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我ら、マサイ族

カテゴリー:アフリカ

著者:S.S.オレ.サンカン、出版社:どうぶつ社
 1971年に出版された本です。現在のマサイ族にそのまま通用するか分かりませんが、先にマサイ族と結婚した日本人女性の本を読んだので、この本も読んでみました。
 少年たちは割礼式を受けると、青年として一つの入社組(エイジ・グループ)に組織される。青年が下級青年から上級青年へ昇級するときには、エウノトと呼ばれる青年昇級式がある。
 予言師は、戦争と襲撃を支配している。
 マサイは、他のマサイを殺したときだけ、殺人の罪に問われる。マサイ以外の人を殺しても、マサイの社会では、その咎を受けることはない。殺人の罪に対しては、男を殺したときには49頭の牛で償われるべきだと考えられている。
 女を殺したときの定めはない。それは、日常また戦争において、マサイが女を殺すことは伝統的にありえないとされていることによる。男が女を殺すと、不幸に見舞われ、社会的立場をなくしてしまうと考えられている。
 男が誤って女を殺したときには、贖罪の儀式をして、自らの汚れを拭って清める。そして、賠償として48頭か28頭の羊が死者の父親か親族に支払われる。
 父親が死ぬと、まず長男が父親の遺産と債務のすべてをいったん引き継ぐ。あとで、遺産と債務を弟や異母兄弟に配分する。
 母親の遺産は、末息子が全部を相続する。これは母親の老後の面倒をみるのは末息子の義務とされていることによる。
 息子のなかで遺産の相続人として明示されているのは、長男と末息子の二人だけ。ほかの息子には相続権が明示されていない。しかし、たいてい、父親から数頭の牛を生前に分与してもらっている。娘には相続権がない。娘しかいないときには、娘に私生児をうませて、男の子が生まれたら、その子を自分の実子とみなして相続人とする。
 マサイは、野生動物の肉を口にすることを禁止されている。マサイが食べるのは家畜肉のみ。
 戦いで捕虜になって連れていかれたときを除いて、マサイの女性は、他民族の男性とは結婚しない。マサイの男は、他民族の女性と結婚する。ただし、マサイの男性は、女性に割礼を施す習慣のない民族とは通婚しない。
 マサイの妻は、夫と同じ年齢集団に所属する男性のなかから好きな男性を選び、寝床を共にし、子どもをもうけることが許されている。このような婚外交渉によって生まれた子どもは、彼女の夫の子どもとして社会的に認知される。ただし、マサイの女性は、男性を厳しく選択しているし、十分な交際をして愛をたしかめない限り、男性と同衾することはない。
 マサイ族のことを、少しですが、知ることができる本です。

古代史の流れ

カテゴリー:日本史(古代史)

著者:上原真人、出版社:岩波書店
 列島の古代史・全8巻の第8回目の本です。大宝2年(702年)の遣唐使が自らの国を「日本」と名乗るまで、日本列島に形成されていた国は、東アジア世界では「倭国」と認識されていた。
 政治連合(倭国連合)全体を「ヤマト政権」、その盟主として中枢を担った政治勢力を「ヤマト王権」と呼んで区別する。
 ヤマト王権は、畿内南部地域を基盤とする。「やまと」の地域には、三輪山の西麓を中心に古墳時代前期でも古い段階の巨大な前方後円墳が集中している。
 箸(はし)墓古墳(280メートル)、西殿塚古墳(234メートル)、外山茶臼山(とびちゃうすやま)古墳(208メートル)、メスリ山古墳(250メートル)、行灯(あんどんやま)古墳(242メートル)、渋谷向山(しぶたにむかいやま)古墳(310メートル)の順に3世紀中葉すぎから4世紀中頃にかけて営まれた。これはヤマト政権の盟主、すなわち倭国王の墓ということになる。
 箸墓古墳は、260年前後に造営された。卑弥呼の没年は247年前後なので、箸墓古墳が卑弥呼の墓である可能性はきわめて高い。そうすると、卑弥呼の後継者である壱与の墓として西殿塚古墳が考えられる。
 うむむ、ここまでしぼって特定されているのですねー・・・。
 ヤマト政権の盟主墓は、奈良盆地東南部から同北部の佐紀古墳群をへて大阪平野へ移動している。大阪平野への倭国王墓の移動は、大阪平野の勢力が倭国王の地位についた結果にほかならない。
 5世紀の後半に、畿内の王と地方の首長との関係が大きく変化した。それまで「王」と称していた倭国王が5世紀後半になって、「大王」を称するようになった。
 地方の首長層は、直接、畿内の大王に仕えるのではなく、大王の下で特定の職掌を分担する中央豪族とその職掌を通じて密接につながっていた。
 6世紀の継体王統は、近江・尾張など畿内東辺の勢力が大きな役割を果たした。それまで畿内南部の大和・河内の勢力に押さえられていた摂津の勢力が、畿内東辺の勢力と提携して王権を掌握した。
 ところが、継体は、即位してから20年間も大和に入ることができず、山背など淀川水系を転々としていた。大和に入ることができたのは、それ以前の王統の血を受け継ぐ仁賢大王の娘・手白香皇女と結婚し、入り婿の形でヤマトの王統につながることができたから。
 古墳時代の倭国には夫婦合葬の風習はなかった。渡来人集団では夫婦合葬だったが、倭人集団では違った。妻は死ぬと、里方の父の墓などに合葬されるのが一般的だった。つまり、同族関係が合葬の原理だった。
 うへーっ、そうなんですか・・・。昔の日本では、夫婦は死んだら別々のお墓に入っていたのですか・・・。知りませんでした。最近、そういうのが増えているそうですが、先祖がえりなのですね。
 8世紀末ころの日本の人口は540〜590万人程度だった。
 天平7年(735年)ころ、五位以上の位階をもつ官人は、天皇に親しく仕えつつ国政を領導する「マヘツキミ」で、8世紀はじめに150人いた。ところが、天平末年から人数が増えて200人ほどになり、その後は300人台で推移した。
 奈良朝では、事務決裁は口頭でなされていた。下級者が文書内容を読申し、上級者が口頭で「宣」を下す。これが読申公文(どくしんくもん)という、律令制本来の決裁方式だった。ところが、文字文化が浸透していったので、決裁者が文書を黙読し、次々に決裁を下していく新しい方式に変わった。これを申文刺文(しんぶんしぶん)という。どちらも私の知らない用語でした。古代史の研究は相当すすんでいるようです。

朝鮮通信使をよみなおす

カテゴリー:朝鮮・韓国

著者:仲尾 宏、出版社:明石書店
 朝鮮王朝がはじまったのは1392年。日本では足利義満が南北朝の抗争をおさめた年。李成桂(イソンゲ)将軍が衰えていた高句麗王朝を倒し、太祖として即位した。
 それ以来の日本と朝鮮との往来をたどった本です。いわば朝鮮通信使に関する百科全書のような内容となっています。
 室町時代、朝鮮から5回の通信使が派遣され、3回が京都にやってきた。世宗国王のときのこと。日本から、60回以上もの日本国王使が漢城(今のソウル)を訪れ、交隣関係は密接かつ多様になっていった。
 江戸時代はじめ、京都の相国寺(しょうこくじ)に西笑承兌(せいしょうじょうたい)という禅僧がいた。承兌は秀吉の朝鮮出兵の前線基地の名護屋城にまで出かけた。承兌は、朝鮮から回答兼刷還使が来日したとき、「朝鮮の使臣は日本に有益に非ず。薄侍すべし」と進言していた。ところが、その承兌は、朝鮮からやって来た松雲大師の詩文や書を見て、次のように言って舌をまいて感嘆した。
 句々奇なり、言々妙なり。欣然にたえず。筆跡もまた麗し。予、私宝となすは快然たり。 徳川家康は朝鮮との国交回復を図った。それは家康が秀吉から1万5000人の陣立てを命じられたものの、朝鮮へ出兵することがなかったことも幸いしている。しかし、家康はすんなり謝罪する意思をもってはいなかった。さすが老獪な政治家ですよね・・・。
 朝鮮から連行されてきた被虜人のうち、第一回使節とともに帰国したのは、わずか  300人に過ぎなかった。このとき、大名や日本人のあるじが手放さなかったり、日本人と結婚したり、子どもの誕生・養育、また帰国後の生計の見通しがたたないことを理由として断る者も多かった。
 朝鮮通信使がやってきたとき、黒田家では三代の藩主(忠之、光之、継高)が検分を口実に博多湾にある藍島まで出かけて朝鮮使節を見物している。
 貝原益軒は、秀吉の朝鮮出兵について、貪(むさぼ)る兵、驕(おご)れる兵、忿(いか)れる兵と酷評した。
 徳川吉宗は、朝鮮伝来の人参生草や種子の採種、播種、栽培によって、享保から元文年間にかけて人参の国産化を実現した。これによって対馬藩の朝鮮貿易は決定的なダメージを蒙った。
 雨森芳洲(あめのもりほうしゅう。1668〜1755)は、釜山に渡って3年間、朝鮮語を学んだ。そのころ釜山には10万坪の倭館がおかれ、対馬の役人・商人が常駐して外交事務や藩と私の貿易に従事していた。10万坪というと、長崎の出島の25倍の広さだ。雨森芳洲は次のように言った。
 朝鮮は弱く、その人は愚かなり、と人は言う。しかし、これはまことの強弱智愚を知らない言葉だ。朝鮮の人は古今の記録をも多く覚え、物事ふかく思慮するものだから、日本国よりその智は10倍だ。秀吉の朝鮮出兵のとき、乱世に慣れた日本軍は緒戦には勝ったものの、帰陣のときにははなはだ難儀した。
 朝鮮人は手詰の戦いは日本人に及ばずとも、久を持するの謀りについては、日本人はかえって相手にもならない。お互いの文化、歴史、風俗の違いをよく知り、それを尊重しつつ、無用な紛争や誤解をさけ、偏見や侮りを捨て去ることが大切だ。
 なーるほど、そうなんですよね。まったく同感です。
 このところ、日本社会の排外主義と自民族優越意識がひどくはびこっている。
 著者はこのように嘆いています。本当にそのとおりです。それぞれの民族には固有の文化があり、優劣つけがたいのです。それぞれ違って、みんないい。金子みすずの詩を思い出します。

私の紅衛兵時代

カテゴリー:中国

著者:陳 凱歌、出版社:講談社現代新書
 中国では団塊世代は大災害よりひどい大変な苦難を蒙った世代です。著者は、団塊世代より少し下の世代になります(1952年生まれ)が、大変な苦しみを味わったことには変わりません。
 背が高くバスケットをしていたことから著者は中国軍にひろわれ、ようやく地獄からはい上がることができました。その苦難の歩みが淡々と語られています。
 中国の党と軍の高官の子弟は、優越感に浸りきっていた。父親の功績を誇り、生まれながらの革命家を自任した。その多くは傲慢で偏執、相手をとことん追い詰めた。敵ばかりつくっていた。良い友人にはなれなかった。
 毛沢東への愛は、心からというより、既に一種の習慣になっていた。
 毛沢東は破壊を求めた。紅衛兵に対して求めたものは三つ。忠誠と反逆そして憎悪だ。
 たとえば、クラス討論のなかで一人の生徒が「毛沢東も人間だ」と言ったところ、クラス中から囂々たる非難を浴びた。
 毛沢東は、高等教育を終えていなかった。若いころ、有名教授に冷たくあしらわれ、それ以来、毛沢東は知識人に対して偏見をもち、傷つけられた自尊心が反逆の形でふくれあがり、それは生涯、消えなかった。
 毛沢東は、本を読みすぎると身を滅ぼすことになると言った。毛沢東は、教育をろくに受けなかった古今東西の著名人を列挙したうえ、卑しい者がもっとも聡明であり、高貴な者がもっとも愚かであると言った。これによって教育制度すべての破壊がはじまった。
 著者の父は、19歳のときに(1939年)国民党に入っていた。これが文革のなかで問題となった。1939年の中国においては、国民党も抗日戦争をたたかっていた。
 子どもがゲームをやりだすと、大人よりも一生懸命にやるものだ。子どもにとっては、ゲームこそが人生そのものだから。
 著者と同じ学校に劉少奇の息子と彭真の息子がいた。文革が始まると、それぞれ自宅に住めなくなった。彭真の息子は学校にあった天井の低い平屋に移り住んだ。劉の息子のほうは、校舎の掃除道具を入れていた物置き部屋だった。
 著者は紅衛兵の一員として、実の父親に対する糾弾会に参加し、父親の肩を手で突き、身体を倒しました。今も、そのことを悔恨の情を抱きながら思い出します。
 父は避けようとしたが、途中でやめ、腰をさらに深く曲げた。周囲の人々は快感で熱く火照った視線を著者に送った。逃げることも出来ず、ヒステリックに何かを叫んだ。
 著者14歳、父50歳のときのことです。父を突き倒そうとしたとき、強くて威厳のあった父が、本当は弱い存在にすぎないと気がついた。14歳で、もう父を裏切ることを知ったことになる。そのあと、本をほとんど全部燃やした。
 文革とは、恐怖を前提とした愚かな大衆の運動だった。それは、本来のイデオロギーや理想とは無縁だった。暴力が際限もなくエスカレートしていったのは、他人に劣るのを恐れたからだ。
 人々は競争をくり返し、はりあい、自分が集団に忠実なことを必死に証明しようとした。集団に属さなければ、自分の存在が確認できなかった。証明してもらわなければ、自分が自分でないことになる。
 1967年。これは、私が上京して大学に入った年です。文革は退潮期にあり、紅衛兵は流行していなかった。
 自分は、ただの愚かな大衆の一人だった。文革中は、法など存在しなかった。
 1968年12月。東大闘争がヤマ場にさしかかっていたころです。知識青年が農村へ行き、貧農と下層農の再教育を受けるのは、大いに必要なこととされた。
 この10年間で2000万人をこえる青少年が農村へ向かった。下放運動には、積極的な文化的意義など何もない。それは進歩ではない。若者が時間を浪費してしまっただけ。
 文革が終わり、10年間おさえつけられ、社会の底辺ではいつくばって耐えてきた優秀な人材が一斉に大学の門をたたいた。1977年と1978年の入学者には、その後の中国のあらゆる分野を左右する逸材がそろった。著者もその一人です。
 著者の映画としては「さらば、わが愛。覇王別姫」が印象に残っています。著者の監督した映画ではありませんが、「芙蓉鎮」は私の好きな中国映画の一つです。これも文化大革命による若者の悲劇をテーマとしています。文革の後遺症の大きさは想像以上のようです。
 庭の桜が8分咲きになりました。いえ、ソメイヨシノではありません。サクランボの桜です。薄いピンク色ではありますが、むしろ白い花といってよいでしょう。ですから、ソメイヨシノのようなあでやかさはありません。地味な白さです。それでも、五月には、たくさんのサクランボの実がなることでしょう。早咲きのチューリップが7本咲いています。赤と黄の昔ながらのチューリップです。春到来を実感させてくれます。地植えのヒヤシンスも青紫色の花を咲かせてくれました。

タケ子

カテゴリー:未分類

著者:稲光宏子、出版社:新日本出版社
 私はそのニュースを聞いたとき、耳を疑いました。参議院選挙で自共対決となって、共産党が自民党に逆転せり勝ったというのです。田中角栄首相のとき、1973年6月のことでした。共産の沓脱(くつぬぎ)タケ子70万票、自民の森下泰68万票。いやあ、世の中は変わるものなんだなあと、つくづく思ったことでした。それまで、自民党支配は永遠に続くものと思いこんでいたのです。
 この本は、そのタケ子の若いころの奮闘記、いわば青春編というものです。
 沓脱タケ子は医者でした。3期16年間の議員生活のなかでは、横山ノックや西川きよしというタレント候補とも互角にたたかったのですから、たいしたものです。どうして、そんなに大阪で人気があったのか、この本を読んでその秘密が少し分かった気がしました。
 もうひとつ、今では遠い昔話となった気がしますが、日本には占領軍命令によるレッドパージがありました。そのレッドパージがどのようにしてすすめられたのか、それに対して当事者がどんなたたかいをすすめたのか、その様子が手にとるように分かる本でもあります。ぐいぐいと引きずられ、一気に読み上げてしまいました。読んで元気の出てくる本としておすすめします。
 タケ子は1922年(大正11年)に現在の大阪府阪南市に生まれた。母子家庭に育ったタケ子は、戦争中は典型的な軍国少女だった。女学校でも女子医専でも学生報国隊の熱血隊長として頑張っていた。
 何ごとにつけ、着手するからには徹底的にきわめないとおさまらない性質、負けず嫌いでエネルギッシュな一途さは、幼女のころからだった。
 タケ子は終戦の前の年に結核療養所に医師として着任した。そのころは戦争中であったから大変な食糧難であり、栄養を必要とする結核患者は次々に死んでいった。入院患者 400人のうち、1年間に150人が死んだという記録が残っている。そんな悪条件のもと、タケ子は医師として必死に働きはじめた。
 終戦後、結核療養所は国立病院となった。そのなかで労働組合づくりがすすめられ、医師のタケ子は青年部長に就任した。
 やがて逆コース現象がはじまった。1949年3月のドッジプランによる官公庁の人員整理、1950年7月のマッカーサー書簡による共産党員と支持者の首切りがすすめられた。レッドパージである。この年6月に朝鮮戦争が始まった。7月から8月にかけて、下山事件、三鷹事件、松川事件が相次いで発生し、反共宣伝キャンペーンがけたたましくかなでられた。今では、これらはいずれもアメリカ軍などによる謀略とされています(もっとも全容が解明されたというわけではありません)。
 タケ子たち18人も病院当局から免職通告を受けました。さあ、どうするか。ここからが、実は、この本のハイライトです。すごいんですよ。結核患者と連帯して不屈のたたかいを粘り強くすすめていくのです。本当に、そのバイタリティには感心してしまいます。
 当局側の手先のように動いている人たちのなかにまで支持者が大勢いました。やはりタケ子たちの日頃の献身的な診療態度が魅きつけたのですね。
 それにしても、当時の結核患者というのは若い人だったことを知って、実は、驚いてしまいました。てっきり、おじいさんやおばあさんばかりが患者だと思いこんでいたのです。昔は、若者も結核にかかって早や死にしていたのですね。残念なことです。
 このあとタケ子はどうするのだろう。ぜひ続編を読みたくなるような最後でした。続編を待っています。

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