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硫黄島の兵隊

カテゴリー:日本史(戦後)

著者:越村敏雄、出版社:朝日新聞社
 硫黄島は、「いおうじま」と呼ぶと思っていましたところ、昔は、「いおうとう」と呼んでいたそうです。アメリカによる占領を経て、アメリカ軍の呼び方が広まった、というわけです。
 1945年2月からの1ヶ月間の戦いで、日本軍は2万1000人のうち助かったのは1000人のみ。戦死者2万人です。今も、その遺骨の大半は島に眠っています。日本政府は技術的困難を理由として本格的な遺骨収集を放棄しています。
 対するアメリカは参加した将兵は11万人、上陸したのは6万1000人。そのうち戦死者6800人、戦傷者2万1800人、死傷者の合計2万8000人でした。
 アメリカ海兵隊の168年間の経験のなかで、もっとも苛烈な戦いだった。
 穴掘り作業は、まさしく噴火口の中で穴を掘るようなものだった。熱気をおびた亜硫酸ガスが、十字鍬で掘り起こした窪みから、猛烈に噴き出した。
 この島は、全島、どこを掘っても、強い熱気と亜硫酸ガスが噴き出た。海中に浸って、足の爪先で砂を掘ってみても、熱い地熱を感じた。
 1000人ほどしか島民が住めなかった理由の一つは水にあった。雨はきわめて少なく、4、5月にくる雨期が終わると、雨はめったに降らない。
 ウグイスとメジロは島にふんだんにいた。人が近寄っても、まるで無視する。気ままについばみ、気のはれるまで歌って生きている。
 断崖の岩盤はおそろしく硬い。下痢患者の打ち込む十字鍬(くわ)は、はね返って歯がたたない。岩の割れ目を見つけて十字鍬を打ち込み、わずかずつ切り崩した。のみもつかって石屋のように岩を剥がした。削岩機も何もないから、すべて人の手で作業する。
 硫黄と塩が身体に蓄積されてくると、猛烈な下痢が蔓延した。やせこけた身体は恐ろしい速さで衰弱した。重労働と不眠が容赦なく拍車をかけ、この島独特の栄養失調症になる。
 夜となく昼となく残忍に苦しめるのは、すさまじい喉の渇きだった。しかし、それを癒すものは、塩辛い硫黄泉しかない。
 異様な臭いの立ちこめる生ぬるい塩水を飲むしかない。それを飲んでも清涼感は味わえない。どろりとして後味が悪く、口腔から鼻にかけて、強い吐き気を誘う硫黄の臭みがむんと籠もって、いつまでも離れようとしない。それが染みついた喉や舌が、飲みこむ瞬間に拒絶反応を起こして震える。そのあとは、通りみちに刺すような辛みが、震えるような吐き気と一緒に残る。これがまた、喉の渇きをかきたてる。
 どの兵隊も、目尻や鼻や唇の両端が食い入るようにへばりついたハエの塊で黒い花が咲いたようになった。盛ったばかりの飯と味噌汁は一瞬のうちに真っ黒になった。全島がハエの島と化した。明るい間じゅう、真っ黒に渦巻くハエのなかでの生活である。日がくれると、島を覆うすさまじいハエの群れは一斉に木の葉や草葉の裏にとまり、姿を消す。
 37度あまりの熱で、日に10回ほどの下痢症状は、この島では健康体である。それより健康なものは、ここでは異常だった。
 硫黄島に補給などのために飛んできた飛行士が見たのは、まさしく人間ではない、火星人だった。どの兵士もまっ黒で、皮膚につやがなく手も足も骨と皮ばかりにやせ細っていた。そのため頭が大きく見え、眼がギョロギョロと輝いていた。
 この本の著者は、まさしく奇跡的に助かっています。日本の飛行機が補給物資を島に届け、本土への帰路に負傷兵をのせていったのです。著者がなぜそのなかに選ばれたのかについては何も書かれていません。
 最後に、著者の次のような言葉が紹介されています。
 戦争を知らないで一生を終えたら、これほど幸せなことはない。これから同じような死に方をくり返すとすれば、彼らの死は徒労でなくて、何でありましょう。
 まったく同感です。強い共鳴を覚えました。

モーツアルトの手紙

カテゴリー:ヨーロッパ

著者:高橋英郎、出版社:小学館
 モーツアルトが肉親に対して茶目っ気たっぷりのスカトロジックな手紙を書いていたのは、前にも本を読んで、少しは知っていました。この本は、モーツアルトの手紙を父親のものを含めて系統的に並べていますので、その人間性と心理状況がよく分かります。写真や図版もありますので、500頁で大判の本ですが、すらすらと読みすすめることができました。
 モーツアルトは、幼いころから、誰からも愛される性格だった。親しい人たちに、「ぼく好き?」と質問を連発したのも、ぼくはきみを好きなんだから、きみだってぼくを好きだよね、という愛の相互確認だった。
 父親は手紙にこう書いています。
 坊主は誰とでも、とくにお役人たちと大変うちとけてしまい、まるでもう生まれたときからの知りあいのようだ。
 文豪ゲーテは14歳のとき、7歳のモーツアルトの演奏を聞いて強い印象を受けたそうです。同時代の人たちなんですね。
 啓蒙派学者のヴォルテールは10歳のモーツアルトに会えなかったのを残念がった。
 モーツアルトは、姉ナンネルと、ふだん口笛で応答していた。
 激しい仕事に没頭するほど、遊び心を求めるのは、晩年に三大シンフォニーを書きながら、奔放卑猥なカノンを乱発したことから明らかである。モーツアルトは、常にバランスをとっていた。
 そうなんですよね。天才じゃなくても、常に精神のバランスをどうとるか、考えておく必要がありますね。私は、読書に没頭することと、土いじり(ガーデニング)です。花を育てて、咲くのを見てると、心が洗われます。
 モーツアルトは、マリア・テレジア女帝からは冷遇された。わざわざ、無用な人間を雇うなという回状までまわされた。うむむ、いつの世にも反対派はいるものなんですね。
 恋はモーツアルトにとって生きる原動力だった。作品と並ぶ、最優先事項なのだ。
 モーツアルトの母親までもが、夫に対して、息子顔負けのスカトロジーたっぷりの手紙を書いていたなんて知りませんでした。ここでは、その引用はやめておきます。
 南チロル出身のきわどいジョーク好きの母親の血を、息子であるモーツアルトが受けついだのだ。著者は、このように分析しています。なーるほど、ですね。日本人には、とても考えられません。
 モーツアルトはある人を訪ねたとき、モーツアルトではないかと訊かれて、いえ、トラツォームと言いますと答えた。これはモーツアルトを逆に呼んだ名前ふざけたわけだ。私も、子どものころ、自分の名前を友だち同士で逆さ読みしていたことを思い出しました。
 モーツアルトは大きくなると、大事なことは父親に相談せず、父親の意見に逆らっても独断でことをすすめた。息子として、父親に見切りをつけていた。
 モーツアルトのスカトロジックな手紙文から、フロイドを引用して、いい年をして、幼児性があるなどと論評する人がいるが、それは間違っている。モーツアルトには、感性の無限の開放があった。類い稀な人間が存在していることに気づくべきだ。
 この著者は、そのように主張しています。なるほど、そういうことなんでしょうね。それにしても、とても引用できない内容ではあります。一言でいうと、ウンコとオナラのオンパレードなのです。
 モーツアルトは父親に対して、次のような手紙も書きました。
 ぼくの色恋沙汰については、もう忘れてください。もうだいぶ以前に心から後悔しました。傷ついてこそ叡智が生まれます。ぼくはまだ若い。でも、若い歳月を、乞食のような境遇で無為に過ごすとすれば、とても悲しいことであり、損失でもあります。
 モーツアルトの音楽が心打つのは、その生活の不安定感からくる真情がある。
 モーツアルトは一日、せいぜい3〜4時間しか作曲していない。モーツアルトは、推敲にこだわるタイプではなかった。
 モーツアルトは秘密結社フリーメイソンに加入した。フリーメイソンの盟友が、モーツアルトにお金を貸して、その生活を支えた。モーツアルトの遺体はフリーメイソンの黒の装束に包まれた。ミサもあげられることなく、共同墓地に埋葬された。25年ごとに掘り返される貧民墓地だった。
 この本を読んで、私はモーツアルトは、短いけれど豊かな人生を送ったのだと思いました。

企業舎弟・闇の抗争

カテゴリー:社会

著者:有森 隆、出版社:講談社α文庫
 この本を読むと、日本社会の隅々にまで暴力団がいかにはびこっているのかを知らされ、ホント、嫌になってしまいます。そのうえ、暴力団の繁栄を支えているのが、実は、大銀行などれっきとした金融機関だというのですから、この世の中どうなっているのか、腹立たしい限りです。どうりで暴力団ひとり景気がいいわけです。税金だって払っていないのでしょうからね。
 企業舎弟とは、企業経営者の仮面をかぶった暴力団の弟分のこと。そんな経営者が率いている企業をフロント企業と総称する。表向きは一般の会社であり、役員はヤクザではない。働いている人も普通のサラリーマンである。だから、暴力団が関係しているとは、一見しては分からない。だけど、もうかったお金を裏で暴力団に上納し、その有力な資金源となっている。
 会社が厄介なトラブルに巻きこまれたとき、暴力団が登場して会社を守る。これをケツ持ちという。ケツ持ちとは、カネで雇われた用心棒ではない。上納金を受け取る権利のこと。ケツ持ちが出てきたとき、初めて会社の正体が分かる。
 日本における経済ヤクザの代表選手が東の石井、西の宅見。稲川会二代目会長の石井進(故人)と、山口組のナンバーツーだった宅見勝(内部抗争で殺された)。
 関西裏社会のドン、許永中が狙い定めた相手を籠絡する手口は、二段階に分かれる。最初に大金をつかませ、相手を金縛りにしてしまう。そして、引き出した資金の一部をキックバックして、相手(個人)にもうまい汁を吸わせる。その手法は単純明快だ。
 住友銀行からイトマン・グループへの融資は5549億円にのぼった。このうち少なくとも、3000億円が仕手資金や不動産の購入資金の名目で闇の勢力に流れた。大銀行が5500億円もの巨額のお金を焦げつかせても倒産しなかった秘訣は、政府が税金を投入したことにあります。そして今、大銀行は空前の利益をあげているにもかかわらず、一円の法人税もおさめていないというのです。ホントに間違った政治ですよね。そして、大銀行は税金を国におさめないかわりに、自民党などへ多額の政治献金をしているのです。
 エースとは、裏世界が表世界へ送り込んだ切り札のこと。企業に喰らいついたエースは、手形の乱発、無担保融資、会社資産の売却など、あらゆる手段をつかって企業の資産を外に持ち出す。持ち出した資金の受け手は、もちろん裏世界の人間だ。喰いものにされた企業は借金漬けになって破綻する。
 料亭の女将への巨額融資が焦げ付いて問題になったことがありました。1991年のことです。このとき、国内信販の副社長が興銀に女将(尾上 縫)に紹介した。
 尾上の架空預金証書は、合計40通、7425億円分が偽造された。大きすぎて、とても考えられない金額です。
 1993年8月、和歌山市で阪和銀行副頭取が射殺された。
 1994年2月、富士写真フィルムの専務が刺殺された。
 1994年9月、住友銀行の名古屋支店長が自宅マンション前で射殺された。
 企業に対するテロ事件は、ほとんどが未解決。捜査当局は、もう2人か3人、死者が出ないと銀行は本当のことをしゃべらないと語った。
 これらの死によって、関西の金融機関は闇社会への2000億円の融資の回収を断念した。なんと、なんと、許せませんよね。銀行は、それほど裏社会とダーティな結びつきがあるというわけです。
 殺害犯人は今も捕まっていません。外国からきたプロのヒットマンではないか。日本の闇の勢力が金で雇ったのではないかと推測されています。
 国内信販は、バブル期に不動産融資にのめり込み、そのため、不良債権の山を築いた。
 暴力団のからむ瑕疵物件に、楽天の名前がたびたび登場する。
 楽天KCは、私の法律事務所も日頃ちょくちょく相手方となるクレジット会社です。こんな暗い過去があるということを初めて知りました。
 それにしても、日本の大銀行がこんなにまで暴力団と密接に結びついているのを知るのは不愉快きわまりありません。

きよのさんと歩く江戸六百里

カテゴリー:日本史(江戸)

著者:金森敦子、出版社:バジリコ
 山形の鶴岡に住む女性(きよの)が江戸・伊勢・奈良・京都見物の旅に出かけました。文化14年(1817年)のことです。31歳のきよのさんは、夫と2人の子どもを自宅に残し、同伴者の男性と荷物持ちの下僕と三人の旅です。
 夫も、その前に25歳のとき、長野・名古屋・伊勢・京都・四国・江戸・日光の124日間の旅をしています。だからでしょうか、妻の旅行には同行しませんでした。
 きよのさんは鶴岡の裕福な商家の家付き娘でしたから、この旅行に思う存分にお金をつかうことができました。普通は一日一朱というのが旅費の目安です。一両あれば16日間の旅が出来るという時代でした。
 江戸も後期になると、多くの女性が関所手形も持たずに旅立つのが普通になっていた。きよのさんは、108日間の旅の記録を残しました。それを解説つきで再現したのが、この本です。本当に昔から日本の女性って強かったんですよね。それがよく分かる旅の本です。
 江戸時代、宿場の飯盛女が売春することを禁じるお触れが何度も出されている。禁止しても守られなかったからこそ、何度も繰り返し禁令が出された。宿場の繁栄を飯盛女が担っているという現実があった。
 きよのさんたちには、彼女らは自分の身を売ることで家族を養っているのであって、賤しいことをしているという意識は少なかった。売春をやっきになって取り締まろうとしたのは為政者である。
 きよのが江戸で一番楽しみにしていたのは歌舞伎の見物だった。当時の芝居は明け方から日没まで上演していた。だから芝居茶屋を通して飲食し、用便もしていた。きよのさんたちは、5人で一両二朱もかけている。
 江戸では鶴岡藩の上屋敷の元締役所を訪れ、数々の御馳走を受けている。これは、きよのさんの商家が藩に多額の献金をしていたから。
 きよのさんは吉原に出かけて、遊女を見物している。また、江戸の呉服屋で、一七反もの買い物をし、さらに日本橋で本を一冊も購入した。俳諧と狂歌の本だ。
 きよのさんは現金をもち歩いたのではなく、前もって送金していた。
 江ノ島では210文もかけて、お昼に魚料理を食べた。
 伊勢参宮では、御師宅で豪華な食事の接待を受けた。一人一人に見事な鯛や伊勢海老が出て、お酒も飲み放題。伊勢見物には専用の案内人がついた。奈良でも京都でも、きよのさんは旅籠屋の主人に頼んで案内人(ガイド)つきで見物した。
 きよのさんは南禅寺門前の茶屋で名物の豆腐を食べ、お酒を飲んだ。これは私も経験しました。
 江戸時代といっても、封建制度の中で忍従を強いられた女性ばかりではなかった。
 きよのさんはいたるところでお酒を飲み、五重塔のてっぺんまで勇ましく登っていった。誰もきよのさんを非難することはなかった。きよのさんが江戸の吉原を見物し、大坂新町で遊女をあげても奇異とは思われなかった。
 いやあ、実に自由奔放な旅行です。現代人にきよのさんを真似できる人がどれだけいるでしょうか・・・。

トビウオは何メートル飛べるか

カテゴリー:生物

著者:加藤憲司、出版社:リベルタ出版
 まず、答えから。トビウオは、最大400メートルも飛べるそうです。飛行速度は時速55キロ。7〜8秒間は飛べます。羽を鳥のようにバタバタさせるのではなく、長短4枚の羽を目一杯に広げてグライダーのように滑走する。
 サンマもトビウオの仲間なので、1メートルくらいは飛びはねる。
 ただし、この本はトビウオのことだけを書いてた本ではありません。魚類全般についての百科全書みたいなものです。
 魚は、高齢になっても成長は止まらない。コイは養殖すると70年以上も生きる。一般に魚の体温は、ほとんど周辺の水温と同じ。しかし、カツオとマグロなど外洋を広く回遊する魚は、恒温動物のように周囲の水温よりも10度以上高い体温を保っている。
 氷点下の海にすむコウリウオは体液の中に凍結防止物質があり、不凍液状態になっている。すごーい。
 キンギョは水温が10度以下の冬にはエサをあまり食べない。5度以下になると冬眠状態になる。冬眠前にたっぷりエサをやって脂肪を蓄えさせる。それで冬の3ヶ月の寒さに耐え、春になってたくさんの良質な卵を産む。
 魚屋で魚を買うときには、目玉を見る。眼球の表面に張りがあり、濁りのないものが新鮮。目が血走って濁っているものは鮮度が落ちている。エラブタを開けて、中のエラが鮮やかな赤い色をしているものは間違いない。
 ほとんどの魚にはウキブクロがある。これが肺の原型となっている。
 魚の目の水晶体は球形でとても固い。人に比べて、はるかに近視。
 コイの口ヒゲには味蕾(みらい)があり、エサを探すときの味覚センサーになっている。コイは、甘い、塩辛い、酸っぱい、苦いの四感覚を識別できる。
 水中で暮らす魚は主な呼吸はエラでしており、鼻は呼吸につかっていない。
 サケやマスの鼻の穴に栓を詰めてしまうと、母川に回帰する割合はぐっと低くなる。
 魚は泳ぎながら眠っているそうです。戦争中、行軍の兵士が歩きながら眠っていたという話を思い出します。人間にとっての極限状態に追いこまれたのですね。
 他の先進諸国が食糧自給率を向上させているのに、日本は低下する一方だ。日本の漁獲量は半減している。水産物の国内自給率は60%になってしまった。
 なんでもアメリカ頼みの日本です。自動車を輸出できたらいい。農産物なんて海外から輸入すればいいんだ。政府はこんな考えのようです。それでは日本の将来が本当に心配です。安心して食べられるものは、やっぱり近くでとれた農産物ですよね。
 私は釣りが好きでした。風のない穏やかなクリークの水面をじっと目つめ、ウキがピョコピョコ沈んでいくのを見るのが何より好きでした。これは、幼いころ父がフナ釣りに連れていってくれたことから来た好みでもあります。短気な父に釣りは似合っていたのでしょう。ゆったりかまえているように見える釣り人には、実は短気な人が多いというのは逆説的真実です。

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