人が懲役刑に処せられています。
 ゾフィーの死後、さらに戦争は2年以上も続き、何百万人もの人々が殺されていきました。でも、決っして、ゾフィーたちの行動が無駄で終わったというわけではありません。ドイツでは、このように反ナチのために生命をかけて闘った人々を思い出させる映画がくり返し製作・上映されます。日本ではそれがほとんどないのが、本当に残念でなりません。

指揮官の決断

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著者:山下康博、出版社:中経出版
 明治35年1月、八甲田山の雪中行軍が敢行された。青森歩兵第5連隊210名のうち、生き残ったのは11名のみ、しかも元の健康体で社会復帰できたのは3名だけだった。そして、実は、このとき同時に、もう一つの雪中行軍隊がいた。弘前歩兵第31連隊の37人である。この37人は、3日間、八甲田山中を歩き続け、1人の落伍者も出さずに、無事に全員が青森に生還した。
 新田次郎の「八甲田山死の彷徨」(新潮文庫)であまりにも有名な八甲田山の雪中行軍の実際が描かれています。生き残った弘前隊には新聞記者(東奥日報)が1人加わっていました。ですから、写真もよく残っています。
 青森の1月は新雪の時期。雪は軟らかく、人が踏み込めば、胸まで雪に沈んでしまう。一歩まちがえば、窒息死する危険性は高い。寒冷地で凍傷におかされる危険の第一歩は汗をかくこと。
 私が、この本を読んで初めて知ったことは、当時の日本軍は、ロシア軍が青森に上陸することを想定して対策を講じようとしていたということです。これには驚きました。ロシア軍の想定上陸先は北海道ではなかったのです。ロシア軍は、陸奥湾に侵攻して青森に上陸するか、太平洋側の八戸に上陸すると想定していました。そこで、青森第5連隊の雪中行軍は、酷寒の八戸港に上陸したロシア軍に対し、物資輸送と救援隊の派遣のため八甲田山の豪雪をおかして青森との中間にある十和田湖(三本木原)に急行し、これを迎え撃つという想定のもとに行われた。今からすると、まるで荒唐無稽の話ではあります。
 遭難した青森隊は、案内人をつけるように地元からすすめられて、断った。どうせ、お金ほしさだろうという理由で。行軍してまもなく、前途に大いなる不安を覚えた。そこで、山口大隊長は幹部を集めて進退を協議した。このとき、将校は慎重論をとったが、見習士官や長期伍長たちは軍の威信を全面に押したてて強硬に進軍を主張した。山口大隊長も、ついに進軍を決した。将校たちも部下の強硬論をはね返すだけの勇気はなかったのです。これが悲劇をうみました。いつの世にもカラ威張りの強硬論が幅をきかします。今の自民党若手代議士のタカ派がまるで同じです。
 青森隊は、行軍初日から、いきなりひどい寒気のなかを13時間にわたって峠をのぼりおりした。隊員のなかには、出発前夜のふるまい酒で夜明かしに近い状態も少なくなかった。この日、最高気温がマイナス8.5度。凍傷者の発生は、最低気温が異常に低いことより、最高気温が低く、風力が激しいという条件下で多い。人間の体温は28度以下になると蘇生が困難な状態に陥り、20度以下になると死をもたらす。
 弘前隊は、行軍の途中で青森隊の死者2人を発見し、歩兵銃も発見した。しかし、たとえ戦友が負傷しても、それを介護してはならない。自分の任務に向かって突進せよ。この精神で何もすることなく、そのまま行軍し、脱落者を出さなかった。
 そして、弘前隊の教訓は日露戦争で中国大陸における戦闘のときに生かされた。しかし、弘前隊の福島隊長は、このとき戦死してしまいました。
 八甲田山の死の雪中行軍の実情と、そこから何を教訓として学ぶべきか、実によく分かりました。

明仁さん、美智子さん、皇族やめませんか

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著者:板垣恭介、出版社:大月書店
 左でも右でもない、ただガラの悪さでは天下一品。宮内庁長官からこのように評された元宮内庁記者が愛をこめて皇室の内情をさらけ出した本です。とても真面目な面白い本です。
 皇族やめませんか、と言われても自分の意思だけでやめるわけにいかないのが、日本の皇族です。イギリスの国王で、女性への愛を貫くために国王の地位を投げ捨てた人がいましたね。でも、イギリスと違って女王を認めない日本では、明仁さんはそうはいきません。常陸宮がまだ義宮と呼ばれていたころ、嫁さん探しがなされた。もちろん、家系の正しい人であることが条件だ。ところが、宮内庁長官はこう言った。
 家系の正しい人といったって、こっちだってお妾さんの子の孫だよ。そんな固いことは言えませんや。
 なるほど、大正天皇は明治天皇が典侍に生ませた子だったのです。有名な話です。
 ミッチーブームは、私が小学生のころのことで、今でも鮮明に覚えています。この美智子人気を良からず思っていたのが昭和天皇の妻の良子(ながこ)皇后。宮中で反対運動を展開した。その片棒をかついだのは秩父宮勢津子(会津藩主松平容保の孫)、高松宮喜久子(徳川慶喜の孫)、良子の実妹大谷智子(東本願法主夫人)、勢津子の母で東宮教育参与の松平信子らだった。
 良子は、美智子妃を平民だからという一点で、最初から無視していた。旅行するとき、見送りに並んでいるなかで美智子妃の前だけは素通りし、あえて無視した。美智子妃について、「あの人は外からきたお人だから」と一言で片づけた。
 その良子も、昭和天皇の母親の貞明皇后とは気があわなかったという。良子が、万事おっとりした姫様育ちで、いささか気働きに欠けたからだ。
 良子皇后の還暦祝いがあったとき、美智子妃は欠席したそうです。こんな状況を知るとその気持ちはよく分かりますね。宮内庁長官が次のように語ったそうです。
 皇族てぇのは、われわれ庶民と違って残酷なところがあるんだ。貴人に情なし。
 美智子妃の父親である正田英三郎が、宮中での集まりのとき、高松宮に深々とお辞儀をしたのに、高松宮はフンという顔でそっぽを向いた。高松宮は、正田家そのものに好意をもっていなかった。
 この本を読んで、美智子妃が、まだ幼い3人の子どもを連れて外出したとき、「ほかほか弁当」を4個買って食べたというのを知って驚きました。皇室の衛生管理の厳しさを聞いていた私には、あの添加物だらけの弁当を買って食べるなんて、とても信じられませんでした。もちろん、宮内庁当局は「今後は慎むように」と注意しました。ところが、美智子妃は、「国民のみなさんと同じものを、なぜ私や子どもたちが食べてはいけないのですか」と反論したそうです。むむむ、おぬし、やるな・・・。そんな気になりました。
 美智子妃はテニスするとき、「あっ、やばい」「よし、やるぞ」という掛け声をかけていたとのこと。なんだか親しみを感じる言葉ですね。法曹界との対抗試合も盛んにやられていたようです。近く発刊される福岡県弁護士会の会報に、そのころの写真がのっています。
 昭和天皇は、自衛の戦争まで否定している日本国憲法には反対だった。だから、占領中、マッカーサーにあったとき、軍隊不在の不安を訴えていた。これに対してマッカーサーは、陛下、日本は東洋のスイスになればいいんだから、となだめていた。昭和天皇の言葉は、なるほどと分かりますが、マッカーサーの言葉は意外でした。
 2004年10月、秋の園遊会のとき、米長邦雄元名人が、日本中の学校で国旗を掲げ、国歌を斉唱させることが自分の仕事だと言ったとき、明仁天皇は、すかさず、強制になるということでないことが望ましいと答えました。すっかり米長のアテは外れてしまった。
 私も、この言葉を新聞で知り、明仁天皇はなかなかの人物だと見直しました。
 皇族という「商売」を続けるのも実に大変なことなんだとつくづく思います。

戦陣訓の呪縛

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著者:ウルリック・ストラウス、出版社:中央公論新社
 終戦までの日本人捕虜は3万5000人。ドイツ軍捕虜が94万5100人、イタリア軍のそれ49万600人に比べると、はるかに少ない。ただし、終戦による日本軍捕虜は160万人以上いる。
 アメリカ軍は真珠湾攻撃を受けてから、数千人のアメリカ人に日本語を習得させはじめた。そして、強制収容所から引き抜いてきて、数千人の日系2世を捕虜の尋問に活用した。
 パールハーバー攻撃のとき、特殊潜水艇に乗っていた10人の1人、酒巻和男海軍大尉は潜水艇の故障により海に投げ出されて、泳いでハワイの海岸に上陸して捕まった。
 残る9人は全員死亡して、「九軍神」として祭られた。アメリカ政府は赤十字を通じて酒巻捕虜の存在を通知したが、日本海軍は対応に困った。戦死公報を出さず、家族にも知らせなかった。士官名簿には予備役と書きこまれたが、海軍将校の間では公然の秘密となっていた。戦後、酒巻は日本に帰国し、東京裁判に証人として召喚された。トヨタに入社し、ブラジル・トヨタの社長にまでなった。捕虜第1号だった。
 戦陣訓は、天皇の承認を経て1991年1月8日に東条英機陸軍大臣によって公布された。日本兵は捕虜になってはならないと命じられた。ただ、海軍は戦陣訓のような規則は公布しなかった。
 日本軍においては戦闘で死亡した兵士に比べ、捕虜となった兵士の割合は、海軍で3.0%、陸軍で2.3%しかいない。投降を決心したら、投降するまでに友軍に殺されないよう気をつけなければいけなかった。
 日本兵は全員が日記をつけていた。ここには兵士たちの内面の心理や倫理観が読みとれた。軍務に関する指令や作戦などの貴重な情報もあり、まさに宝の山だった。
 日本軍当局は、日本語を理解できる白人などいないだろうし、アメリカ軍は日系2世なんて信用していないし、太平洋の戦地に送りこんではこないだろうとタカをくくっていた。しかし、真実は、多くの日系2世が太平洋の戦地に送りこまれ、死んだ日本兵や捕虜の日記を翻訳してアメリカ本国へ送っていた。
 捕虜になった日本兵をソフトに優しく扱うと、成績良好で、いとも簡単に軍事情報を話しはじめるのだった。日本兵は機密情報の必要性について十分に教育されていなかった。日記をふくむ文書情報の管理は手薄だった。捕虜となった日本兵はまさか戦場で、日本語のうまいアメリカ軍兵士と遭遇するなど、想像もしていなかった。
 捕虜たちは、自分の国を裏切ったみじめな存在だと考え、無意識のうちに、より人間的な結びつきを求めるのだった。捕虜がアメリカ兵と同様に扱われている事実、そして、共通する人間性という認識は、大いなる感銘を与えた。このことが、アメリカ側の情報収集を促進することになった。
 1944年3月に、古賀峯一連合艦隊司令長官たちを乗せた輸送機のうち古賀司令長官をのせた1番機は台風にあって遭難し、2番機は太平洋に突っこんだ。3番機のみ無事に到着した。2番機に乗っていた福留中将は現地のゲリラに捕まった。しかも、機密文書まで押収されてしまった。ゲリラと人質交換の交渉が成立して福留中将は無事に日本へ帰国できたが、文書はアメリカ軍の手に落ちた。このとき、海軍省は、福留中将は潔白であると裁定し、何の処分も行わなれなかった。日本軍部のご都合主義を典型的に物語る話です。
 捕虜になったらいけないと定めた「戦陣訓」なんて、本当に非人道的なものです。そもそも戦争を始めること自体が人命軽視ではありますが・・・。

テクノストレス

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著者:クレイグ・ブロード、出版社:新潮社
 テクノ依存症患者は仕事の効率を高めようとして、絶えず自分を駆り立てる。彼は自分の限界を認めようとしない。やがて疲労が精神をむしばみ、考え方が硬直しはじめる。自分ではそれと意識せぬうちに、能率は低下し、誤りを犯すことが多くなる。
 テクノ依存症患者は自分が踏み回し続けるハツカネズミになっていることに気が付かない。気がつくだけの洞察力をすでに彼らは失っている。
 制御と予知可能性を何よりも重視するテクノ依存患者は、抑えもきかず、どこでどうなるかも分からない欲望の力をもてあます。テクノ依存症の犠牲者は、自分の要求を感じとる力を失い、あるいは自分が要求を抱いているのかどうかさえ、分からなくなってしまう。
 他者に愛着を感じないテクノ依存患者は、いかなる人間関係を築くこともむずかしい。心の通いあった、長続きする関係をつくることは、とうてい不可能である。
 これはアメリカ人が書いた本です。いつのことか分かりますか。なんと、今から20年以上も前のアメリカ社会について書いた本なのです。ですから今は、もっとひどくなっていると考えるべきでしょう。
 一日中パソコンに向かってインターネットにはまっていたり、ゲームをしていたり、株取引をしていたら、そんな人が増えたら、この社会は人間が住むところではなくなってしまうでしょう。うるおいとゆとりのある人間社会にするためには、何が本当に必要なのか、今こそ考えるべきときではないでしょうか。

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