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美貌のスパイ、鄭蘋如

カテゴリー:中国

(霧山昴)
著者 柳沢 隆行 、 出版 光人社
 父が中国人、母は日本人という、美貌の娘が中国側のスパイとなり、25歳にして日本軍から銃殺されたという実在の女性の足跡を詳細にたどった本です。
父と母が知りあったのは日本です。大勢の中国人留学生が日本にやってきました。そして、そのなかには日本人女性と知りあい結婚して、中国に渡った人たちがいました。父親となった中国人が留学したのは法政大学です。私の亡父も法政大学ですが、かなり後輩になります。
中国に戻ってから、父親のほうは国民党員として活動しはじめ、結局は、司法部で活躍します。母親のほうは、士族の末娘として生まれ、行儀見習いの奉公先で中国人留学生と出会って恋に落ち、親の反対を押し切って、中国に渡ったのでした。
 父親は中国での弁護士資格を取得し、検察官として働くようになります。
 そして、問題の彼女は三姉妹の二女として生まれました。彼女は、上海法政学院(4年制の大学)に入学します。
 満州事変に始まる日本軍の侵略行為に対して彼女は愛国心(もちろん中国が祖国です)に燃える学生の一人として行動するようになります。1932(昭和7)年1月の第一次上海事変のころのことです。
 そして、彼女は当時の中国を代表する人気月刊画報誌「良友」の表紙全面を飾ったのでした。たしかに間違いなく美人です。しかも、いかにも知性にあふれています。
 1937年8月、第二次上海事変が起きるなか、法政学院3年生の彼女は、CC団に加入します。CC団とは、蔣介石の国民党の組織の一つです。CC団は「中統」とも呼ばれます。スパイ活動を主任務の一つとする組織です。国民党には、「中統」と「軍統」の二つがありました。
「軍統」のほうが、よりテロなどのファシスト的活動を得意としていますが、この二つとも、蔣介石に絶対的忠誠をつくす点ではあまり変わりがありません。そして、彼女は、「中統」CC団のスパイとして、日本軍の「大上海放送局」で働いたこともあります。
 また、彼女は近衛文麿首相の子どもである近衛文隆に接近し、親密な交際をするまでになります。周囲が危険を察知して、急遽、文隆は日本に強制的に帰国させられ、関係は打ち切られてしまうのでした。
 結局、「中統」を裏切り日本側についた人間を処刑する手伝いをするのに彼女は失敗してしまいました。そして、日本軍に出頭するのです。まさか銃殺されるとは思っていなかったのでしょう。
 しばらく監禁されたあと、広い何もない荒野原で銃殺されてしまいました。1940年2月も半ばのことです。どうやらその遺体は今でも見つかっていないようです。現場付近が大々的に開発されたことであまりにも変わってしまったからです。
 歴史の悲劇の一つがここにもあると思いました。
(2010年5月刊。2500円+税)

人生のマイルストーン

カテゴリー:アメリカ

(霧山昴)
著者 中嶋 照夫 、 出版 幻冬舎
 女性5人、男性4人の9人、その平均年齢はなんと68.7歳。
 70歳目前の「ジジ・ババたち」によるキャンピング・カーでのアメリカ縦横断旅行(43日間)の体験記です。夫婦2人で、とか、日頃から気のあった仲間で出かけたというのではありません。こんな大胆な旅行を思いついた人が新聞で同好の士を募ったのです。
 そのときのキャッチコピーは、「気力、体力、知力を使い果たす前に、生涯の大旅行をしよう」というもの。そして募集したときの条件は3つ。①協調性があること、②ペアで参加できること、③好奇心旺盛であること。ここには健康であることは条件になっていませんが、当然のことだからでしょうね。胃腸が丈夫なことというのもありません。
募集人員は最大7人としていたところ、20人ほどから申し込みがあったそうです。1ヶ月半もアメリカ旅行するというのですから、金銭的にも余裕のある人じゃないとダメですよね。
呼びかけた側にとっての一番重い課題は仲間意識の醸成。出発前のミーティングで10回ほど顔を合わせただけというのですから、不安は大きかったと思います。それでも、みなさん、なんとかうまく折り合ったようです。
大型キャンピングカーの運転は大変でした。というのも、アメリカの太平原はひたすら単調なのです。高速で1時間走ってもまったく風景が変わりません。
私も昔、アメリカのアイオワ州のトウモロコシ畑を車で走ったことがあります(もちろん私が運転したのではありません)。延々、はるかに見渡すかぎりのトウモロコシ畑が何時間走っても続くのです。いいかげんうんざりしました。
そこで、運転者は眠気防止の薬を服用しました。そんな薬があるのですね、知りませんでした。コーヒー1杯分のカフェインの錠剤。100錠入っていて8ドル。午前1錠、午後1錠を服用した。1錠あたり4時間の覚醒作用があるとのことで、実際には1~2時間の薬効だったとのこと。それでも効果はあったようです。
キャンピングカーによって移動しても泊まるところは、専用パーク。治安上も、これが1番とのことです。
そして、キャンピングカーにトラブルが発生したとき…。
アメリカ人は予想以上に親切だったことが紹介されています。困った人を見つけたら、集まってきて、みんなで力をあわせて助けてくれる。それは無償であり、対価を求められることはなく、まったくの善意。アメリカ人にも善人は多いのですね…。
アメリカ人に肥満が多いこと、そしてタトゥーを身体のあちこちに入れている人が多いことも紹介されています。
キャンピングカーは調理できるので、スーパーで食材を買い込んで、「豪華な」食事も楽しんだようです。カップラーメンですますというものではありませんでした。いいですね。やっぱり旅行の楽しみの一つは、美味しいものを楽しく語らいながら食べることにありますからね。
ともあれ、2022年5月4日に日本を出発し、6月15日に9人全員が無事に帰国できました。良かった、よかったです。そして、写真も旅行体験記もある本書が作成されたのです。
たいした老人(ジジ・ババ)パワーです。どうやら私とほとんど同じ世代のようですね。まだまだ団塊世代も元気なんですよ。これからも皆さん、お元気にご活躍してくださいね。
(2024年2月刊。1600円+税)

記者狙撃

カテゴリー:社会

(霧山昴)
著者 中村 梧郎 、 出版 花伝社
 戦場では、たくさんの記者が狙撃されて亡くなりました。
 ベトナム戦争が終わったのは1975(昭和50)年4月30日のこと。私が弁護士になった翌年のことです。メーデーの会場でアメリカ軍がサイゴン(現ホーチミン市)からみじめに撤退していく状況を刻々と知らされたことを覚えています。
 その4年後、中国がベトナムに侵略戦争を仕掛けました。それを主導したのは、復活してまもなく中国の最高指導者となった鄧小平です。ベトナムがカンボジアのポルポト政権を崩壊させたことを恨みに思って、「ベトナムに懲罰を支えてやる」と高言したのでした。アメリカと長期の戦争でベトナム側は反撃できないだろうと見込んでのこと。中国はベトナムとの国境地帯に、北京以外の全軍区から60万人もの兵を動員しました。
 1979年2月17日未明、中国軍12個師団(6~10万人)がベトナムへ侵略を開始した。
 対するベトナム軍は軍の精鋭部隊はカンボジアに投入していて、正規軍では対応しなかった(できなかった)。地元の山岳地帯を熟知している地方軍、民兵、公安警察。いわば補助部隊で対戦した。ベトナム側は空軍も戦車部隊も出動させなかった。
 中国軍の戦法は朝鮮戦争のときと同じ人海戦術。進軍ラッパをプープー鳴らし、先頭の兵隊が赤い大きな軍旗を振りまわし、ワーッと喚声をあげ、「突撃」と叫んでやって来る。中隊規模の100人ほどの兵士が1列横隊で進軍して来る。これで敵を脅して戦意を喪失させようというのです。時代錯誤そのものです。
 対するベトナム軍は、タコつぼを握って分散して待ちかまえる。そして、「なるべく殺すな。手や足を狙って動けなくせよ。ほかの兵隊が負傷兵を担いで退がることになるから、戦力が著しく減退する」、こんな戦法で大きな成果をあげた。
 著者が高野功記者とともに中越戦争の最前線のランソンに出向いたのは1979年3月7日のこと。ランソンからほとんど撤退していた中国軍の一部がランソン市内に潜んでいたのです。行政委員会(市役所)の建物の2階から小銃で狙撃するチームと、前方の川の対岸の機関銃部隊という2重の攻撃隊形で日本人ジャーナリストを待ち伏せしていた。著者は、このように推測しています。
 殺された高野記者はベトナムに常駐している赤旗新聞の特派員でした。ベトナム戦争そして、中越戦争をいち早く報道する日本人ジャーナリストが邪魔だったのです。
 高野記者を狙った銃弾は頭部に命中し、即死でした。
 高野記者は1943年生まれで、当時35歳。1人娘(5歳)は、パパの死が理解できず、「パパはどこにいるの?」と言って葬式のときも探していたそうです。
 高野記者は4年でベトナム語を習得し、ベトナム語の達人になっていたとのこと。たいしたものです。
 なお、三菱樹脂事件で有名な高野達男氏が高野記者の兄だということを、私はこの本を読んで初めて知りました。私が大学生のころの事件で思想・信条による採用差別は許されないという画期的な判例を勝ちとった(と思います)人です。なにより画期的なのは会社と和解して復職し、子会社の社長まで務めていたということです。私も高野達男氏の話を聴いたことがありますが、闘士というよりいかにも穏やかで、知的な人でした。
 高野記者と行動をともにしていて、一瞬の差で生死を分けた著者が40年後に現場に戻った話も出てきます。そして、そのとき負傷したベトナム軍の兵士たちが無事だったことを知るくだりは感動的でした。
 ベトナム戦争そして中越戦争に関心のある人には必読の本です。
(2023年10月刊。1700円+税)

小鹿島、賤国への旅

カテゴリー:韓国

(霧山昴)
著者 姜 善奉 、 出版 解放出版社
 著者の両親は、日本の植民地時代にハンセン病を発症し、父親は小鹿島(ソロクト)に強制収容されました。そして、脱走して、母親と出会い、1939年に著者が生まれました。
本書は著者の20代までの自伝です。日帝支配下の小鹿島の状況、解放後の様子、そして、そこで過ごさなければならなかった人たちの歴史を伝え残しているものです。ですから、振り返りたくもない自身の苦痛にみちた過去がさらけ出されています。
 小鹿島は、韓国の南端、全羅南道高興郡の港街である鹿洞(ソクトン)の海岸端に立つと、目と鼻の先に見える小島である。
 韓国のハンセン病の病歴者とその家族の精神的支柱は、キリスト教の篤(あつ)い信仰。小鹿島には、キリスト教(プロテスタント)の教会が5つ、カトリックの聖堂が2つある。
 ハンセン病の患者たちが組をつくって街に出て物乞いをして歩いている状況が登場します。映画『砂の器』にも、親子で物乞いをしてまわる状況がありましたよね、その場面をつい思い出しました。
 物乞いでも、稼ぎのいい者もいれば、悪い者もいる。物乞いも技量がものを言う。
 1日に何十里も歩いた。ときにはなにもくれない人もいたけれど、くれる人のほうが多かった。
 ハンセン病の患者は結びつきを何より求めた。それは肉体的にお互いを頼りにし、体調が悪ければ世話をしあうため、そしてもっとも重要なのは、死んだときに死後の処理をしてもらうためだった。
 さつま芋は、島で唯一の補充食料だった。そして冬の間食として、とても重要だった。
 芋の蔓(つる)を干したものは、特別なおかずとして正月やお盆、来客のあったとき、結婚式の披露宴には必ず出た。とった芋の蔓を十分にゆでてから、しっかり干して保管し、ナムルにするときには、またもや水に浸しておいてから絞り、豚の脂(あぶら)で炒(いた)める。最上のおかずだ。
 繁殖力の強いウサギが主に肉食の対象となった。ウサギの肉にもち米とニンニクを入れて煮たり、ウサギの肉にウルシの皮を入れて煮て、薬として食べた。
 島には監禁室があった。監禁室での監禁は、園長の特権だった。裁判も弁論もなく入れられた。その罪名は、時間外点灯、殺人、逃走、姦淫(かんいん)、命令不服従などだった。小鹿島のハンセン病者たちは、まるでハエ叩きで叩かれて死ぬハエのような命だった。
 小鹿島は言葉どおりに賤国である。そして、そこから出てもなお賤国市民のままであった。
 これは本書の最後に出てくる著者の言葉です。大変な苦労を重ねながら、生き抜いてこられたのです。心より敬意を表します。この本を読んで初めて韓国におけるハンセン病歴者の状況の一端を知りました。
(2023年2月刊。2500円+税)

日本の武器生産と武器輸出

カテゴリー:社会

(霧山昴)
著者 綾瀬 厚 、 出版 緑月出版
 いま、自民・公明政権は戦闘機を海外へ輸出できると閣議決定し、すすめようとしています。軍事産業を振興させることによって日本の産業を活性化する狙いもあるとみられますが、人殺しの兵器をどんどんつくって海外へ輸出して国を成り立たせようというのでは戦後、営々として築き上げてきた「平和国家・日本」という金看板を汚してしまいます。「戦争する回ニッポン」という、昔の、戦前の看板を復活させて、いいことは何ひとつありません。
 この本を読んで驚いたのは、第一次世界大戦が起きたあと、ロシアから日本へ武器輸入の要請が来て、日本がロシアへどんどん武器を輸出していたということです。まったく知りませんでした。ドイツの東部戦線で対決していたロシア軍は、兵器・装備の不足のため劣勢を余儀なくされていた。その結果、日本は大正4年におよそ1億円近い武器・弾薬をロシアへ輸出した。日本政府は、ロシアへ大量の武器・弾薬を輸出するため官民合同による兵器生産体制の確立を急いだ。
 次は、日本の武器輸入です。満州事変の前後ころ、日本は海外から武器を輸入していました。1930(昭和5)年は、イギリス、スイス、ドイツ、でした。1931年もトップはイギリスで、フランス、アメリカと続きます。1932年になると、フランス、イギリス、ドイツと、フランスが一番になりました。これは、イギリスに対日警戒感が強まったことがあるようです。
 イギリスは、この当時、世界最大の武器輸出国。武器を輸出して、相手国との経済的かつ軍事的関係の強化を図り、それによって覇権主義を徹底し、国際秩序の主導者としての位置を占めていた。
 それにしても、現代日本のマスコミの批判精神の欠如は恐ろしいと思います。
 戦闘機を海外に輸出するなんて、「平和な国ニッポン」という最大のブランドを汚すものでしょう。海外からの観光客を呼び込むのにも障害になるのは明らかでしょう。
 先日、政府は沖縄の諸島にシェルターをしてくるという方針を発表しました。正気の沙汰ではありません。いったいミサイルが飛んできたとき、シェルターがどれほど役に立つというのでしょうか…。そんな問題点をきちんと指摘もせず、シェルターの構想を恥ずかし気もなく、そのまま報道しているだけというマスコミの姿勢に私は納得できません。
 シェルターに2週間とじこもっていたら自分と自分の家族だけは助かる。そんなバカなことはないでしょう。
 戦前・戦後の日本の武器生産と武器輸出の事実を刻明に明らかにした労作です。
(2023年12月刊。3300円)

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