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丁家の人びと

カテゴリー:中国

著者:和多田 進、出版社:バジリコ
 いま日本に住む中国人女性実業家である丁 如霞(ティンルーシア)さんの一生を聞き書きした本です。1946年生まれということですので、私より2歳年長ですが、ほぼ同世代といえます。今は家族ともども日本で活躍していますが、中国大陸で生まれて激動の人生を歩いてきたのです。500頁もの大部な本ですが、ぎっしり人生の濃密なものが詰まった本として一心不乱に読みふけりました。
 丁家の本拠地は杭州です。残念ながら私は、まだ杭州に行ったことがありません。丁家は銀行まで有する資産家でした。太平天国軍が杭州を占領した1860年に丁家の先祖は四庫全書が荒らされているのを見て、ひそかに保存につとめました。丁家は、篆刻を始め、その会社を始めました。
 1937年に日中戦争が始まり、日本軍が杭州を爆撃し、丁家の屋敷は焼け落ちてしまった。その後、丁家の父親は南京政府で働くようになった。日中戦争が終わるまで、上海の刑務所で看守長として働いた。日本の敗戦後、南京政府の下で働いていたことから、今度は囚人として刑務所に入った。
 中国の全土が毛沢東の率いる人民解放軍によってやがて支配されます。丁家は中国共産党にその邸宅を提供します。そして、父は香港へ脱出してしまうのです。
 やがて、毛沢東の呼びかけで大躍進時代が始まり、人々は熱に浮かされたように高炉づくりに熱中します。つかいものにならない鉄がつくられます。そして、その失敗が毛沢東の権威を地に墜ちさせ、その失地回復を狙って毛沢東は文化大革命を始め、若者たちを紅衛兵に駆り立て、挽回していきます。
 このあたりが一家族の状況だけでなく、他の資料もあわせて複合的に語られていきます。
 著者も紅衛兵として活動するようになります。文化大革命のさなかの1967年12月に上海教育学院を卒業して中学校の教師になります。
 やがて文化大革命は終わり、毛沢東が死んで改革・解放路線がとられます。これで著者の夫は日本に留学することができました。著者は自費留学です。お金がありませんから、日本でアルバイトして働きます。横浜の日本料理店での皿洗いです。時給560円。そこで働いているうちに日本語を勉強しました。すごいですね。
 そのうちに上海にいる娘を呼び寄せ、一家で東京に住むようになります。天安門広場事件のころのことです。1989年6月です。一家3人で住むアパートは風呂がついていないので、近くのコインシャワーに行ったのです。3人で300円ですましたそうです。
 日本に住む中国人女性の生い立ちを聞くと、現代中国史を知ることができるという見本のような本でした。聞き書きもいいものですね。
 先週の日曜日、いつもより早く起きて仏検準一級の口頭試問を受けてきました。4回目になりますが、いつも緊張します。一回は合格しましたが、二回失敗しています。フランス語が口からスラスラ出るように(出ないのです)、この2週間ほどは車を運転中もNHKラジオ講座のCDを流してシャドーイングをしていました。それを見た人から、何してたのですかと訊かれたこともあります。
 3分前に問題文を渡され、1問を選んで3分間スピーチをします。これが難しいのです。インターネットで活字媒体が脅かされていることをどう思うか、というテーマを選びました。なんとか話したあと、4分間の質疑応答があります。
 全部で10分足らずの試験なのですが、終わったときには、まだ午前11時にもならないのに、今日一日分の仕事を早々としてしまったと思ったほど疲れてしまいました。
(2007年9月刊。2800円+税)

旅順と南京

カテゴリー:日本史(明治)

著者:一ノ瀬俊也、出版社:文春新書
 日清戦争(1894年、明治27年)に従軍した軍夫の絵日記と上等兵の日記をもとに日清戦争の実際を再現した本です。第二次大戦がなぜ起きたのか、日本人が戦争で何をしたのか、改めて考えさせられる本でした。
 朝鮮半島を制圧すべく日本から送られた第2軍(司令官は大山巌大将)は、3万5000人。うち1万人以上が軍夫だった。絵日記をかいた軍夫は東京出身で、1894年10月に遼東半島に上陸し、ずっと後方輸送に従事した。軍夫の賃金は日給50銭。当時、日本の日雇い賃金は21銭だったので、かなりの高給だ。
 もう一人、日記をつけていた上等兵は千葉県柏市の出身であり、漢文調の日記だった。
 朝鮮半島へ渡る出征軍の歓送はすさまじいものがあった。夜間にもかかわらず、大勢の住民が沿線にまで出ていて、励ました。
 兵士には蒸した米を干した保存食である糒(ほしい)が支給された。定量は1人1日3合。
 日清戦争で、日本軍は旅順で人々を虐殺しました。加害者は歩兵第一旅団(旅団長は、あの乃木希典少将です)をふくむ日本軍です。陸軍は、基本的に捕虜をとらず、無差別に殺害したのです。従軍していた英米の記者がこの事実を世界に向けて発信したため発覚しました。
 ご承知のとおり、乃木希典は、10年後の日露戦争のときにも旅順攻略戦にも参加している。日清戦争のときには、清軍(中国軍)が半日であっけなく抵抗を止めた。もう少し苦戦を余儀なくされていたら、日露戦争で日本軍は強襲したら一挙に陥落できるとは思わなかったのではないかという説もあります。
 日清戦争のときの旅順虐殺事件の実態をみてみると、日本人の道義が日露戦争のときまでは良くて、その後、低下した、ということは決して言えないことがよく分かります。やはり、戦争は人間を鬼に変えてしまうのですね。
(2007年11月刊。870円+税)

警官の血

カテゴリー:未分類

著者:佐々木 譲、出版社:新潮社
 うむむ、すごい、すごい。この著者の小説にはいつも感嘆してしまいます。警察ものでは『嗤う警官』『制服捜査』『警察庁から来た男』どれも素晴らしい出来具合いでした。今回も期待を裏切りません。じわじわ、じっくり読ませます。電車のなかで時間を忘れるほど読みふけりました。
 今回は警官一家の歴史を静かにたどっていきます。私は、警察官2代目が私と同世代であることに途中で気がつきました。
 ときは学園闘争はなやかなりし頃のことです。高校の成績はいいのに、父親のいない民雄は大学に入らず警察学校に入る。ところが、警察学校に入ったら、警察が費用を出すから国立大学を受験しろというのです。それから猛勉強して北大に入学。北大でも学生運動は活発だった。民雄はビラを集め警察へひそかに流します。やがて、民雄は活動家にオルグされます。共産主義同盟(ブント)からです。京大の塩見孝也を中心とするグループがブント主流派を軟弱だと批判して赤軍派を結成。その赤軍派からオルグされたのでした。民雄は、情報収集を命じられた対象である新左翼の活動家に対して拒否感はなく、むしろその真面目さに敬服していました。
 ところが、オルグされた民雄は、活動家と一緒に上京することを命ぜられます。でも、民雄は、もうボロボロでした。2年間、仮面をかぶって生きてきた。どっちが本当の自分なのか、どっちが仮面なのか、分からなくなってきている。これって結構きついことだ。
 そうでしょう、そうでしょう。私にも、なんとなく、よく分かります。それでも民雄は赤軍派と一緒に同行します。私服刑事と列車内で連絡をとりあいながらの上京です。
 ところが、行き着く先は都内ではなく、大菩薩峠、赤軍派の武闘訓練の場でした。50人ほども集まり、ピース缶爆弾などもつかって訓練します。
 やがて民雄の秘密通信も功を奏して、機動隊が山小屋を包囲して一網打尽にしてしまいます。民雄もうまく逮捕されます。しかし、そのあと民雄は、不安神経症と診断されます。神経がボロボロになりかけていました。感情の鈍麻、ものごとに対する関心の減退、幸福感の喪失という症状があらわれていました。
 実は、私も司法試験の苛酷な勉強のせいで、合格したあと不安神経症と診断されたことがあります。自律神経失調症の一歩手前だということでした。
 学生運動のセクトのなかに警察がスパイを送りこんだり、活動家を抱きこんでスパイに仕立てあげるということは多かったようです。スパイ役をさせられた人たちの多くは、この民雄と同じように不安神経症になったのではないでしょうか。
 警察官であって二部(夜間)大学生だという人は当時、少なくありませんでしたから、彼らのなかにはスパイ役をさせられた人もいることでしょう。
 九州(大分)で起きた菅生事件のときのスパイ役であった戸徳公徳(警察官)は、自ら事件を起こしたあと、警察にかくまわれていましたが、新聞記者が摘発したのちは、むしろ警察官の世界で異例の大出世していき、最後まで高給・優遇されて余生を過ごしました。
 人生を考える素材が、また一つ提供されました。
(2007年9月刊。1600円+税)

1491

カテゴリー:アメリカ

著者:チャールズ・C・マン、出版社:NHK出版
 1492年にコロンブスがアメリカ大陸を発見した。私は、これをコロンブス、石の国(1492)発見というゴロあわせで暗記して今も覚えています。
 我々が今日アメリカと呼んでいる大陸には、人類も、その文明も存在しなかった。
 これは、1987年版のアメリカ史の高校教科書です。それって本当でしょうか?
 15世紀。カナダのオンタリオ地方に当時すんでいたウェンダット(ヒューロン)族は、フランス人を自分たちに比べて頭が悪いと考えていた。ヨーロッパ人は体が弱く、性的にだらしがなく、ぞっとするほど醜くて、とにかく臭くてたまらない。イギリス人やフランス人の多くは、生まれてこのかた風呂に入ったこともなかった。インディアンが身体の清潔を心がけていることに驚いていた。
 インカ帝国は、アンデス史上最大の国家だったが、短命だった。15世紀に誕生し、たった100年続いただけで、スペインに滅ぼされてしまった。
 インカの経済制度の特徴は、金銭をつかうことなく機能したこと。インカには、市場さえなかった。
 インカ人は、恐るべき発明をしていた。たき火で石を熱して真っ赤に焼き、松ヤニをたっぷりつけた綿で包んで、標的に向かって投げるのだ。綿は空中で燃え出す。敵にしてみれば、突然、火を噴くミサイルがばらばらと降ってくるわけだ。
 ピサロの成功には、鉄よりも馬のほうが大きく貢献した。当時、アンデスで最大の動物といえば、平均体重130キログラムのリャマだった。馬は、その4倍もあった。インカの人々にとって馬は、得体の知れない何とも恐ろしいけだものだった。
 天然痘には12日間の潜伏期間がある。そのあいだに感染者は、自分が病気にかかっているとは知らずに、会う人みんなにうつしてしまう。すぐれた道路網を発達させ、大規模な民族移動を敢行してきたインカには、強力な伝染病の広がる下地ができあがっていた。天然痘は、インキの染みがティッシュペーパーに広がるようにして、またたくまに国中に広がった。何百万人もの人々が一斉に同じ症状を出した。住民の9割が伝染病で死んでいった。アメリカ先住民は、獲得免疫をもたなかっただけでなく、もともと免疫システムがヨーロッパ人ほど強くはなかった。感染源は、歩く食肉貯蔵庫、つまり、連れてきた300頭の豚だった。豚は馬と同様、なくてはならないものだった。
 ほかの穀類は放っておいても勝手に繁殖するが、トウモロコシは、粒がじょうぶな苞葉に包まれているため、人の手で種を播いて増やしてやらなければいけない。つまり自生しないのだ。6000年以上も前に、メキシコ南部の高地で、インディオがはじめてトウモロコシの祖先種を栽培した。
 アンデスの高地の主要作物はジャガイモだった。トウモロコシとちがって、これは標高4000メートルでも安定した収穫が見込める。品種は何百種にも及び、一年でも地中に埋めて保存しておくことができる。
 インディアンが主張する個人の自由には必ず社会的な平等がともなっていた。北東部のインディアンは、ヨーロッパ人社会では人が階級によって分類され、下位の者は上位の者に従うべしとされているのを知って仰天した。人は、誰もが自分自身の主人であり、同じ土からできているのだから、差別や優劣があってはならないと固く信じていた。
 男女を問わず、白人の子がインディアンに捕らえられ、しばらく彼らと暮らしたときには、身代金を払って取り返し、手を尽くして温かく迎えて居心地よいように配慮してやっても、ほどなく、イギリス人の暮らしにうんざりし、隙をみてまた森に逃げこんでしまう。そうなれば、もう呼び戻すことはできない。うむむ、なんということでしょう。
 インカの神聖暦は、天文学者が金星の動きを丹念に観測していたことによる。金星は263日間、明けの明星として地球から見ることができ、その後、50日ほど太陽のうしろに隠れてしまう。そして、263日間、今度は宵の明星として見ることができるようになる。インカの暦は、同時代のヨーロッパの暦よりも複雑で正確だった。
 ユーラシア大陸で四大文明が興った時代には、アメリカ大陸でもきわめて高度な文明が誕生していた。また、人口も多かった。さらに、景観に手を加えて、驚くべき知恵をもってたくみに生態を管理していた。
 そうです。コロンブスの「発見」の前に、アメリカ大陸には大きな人口をかかえた国があり、高度に発達した文明があったのです。
(2007年7月刊。3200円+税)

田沼意次

カテゴリー:日本史(江戸)

著者:藤田 覚、出版社:ミネルヴァ書房
 田沼意次の父の意行(おきゆき)は、紀伊藩の徳川吉宗に仕えていた。吉宗が将軍になったため江戸へ出て、幕臣となり旗本になった。いわば吉宗子飼いの家来であった。意次は意行の長男として、吉宗の長男である家重の小姓になった。蔵米300俵をもらった。父意行の知行600石を受け継いだ意次は23年に1万石の大名に出世した。600石の旗本が1万石という大名になるのは異例の大出世である。
 田沼意次は、徳川家重の小姓から御用取次、ついで徳川家治の御用取次を経て側用人、さらに老中格からから老中に昇進したが、なお側用人の職務をそのままつとめた。老中と側用人とを兼任したこと。これこそ、意次がまれにみる権勢を手に入れた理由であった。
 1684年、当時の大老堀田正俊が江戸城で若年寄の稲葉正休(まさやす)に刺し殺された。この事件をきっかけに、将軍の身の安全から、老中以下の諸役人と将軍とが直接に接する機会を制限した。その結果、将軍と諸役人との間に、側用人や側衆を介在させる仕組みになり、老中といえども、側衆や側用人を仲介しないと将軍に会えなくなった。その結果、側用人など奥づとめの役人たちの役割が大きくなっていった。
 側用人は、将軍に近侍して政務の相談にあずかるとともに、将軍の命令を老中に伝達し、老中の上申を将軍に伝えるという、将軍と老中との間を取り次ぐのが主な職務である。側用人は将軍の意思を体現する存在である。側用人が幕政に強い権勢をふるうには、将軍の特別な恩顧のほかに、個人的な野心や能力が必要だった。
 側用人政治を否定したとされる吉宗は、幕府政治の改革にあたり、みずから新設した御用取次をつかって、側用人政治とよく似た政治運営をしていた。
 田沼意次が活躍したときの将軍家重と家治は、いずれも幕府政治に積極的に関わろうとしないタイプの将軍だった。
 田沼意次が幕府政治と直接関わるようになったのは、美濃郡上一揆の処理から。この一揆は、宝暦4年から8年にかけてのこと。幕府は、老中、若年寄という重職を罷免し、若年寄を改易、大名金森の改易という、まれにみる厳しい処罰を断行した。これを果断に処理したのが御用取次の田沼意次だった。
 町奉行や勘定奉行など、幕府の重要ポストには、田沼意次と直接の姻戚関係もふくめ、何らかのつながりをもつ役人たちが配置されていた。田沼意次は、子弟や姪らを介して、老中2人、若年寄1人、奏者番2人、勘定奉行などと姻戚関係をがっちり結んでいた。
 重要な政策は、その発議が意次か奉行であるかは別にして、意次と担当の奉行が事前に協力して立案し、そのあとで老中間の評議にかけていた。意次は幕閣の人事を独占しただけでなく、幕府の政府を主導していた。
 意次時代には、幕府の利益を追求する山師が跋扈し、田沼意次こそ山師の頭目であった。しかし、これは、田沼意次の政策が革新的であったとも言えるものだ。
 耕地を増加させるため、新田開発策をとった。意次にとってもっとも大きな問題は、幕府の財政をどうするか、だった。
 明和7年(1770年)、江戸城の奥金蔵や大阪城の金蔵にはあわせて300万両もの金銀が詰まっていた。これが天明8年(1788年)には81万両にまで急減していた。
 この時代の山師中の山師は平賀源内である。源内のパトロンが田沼意次だった。
 意次は、銅と俵物の増産に取りくんだ。また、白砂糖の国産化もすすめた。
 印旛沼の干拓をすすめ、ロシアとの交易、蝦夷地の開発もすすめようとした。
 田沼意次が清廉潔白とは言えないが、当時、賄賂は義務的なものでもあった。
 田沼意次は「はつめい」の人と言われた。「はつめい」とは、かしこい、という意味。家来の下々にまで目を配り、家来たちが気持ちよく働けるようにするための配慮や心づかいのできる人物であり、人心操縦の術にたけた人物でもある。
 意次の長男である意知が殿中で切られて死亡すると、意次もたちまち失脚してしまう。それほど反感を買っていたということでしょう。
 出世や優遇を期待して田沼家と姻戚関係をもった大名家や、意次の家来と姻戚関係をつくった旗本家は、かなりの数にのぼった。しかし、田沼家が凋落したとき、櫛の歯を挽くように離縁が相ついだ。その節操のなさには、呆れるほどだ。
 しかし、意次は、「御不審を蒙るべきこと、身をおいて覚えなし」という書面を書いています。意次にも反論したいことが山ほどあったようです。
 意次の素顔を知ることのできる本です。
(2007年7月刊。2800円+税)

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