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朝鮮戦争スケッチ

カテゴリー:朝鮮・韓国

著者:キムソンファン、出版社:草の根出版会
 「コバウおじさん」で有名な金星煥氏が朝鮮戦争を体験して描いた画(スケッチ)集です。
 韓国では朝鮮戦争は6.25戦争とも呼ばれます。1950年6月25日に北朝鮮が韓国へ侵攻して始まった戦争だったからです。金日成の指揮する北朝鮮軍は、3日目の6月28日にはソウルに到達しました。前日の27日に、ソウルにあった政府と国会は、「ソウル死守」を呼号していたのですが、その舌の根も乾かぬ28日午前2時に大韓民国政府首脳陣は漢江を渡ってソウルを脱出し、その1時間後に漢江橋を爆破してしまいました。その結果、大勢のソウル市民がソウルを脱出できませんでした。いつの世も、為政者(支配者)は我が身の安全が第一で、民草の生命はあとまわしなのですね。著者は当時、高校3年生。この様子をソウル市内で目撃し、スケッチしています。
 このとき私は、太陽がさんさんと照りつける真昼に漆黒のような暗黒を見た。絶望にあえいだ戦中の3年間、歴史とはどのようなもので、何のためにそれを反芻せねばならないのかについて、深く考えざるをえなかった。この戦争スケッチは、すばらしい美術作品とは言えない。ただ、苦難の時代を経験した人びとの記憶を残し、思い返すため、そして当時まだ生まれていなかった若い世代に、過去の実相を知るために参考になれば、と願う。
 たしかに、写真とはまた違って、同胞が殺しあった朝鮮戦争の惨禍が生々しく再現されています。キムさんは、今も健在です。
 中肉中背、がっしりとした体格で、ごくフツーのおじさんといった感じ。ほとんど日本人といってもいいほど、うまい日本語を話す。
 6月28日にソウルに入城した北朝鮮軍はトラックが不足していたらしく、その一部は木の枝で偽装した牛車に乗っていた。その、場違いにのどかな光景は笑わせます。
 北朝鮮軍による国軍兵士狩りが始まります。捕まって真っ白になった捕虜の顔も描かれています。市内には、双方の兵士と民間人の死体が散乱しています。
 北朝鮮軍の鉄カブトは、第二次世界大戦中にソ連軍のつかっていたもの。小銃に装着されていた槍も同じで、長くて鋭いものだった。
 やがて、アメリカ軍が9月15日、仁川に上陸し、反攻が始まります。北朝鮮軍兵士たちが武器を捨てて敗走していきます。その直後の9月13日夜、彼らの死の行軍の様子が描かれています。
 しかし、アメリカ軍が仁川に上陸してソウルに到達するまで20日間かかりました。ソウルをアメリカ軍が完全に支配したのは9月28日の夕方5時ころ。その状況も描かれています。
 そして、1950年12月、中国軍が参戦します。1951年1月4日、アメリカ軍はソウルから脱出します。これを1.4敗退と言うそうです。
 著者は、最前線の将兵の顔をスケッチします。まさに童顔の兵士もいます。
 朝鮮戦争の実情の一端を紹介する貴重なスケッチ集です。
(2007年6月刊。5800円)

中世しぐれ草子

カテゴリー:日本史(江戸)

著者:高橋昌男、出版社:日本経済新聞出版社
 江戸時代には、「南総里見八犬伝」などのようなスケールの大きい小説があります。この本で紹介されるのは、徳川九代将軍家重から次の家治のころ、寛延・宝暦(1748〜1764)に上方で読本(よみほん)なるものが流行し、やがて江戸の空想好きの読書人の心をとらえた。
 本書は、その一つ、「恋時雨稚児絵姿」(こひしぐれちごのえすがた)を現代語に翻案したもの。それが、なかなかに面白いのです。
 ときは鎌倉末期。ところは京都市内外。老獪な堂上公卿や血気の公達が、大覚寺統と持明院統の二派に分かれて策をめぐらし、刃を交える。
 正親町(おおぎまち)侍従権大納言公継(きんつぐ)卿には、右近衛将監(しょうげん)公幸(きんさち)という19歳の息子と、しぐれと呼ぶ姫君があった。
 しぐれが内侍司(ないしのつかさ)の一員として松尾帝のお傍近くに仕えて、主上の眼にとまったとしても、父の公継卿が従三位の権大納言と身分が低いから、源氏物語の桐壺と同様、中宮はおろか、女御より下位の更衣どまりで終わるだろう。そうは言っても、しぐれの局の美貌は、上達部(かんだちめ)や殿上人(てんじょうびと)のあいだでは評判の種だった。このしぐれをめぐって大活劇が展開していきます。
 私は、この本は、本当に江戸時代の読本の現代語訳なのか、ついつい疑いながら読みすすめていきました。それほど、策略あり、戦闘場面あり、そして恋人同士の葛藤ありで、波乱万丈の物語なのです。すごいぞ、すごいぞと思いながら、ときのたつのも忘れるほど車中で読みふけってしまいました。
 江戸時代の人の想像力って、たいしたものですよ、まったく・・・。
(2007年6月刊。1890円)

清冽の炎(第3巻)

カテゴリー:社会

著者:神水理一郎、出版社:花伝社
 この第3巻は、1968年11月と12月に東大闘争で何が起きたのかを取りあげています。当時、全国の学園闘争の天王山として東大闘争が取りあげられていたこと自体は歴史的な事実として間違いありません。では、いったいなぜ東大闘争が全国の天王山だったのか、改めて問われると、それにこたえるのは難しいところです。全国いたるところで学園闘争が起きていたのに、なぜ東大だけが突出して目立ったのか、ということです。日大闘争はもっと学生の規模が大きいし、早稲田も中央も法政でも、血で血を洗うような深刻な学園闘争が長期にわたって続いていました。いえ、上智大学も慶応大学だって学生は立ちあがっていましたよね。いえいえ、関西もあります。京都大学でも立命館でも同志社でも、学生は起ちあがりました。そんなことを言うなら、北は北海道から南は九州・沖縄まで、揺れ動かない大学が当時あったでしょうか。いったい、その目的は何だったのでしょうか。学生は何を目ざしていたのか、その要求は勝ちとれたのか、そもそも社会変革の手段に過ぎなかったのでしょうか。否、否。社会に対する異議申立にすぎなかったのでしょうか・・・。考えれば考えるほど、分からなくなる問題です。
 しかし、40年前に起きていた歴史的事実を歪曲するのはやめてほしいと思います。『安田講堂1968〜1969』という本があります(中公新書。2005年11月刊)。著者は安田講堂に籠城して懲役2年の実刑を受けた元全共闘メンバーです。今は、サルの研究員で、『アイアイの謎』などの本を出していて、私も何冊か読み、ここでも紹介したことがあります。この『安田講堂』は全共闘の立場からの本ですが、事実を歪めています。たとえば、次の点です。
 1968年11月12日。全共闘は東大本郷の総合図書館をバリケード封鎖しようとして失敗しました。このとき、全共闘のバリケード封鎖を阻止したのは、この本では「宮崎学らが指揮する『あかつき部隊』500人」であるかのように書かれています。とんでもありません。
 この本の138頁には当時の写真も紹介されていますが、その説明として、「左、日本共産党系“あかつき部隊”。右、全共闘。持っている棒の大きさと密集度の違いを見られたい。日本共産党系部隊には統制があった」とあります。この写真にうつっているのは、私もその場にいたので確信をもって言えるのですが、駒場の学生です。密集度の違いというのは、写真のとおり確かにあります。しかし、それは駒場の学生がそれだけ大勢いたということ、そして、全共闘のゲバ棒が怖くてみんなで押しくらまんじゅう状態に固まっていただけのことなのです。この写真には、後方に、もっともっと大群衆がいて、衝突を見守っていることも分かります。全共闘は最前線の何人かの学生こそゲバ棒をふるって駒場の「民青」(実は民青だけでなく、中間派も大勢いた)にぶつかっていますが、あまりの集団(数の違い)にひるんで、それ以上、突っこむことはできませんでした。見物していた大群衆の大半は、全共闘の無法な暴力を止めさせる側に立って、このあと動いたのです。
 この本では、「樫の木刀」をもった“あかつき部隊”が指揮者の笛のもとで全共闘をたちまち撃退したかのようにかかれています。しかし、そんなものではないことは、「清冽の炎」第3巻の11月12日のところで書かれているとおりです。
 宮崎学の『突破者』を読んで、私も知らなかったことをいろいろ教えられました。しかし、「全都よりすぐりの暴力部隊」である「あかつき部隊」500人が図書館で全共闘を撃退したという記述は歴史的事実を歪曲するものとしか言いようがありません。
 『アイアイの謎』などを読んで客観的事実を熱意をもって伝えようとする著者に好感を抱いていただけに残念でなりません。著者は、あまりに『突破者』に毒され、目が曇らされてしまっていると思います。
 「清冽の炎」第3巻に書かれていることがすべて正しいとは思われませんが、この『安田講堂』は中公新書という由緒あるものの一冊で、影響力も大きいので、あえて苦言を述べさせてもらいました。
 そんなわけですから、みなさん、「清冽の炎」第3巻をぜひ読んでください。
(2007年7月刊。1890円)

銀漠の賦

カテゴリー:日本史(江戸)

著者:葉室 麟、出版社:文藝春秋
 第14回の松本清張賞を受賞した作品です。なるほど、なかなかよくできていると感心しました。
 江戸時代の藩内の政治が語られます。百姓一揆もあります。藩主交代による政争があります。いかに英邁な藩主であっても、その子どもが成長すると、安穏ではいられません。息子を藩主として擁立し、父親を早く隠退させようとする勢力が出てきます。
 藩の経済状況の改善も重要な課題です。新田開発、そして、商人の活用が重要な施策となります。しかし、それは商人との癒着を生み、賄賂政治につながります。田沼政治は悪政だったのか、その次の定信の寛政の改革は善政だったのか、難しいところです。
 この本は小説なので、アラスジを紹介するのは遠慮しておきます。印象的にいうと、山田洋次監督の最近のサムライ映画・三部作の原作である藤沢周平の小説をもう少し明るくして、青春時代小説「藩校早春賦」(宮本昌孝、集英社)のイメージをつけ加えた感じです。
 暮雲収盡 溢清寒
 銀漠無声 転玉盤
 此生此夜 不長好
 明月明年 何処看
 日暮れ方、雲がなくなり、さわやかな涼気が満ち、銀河には玉の盆のような明月が音もなくのぼる。この楽しい人生、この楽しい夜も永遠に続くわけではない。この明月を、明年はどこで眺めることだろう。
 著者は北九州に生まれ、西南学院大学を卒業して地方紙記者などを経て作家としてデビューしたとのことです。なかなかの筆力だと感心しました。
 ただ、松本清張賞というより直木賞ではないのかと、素人ながら私は疑問に思いました。

盗聴二・二六事件

カテゴリー:日本史(戦後)

著者:中田整一、出版社:文藝春秋
 2.26事件を新たな視点で掘り下げた本だと思いました。
 2.26事件が始まると、逓信大臣の命令のもとに電話の盗聴が開始された。これは陸軍省軍務局との協議のうえのことだった。しかし、実は、盗聴は憲兵隊によって事件の1ヶ月以上も前から始まっていた。そして、試作段階にあった円盤録音機をつかうことになった。戒厳司令部、陸軍省、逓信省が協力し、了解のもとで盗聴され、録音された。
 2.26事件のとき、戒厳令はすんなり施行されたのではない。この機に乗じて軍部が軍政を布き、政治的野望の実現を図るのではないかと警戒する人々がいたからである。たとえば、警視庁は強く反対した。海軍も当初は反対した。
 西田税は5.15事件(1923年)のとき、陸軍側の参加を阻止したことから、計画を他にもらす恐れがあるとして血盟団員からピストルで撃たれた。2.26事件については、計画から決行・終結に至るまで終始、部外者の立場にあり、むしろ事件を起こすのには反対だった。
 盗聴記録によると、誰かが北一輝の名を騙って電話をかけている。謀略が進行していた。偽電話をかけたのは戒厳司令部の通信主任の濱田大尉であった。
 陸軍上層部は、北一輝や西田税ら、外部の民間人が2.26事件の首謀者であるという図式に固執していた。2.26事件の軍事裁判にあたっては、青年将校に激励の電話を入れたにすぎない北一輝と西田税を極刑に処すというのが初めから陸軍中央の方針であった。北と西田が悪いんだ。青年将校は、単にくっついていっただけ、というわけである。裁判長は北と西田を首魁とするには証拠不十分であるとした。死刑に反対する裁判長と死刑相当という残る4人の判事とで見解が分かれた。
 そのため、10ヶ月も審理は中断し、昭和12年8月13日、弁論再開、証拠調べ終了、8月14日、判決宣告、8月19日に死刑が執行された。銃殺刑であった。北は54才、西田は36歳だった。同年9月25日、真崎甚三郎大将には無罪の判決が下された。
 これは、いかにもひどい政治的な裁判ですよね。判決宣告して、わずか5日後に死刑執行だなんて、まさしく日本は軍部独裁体制にあったのですね。おー怖い、怖い。
 陸軍は、事件処理に名をかりて、着々と軍部独裁の政治体制を確立していった。青年将校らのテロリズムは、軍国主義の暴走に格好の口実を与える結果となった。
 防衛庁が防衛省に昇格してしまいました。アメリカ軍に隅々まで統制されている自衛隊は、自民党の改憲案(新憲法草案)では自衛軍になるということです。軍部独走を果たして止められるでしょうか。軍事裁判所は司法権の独立を貫くことができるでしょうか。心配になるばかりです。

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