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謎の豪族、蘇我氏

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著者:水谷千秋、出版社:文春新書
 私は奈良に行ったことはありますが、残念なことに飛鳥地方にはまだ一度も行ったことがありません。石舞台古墳とか飛鳥寺(588年に蘇我馬子によって建立された日米最古の本格的な寺院)、そして蘇我氏の本拠地であった甘樫岡の発掘現場をぜひ見てみたいと思っています。
 著者は天皇中心で日本の歴史をみるべきではないと強調しています。なるほど、と思いました。飛鳥寺を建立した蘇我馬子は崇峻天皇(大王)と反目し、ついに馬子は大王を殺害してしまいました。ところが、当時の王族や豪族は、馬子が大王を殺させたことを知っていたのに、馬子を糾弾した形跡がないというのです。
 馬子は対立する穴穂部皇子と物部守屋を殺し、泊瀬部皇子(崇峻天皇)を大王に立てた。だから、崇峻は馬子によって大王になれたのに、馬子に反抗した。だから馬子から殺されても、周囲の者は誰も馬子を批判することはなかった。崇峻が殺されて1ヶ月後には推古天皇が即位している。この間に混乱はなく、かえって王権は安定したように見える。
 要するに、当時は馬子政権だったというわけです。これは推古朝になっても変わらなかった。推古天皇は自分の意志から厩戸皇子(聖徳太子)に王位を譲らなかった。これは直木孝次郎の説であり、著者も賛成しています。実子の竹田皇子を後継者に考えていたというのです。厩戸皇子は推古天皇が死ぬより前に、49歳で天皇になれないまま死んでいました。ところが、蘇我馬子が80歳で亡くなった。石舞台古墳は馬子の墓とみられる。
 大化改新があったことには否定的な見解も有力です。著者は、皇極4年に蘇我蝦夷・入鹿父子が滅ぼされ、政権中枢が一新したこと、クーデターのあと、部民制の廃止、畿内制の成立、冠位の改訂、官制の改革などがあったことは争いがない、としています。
 蘇我氏の出自が渡来系かどうかについて、著者は否定的です。渡来系は、自らの系譜を隠そうとしなかったからです。蘇我氏の祖先を渡来人とする説に私は魅力を感じてきましたが、著者は史料上の根拠に乏しいと切って捨てます。うむむ、残念です・・・。
 蘇我氏渡来人説が一般に信じられてきた背景には、この説が古くから日本人に定着してきた蘇我氏逆賊史観とうまく適合してきたことにあるのではないか。つまり、蘇我氏は渡来人なので日本の天皇への忠誠心が薄かった。だから、天皇をないがしろにし、これにとって代わろうとしたのだという理解だ。うーん、そういうことか・・・。
 蘇我氏は、もとは、葛城氏の傘下にいた。大和に入った継体大王の一族を大伴氏と蘇我氏とが積極的に自らの勢力圏に迎え入れた。葛城氏とちがって、継体大王を支持し、その大和定着を積極的に支援した。いや、継体の支持・不支持をめぐって、蘇我氏と葛城氏は対立し、結局、蘇我氏が勝利をおさめたのだろう。そこで、蘇我氏は、葛城氏の正当な後継者として認められ、葛城氏がもっていた権益と地位を受け継いだ。
 そのころ、王権には混乱が相次いだ。弱体化していた王権が蘇我氏と連携することによって実力を回復していった。つまり、蘇我氏あっての王権、蘇我氏と結びつくことによって王権が力を回復していったのだ。なるほど、そういう見方ができるんですね・・・。
 物部姓を名乗る百済の官人がいた。物部と名乗っていたが、あくまで百済国の中級官人だった。倭から百済に移住した物部氏の男性と百済人女性との混血児とみられ、主として両国の外交交渉に介在していた。
 6世紀末以降、飛鳥地方は政治・経済・文化の一大中心地となっていった。その開発をはじめにすすめたのは倭漢氏(やまとのあやうじ)だった。彼らには、これを可能とするだけの土木・建築の技術力・動員力があった。一方で彼らは蘇我氏の配下にあって、事実上、その私兵として働いていた。蘇我氏を軍事面、土木建築面で支えた。
 蘇我氏の配下にあって渡来系豪族が活躍した。倭漢氏は軍事と土木・建築、鞍作氏は仏教と仏像製作、王仁後裔氏族は実務官僚。大陸の先進文明を身につけた彼らの知的レベルは当時の倭人系豪族たちをはるかに凌駕していただろう。蘇我氏の比類なき権勢は、こうした渡来人の能力の上にあった。彼らをつかいこなした蘇我稲目・馬子にも相当な才があっただろう。そして、蘇我氏のもとにいた渡来系豪族の多くは、大化改新後も変わらずに重用されていた。
 日本に仏教が伝来したのに当時の大王や豪族たちがどう対応したか、諸説がある。著者は次の二つを指摘しています。一つは、国内に仏教受容に抵抗する勢力が存在した。二つは、仏教受容は天皇ではなく、蘇我氏の主導ですすめられた。つまり、仏教の受容は天皇以下の支配層の一致した意思ではなかった。
 冠位十二階制定の実質的な主体は、厩戸皇子というより、むしろ馬子だった。十二階に組織された官人=中央豪族の頂点に立ち、実質的にこれを統率していたのは馬子だった。中央豪族によって構成される官僚集団の、いわばトップの座に君臨していた。
 馬子は、冠位をもらう側ではなく、与える側だった。ただ馬子には、大臣の地位のあかしとなる紫の冠が天皇から与えられていた。
 蘇我氏が逆賊ではなかったとする指摘は大いに納得できるものでした。
 アガパンサスの隣りにポワポワっとした毛糸の花のようなリアトリスの紫色の花が咲いています。ヒマワリがぐんぐん伸びてきました。今年は食用ヒマワリも植えているので楽しみです。コスモス畑にもなりつつあります。梅雨空の下で、水田の苗が勢いよく毎日伸びています。

犯罪統計入門

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著者:浜井浩一、出版社:日本評論社
 犯罪を科学する方法、というサブタイトルがついています。このごろ日本では極悪犯罪ばかりだ。戦後いちばん少年非行が多い。こんな話がマスコミなどで多いように思いますが、事実は異なります。でも、犯罪統計というのは、かなり操作できるものであることも、この本は明らかにしています。
 最高裁判所の判決に、次のようなものがあります。
 訴訟上の因果関係の立証は、一点の疑義も許されない自然科学的な証明ではなく、経験則に照らして全証拠を総合検討し、特定の事実が特定の結果発生を招来した関係を是認しうる高度の蓋然性を証明することであり、その判定は、通常人が疑いを差し挟まない程度に真実性の確信を持ちうるものであることを必要とし、かつ、それで足りる。
 これは、髄液の採取・ペニシリンの注入とけいれん発作による死亡との因果関係が争われた、いわゆる東京ルンバール裁判の判決です。この本は、一見もっともらしい言葉が並んでいるが、言語明瞭・意味不明の最たる文章だとしています。そう言われたら、そうですね。これは、最後は裁判官が証拠を評価して、オレが通常人の代表として判断すると言っているにすぎない。このようにコメントしています。なるほど、ですね。
 窃盗の47%は自転車盗などの乗り物関連。少年刑法犯の7割近くは窃盗と横領。横領のほとんどが遺失物横領。
 1999年から2000年に、暴力的色彩の強い犯罪の認知件数が統計のうえで急増した。これは、警察の対応の変化による。警察が通達を出し、広く国民にキャンペーンして、被害届などを積極的に受理したことによる。
 近年、公判請求の比率は上昇傾向にある。また、3年をこえる刑の言い渡しも増加している。判決の刑期が長期化している。
 新しく受刑する人間は、1948年に最多の7万人。1992年に戦後最低の2万人。2003年は、6万人になった。
 満期で出所する人と、途中で仮出獄する人とでは、再入所率に20%の差がある。なーるほど、ですね。
 日本の死刑についてみると、一審判決で死刑を言い渡される人は、この10年間で最高18人(2002年)、最低1人(1996年)です。そして、死刑を執行される人は、1人から6人までとなっています。
 今どこの刑務所も収容者が満杯になって困っています。これ以上、犯罪に走る人が増えない手だてをみんなで考えるべきです。厳罰に処せばいいという考えは安易すぎます。

駆込寺と村社会

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著者:佐藤孝之、出版社:吉川弘文館
 離縁(今の離婚)のための駆込寺といえば、鎌倉の東慶寺と上野国の満徳寺が有名です。この二寺は幕府から縁切寺(えんきりでら)として公認されていました。しかし、縁切寺は、決してこの二寺だけではありませんでした。
 駆け落ち(結婚)のときにも縁切りのときにも、いずれも寺院への駆け込みがありました。戦国時代には寺院に駆け込むことを「山林に走り入る」と言われていました。そして、江戸時代には、村や町の寺院は、すべて駆込寺だった、というのです。いやー、これには私も驚いてしまいました。なーんだ、そうだったのか・・・、という感じです。
 寺院に人々が駆け込むとき、それには実にさまざまな意味がありました。第一に、謝罪・謹慎の意を表明するということです。いわば詫びの作法のひとつでした。二つ目に、裏を返せば、処罰・制裁でもあったということです。たとえば出火したとき、火元は一定期間の入寺が罰として課されていました。第三に、保護・救済を求めて、また調停を求めるというものです。
 博奕(ばくち)、喧嘩口論、わがまま、不届、理不尽、不埒(ふらち)などと称される不法・違法・不行跡があったとき、当人は非を認めて寺院に駆込、寺院の関係者を仲介者として詫びる行為は入寺でした。
 男女が駆け込む先は、寺院ばかりではなく、神社や神主方ということもありました。
 犯罪を犯した者が寺院へ駆け込んだときには、入寺とは言わず、駆込ないし駆入などと呼ばれて区別されていました。たとえば、入寺したことで赦免する犯罪を出火のときに限定しました。それ以外の犯罪については、入寺による赦免を認めなくなりました。
 寺社や地域の有力者に対して、結婚・離婚を目的とする駆込が多発するようになりました。ある有力者宅には、1年間で離縁46件、駆落8件、連れだし・嫁盗み5件などの駆け込みがあったそうです。
 入寺は、すぐれて江戸時代的な営みだった。明治に入ってからは、明治国家の形成とともに姿を消していった。著者は、こう述べています。
 江戸時代の人々の生活について、目を洗われる気がしました。

核の軛

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著者:ウィリアム・ウォーカー、出版社:七つ森書館
 誰も欲しがらないものを生産する工場を、しかも、その管理と廃棄が重荷になるのが分かっていて、なぜ、運転するのか?
 その理由は、20年以上前の契約があり、日本が国内で対処しきれなかった問題をイギリスは引き受けることになっているからだという。しかし、その結果、日本は国内の事態をさらに悪化させることになる。
 六ヶ所の再処理工場の建設費は、構想段階で7000億円と見込まれていただ、結局、2兆1800億円にまで膨らんだ。そして、2004年の経産省の試算によると、発生する使用ずみ核燃料の半分(6万6000トンのうちの3万2000トン)を六ヶ所再処理工場で再処理したのちに廃棄物を処分したとき、核燃料サイクルバックエンド全体で40年間に18兆8000億円のコストがかかると見積もられている。なんとも巨大な金額なので、まったくピンときません。でも、それが国民全体の役に立つ必要不可欠なものならともかく、電力企業の私益のためにつかわれるに過ぎないのだったら、まったく許せないことです。
 日本全国の電子力発電所から毎年とり出される使用ずみ核燃料の量は1000トンあまりで、六ヶ所再処理工場の処理能力は年間800トンだ。
 日本の原発から出る使用ずみ核燃料の大部分は、イギリス・フランスとの委託契約にもとづき、フランスのファーグ再処理工場とイギリスのセラフィールド再処理工場で再処理されてきた。その総量は7100トンにのぼる。
 2004年末の時点で、日本は43.1トンのプルトニウムを保管している。そのうち37.4トンはイギリスとフランスに保管されており、日本国内にあるのは5.7トン。このように大量のプルトニウムを消費する見通しがまったく立っていないのに、なぜ六ヶ所再処理工場の操業開始を急ぐのか。この疑念が日本内外から投げかけられている。
 電力市場に競争原理が全面的に導入されると、原子力は他の電力と太刀打ちできない。そこで、イギリス政府は大急ぎで措置を講じ、10年間は原子力が一定の供給割合を維持できるようにした。日本も同じなのではありませんか・・・。
 プルトニウムは空輸の安全性に疑問がある。そこで、アメリカは、民生用プルトニウムについて、日本とヨーロッパ間の空輸を禁止した。以降、プルトニウムは海上輸送するしかなくなった。
 使用ずみ核燃料の再処理は労多くて、利少なし、である。その必要性と妥当性を今も言い張っているのはイギリス・フランスと日本だけ(このほか、ロシアとインドも)。
 この問題は、よくトイレのないマンションにたとえられます。どんなに、そのマンションが有用だったとしても、人間(ひと)はトイレがなければ住み続けることはできません。しかも、核廃棄物は悪臭で鼻がひん曲がるという程度ですむものではありません。その人と、次代以降の運命を左右しかねない重大な影響力をもっているのです。
 テロリストが原子力発電所を狙ってテロを仕掛けてきたとき、日本は決して万全な国ではありません。そのことを、私たちはもっと重大なこととして自覚すべきです。

愛犬王・平岩米吉伝

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著者:片野ゆか、出版社:小学館
 犬の集団のリーダーが決まるときの優先順位が紹介されています。第一に性別。オスであること。第二に年齢。年長優先です。第三に気性の強さ。第四に才能。敏捷な立ちまわりで優位を獲得する。最後の第五に体力。要するに、年長の雄で、気性が強く知恵のあるものがリーダーとなります。犬の世界でも、腕力だけでは上位を占めることはできないのです。なーるほど、ですね。
 平岩米吉は昭和4年(1929年)から自由ヶ丘に住むようになりました。当時の自由ヶ丘は一面の田園地帯です。お寺のほか、水田と竹藪のなかに七面鳥やブタを飼う農家が点在していました。そのなかで、1000坪の敷地に多くの犬を飼いました。フェンスで囲うのですが、金網の下は30センチほど地面を掘って埋めていました。犬は穴掘り名人なのです。
 犬は人間の言葉を理解するのでしょうか?
 犬は単語の意味をまったく理解していないわけではない。固有名詞としては、自分や家族の名前、よく訪ねてくる人の名などは覚える。普通名詞では、食物や動作に関係あるものが大部分。勉強とか進歩など食物や動作と無関係で形のないことは理解しない。動詞も、座や伏せ、待てなど犬の行動と関連のあるものほど理解度が高い。しかし、行けと行くなが正反対の意味だと認識させるのは難しい。犬が言葉を聞くときに集中するのは、言葉の初めの方で、語尾については、ほとんど気にとめていない。
 米吉は、犬が電話を通した飼い主の言葉にどのように反応するか、という実験もしています。1回目は恐がり、2回目は分かり、3回目になって命令をきいたということです。米吉は、犬にも夫婦愛や伴侶を守ろうとする強い使命感があることを発見しています。すごいですね。妻は夫の帰りを待つ。食事もしないで、ひたすら待ち続けるのだそうです。
 米吉は日本最後の狼も飼っています。
 狼は犬と違う。敏捷性が高く、顎の力が強く、興味をもったものや自分の所有物と思ったものは、簡単にかみ砕いてしまう。狼ならではの声は遠吠えのみ。
 米吉が一匹の犬を可愛がると、犬はそれにこたえる。しかし、それが行き過ぎると・・・。深い愛情は、いいかえれば相手をいかに独占するかということ。その関係に立ち入る者は自分たちの幸せを脅かす敵だ。自分以外のすべての存在が敵となる。喜びと落胆と嫉妬と警戒のなかで、常に神経をピリピリさせながらイリス(愛犬)は、米吉の愛情を貪欲に求め続けた。
 イリスの母犬が死んだとき、イリスは絶えず立って行っては動かぬ母の臭いを嗅ぎまわり、その口や鼻や目や鼻をいつまでも舐め続けていた。母犬が棺に納められ、地面の下に姿を消していくとき、イリスは目をいっぱいに見開いてガタガタと震えていた。すごい、ですね・・・。犬と人間がどれほど違うのか、考えこんでしまいます。
 犬の言葉の理解度は、個体差が大きい。その違いは、飼い主の接し方によって生じる。いい加減に放置されている犬と、主人や家族から深く愛された犬では、あきらかに後者の方がたくさんの言葉や複雑な表現を理解できるようになる。
 フィラリアにやられて死んだうちの飼い犬(柴犬)は頭が悪いと思っていましたが、飼い主のレベルをちゃんと反映していたのでしょうね。バカな主人にはバカな犬が似合う、というわけです。でも、まあそれなりに可愛いがっていましたし、今もお盆にはきちんとお墓まいりはしています。
 犬は笑うのか? 実は、笑うのだそうです。うれしいときだけでなく、恐縮したとき、困惑・恐怖を感じたときも笑うのです。
 犬とともに生活した昭和の愛犬王の愉快なお話です。

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