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ミカドの外交儀礼

カテゴリー:日本史(明治)

著者:中山和芳、出版社:朝日新聞社
 明治天皇が外国人に会ったときの状況を紹介した本です。なかなか興味深いものがあります。
 明治天皇は、元服のとき(1868年1月15日)、童服を脱ぎ、冠をつけ、お歯黒をつけた。男がお歯黒をつけるなんて、聞いたことがありませんでした。気色悪いですよね。
 天皇が外国人に初めて会ったときには、それに反対する者が多くて、大変だったようです。当時は、多くの日本人が外国人を異人と称して、「人間と少し違った種類で、禽獣半分、人間半分」であるかのように考えていた。天皇が外国公使と握手するなんてとんでもない。そんなわけで、それは実行されなかった。なーるほど、ですね。
 フランス公使と会見したときの明治天皇の容姿は次のように描かれた。
 14か15歳の若者だった。眉毛が剃られ、その代わりに額の真ん中に筆でなぞり画きされて、これがその顔を長めに見せさせていた。歯は既婚女性のように黒い漆で染められていた。
 1869年(明治2年)、イギリスのヴィクトリア女王の二男・エジンバラ公が来日したとき、天皇が会見するかどうか政府部内でもめた。結局、会見することになった。ところが、天皇が会見する場から少し離れたところで、神官が清めの儀式を行った。イングランドからついてきたかもしれない悪霊を追い払うためのものだ。アメリカ代理公使のポートマンがそれを知ってアメリカ大統領へ報告書を書いて送った。外国人の物笑いの種になったことを知り、さすがに、この清めの儀式はその後はされなくなった。
 1871年(明治4年)に、オーストリアの元外交官が天皇に謁見した。そのときのことを元外交官ヒューブナーは次のように書いている。
 天皇は20歳だが30歳のように見えた。鼻は大きくて少しぺしゃんこ。顔色は青白いが、目は生き生きと光り輝いている。目は行儀良く、きょろきょろとはしない。江戸の町中でしばしば出会う顔と同じだ。
 天皇は1871年(明治4年)、牛乳を飲み始めた。また、「肉食の禁」をやめ、牛肉や羊肉を常食とするようになった。
 天皇は1872年(明治5年)6月に初めて一般の人々の前に洋服を着て姿を現した。
 1873年(明治6年)3月、天皇はかき眉とお歯黒をやめ、さらに突然、断髪した。
 天皇は写真が嫌いで、写真をとらせなかった。それで、お雇い外国人キョソーネが隣室から天皇をスケッチし、それにもとづいて肖像画を描いた。
 1883年(明治16年)、2階建ての様式建築「鹿鳴館」が完成した。この鹿鳴館で、日本人が熱心に舞踏に励んだ。しかし、外国人は、日本人の努力を笑っていた。
 皇后が洋装するためにドイツに注文した大礼服は13万円もした。鹿鳴館の総工費が18万円であるのに比べても大変高い。ちなみに総理大臣の年俸は1万円、他の大臣は  6000円だった。
 1889年(明治22年)2月11日に、憲法発布式典が挙行され、このときの祝賀パレードで、天皇と皇后が初めて同じ馬車に乗った。
 そんな様子を東京府民が見るのは初めてのこと。皇后も天皇と結婚したことによって天皇と同じ社会的地位に引き上げられたことを天皇自身が認めたということ。それまで、天皇は、玉座が皇后の座と同じ高さにあるということをどうしても納得できなかった。
 明治天皇の実像の一端をよく知ることができました。

日本の裏金(上)

カテゴリー:社会

著者:古川利明、出版社:第三書館
 首相官邸・外務省編とある上巻です。内閣の機密費のルーツは、皇室の内帑金(ないどきん)にあるということを初めて知りました。
 敗戦時点(1945年)、皇室の財産は当時のお金で37億円を有していた。三井や三菱でも3〜5億円であったから、その10倍以上だったわけである。内閣機密費は、天皇家から下賜されていた。そして、この機密費は会計検査院の検査の対象外であることが法で明記されていた。
 戦前の機密費は、内閣と外務省については戦後、予算名目上は報償費と交際費とに分割されて今日まで命脈を保っている。
 2000年度予算における機密費の額は、外務省56億円、内閣官房16億円、防衛庁2億円、警察庁1億円。
 官房長官のつかう毎月1億円の官房機密費は領収書が一切いらない。しかし、この月1億円の機密費というのも、実はオモテの予算枠にすぎない。いわばオフィシャルな裏金である。すごいというか、ひどい話です。みんな血税なんですよ、これって。
 戦後、ある時期まで、自民党政権を支えていたのは、CIA資金をはじめとするアメリカからの財政援助だった。CIAは、1955年に自民党が結成されたとき資金援助をしたが、その後も年間100〜150万ドルを援助していた。池田内閣のとき、アメリカからの資金提供を断ったら、本当にお金がこなくなった。
 1968年11月の沖縄主席の初の公選のとき、CIAは、72万ドルを東京の自民党本部を経由して、沖縄自民党副総裁に流れた。ところが、それだけの裏金を投入しても、革新の屋良朝苗が3万票差で当選した。
 消費税を導入するときにも、この官房機密費5億円が動いている。公明党と民社党を抱きこんだのだ。道理で、今でも自公政権なんですね。
 1998年11月投票の沖縄県知事選のときには、現知事陣営でかかった選挙費用のトータル4〜5億円のうち、自民党から来た分が2億円から3億円であり、うち、官房機密費からの分が1億円をこえていたという。
 ホント、世の中いやになってしまう話のオンパレードです。それにしても、街中をメルセデス・ベンツに乗っている人が本当に多いですね。どうやってそんなにもうかっているのでしょうか。裏金のおこぼれにあずかった人はどれだけいるのでしょう。選挙を通じて田舎にも少しは流れてきているのでしょうか・・・。

擬態、だましあいの進化論(2)

カテゴリー:生物

著者:上田恵介、出版社:築地書館
 魚類に限らず一般に、体の大きな雄は小さな雄よりも競争に強く、より繁殖場所を占有したり、多くの雌を独占したりして高い繁殖成功を得ることができる。では、小さな雄は繁殖から締め出されているのかというと、必ずしもそうではない。小さな雄は小さいなりに、さまざまな手段を駆使して繁殖成功を上げようとしている。その手段のひとつが雌への擬態である。なわばりをつくらずに雌に擬態している雄は、なわばり雄よりも小さく、年齢も若い。このような雄は体色などが雌にとても似ているので、なわばり雄からさかんに求愛を受ける。ときには誘われるまま巣の中に入って、なわばり雄と産卵行動にいたってしまう。そのとき、雌擬態している雄は、もちろん卵を産むわけはなく、あくまで産卵しているふりをしているだけ。そして、本物の雌が巣にやってきて産卵しはじめると、そこへ割り込んで精子を放出し、本物の雌が生んだ卵に授精する。産卵後、雌擬態している雄は雌とともになわばりから去っていき、残された卵は、なわばり雄が面倒をみる。つまり、雌擬態している雄は、なわばり雄に対して、巣の維持や雌の勧誘などの面で寄生しているだけでなく、子の保護まで寄生している。
 小さなオスの魚がメスのふりして、大きなオスの魚をだましてちゃっかり自分の子孫を増やすのに成功してるなんて、面白いですよね。
 ランの花、オフリスは、ハチをだまして誘いこみ、受粉の手伝いをさせている。
 オフリスの賢いところは、まだ本物の雌バチが発生する前に花をつけて雄バチを誘うこと、偽交尾はさせるものの、本当の交尾(射精)まではさせないこと。 したがって、ハチは性的興奮状態を保ちながら、次なる花を求め、次々に他花受粉させていく。
 うーん、植物の花がハチをだますなんて・・・。
 チャバラニワシドリの鳴き声を聞いてみよう。建築現場からの実況中継だ。ベルトコンベアーか何かの機械がまわり、ガラゴロと建材が運びこまれ、何かが組みたてられているような音や、現場で働く大工たちの話し声や合図のような音まで聞こえてくる。まるでトランジスターラジオが勝手に鳴りだしたかのようだ。
 カッコウのヒナも同じようなだましの音をたてている。
 カッコウのヒナは、ヨシキリのヒナと同じ「シッ」というねだり声を出すが、鳴き方はまばらに繰り返すのではなく、「シシシシシ・・・」と詰めて、まるでたくさんのヒナがいるかのように鳴く。つまり、カッコウのヒナは、たった一羽でも十分に食べて成長できるように、そのねだり声をヨシキリ一巣分のねだり声に擬態させる仕組みを生み出し、宿主の行動を操っている。これは前提として、カッコウのヒナが、ヨシキリのヒナを巣から全部け落としてしまい、巣の中は自分一人だけで占有しているということがあります。あつかましくも、ヨシキリの親をだまし続けるわけです。
 残念なことに、私はまだこれらの小鳥の鳴き声を聞いたことがありません。ぜひ一度聞いてみたいものです。それにしても、これって、大自然の神秘そのものですよね。

遙かなる江戸への旅

カテゴリー:日本史(江戸)

著者:永井哲雄、出版社:みやざき文庫
 江戸時代、参勤交代は250年ものあいだ厳しく守られてきた。日向国にある四つの藩から江戸まで350里(1400キロ)を、毎年、200人以上の集団で、片道1ヶ月以上もかかる陸と海の旅を休むことなく往来した。
 この本は、その実情を当時の記録をもとに探っています。 寛永12年の武家諸法度以後、参勤交代は江戸到着日が決まっていたので、出立日は、それから逆算してきめられていた。飫肥藩は3月1日、佐土原藩も同じ。日向路は陸路、細島から船で大坂まで行き、大坂から大坂から東海道を陸路で江戸へ向かう。江戸に着くと、1年の在府。
 翌年の4月から5月に帰国の旅につく。真夏に辛い旅をする。国元には約10ヶ月しかおれない。
 役にある限り、生涯歩き続けるのが江戸時代の大名領下の役人である。幕末の飫肥藩の上士川崎一学は、55年間になんと14度の江戸御供をしている。人生の半分を旅に過ごしたことになる。
 参勤交代を守らないときには、大名改易の理由となった。
 大名が参勤交代の往返に耐えることができなくなったら、家督を譲る理由となる。
 大名の妻のうち、正室は幕府に認められた婚姻を結んだもの。夫がまだ家督をついでいないときには御新造様、当主になると御奥様、当主が隠居すると大御奥様、夫が死去すると院と呼ばれる。側室については、さまざまに呼ばれる。御部屋様、御召仕、奥御女中、御妾、奥御奉公人。
 正室と嫡男の江戸と国許の往来は厳しく禁ぜられているが、側室の方は往来自由となっていた。江戸藩邸は、上屋敷であれ、中屋敷、下屋敷であれ、藩主の私有物ではない。幕府からの貸与物である。いつ屋敷交替を命ぜられるも分からない。
 高鍋藩の場合、江戸藩邸詰の人数は、徒士(かち)以上は家老・用人・留守居各1人、者頭6人、給人・家嫡25人、中小姓24人、徒士52人、医師など3人、合計113人。このほかに足軽から小人(こもの)まで同数がいた。そのとき、国許には、徒士以上は  220人いた。
 つまり、藩主が江戸にいるときには、上、中家士のうち3分の1が江戸に詰め、残り3分の2が国許で城を守り、治世にあたっていた。
 高鍋藩の参勤交代の絵がある。1月前に先触れが通過する諸大名や幕府御料所に挨拶のため先行する。前日には、宿割りの一行が先行して、休憩・宿泊の準備をする。絵図に百数十人が描かれているが、実際には、これよりかなり多くなる。これが公高3万石前後の大名の供揃えである。大変な旅行だったんですね。

「闇の奥」の奥

カテゴリー:アフリカ

著者:藤永 茂、出版社:三交社
 ベトナム戦争を描いた有名な映画に「地獄の黙示録」があります。ヘリコプターがワグナーの「ワルキューレ」の音楽を最大ボリュームで響かせながら地上のベトナム人をおもしろ半分に虐殺していくシーンは有名です。
 この映画「地獄の黙示録」(フランシス・コッポラ監督)のシナリオは、ジョセフ・コンラッドの小説「闇の奥」をもとにしている。この「闇の奥」は中央アフリカのコンゴ河周辺を舞台としている。そこでも、ベトナム戦争と同じように現地住民の大虐殺があったのです。初めて知りました。
 1900年ころ、中央アフリカのコンゴ河流域の広大な地域がベルギー国王レオポルト2世の私有地になっていた。そこで先住民の腕が大量に切断された。レオポルド2世は 1885年からの20年間に、コンゴ人を数百万人規模で大量虐殺した。
 1880年当時、コンゴ内陸部には2000万人から3000万人という大量の黒人先住民が住んでいた。そこを人口希薄の土地と想像するのは誤りである。
 このコンゴ地域には天然ゴムがとれた。1888年にコンゴで産出された原料ゴムは 80トン。それが1901年には6000トンにまで増大した。
 コンゴでのゴム採取の強制労働のため、レオポルド2世は公安軍をつくった。1895年には兵員総数6000人のうち、4000人がコンゴ現地で徴集された。1905年には、白人指揮官360人の下、1万6000人の黒人兵士から成っていた。
 公安軍の白人将校たちは、単に射撃の腕試しの標的として黒人の老若男女を射殺してはばからなかった。 強制労働のあまりの苛酷さに耐え切れず、作業を捨てて黒人たちが密林の奥に逃げ込むのを防ぐのが公安軍の任務だった。銃弾は貴重なものだったから、白人支配者たちは小銃弾の出納を厳しく取り締まるために、つかった証拠として、消費された弾の数に見合う死者の右手首の提出を黒人隊員に求めた。銃弾一発につき切断した手首一つというわけである。えーっ、そんなー・・・。
 2人のイギリス人宣教師にはさまれた3人の先住民の男たちが写っている写真があります。男たちは、右手首をいくつか手に持っています。ぞっとします。
 レオポルド2世はコンゴ自由国という名前の私有地をもち、公安軍という名前の私設暴力団を有してコンゴの現住黒人を想像を絶する苛酷さの奴隷労働に狩りたてていった。その結果、コンゴの先住民社会は疲弊し、荒廃し、その人口は激減した。1885年から20年のあいだに人口は3000万人か2000万人いたのが800万人にまで減少してしまった。
 ところが、レオポルド2世はアフリカに私財を投入して未開の先住民の福祉の向上に力を尽くす慈悲深い君主としてヨーロッパとアメリカで賞賛され、尊敬されていた。
 なんということでしょう。まさに偽善です。
 レオポルド2世は奴隷制度反対運動の先頭に立つ高貴な君主として広く知られていた。
 アフリカ大陸にひしめく黒人たちは、人間ではあるが、決して自分たちと同類の人間ではないとヨーロッパの白人は考えていた。黒人が人間として意味のある歴史と生活を有する人間集団であると考える白人は少なかった。
 しかし、個々の白人の病的な邪悪さや凶暴さが問題ではなかった。問題は、現地徴用の奴隷制度というレオポルド2世が編み出したシステムにあった。うむむ、そういうことなんでしょうか。
 1960年6月、コンゴ共和国は独立し、35歳の元郵便局員であるパトリス・ルムンバが初代首相に選ばれた。しかし、ルムンバ首相がソ連から軍事援助を受け入れたので、アメリカのCIAはルムンバ首相を抹殺することにした。コンゴ国軍参謀長のモブツを買収し、クーデターを起こさせ、ルムンバを拉致して銃殺した。このルムンバの処刑にはモブツの部下とともに、ベルギー軍兵士たちが立会していた。
 2006年7月、ルムンバを首相に選出した1960年から46年ぶりにコンゴで第2回の総選挙が行われた。いやはや、アフリカに民主主義が定着するのは大変のようです。しかし、それはヨーロッパ「文明」国が妨害してきた結果でもあるわけですね。
 アフリカの政治が混沌とした原因にヨーロッパとアメリカの責任があることを強烈に告発した本でもあります。

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