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血染めの銭洗弁天

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著者:伊藤昌洋、出版社:作品社
 鎌倉にある銭洗弁天には私も何度か行ったことがあります。この本では、マネーロンダリングに通じるものとして登場してきます。なるほどマネーロンダリングは銭洗ですね。
 主人公は司法研修所を出ているのに弁護士でなく、予備校の講師として働いています。実は父親は高名な弁護士でした。この点は中坊公平元日弁連会長をモデルとする記述になっています。その妻(主人公の母)が、ある日、惨殺されます。東京で弁護士会副会長までした高名な弁護士の妻が玄関先で殺された事件を想起させます。そのとき、弁護士である父は女性と2人で海外旅行中だった。母を殺したのは父が追及していたカルト宗教の信者。ここはオウム真理教がモデルになっています。
 そして、主人公が拾われる法律事務所はマネーロンダリングをやっているのです。なにやら、あの「ローファーム」を想起させる場面です。ところが、いかにも日本的なのは、悪徳弁護士のはずが、いかにも人間味をもつ人物として描かれているところです。
 大沢在昌の「新宿鮫」を思わせるチャイニーズ・マフィアが登場したり、いろいろマネーロンダリングについて学ばされたり、盛りだくさんの社会派ミステリーになっています。
 公害訴訟や住民運動に熱中したあげく、経営に行き詰って解散した法律事務所があるという話がでてきます。本当でしょうか?
 また、医療過誤訴訟で原告(患者遺族側)がうまくいってなかったところ、看護日誌を出させたのが凄いアイデアで、それ一つで逆転勝訴したという記述があります。ええーっ、そんなバカなー・・・と思いました。これって凄いアイデアなんていうもではありませんよね。
 少年時代には秀才と呼ばれ、将来の日本を背負って立つ大志を抱いたはずの彼らが自分でも気づかないうちに、この世の中に生きるうちに少しずつ心が蝕まれ、いつの間にか金に支配され、良心も清潔さも麻痺し、自己を省みない人間に堕落していくんだ。こういうセリフが出てきます。これは、たしかに弁護士になった人は、私をふくめて大いに自戒すべき指摘だとつくづく思います。

藤沢周平、心の風景

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著者:藤沢周平、出版社:新潮社
 藤沢周平の故郷であり、映画「蝉しぐれ」などに出てくる海坂藩のモデルとなった山形県鶴岡市は私にとっても思い出深いところです。弁護士になって2年目からだったと思いますが、山形地裁鶴岡支部まで何回も通いました。石油ショックのとき石油元売りメーカーが「千載一遇のチャンス」として闇カルテルを結んで価格をつりあげました。それによって損害を蒙った消費者が元売り各社を訴えたのです。この裁判は東京地裁と山形地裁鶴岡支部に同時に提訴され、私も原告弁護団の末席につらなりました。原告弁護団員としては恥ずかしながら何の貢献もできませんでしたが、あたかも一人前の弁護士のような顔をして毎回の法廷に鶴岡支部にまで通いました。
 当然のことながら前泊します。冬の寒い日に近くの温海(あつみ)温泉に泊まったり、大勢の原告団との打合せに参加し、法廷にのぞみました。
 静かで落ち着いた城下町であること、鶴岡生協が住民をよく組織していること、灯油は温かい地域に住む人間にとって想像できないほど不可欠のものであること、などなどを身にしみて体感しました。
 この灯油裁判は、消費者を敵にまわしたら大変のことになることを石油業界だけでなく、産業界全般に深く自覚させるきっかけとなった大きな意義のある裁判でした。この裁判を通じて、再任拒否された宮本康昭元裁判官や後に国会議員となった岩佐恵美氏と知りあうこともできました。お二人ともエネルギッシュであり、理論的に秀れていて、いつも感嘆していました。
 この本には、藤沢周平の「蝉しぐれ」を傑作とほれこんだ井上ひさしが、小説に出てくる海坂藩の城下町を地図に示したものまで紹介されています。しかも、小説上の矛盾点まで指摘したのは、さすがは井上ひさしです。
 映画「蝉しぐれ」のオープンセットがそのまま残されており、有料で見学できるそうです。ぜひ、また行ってみたいところです。
 私は司法修習生のころ、同期生(今は石巻市で活躍している庄司捷彦弁護士)からすすめられて山本周五郎の本を夢中になって読みふけりました。江戸情緒たっぷりの周五郎ワールドにずんずん身が引かれました。藤沢周平にこのところ熱中しているのは、山田洋次監督の映画の良さにも影響されています。

「無言館」ものがたり

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著者:窪島誠一郎、出版社:講談社
 五月の連休に熊本城内にある美術館に出かけ、「無言館」の絵画を鑑賞してきました。
 残念ながら、「無言館」そのものには、まだ行ったことがありません。「ちひろ美術館」など、信州方面にはたくさんの素晴らしい美術館があるようなので、ぜひ訪れてみたいと考えています。
 本のはじめにカラーグラビアで絵が紹介されています。伊沢洋の「家族」という絵があります。裕福な家族が一家団欒している情景が描かれています。描いた本人も登場しています。いかにも幸福そうな、落ち着いた雰囲気の絵です。ところが、絵にも登場している弟さんの解説によると、当時はこんな裕福な家庭ではなく、これはまったく兄の想像の産物だというのです。そうなんです。絵は期待をもって夢幻の境地が描かれることもあるわけです。それはともかく、たしかな技量です。これだけの画才をもつ人が、あたら戦病死してしまったというのは、本当にもったいないことです。
 自分の愛する妻や恋人の裸婦像もあります。いずれも、愛情たっぷりの表現です。筆のタッチにそれを感じることができます。「温室の前」というタイトルの絵はいかにも戦前らしい装いの若い女性が3人坐って話をしている情景が描かれています。麦わら帽をかぶり、白いワンピース姿の女性がいます。今もいそうではありますが、戦前のハイカラ女性という方がピンときます。
 「無言館」美術館は、1997年(平成9年)5月、長野県上田市郊外にオープンしました。第二次大戦で戦病死した画学生の作品と遺品が展示されています。美術学校に学ぶ画学生ですから、その腕前は確かなものです。戦没画学生は、たいてい20代です。画をみればみるほど、あたら才能を喪ってしまったことが、国家的な損失だと惜しまれてなりません。こんな話が紹介されています。
 画学生は戦場に行っても、とてもマジメだった。絵の勉強に一生懸命な画学生であればあるほど、戦場でもいちばん前線に立って戦った。絵筆をにぎって一心に絵を勉強していた情熱と同じように、だれよりも前に出て敵と戦った画学生が多かった。
 なんということでしょうか・・・。言葉に詰まります。
 絵を描きたい。絵を描きたいと叫びながら、ついに生きて帰って二度と絵筆をにぎることのできなかった画学生たち。父や母を愛し、兄弟姉妹を愛し、妻や恋人を愛し、そして祖国を愛しながら、聖戦という美名のものに戦場にかり出され、飢餓と流血の中で死んでいかねばならなかった・・・。みんな、20歳台、30歳台の若さだった。
 「無言館」をつくるとき、戦没画学生の作品を見世物にして金もうけをたくらんでいるのではないのか。それではあまりにも画学生たちが可哀想だ。そんなものは、国につくらせたらいいのだ。
 こんな非難の手紙も舞いこんできたそうです。私も、その気持ちも、まったく分からないじゃありません。しかし、待てよ、という気もします。国によって殺されたのは事実だとしても、国がそのことを自覚し、反省していないときに、国につくらせるのを待っていたら、いつまでたってもできっこない。そのうちに画学生の遺族の方まで死に絶えてしまう。そんなことでいいのか・・・。
 反対に、国のつくった美術館ができたとしても、画学生の遺族が国に作品を預ける気になるだろうか、だから、ぜひつくってほしいという手紙も来たそうです。私は、やはり、こちらにひかれます。
 著者は、戦没画学生の遺族をたずねて全国をまわりました。その反応はいろいろありました。でもでも、善意の資金も得て、美術館を開館することができました。
 やはり、平和っていいな、戦争って理不尽なものだな、つくづくそう思います。
 ゴールデンウィークに、いい絵画を見て、心が洗われました。ぜひ、長野に出かけよう。そう思ったものです。

米軍再編

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著者:江畑謙介、出版社:ビジネス社
 テレビでおなじみの軍事評論家による米軍再編の解説書です。なにしろアメリカの基地再編のために日本政府が3兆円も負担しようというのです。小泉純一郎の個人資産で3兆円を負担するというのなら、私も何も文句は言いません。でも、私たち国民の税金を3兆円もアメリカ軍にささげるというのですから、私は絶対に許せません。この4月からリハビリ期間は6ヶ月までと制限されてしまいました。ほとんど寝たきりの私の老母も、そのおかげで病院を追い出されてしまったのです。国民の医療・福祉予算の方はバッサリ削るのに、アメリカ軍のためには必要性に疑問があっても惜しげもなく巨額の税金をそそぎこむというのです。あきれるというより、怒りに全身が震えます。本当に身体がわなないてしまいます。政治って弱いものを救うためにあるっていうのは絵に描いたモチ、なんですか。とても黙ってはいられません。
 アメリカの国防予算は2004年度に4013億ドル。世界の軍事予算の総額8000億ドルの半分を占めることになる。アメリカは、2002年1月から、アメリカ本土の基地を整理統合する計画をすすめている。本土の基地には25%の余剰があるので、それを閉鎖・縮小して予算を削減しようというもの。
 日本は、イギリスと並んで、アメリカ軍の全世界展開を支えるもっとも重要な戦略展開拠点と位置づけられている。他には、グアム(太平洋)とデイエゴ・ガルシア(インド洋)のみ。
 日本は、戦略的に重要な位置にある。価値観が近く、政治的に安定し、高度の技術と経済力をもち、既に相当の規模でアメリカ軍基地のインフラが存在しているという条件をもっている。つまり、アメリカは日本を、アメリカ軍の全世界展開における、太平洋をこえた最重要前進拠点の一つと位置づけている。ですから、アメリカが日本の基地を手放すなんて、考えられもしないことなんです。
 基本的にはアメリカ軍のミサイル防衛システムは在日アメリカ軍基地と司令部を守るためのもの。日本にアメリカ軍部隊を置いていても、施設の維持経費はもとより、運用経費の多くまで日本が負担してくれるので、アメリカ軍の経費は他の国に置くよりずっと少なくてすんでいる。だから、無理してまで在日アメリカ軍部隊を削減する必要はない。
 横須賀港を出たすぐ前の海面につくられた艦船消磁施設は、海上自衛隊と共用ではあるが、西太平洋における唯一の施設だ。消磁施設は鋼鉄の艦船にたまる磁気を除去するためのもので、磁気感応機雷や魚雷に対する防護には書かせない施設である。これがないと、一定期間ごとに消磁施設のあるハワイやアメリカ本土に戻らなくてはならない。
 原子力空母を日本に配備するときの問題点は、横須賀に原子炉関係の修理・整備機能がないこと。
 アメリカ軍が硫黄島をつかいたがらないのは、厚木から1250キロも離れた洋上にあること。2時間もかかるし、途中で天候状態が悪化したときに引き返すかどうか難しい判断を迫られるから。三沢基地は冬の天候が悪くてダメ。年間で通算2週間も訓練できない。
 ラムズフェルド国防長官は、イラクのフセイン政権を倒せば、イラク国民は歓呼の声でアメリカ軍を迎え、イラク国家の再建において、アメリカ軍に積極的に協力してくれるはずだと、勝手に思いこんでいた。しかし、もちろん、現実はまったく違っています。
 アメリカ軍のシー・ベース構想は、海岸から46キロ(25海里)以上はなれた洋上より高速輸送手段で重装備を陸揚げし、兵員はヘリコプターやチルトローター型輸送機で内陸にある目標に対して攻撃をかけるというもの。1日1000トンの補給を要する。
 2005年4月時点で、ヨーロッパにいるアメリカ軍は6万2000人(うち3000人は予備兵力)。ヨーロッパにあるアメリカ軍施設は5ヶ国に236ヶ所。冷戦期のピークからいうと3分の1に減った。
 韓国にいるアメリカ軍は3万7500人。2008年までに、その3分の1。1万2500人が削減される計画だ。在韓アメリカ軍は、公式には一兵、一機も湾岸地域には派遣されていない。この10年間に、アメリカ軍も韓国軍も大きく近代化して能力が高まった。しかし、北朝鮮の軍隊は10年前と変わらない。こと通常戦力に関する限り、相対的に近代化されていない北朝鮮による軍事力による脅威は大きく減少した。
 キューバにあるアメリカ軍のグアンタナモ海軍基地については、1903年以来、アメリカが借用しているものなので、今も年間4000ドルの借地料を支払っている。
 世界中に我が物顔でのさばっているアメリカ軍のおかれている状況が概観できる本です。
 肥後菖蒲が咲きました。色は濃い赤紫で、なにやら高貴な気品を漂わせ、ふかふかのビロードの膚ざわりなので、つい触ってみたくなります。黄色のワンポイントカラーが混じっているので、人目を魅きつけ鮮やかさもあります。

スターリングラード

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著者:アントニー・ビーヴァー、出版社:朝日新聞社
 実にすさまじい戦場です。ヒトラーとスターリンの非情さが、これでもかこれでもかと繰り返し描かれています。それでも幸いなことにファシスト・ナチスは敗れてしまいました。また、暴虐・冷酷なスターリンの誤った作戦指導にもかかわらず、無数のロシア人が祖国ロシアに生命を捧げ、祖国を救いました。
 この本のすごいところは、スターリングラード戦に関わった将兵の日記や手紙を数多く紹介し、戦場の模様が刻明に再現されているところです。もちろん、参加者の戦後の回想録や手記からも引用されているのですが、ドイツ兵の手記や家族に宛てた手紙がソ連軍の手に落ち、記録庫に眠っていたものが日の目を見ているのです。捕虜の尋問記録も活用されています。ですから、当時の前線兵士たちの心理状況が手にとるように分かります。両軍とも、敵軍の内情を知るため、捕虜の尋問結果には相当の注意を払ったようです。
 スターリングラードでは、5万人をこえるソ連市民がナチスドイツ軍の軍服を着てソ連軍と戦った。むりやりというより、大半は志願者である。これは、今のロシアでもタブーとなっている。これは、それほどスターリンの懲罰部隊はひどかったということを意味している。最前線で少しでもドイツ軍への攻撃をためらうものは背後から射殺された。スターリンは臆病者はその場で射殺するという命令を発した。退却を許可した指揮官は階級章を剥奪され、懲罰中隊に入れられた。この懲罰中隊は、攻撃中の地雷撤去などの自殺行為に近い作業につかされる。42万人以上の赤軍兵士がこれで死んだ。臆病者・脱走兵を射殺するためNKVD特別局がつくられた。ドイツ軍兵士は、部下の命を実に粗末に扱う赤軍司令官の態度に絶えず驚かされた。
 スターリンの誤ちはあまりにも大きい。1941年6月、ヒトラーはソ連へ侵攻し、バルバロッサ作戦を始動させた。モスクワでは、スターリンが、それを知らせる緊急通知をすべて却下していた。「挑発」に乗ってはいけないと命令したのだ。ドイツ軍は、戦車3350両、野戦砲7000門、航空機2000機。そのうえ、フランス陸軍の車両をつかって輸送力を高めた。トラックの70%はフランスからもってきていた。また、60万頭の馬もつかった。
 ドイツ軍の侵攻から5日間で、30万人をこえるソ連赤軍兵士が包囲され、2500両の戦車が破壊・捕獲されてしまった。2000機の航空機も破壊された。
 スターリンの犯した誤りは大きかったが、その個人的名声は、一般大衆の政治的無知のおかげで助かった。スターリンのせいでソ連軍が敗れたとは思わなかったのだ。しかし、最初の3週間で、ソ連が失った戦車は3500両。航空機6000機、赤軍の兵士200万人。ドイツ軍の捕虜となったソ連赤軍兵士570万人のうち300万人が虐殺によってドイツの収容所で死んだ。アウシュビッツで1941年9月3日、600人のソ連軍捕虜がチクロンBをつかったガス室で殺された。最初の実験対象とされたのだ。
 ドイツ空軍による1942年8月のスターリングラード大空襲は、出撃回数1600回、投下した爆弾1000トン。損害は3機のみ。当時のスターリングラードの人口は60万人で、わずか1週間で4万人もの市民が殺された。
 反撃にうつったソ連軍は怒濤のごとくT34戦車と武器貸与政策によるアメリカの戦車をくり出した。アメリカ製の戦車は車高が高く、装甲板が薄いので、ドイツ軍から簡単に撃破された。ドイツ軍は戦闘中に3000人のスターリングラード市民を処刑し、6万人もの市民を強制労働につかせるためドイツ本国へ輸送した。
 ドイツ軍の第一線部隊には、その兵力の4分の1位以上にあたる5万人ものロシア補助兵がいた。その数は次第に増え、7万人にのぼるとみられている。ヒーヴィと呼ばれるドイツ軍に所属するロシア兵の多くは志願した地元住民や脱走した赤軍兵士たちで、ドイツ兵なみに厚遇された。
 映画「スターリングラード」に出てくる狙撃兵ザイツェフも紹介されています。ドイツ兵を149人も射殺したのですが、さらに224人殺した狙撃兵が別にいました。
 包囲されはじめたドイツ兵のうち、17歳から22歳という最年少の兵士がもっとも病気にかかりやすく、死者の55%を占めていた。太っていた兵士がやせた兵士より弱く、包囲戦のなかで、いち早く死んでいったことも明らかにされています。
 スターリンには、ヒトラーと違って、恥という観念がなかった。大失敗を犯したあと、いささかも取りすまさず、ジューコフの反撃作戦を承認した。
 ドイツが毎月500両の戦車を生産していたとき、ソ連は月平均2200両の戦車を生産した。航空機も、年に9600機から1万5800機に生産を増やした。ヒトラーは、このソ連の生産能力を信じることができなかった。ヒトラーがドイツ女性を工場で働かせるという考えを容認しなかったとき、ソ連では何万人もの女性が戦車の生産現場にいた。
 スターリンの反撃作戦は厳重に秘匿してすすめられた。100万を超える兵が前線に終結した。
 1942年11月。スターリングラードのドイツ軍はソ連赤軍によって包囲された。ヒトラーはそのニュースをドイツ国民に知らせないという厳しい指示を出した。しかし、ドイツ国民にはすぐにひそかに知れわたった。12月、スターリングラードに本格的な冬将軍が到来する。ドイツ軍は十分な冬支度ができていなかった。
 包囲されたドイツ第六軍は使者をヒトラーへ送った。軍部内の反ヒトラー運動への使者でもあった。ナチス・ドイツ軍のなかにも従来のドイツ軍の考え方に立ち、反ヒトラーの動きもあったことが分かります。これが後に、ヒトラー暗殺事件へつながっていきます。
 しかし、ヒトラーは第六軍の撤退も降伏も認めない。ヒトラーは、上級将校全員の集団自決を期待していた。ドイツ第六軍の指揮官パウルスは最後の瞬間に元帥へ昇進した。1943年1月31日、パウルスは降伏した。この時点でも、ドイツ軍に所属していた多くのヒーヴィ(ロシア人)はドイツ軍に忠実だった。
 ドイツ軍のパウルス元帥以下は、部下の将兵たちと異なり栄養状態も良く、そのまま特別待遇を受けた。スターリンは、将軍22人を含む9万1000人の捕虜を得た。
 スターリングラードでのドイツ軍壊滅のあと、ミュンヘンの学生グループが「白バラ」運動と呼ばれる抵抗運動をくり広げたが、すぐに逮捕され、ゾフィー・ショルと兄のハンスは死刑判決を受けて斬首された。
 ヒトラーは、スターリングラードの壊滅のあとは、テーブルについても以前のように長広告をふるわなくなり、一人で食事をするようになった。ひどく変わった。左手が震え、背中は曲がり、じっと凝視するが、飛び出した目には以前のような輝きはない。頬に赤い斑点が浮かんでいた。
 スターリングラードでの勝利で、ソ連の士気は大いに高まった。スターリンにはソ連元帥に任命された。1941年のスターリンによる惨禍は、あたかもスターリンがすべて考案した巧妙な計画の一部であるかに粉飾された。スターリンは、今や「ソ連人民の偉大なる指導者」「我らを勝利に導いた天才」とほめたたえられる存在になった。
 ドイツ将兵9万1000人の捕虜の半数は春を待たずに死亡した。
 ドイツ軍の死亡率にはきわだった違いがある。兵士と下士官の95%が戦死、下級将校の55%も戦死。ところが、上級将校の死亡率はたった5%。ええっ、信じられませんね。
 ロシア人にとってドイツとの戦争によって900万人に近い赤軍兵士が戦死し、
1800万人が負傷した。ドイツ軍の捕虜となった450万人の赤軍兵士のうち生還したのは180万人のみ。ソ連市民の死傷者は1800万人、ソ連の戦争犠牲者は2600万人をこえる。これはドイツのそれの5倍以上。
 1945年から、スターリングラードのドイツ兵捕虜3000人がソ連によって釈放されていった。最後は1955年9月。パウルスは1957年にドレスデンで死亡。
 実によく調べてある本です。読み終えると、精神的にぐったり疲れてしまいました。戦争の悲惨さ、馬鹿馬鹿しさが本当によく分かります。前線の兵士は自主的に考える力を奪われ、指揮官は自己の保身を真っ先に考える世界なのです。これは、軍隊については古今東西とこも変わらぬ真理です。前に紹介した「ベルリン」と同じ著者による本で、読みごたえがあります。私は3日間、もってまわって読み通しました。

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