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打ちのめされるようなすごい本

カテゴリー:社会

著者:米原万里、出版社:文藝春秋
 著者は食べるのと歩くのと読むのは、かなり早かったそうです。でも、前の二つは周囲から顰蹙を買ってしまいます。母親から、他人と歩いたり食べたりするときは、相手にペースをあわせ、時空間の共有を楽しむようにと、幼いころから口うるさく言われたとのこと。これって、なーるほど、ですよね。ところが読書は、いくら速くなっても、はたから文句を言われることがない。そこで、この20年ほど、一日平均7冊を維持してきた。うむむ、これはスゴーイ。速読派を自認する私でもこのところ年間500冊が精一杯です。東京往復するときは最低6冊が自分に課したノルマです。ただし、速読派が必ずしも知性派とは限らない例を知りました。スターリンです。
 スターリンは激務の合間に1日500頁を読破する読書家で、歴史、小説、哲学など幅広く大量の書物を熱心に読んでいた。本の余白に残したコメントや感想が並々ならぬ教養と知性、と同時に冷徹で酷薄な現実主義を感じさせる。『知られざるスターリン』(現代思潮社)の書評として、このように紹介されています。
 いずれにしても、著者の書評を集めたこの本を読んで、つい食指を動かしてしまった本がいくつもありました。早速、本屋に注文しました。私はインターネットで本を注文することはしない主義です。だって、町の本屋さんは大苦戦しているのですよ。町にある本屋さんを残してやらないと、本屋のご主人だけでなく、子どもたちが可哀想です。子どもたちの大好きな立ち読みができなくなってしまうでしょ。
 すぐれた書評家というものは、いま読みすすめている書物と自分の思想や知識をたえず混ぜあわせ爆発させて、その末にこれまでになかった知恵を産み出す勤勉な創作家なのだ。著者と評者とが衝突して放つ思索の火花、わたしたち読者は、この本によってその火花の美しさに酔う楽しみに恵まれた。
 書評は常に試されている。まず、その書物を書いた著者によって、その書評に誘惑されて書物を買った読者によって試されている。
 世の中に割に合わない仕事があるとすれば、書評はその筆頭株、よほどの本好きでないと続かない困難な作業である。
 以上は井上ひさしの文章です。なるほど、さすがは私が心から尊敬する井上ひさしです。言うことが違います。私もインターネットに書評をのせはじめて、もう6年目になりました。一日一冊となってからも4年目だと思います。たしかに、よほどの本好きだからこそ続く作業です。
 それにしても、本当に惜しい人を亡くしてしまいました・・・。著者にはもっと長生きして、大活躍を続けてほしかったですね。
 日曜日の午後、久しぶりに昼寝しました。わが家の庭のすぐ下は広々とした一枚の田圃になっています。稲の苗もずい分と大きくなりました。水面をわたって吹いてくる風に吹かれながらの昼寝です。我が家にはクーラーはありません。大学生のころ、司法試験の勉強のために、長野県戸狩市にある学生村に一週間ほど行ったことがあります。そのときも午後は毎日昼寝していました。気だるい真夏の昼さがりに昼寝しながら、大学生気分にも浸ったことでした。ところで、夏の学生村って、今でもあるのでしょうか・・・。

声と顔の中世史

カテゴリー:日本史(中世)

著者:蔵持重裕、出版社:吉川弘文館
 日本人は、訴訟沙汰という言葉があるように、昔から裁判が嫌いだった。そんな俗説が常識となっています。でも、とんでもありません。聖徳太子(果たして実在の人物なのか、という疑問を投げかける学者もいますが・・・)の十七条憲法に「和をもって貴しとなす」というのは、それだけ当時の日本人が争いごとを好んでいたことを意味します。そのころも訴訟好きの日本人が、たくさんいたのです。
 この本を読むと、中世の日本人がいかに訴訟を好んでいたか、よく分かります。ただ、今との違いは、弁護人というか職業としての代理人がいないことです。
 『日本書紀』によると、孝徳天皇元年(645年)に、訴える人は伴造(とものみやつこ)など所属する集団の長を通じて名前を記して訴状を書いて函(はこ)に投じて訴え、あつめる役人が毎朝これを取り出して天皇に上奏する。天皇は群卿に示したうえで裁断するというシステムだった。天皇が訴を正当に扱わないときは、訴人は鐘(かね)を打ち鳴らした。
 称徳天皇の天平神護2年(766年)は、律令制国家になっていたが、朝廷のある壬生(みぶ)門で口頭による訴が認められた。
 道長の『御堂関白記』によると、陽明門での大音声での訴があった。これは、天子・官人への訴であるが、同時に平安京の人々への訴でもあった。恐らく口頭による訴を受けて役所ないし官人が訴状を作成したものと思われる。そこで百姓申状が多数のこっている。ただし、夜の訴は認められなかった。その理由は、夜の訴だと訴人が誰か不明だからである。匿名による訴は認められなかった。政敵による謀訴を招くからだった。
 先日、東京地裁へ行きました。門前で一人の男性が坐ってハンドマイクで判決の不当性を大きな声で訴えていました。これって平安時代以来の日本の伝統なのですね。
 鎌倉中期以降、徳政が重視され、裁判制度の充実(雑訴興行)が重視されるようになった。それは、民間での寄せ沙汰、大寺社の強訴(ごうそ)、幕府の裁判制度の充実に対応するものだった。
 鎌倉幕府は、裁判・訴訟の系統を雑務(ざつむ。債権・動産関係)沙汰、検断(けんだん。刑事関係)沙汰、所務(しょむ。所領関係)沙汰の三つに分けた。所務沙汰では、訴状と陳状(答弁書)を3回やりとりする三問三答がおこなわれた。裁許は、引付(ひきつけ。判決草案を作成する役所)頭人より勝訴者に渡される。裁判結果の救済措置もあり、越訴(おっそ)、手続きの過程には庭中(ていちゅう。直訴)があった。
 このように幕府の訴訟制度は、基本的には徹底した文書主義だったが、口訴の訴も認められていた。
 織田信長時代の天正8年(1580年)のこと。貝を吹くというのは刑の執行の告知。貝によって人を集め、その場で罪名を口頭で告知し、たとえば家を焼いた。口頭音声の罪状告知によって、刑は執行の正当性が確認される。
 なーるほど、ですね。日本人は昔から裁判手続を重視し、裁判を為政者は大切にしてきたのです。

清冽の炎(第3巻)

カテゴリー:社会

著者:神水理一郎、出版社:花伝社
 第3巻が7月に刊行されました。さっぱり売れずに最終巻(1968年4月から1969年3月までを5巻、その20年後を6巻とする構想です)まで到達できるかどうか、著者も出版社も心配しています。ぜひ、みなさん応援してやってください。前回に引き続き、第2巻のあらすじを紹介します。
 駒場では代議員大会が無期限スト突入を決定した。
 民主派と敵対する三派連合の呼びかけで、安田講堂に3000人の学生が集まり東大全学共闘会議が結成された。東大全共闘は七項目要求を掲げつつ、東大生であることを否定せよ、全学バリケード封鎖で東大を解体せよと叫び、影響力を広げていった。
 佐助が一員となった若者サークルは、丹沢へ一日キャンプに出かけて交流を深めた。セツラーは、その取り組みを議論し、評価して総括文にまとめあげていく。そして青年部や子ども会といったパートに別れて活動している全セツラーが集まって徹底的に討論する。夏合宿は奥那須の三斗小屋温泉で四泊五日の日程だ。日頃の地域での実践を交流しあい、人生を語りあう。楽しいなかにも生き方への厳しい問いかけが不断にかわされる。さらに、北町セツルメント内にある路線の違いが表面化してきた。地域を革命の拠点をしようという過激な主張が登場してきたのだ。
 安河内総長は紛争収拾策として8月10日に告示を発表した。しかし、それは従来の延長線上でしかなく、学生を失望させた。
 子ども会は北町に泊まりこんで地域での集中実践合宿に取り組んだ。地域内にある矛盾がかなり見えてきて、北町に住みこんで活動しようというセツラーが少しずつ増えていく。何かをつかみたい。それを将来に生かしたいと考える学生たちだ。
 そんななかで中学生の子どもたちが家出する事件が起きた。しかも、そのあとセツラーが子どもに殴られる事態へと発展していった。セツラーの危機が迫った。
 駒場では要求解決の展望が見えないまま、多くの学生が登校せずネトライキ状態が続いている。なんとかしなくてはいけないという思いが、第三の潮流としてのクラス連合の結成につながった。しかし、代議員大会では相変わらず、民主派と全共闘の勢力が伯仲して、膠着状態が続いている。民主派は戦闘的民主的全学連をモットーとしてかかげ、全共闘に対して正当防衛権を行使する方針をうち出し、九月から実践しはじめた。
 佐助は夏合宿以来、ヒナコが気になっている。思い切ってデートを申し込んだ。しかし、進路については依然として定まらず、不安なままだ。
 第2巻は2006年11月刊、1,890円。第3巻は2007年7月刊、1890円。

がんのウソと真実

カテゴリー:未分類

著者:小野寺時夫、出版社:中公新書ラクレ
 著者は外科医で、消化器がんが専門の医師です。そして、自分も奥様もがんにかかり、手術や放射線治療を経験しています。医師として、がんで亡くなった患者を2000人以上もみてきたそうです。その経験にもとづく本ですので、かなりの説得力があります。
 今の日本における死因は、がんがもっとも多く、3人に1人。65歳以上だと2人に1人の割合になる。
 日本では、高度進行がんに手術をやりすぎ、逆に放射線治療をやらなすぎる傾向がある。高度進行がんに対する抗がん剤療法のやりすぎは、短い余命をそのために苦しみながら過ごさせるという悲惨な結果を招いている場合が少なくない。また、がんの痛みをガマンしている人は早死にするというのは、今では世界的常識になっている。日本では、苦痛の緩和が不十分なのに、延命治療に熱心すぎる。
 ほとんどのがん死は、亡くなるまでに年月がある。そもそも、がんの予後を正しく予測することは困難。しかし、治る可能性が高いのか低いのかは、予測できる場合のほうが断然多い。
 人は、どんなに高齢になっても、がんで助からないと分かって、年齢だからやむを得ないと、死をすぐ受容できる人などいない。告知を受けた人は、最初のショック、落ちこみから、いろいろな心情的苦悩を経て、早い遅いの違いはあっても、やがて、その人なりの心の平穏を得るようになる。人は死を意識してから、人として急成長することが多い。
 がんは、死因となるほかの病気とは、性質がまったく異なる。がんは、誤って発生したのではなく、もともと人の生命をコントロールするように仕組まれている。がんは他の病気と違って、注意しても予防できない運命的要素が強い。がんは、半年前とか1年前に発生したということはなく、20年も30年も前から始まっている。
 進行したがんは、目に見えるリンパ節やがんの周辺の組織をどんなに広く切除しても、目に見えないがん細胞がどこかに転移しているため、早かれ遅かれ再発する。
 高度進行がんについて、何の治療もしないのに、良好な状態で驚くほど長く生存する人が思ったより大勢いる。手術したものの数ヶ月内に再発した人のほとんどは、最初から手術適応がなかった。
 患者には化学療法を積極的に行ない、高度進行がんでも積極的に手術する医師が、自分の親が進行がんのときには、化学療法も手術もしなかったという例がいくつもある。
 なーんだ、そういうことだったのか・・・。そんな思いがしました。
 がん手術に名医はいない。名医が手術したらがんが治るというものではない。がん治療医に必要なのは、経験と適切な治療法の判断力、そして豊かな心情である。
 がんの免疫療法は、残念ながら、まだ研究段階にあり、実用にはほと遠いのが現実。
 がん細胞は異物だといっても、もともと人体にある細胞が遺伝子の異常で形や性質に違いを起こして生じたもの。がん細胞ががん抑制遺伝子の作用が弱いために生き残っても、ほとんど免疫力で死滅してしまう。がんができたというのは、自分の遺伝子を変えることで、免疫力の攻撃を逃れ通したツワモノ集団ができたということ。免疫力をくぐり抜けて出来たものを、免疫力の強化でなおそうというのが免疫療法である。だから、効果は期待できない。
 つまり、もともと免疫力を逃れてがんになっているので、がん細胞は免疫力に対する強い抵抗力をもっている。
 がんの末期患者は、なんでもいいから、好きなものを食べたほうがいい。食べ物の内容にあまりとらわれ過ぎてはいけない。余命の限られている人にとっては、「やりたいことをする」のがすべてだ。仕事、趣味、著述であれ、最後の整理業務であろうと、自分のやりたいことを体力の続くかぎりやること。これが人生を生き抜くうえでもっとも大切。副作用の強い抗がん剤療法や入院による代替療法を続けたあげく、死を迎えるべきではない。
 がんの患者に対して、「元気を出さないとダメ」「がんばって」などの言葉をかけるべきではない。死に近づきながら生きているのに、これ以上、何をどうしろというのか、
 お見舞いは患者が元気なうちにするべき。体調の良くない人に、いろんなことを長々と話しかけてはいけない。
 私は、父をがんで亡くしましたので、がんについては他人事(ひとごと)ではありません。この本は、とても実践的で、参考になりました。私は40歳になってから年に2回、人間ドッグに入っていますが、それは、私にとって骨休めと読書タイムを確保するためだと割り切っています。平日の夜、じっくり本を読むということは、意識的につくり出さないと、とてもうまれませんからね。弁護士を30年以上していると、自分の時間を大切にしたくなるものです。来年、私も還暦になります。自分でも信じられませんが、せめて気持ちのうえだけでも若さを保っていきたいものだと考えています。

生物と無生物のあいだ

カテゴリー:未分類

著者:福岡伸一、出版社:講談社現代新書
 ニューヨークにあるロックフェラー大学の図書館に野口英世のブロンズ像があるそうです。千円札の肖像画にもなっている立志伝中の人物です。ところが、アメリカでは野口英世はまったく評価されていないというのです。驚きました。
 野口英世の業績としてあげられる梅毒、ポリオ、狂犬病そして黄熱病については、当時こそ賞賛を受けたが、今では間違ったものとして、まったく顧みられていない。野口英世は、むしろ、ヘビイ・ドリンカーそしてプレイボーイとして評判だった。権威あるパトロンが野口の背後にいたため、批判されなかっただけのこと。
 うひゃー、そうだったんですかー・・・。ちっとも知りませんでした。道理で、最近の千円札が軽くフワフワと飛んでいって、すぐなくなってしまうんですね。
 ウィルスは、栄養を摂取することがない。呼吸もしない。もちろん、二酸化炭素を出すことも老廃物を排泄することもない。つまり、一切の代謝を行っていない。ウィルスは結晶化することもできる。鉱物に似た、まぎれもない物質である。
 しかし、ウィルスを単なる物質と一線を画しているのは、ウィルスが自らを増やせるということ。ウィルスは自己複製能力をもっている。ウィルスのこの能力は、タンパク質の甲殻の内部に鎮座する単一の分子に担保されている、核酸=DNAもしくはRNAによる。
 ウィルスは、生物と無生物とのあいだをたゆたう何者かである。もし、生命を「自己を複製するもの」と定義するなら、ウィルスはまぎれもなく生命体である。
 細胞からDNAを取り出すのは簡単なこと。細胞を包んでいる膜をアルカリ溶液で溶かし、上澄み液を中和して塩とアルコールを加えると、試験管内に白い糸状の物質が現れる。これがDNAだ。
 しかし、DNAが運んでいるのは、あくまで情報であって、実際に作用をもたらすのはタンパク質。抗生物質を分解するのは酵素と呼ばれるタンパク質であり、病原性をもたらす毒素や感染に必要な分子も、みなタンパク質である。耐性菌から非耐性菌へ、あるいはS型菌からR型菌へ手渡されているDNAの上には、分解酵素や毒素タンパク質をつくり出すための設計図が書きこまれている。
 DNAが相補的に対構造をとっていると、一方の文字列が決まれば、他方が一義的に決まる。あるいは、2本のDNA鎖のうちどちらかが部分的に失われても、他方をもとに修復することが可能となる。
 DNAラセン構造を明らかにしたとされるワトソンとクリックについて、著者は重大な研究上のルール違反をしたと指摘しています。未発表データをふくむ報告書が実験を通じて重大な発見をしたロザリンド・フランクリン(女性)の知らないうちにライバル研究者の手にわたって、それが世紀の大発見につながったというのです。なるほど、それは問題でしょうね。ただし、フランクリンは、ノーベル賞授与のときには、既に亡くなっていました。
 半年あるいは1年もたてば、分子のレベルでは、人間の身体はすっかり変わってしまっている。かつて身体の一部であった原子や分子は、すでに身体内部には存在しない。
 私たち生命体は、たまたまそこに密度が高まっている分子のゆるい「淀み」でしかない。しかも、それは高速で入れ替わっている。この流れ自体が「生きている」ということであり、常に分子を外部から支えないと、出ていく分子との収支があわなくなる。
 人間の身体は一体何から出来あがっているのか、ふと考えることがあります。電波なんか身体をすっと通り抜けていくのですからね。何の支障もなく、障害を与えることもなしに。これも、考えてみたら、不思議なことですよね。知的関心にこたえる本です。

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