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神は妄想である

カテゴリー:アメリカ

著者:リチャード・ドーキンス、出版社:早川書房
 神が実在するのか、と考えたときに一番に思い浮かべるのはナチス・ドイツによるユダヤ人の大量虐殺です。神が実在するのに、それを防ぐことができなかったなんて、私にはとても理解できません。カトリックとプロテスタントの殺し合い、イスラム教徒とキリスト教徒との殺し合い、どうして、それぞれの神が止められないのでしょうか?
 むしろ、宗教を強く信じている信者のほうが憎悪にみち、いや単に憎しみあうだけでなく、殺しあうのですから、一層たちが悪いのです。
 そのような私の疑問を、この本は、あますところなく裏づけてくれます。だから私は、昔も今も、無神論者なのです。といっても、苦しいときの神頼みは今もしていますが。
 ヒトラーは、カトリック教徒の家に生まれ、子どものころはカトリックの学校と教会に通っていた。スターリンは、神学校をやめたあと、ロシア正教を捨てた。しかし、ヒトラーは、自らのカトリック信仰を公式に放棄したことはなく、むしろ生涯を通じて信仰を持ち続けたのではないかと思われる。ヒトラーは、キリスト教徒としてユダヤ人を非難する長いキリスト教の伝統に影響を受けていただろう。
 マルチン・ルターは、激烈な反ユダヤ主義者だった。すべてのユダヤ人は、ドイツから放逐すべきだと、議会で語ったことがある。
 ヒトラーは、マルクスと聖パウロが二人ともユダヤ人であるとしつつ、イエス自身がユダヤ人であったことは頑として認めなかった。
 宗教的信念が危険なのは、その他の点では正常な人間を狂った果実に飛びつかせ、その果実が聖なるものだと思わせることにある。
 未遂に終わったパレスチナの自爆犯は次のように語った。
 イスラエル人を殺すように自分を駆りたてたものは、殉教へのあこがれであり、復讐したいなどとは決して思ってはいなかった。私は、ただ殉教者になりたかっただけだ。
 私は、もうすぐ永遠の世界に行くのだという気持ちのなかで、ふわふわと漂い、泳いでいた。何の疑問もなかった。
 キリスト教、そしてイスラム教でもまったく同じことだが、疑問を抱かない無条件の信仰こそ美徳であると、子どもたちに教えこむ。
 世論調査によると、アメリカの全人口の95%が自分は死後も生き続けるだろうと信じているという。もし本当にそう思っているのなら、年老いて、あるいは病気のため臨終を迎える人に対して、「おめでとうございます。これはすばらしい報せです。私もおともしたいくらいです」となぜ言わないのか。それは、本当は、死後について信じているふりをしているだけで、実は信じていないということを証明するものではないのか。
 ホント、そうですよね。死後に永遠の平和な世界があると子どもたちに語り聞かせる大人は、もしそれが本当なら、自分こそ真っ先に「やるべき」でしょう。ところが、彼らは「卑怯にも」そんなことはしないのです。それは、彼らの「宗教心」が実はホンモノではないから、ということではありませんか。私は、この本を読んで、そのことにますます強い確信を抱きました。
(2007年5月刊。2500円+税)

世界を不幸にする原爆カード

カテゴリー:アメリカ

著者:金子敦郎、出版社:明石書店
 ルーズベルトはなぜ、原爆投下の目標を早い段階でドイツから日本へと転換させたのか。そこに人種差別があったことを否定することはできない。
 トルーマンは、原爆投下を非人道的だと批判されたとき、野獣には野獣の扱いをしたと言い放った。結局のところ、日本への原爆投下が人種差別によるとか、あるいはその背景に人種差別意識があったと判断する材料はない。しかし、黒人差別が当たり前だった時代である。アメリカ指導者の意識の底流にそれがなかったとは言い切れないだろう。そこには報復・懲罰の意識もからんでいた。
 原爆の威力を確認するためには、空からの目視と写真撮影が不可欠だった。そのため、原爆投下には晴天が条件になっていた。7月25日の原爆投下命令には、原爆の威力を観測、記録するため科学者を搭乗させることが盛りこまれていた。実際、広島に原爆を投下した「エノラ・ゲイ」には科学者を乗せた観測機2機が同行していた。
 皇居も原爆投下目標の有力な候補のひとつとして検討された。原爆投下が日本に対して最大限の心理的効果をあげること、最初の原爆使用を十分に「見せ場効果」のあるものにすることが委員会内で合意されていた。皇居は心理的効果は大きいが戦略的効果は一番小さいとして除外された。そこで、最終的には、目標を京都、広島、新潟の3都市に絞りこんだ。次いで、広島、小倉、新潟、長崎が目標となった。
 小倉の上空が天候不良のため、長崎に目標が変更されたようです。
 原爆投下は、軍事的にみて必要なかったし、アメリカ軍将兵の生命を救うという意味でも必要はなかった。アメリカ政府の首脳陣は、これを分かっていた。それでも原爆をつかった最大の理由は、ソ連を扱いやすくするためだった。原爆投下は軍事的というより、政治的な理由によって決まった。トルーマンがポツダム会談を引きのばしたのは、原爆実験の結果をもって臨みたかったからである。
 アメリカは原爆の開発に20億ドルもの巨額の資金と資源を投入した。
 アメリカが第二次世界大戦で兵器生産に投じた金額は120億ドルだった。
 アメリカの軍事産業は、産軍複合体とも呼ばれ、アメリカが戦争をしかけるごとに肥え太っていきました。肥大する軍事産業のおこぼれにあずかるような会社とか、それに寄生するような法律事務所であってはならないとつくづく思いました。
(2007年7月刊。1800円+税)

ゆりかごは口の中

カテゴリー:生物

著者:桜井淳史、出版社:ポプラ社
 魚の子育てを追跡した楽しい写真集です。人類発祥の地として名高いアフリカ大陸の大地溝帯にあるタンガニーカ湖にすむ魚も登場します。そこには300種類もの魚がいて、口の中で子育てをする魚、何かにたまごを産みつけ、そこでたまごと稚魚を守る魚など、いろんな魚がいるのです。
 著者はまず、自分の家の水槽でエンゼルフィッシュを飼い、その子育てを撮影しようとします。エンゼルフィッシュは南米のアマゾン川が原産地であり、オスとメスが協力して子どもを育てる、なかのよいペアは死ぬまで一緒に暮らします。ふむむ、すごーい。
 エンゼルフィッシュは、シクリッドフィッシュと呼ばれる魚のグループ。シクリッドフィッシュは、アメリカ大陸とアフリカ大陸の熱帯地方の川や湖、海ぞいに1200種ほどいる。どの魚も面白い産卵の仕方であり、子育てが上手である。
 エンゼルフィッシュを水槽で飼おうとして、適当な2匹を入れても、ケンカばかりして、とてもうまくいかない。エンゼルフィッシュは、実は、人間の都合によるお仕着せのカップルではダメで、自分で相手を選ぶ恋愛結婚でしかうまくいなかい。
 ひゃあ、そうなんですか・・・。魚と思ってバカにしてはいけないのですね。
 エジプシャンマウスブルーダーは、口の中に子どもを入れて子育てをする。その写真があります。信じられません。子どもたちを守り育てるのに一番安全な場所は、親の口の中だというわけです。子どもが口の中にいたら、親はエサを食べられませんよね。でも、そこもうまく解決しているようです。
 親が子育てをしない魚では、たとえばマンボウは1回に3億個のたまごを産み、イワシは1回に10万個ものたまごを産む。その大半が食べられる運命にある。
 しかし、親が子育てをする魚は、一回に産むたまごは、500個とか30個というように、とても少ない。
 魚の子育てにも人間の子育てのような苦労があるということを知りました。
(2006年12月刊。950円+税)

越境捜査

カテゴリー:未分類

著者:笹本稜平、出版社:双葉社
 推理小説のような警察小説ですので、粗筋を紹介するわけにはいきません。千歳空港の本屋で買って、福岡までの飛行機のなかで読了しました。えーっ、警察署って、暴力団と同じ暴力的な体質の組織だったんだー、と思いました。警察内部の派閥抗争は邪魔者は消せということで、馳星周ばりのバイオレンス物の展開です。
 背景にあるのは、警察のトップに君臨しているわずか300人ほどのキャリア組の高級幹部警察官による裏金分捕り合戦、そして、つけ足し的に東京の警視庁と神奈川県警のナワバリ争いが問題となっています。
 あっ、もう一つありました。警察と暴力団幹部とが、実は裏でよく手を結んでいるという事実です。
 いま、福岡県内では、北九州の暴力団制圧作戦が進行中のはずですが、見るべきほどの成果をあげているとは思えません。筑後地方の対立抗争事件では、一方の組長が射殺され、下部組織の組長2人が殺されているのに、警察は「自首」してきた組員以外、誰も捕まえてはいません。いったい、どうなっているんでしょうか。警察の捜査能力の低下は目を覆わんばかりのひどさだと語ってくれた知人がいましたが、まさにそのとおりです。
 警察は、公安優先ではなく、もっと刑事・交通分野を優遇し、人々が安心して生活できるようにがんばってほしいと思います。
(2007年8月刊。1600円+税)

中国戦線はどう描かれたか

カテゴリー:日本史(戦後)

著者:荒井とみよ、出版社:岩波書店
 昭和13年(1938年)、林芙美子は日本軍の漢口攻略作戦に従軍作家として参加した。この作戦は、実は、とても従軍作家たちを招待できるような、余裕のある戦争ではなかった。長い行軍に疲れ果てた兵隊、大陸の熱暑と疫病で苦しむ兵隊、作戦の遂行もままならないありさまだった。相次ぐ戦病死者で部隊の体裁も保てない状態が続いていた。
 だからこそ、日中戦争を続行するために銃後の人々の感情動員が求められた。
 中国との宣伝戦は、もう一つの必死の戦さだった。従軍作家たちには、たぶん、その自覚はなかっただろう。
 戦後、中国人学者が林芙美子を次のように批判しています。
 林芙美子は、ペン部隊の数少ない女性作家として、武漢の前線で大いに頭角を現わし、侵略戦争の積極的な協力者であった。彼女にとってみれば、戦争がもたらしたのは、名声・栄誉と虚栄心の満足だ。敗戦は、逆に、これらかつての自己陶酔の一切を一瞬にして三文の価値もなしにし、あわれや糞土のごとくに変えてしまった。
 なーるほど、と言うしかありません。侵略戦争に協力したペン部隊の作家として、次の人たちがあげられています。ええーっ、こんな人までが・・・、と驚きます。戦争って、本当に文化人まで根こそぎ動員するのですね。
 佐藤春夫、古屋信子、小島政二郎、吉川英治、尾崎士郎、石川達三、深田久彌、藤田嗣治、西條八十、佐多稲子、丹羽文雄、豊田正子、そして菊池寛。
 『一兵士の従軍記録』というものも紹介されています。歩兵上等兵、伍長、軍曹という地位にあった人の日中戦争従軍記です。
 昭和13年7月から8月にかけて、部隊は南京経由で常州に入る。「支那の暑さ、盛夏となって味わうに、南の暑さは殺人的だ」という日々。
 炎天下の行軍。大隊は、炎熱のため、落伍者はいうに及ばず、死者まで出す。一日かけて前進してきた道が間違っていたとの知らせで引き返す。フラフラの行軍。敵弾の飛びかう下での眠り。サイダー一本で蘇る歩兵たち。
 やっと生き返ったのに、翌日になると、命令なく後退したという理由で、戦場へ戻れと言われる。なんと無理な命令だろうか。なんと軍人は辛いものか。
 兵隊は赤紙で生まれるのではない。戦友の死、無理難題の作戦、飢えや寒さ、また炎暑に苦しむなかで、兵隊になっていくのである。
 敵への憎悪は、戦闘のはじめの段階ではなかった。しかし、厭戦気分と裏表になった闘争心が徐々に肥大して彼らは兵隊になっていく。
 出発時に194人だった部隊が、2年後、20数人になっていた。
 実は、私の父も、この昭和13年(1938年)11月に応召し、中国大陸に1等兵として従軍しているのです。久留米の第56連隊(第18師団)に所属していました。武漢攻略作戦です。父は広東周辺にいたようですが、前線で危ない目にあったものの命拾いし、痔、脚気、マラリア、赤痢と次々に病気にかかり、ついに本国送還命令が出ました。1939年7月、台湾の高雄に上陸し、高雄と台北の病院で入院・治療を受け、1940年1月、本土に帰ってくることができました。
 林芙美子の従軍日記で描かれているような日本軍の悲惨な状況は、父の置かれていた状況でもあったわけです。その子として、私も歴史の現実をきちんと受けとめ、私の子どもたちに伝えなければいけないと思いました。
(2007年5月刊。2400円+税)

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