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昆虫がヒトと救う

カテゴリー:生物

著者:赤池 学、出版社:宝島社新書
 ひゃあ、そうだったのか、知らなかったー・・・。つい、そんな叫びをあげてしまいました。
 ウジ虫が劣悪な衛生環境の中で生きていけるのはなぜなのか?
 こんな発想をもったことがありませんでした。ウジ虫は自分のもっている自然免疫を活性化させているから、ひどい環境のなかでも成長できる。その抗菌力はザルコトキシンによる。これは小型タンパク質の一種、ペプチドである。
 その殺菌力は協力で、1ミリリットルの体液中、1ミリグラムの1万分の1というわずかな量さえあれば、細菌類を殺すことができる。それでいて、動物の培養細胞には何の悪影響も及ぼさない。つまり、悪い菌だけ殺して必要な細胞は殺さない。
 そして、このザルコトキシンは、一度つくられて永久に体内に存在するわけではなく、体が傷つくたびに生成される。この物質から、人間のある種のガンにピンポイントで効果をあらわすものが発見された。うむむ、なんと、なんと、すごい発見です。
 次はシルク。シルクはタンパク質で、糸はタンパク質同士が水素結合でくっついてできた集合体。シルクは昆虫の体内にあるときには液体なのに、外に吐き出されたとき一気に美しい糸になる。糸は直径10ミクロンで、長さは1500メートルもつながっている。
 このシルクには、カビにくいし、質感を変えておいしくする作用がある。カビの発生を遅くし、味が滑らかになる。ふーん、シルクって光沢があるだけではないのですか・・・。
 スズメバチに刺されて死ぬ人が毎年25人ほどいる。それほど猛毒をもつ昆虫である。このスズメバチは巣がないと2〜3日しか生きられない。なぜか?スズメバチは虫などを食べる肉食昆虫なのに、自分で捕ったエサ(肉ダンゴ)を食べることができない。というのは、スズメバチの胸と腹をつなぐ胴がものすごくくびれているため、液体しか通らない。これは、どの方向、どの位置にいる敵に対しても毒針を刺せるよう、自由自在に腹を動かせるためのもの。ところが、その結果、スズメバチは液体流動食しかとれない身体になってしまった。では、そのエサはどうやってとるのか。なんと、幼虫からもらうのです。幼虫は親のスズメバチからもらった肉団子を食べて、大量のアミノ酸ドリンクをつくり、それを親に与える。だから、幼虫がいないと、親は栄養をとることができない。スズメバチの親子は、栄養の交換を通じて、固い絆で結ばれている。
 うむむ、これはすごーい。そして、このアミノ酸ドリンクが、スズメバチの高い運動能力をもたらしていたのです。そこに気がつき、着目した学者は偉いですよね。このアミノ酸ドリンクは、ふだん燃えにくい脂肪を燃やして、エネルギーにして運動しているのです。そして、これは運動しなくても脂肪が燃えるということから、運動なしでやせられる夢のダイエット飲料として着目されました。これが有森裕子と高橋尚子が宣伝するVAAMなのです。
 いやあ、驚きました。ちっぽけな昆虫たちが、たまに人間を殺してしまったり、嫌われもののウジ虫が実は人間のためにすごく役立つ存在でもあったなんて・・・。ホント、世の中は不思議なことだらけです。
(2007年10月刊。700円+税)

中原中也、悲しみからはじまる

カテゴリー:社会

著者:佐々木幹郎、出版社:みすず書房
 この10月に山口の湯田温泉に行ってきました。小さな温泉街です。町なかにしゃれた美術館がありました。中原中也美術館です。この本はそこで買いました。私は美術館に行ったときには、DVDを見るようにしています。よくまとまっていますので、便利です。詩人の中原中也は湯田温泉に生まれました。父親は中原医院を開業している、有名な医者でした。期待した息子(長男)が医者にならず詩人になるのを認めなかったそうです。でも、こればかりは仕方のないことですよね。私も長男が弁護士をめざすと言ったときにはうれしく思い、別の道を歩みはじめたときには少し寂しさを感じました。だけど、自分にあった道を歩むのが一番です。父親だからといって私の意見を押しつける気はさらさらありません。
 この本を読んで、中原中也の早熟さに驚き、かつ呆れてしまいました。
 十代の中学生のとき、中原中也は早々と詩を書く以外にない、眼が覚めたとき詩人である自分がいた、というのです。
 中原中也が、かの有名な評論家である小林秀雄と同世代であり、三角関係にあったということも初めて知りました。小林秀雄は、中原中也に魅力と嫌悪を同時に感じたといいます。いわば早熟男が別の早熟男に魅力と嫌悪を感じたということだろうと著者は解説しています。
 中原中也は、小林秀雄の批判に対して、「それが早熟の不潔さなのだよ」と言い返しました。なんという言い方でしょうか。さすがは詩人です。私にはとても発想できない言葉のつかい方です。
 中原中也は、中学4年生17歳のときに、6歳年上で23歳の女優である長谷川泰子と京都の下宿で同棲生活をはじめます。
 うむむ、なんと早熟な・・・。
 そして、小林秀雄が親友の恋人(泰子)に惚れてしまい、泰子は小林秀雄と一緒になる道を選ぶのです。中原中也は親友に恋人を奪われ、失恋してしまったわけです。
 日本の文芸批評を創始した小林秀雄は、一人の女性と一人の詩人を通して評論家になった。著者はこのように解説しています。ところが、中原中也は小林秀雄との絶交状態をいつのまにか解消して、つきあいを復活させるのです。なんということでしょう。ここらあたりになると、凡人の私の理解をこえます。
 この本には中原中也の詩が推敲される過程が原文の写真つきで紹介されています。
 中原中也は語勢を大切にした。語勢とは、詩のリズムをあらわす、中原中也らしい表現である。詩の世界では、言葉というものの面白さをどのように引き出すかが、いつも問われる。
 汚れちまつた悲しみに
 今日も小雪の降りかかる
 汚れちまつた悲しみに
 今日も風さへ吹きすぎる
 たまには声を出して詩を読んでみるのもいいものです。
(2005年9月刊。1300円+税)

借金取りの王子

カテゴリー:社会

著者:垣根涼介、出版社:新潮社
 団塊世代は、とっくに定年期を迎えています。第二の人生を意気高く迎えて過ごしている人もいるでしょうし、なんとなく鬱々とした思いでその日が過ぎているだけの人も多いことだと思います。会社内でリストラをする側にまわったらどう思うか、リストラされる側になったとき、どんな気持ちなのか、自分にひき寄せながら、身につまされつつ読みすすめていきました。
 主人公はリストラする側の会社員です。
 嫉妬。出世競争の中に生きる男がもつ、もっとも醜い感情の一つだ。同期の陰口を叩く。ないしは悪意のあるうわさ話を流す。あるいは実際の業務で足を引っ張る。そして相手が出世コースを外れていくまで、それらの行為をあくことなく続ける。ある意味、女の嫉妬より陰湿で始末が悪い。
 たいていの会社では派閥抗争があるようです。そして、頼っていた上司がコケたら、部下まで一蓮托生でコケていく。そんなリスクを背負いたくないから、上司に仲人を頼まなくなった。そんな話を聞いたことがあります。ドライな人間関係が好まれるワケです。
 出世なんて、しょせんはオセロと同じだ。ある一時の局面では優位になったとしても、ほんのちょっとした油断やミスから、またたく間に盤の目はひっくり返る。勝っていたと思っている状況からひっくり返されるから、より悲惨だ。カッコもつかない。
 自分の努力だけでなく、ときの運が必要なのは、多かれ少なかれどんな職業にもあるとは思いますが、気持ちのいいものではありませんよね。
 あるサラ金会社の話。支店の雰囲気が悪い理由はいろいろあるが、その最たるものが社内不倫だ。上司が部下に手を出す。既婚者の同僚同士で道ならぬ恋に落ちる。男もそうだが、会社で同等の仕事を任されている女も数字に追われ、絶えず激しいストレスにさらされている。気持ちが徹底的に乾いている。なにかにすがりたくなる。そこに、自分の苦しい状況を何度も救ってくれる相手がいると、それが白馬に乗った、自分のように情けなくない、王子に見える。つい抜き差しならない仲になってしまう。分からないでもない。
 社内不倫は、これまた、あらゆる職場で横行しています。私の身近なところでも、いくつか見聞しました。
 「おけえらカスだ。人間のクズだ。いいからもう全員死ねよ」
 これは、サラ金会社の支店長同士でお互いを罵倒しあう時間にあびせる言葉です。一人の店長について、10分間、他の店長から集中砲火を浴びせられます。相手の欠点を何がなんでも責め立てるのです。
 「努力が足りない」
 「意識が低い」
 「数字の読みが低い」
 「部下の指導力が弱い」
 「ったくよお。それが年収1000万円以上もらっている人間の働きか。おいっ」
 いくら高給とりとはいえ、人間じゃないように責め立てられて生き残る人って、何者なんでしょうね。
 小説としても、なかなかに読ませるものとなっていました。
 日曜日に、チューリップの球根を庭に植えました。久しく雨が降っていないので、その前後にたっぷり水をかけてやりました。いまエンゼルストランペットの黄色の花と、と白とピンクの花が満艦飾です。もう少し寒くなると霜で全滅してしまいます。師走に入って寒くなったとはいえ、まだ霜がおりるほどではありません。夜になって久しぶりに恵みの雨が降りました。
(2007年9月刊。1500円+税)

魅惑する帝国

カテゴリー:ヨーロッパ

著者:田野大輔、出版社:名古屋大学出版会
 いやあ実に面白い本でした。知的好奇心をしっかり満足させてくれました。多読していると、こんな素晴らしい本にめぐりあることができます。著者はまだ30代後半の若手学者ですが、その問題関心と背景説明には、何度も、なるほど、なるほど、そうだったのかと、うなずいてしまいました。えっ、たとえばどんなことに魅かれたのか、ですか。
 ヒトラーは、スターリンや後世代の毛沢東と違って、その第三帝国が存在した12年のあいだ、彫像がまったくなかったというのです。あれほど絶対的に崇拝され、ほとんど救世主の地位にまで高められたドイツの独裁者の彫像が存在しなかったのはなぜか?
 著者はこのように問題を設定し、さまざまな角度からアプローチしていきます。
 写真集においては、「総統も笑うことがある」というように、制服を着用していないヒトラーが表情もなごやかで、民衆や子どもたちと気さくに談笑している。
 しかし、こうした親密な雰囲気は体制が安定期を迎えた1930年代中頃から次第に後退していき、やがてきまりきった儀礼的賛美へ転化する。とくに戦争がはじまると、ヒトラーは総統本営にひきこもって国民の前に姿をあらわさなくなったため、ますます遠い存在となった。
 ヒトラー自身、民衆との結びつきが何よりも重要なことを自覚し、独裁者のような印象を与えないよう十分に注意していた。ヒトラーは、民衆の感情に配慮して、ヒトラー自身も質素な服装を着用し、粗末な食事をとり、酒もタバコものまず、妻もめとらなかった。ヒトラーの趣味は、専制君主の権力誇示とは対象的に、謙虚さや質朴さを美徳として強調するものだった。
 ヒトラーは、みずからの生を公開し、親密さという価値を政治の中心にすえることで国民の信頼をかちとった。それは、疎遠でない政治、指導者と大衆が同じ目線に立つ政治であり、見とおしのきかない現代社会にあって、人々に政治参加の感覚を与える一種の「民主的」な政治形態だった。
 ヒトラーによる「親密さの専制」は、第三帝国においても市民的価値観が連続性を保っていたこと、それどころか、この価値観こそナチズムの基盤にほかならなかった。むしろ、スターリンのほうが例外的だった。
 ヒトラーが生前に描かせた肖像画は、つねに無表情で直立し、表情やポーズの硬さは、彼が総統として象徴的な意味を担っていることを示している。
 多くの人々は実物のヒトラーを見てぱっとしない印象しか受けず、公式のイメージとの落差に驚きととまどいを覚えた。ヒトラーの目つきには、どこか生気のないところがあり、それが強い印象を与えた。
 ヒトラーによって粛清された突撃隊のリーダーであるレームについても、鋭い指摘があり、目を開かされました。この突撃隊には、かつての共産党支持者が大量に鞍がえして入っていたというのです。あの有名なナチ・デマゴーグのゲッペルスは、闘争期には、共産主義への明かな共感を表明し、「私はプロレタリアートの社会主義を信じる」とさえ述べている。
 国民の圧倒的多数を占めながら、長らく政治的公益性、公共性から排除されつづけていた労働者に対して、ナチズムは門戸開放を約束することで、大きな原動力を手にした。
 しかし、ナチ党が権力を握ったとき、党指導部の統制に従わず、なおも第二革命を要求する突撃隊の急進主義は、国民全体を総合する「民族共同体」の建設にとっても、もはや障害でしかなかった。
 このようにしてレームの粛清は必然だったのです。
 さらに、ニュルンベルグで開かれていたナチ党全国大会についての実情紹介と、その分析もまた興味深いものがあります。参加者が50万人に達し、一糸乱れぬ統制とれた行進を写真でみると、いかに当時のドイツ国民がナチス・ヒトラーに心酔し、熱狂していたか、よく分かります。ところが、その内情はびっくりするものがありました。
 党大会は会場もプログラムも、それぞれの組織ごとに異なり、全体が一同に会することはなかった。独立王国の寄せ集めだった。 第三帝国は決して一枚岩ではなかった。むしろ、激しい権力闘争にひき裂かれた機構的アナーキーというべきものであった。左翼政党や労働組合は破壊されたが、それ以外の大部分の既成集団、とくに官僚機構、軍部、企業などはナチ党の侵入はほとんどなく、自由裁量を維持しており、圧力集団として機能していた。
 人々は概してナチ党全国大会に無関心だった。ニュルンベルグ観光ができるということで参加していた。汽車賃も食事も無料で、こずかいまでもらえた。
 行進や演説といった公式行事よりも、いろいろの催し・娯楽が人々を惹きつけていた。
 泥酔した党員が乱闘騒ぎをおこしたり、制服姿のまま売春宿に殺到したりする事態があり、主催者を悩ましていた。参加者は楽しいお祭りと受けとめていたのだ。
(2007年6月刊。5600円+税)

ちひろ

カテゴリー:社会

著者:松本善明、出版社:新日本出版社
 いわさきちひろの絵は、見るたびに心が洗われる気がします。ほのぼのとした絵というより、魂の気高さが幼な子のすずしげな瞳を通じてにじみ出ている、そんな鮮烈な印象が身体を貫きます。私は残念ながら東京にある「ちひろ美術館」にも、長野にある同じく「ちひろ美術館」にも行ったことがありません。でも、近いうちに必ずどちらも行ってみたいと思っています。
 この本は、いわさきちひろの夫であった松本善明弁護士がちひろの絵に秘められたものを探るということで紹介したものです。松本弁護士は言わずと知れた日本共産党の元代議士です。テレビに登場したときの、そのソフトで落ち着いた語り口は、いつも安心して、うんうん、そのとおりだよなと思いつつ聞くことができるものでした。
 いわさきちひろが肝臓がんで亡くなったのは1974年(昭和49年)8月のことでした。私が弁護士になったのは同じ年の4月です。
 著者は、学校で音楽と図画が大の苦手で、中学で音楽の科目がなくなったとたんに平均点が上がったほどだったということです。私は図画のほうは何とか描けて好きだったのですが、音楽はからっきしだめでした。声の出せる音域がとても狭くて、自分で勝手に変調したりして、自分が音痴であることは自覚せざるをえませんでした。年の離れた長姉が私をオルガンの前に立たせて歌唱指導してくれたのですが、私が歌うのを聞いて、「こりゃあ、あかん」という顔をしたのが今も暗い思い出となって残っています。
 それはともかくとして、そんな著者の妻に画家がなったのですから、驚きです。
 ちひろは不幸な結婚の過去をもっていて、再婚など、とうてい考えることができず、父から結婚を迫られるという環境からぬけ出して生活の転機をつかもうとしていた。
 そんなちひろが画家になったきっかけは、日本共産党の宣伝芸術学校への入学だった。
 へー、共産党に芸術学校なんてあったのですか、ちっとも知りませんでした。
 そのあと『人民新聞』に入り、その編集部でちひろは活動するようになりました。このとき、本名の「知弘」がちひろと書かれるようになったのです。
 ちひろの描いた絵に対して、当時の仲間から、ちひろの絵は現実をリアルに描いていない、甘い絵だと批判されました。「子どもはみんなそんなに可愛いだけじゃない。ガキという憎らしいところもあるんだから、ガキのリアルさが必要だ」
 この批判に対して、ちひろはキッパリ反論しました。
 「自分は、どんな泥だらけの子どもでも、ボロをまとっている子どもでも、夢をもった美しい子どもに見えてしまうのです」
 なーるほど、これではすぐに勝負がついてしまいますよね。
 著者は、結婚したとき23歳。東大法学部を出て、共産党国会議員団事務局に勤め、議員秘書をしていました。ちひろは、その7歳も年上の30歳でした。結婚式は2人だけで、大枚1000円をはたいて買った花一杯に部屋を飾って、ぶどう酒一本とワイングラス2つだけ。この「花の結婚式」を上條恒彦が歌にしています。
 屋根裏の部屋は 暖かかった
 二人で遠くを みつめてたんだ
 淋しくなんか なかったよ
 同じ炎を もやしていたから
 なかなかいい歌ですよね。この歌を知らない人は、ぜひCDを探して聞いてみてください。著者は、そのあと共産党の内紛から国会事務局を解任されて失業すると、司法試験を目ざし、すぐに合格して弁護士になります。ちひろから支えられての受験生活を送ったわけです。
 ちひろはスポーツウーマンで、もともと運動神経がとても発達していたそうです。プールでも相当のスピードで泳いだとのことです。
 いわさきちひろの絵は教科書にもつかわれています。ところが、ちひろの夫が共産党の松本善明代議士であることから、その莫大な印税が日本共産党に入っているんじゃないかと国会で問題にした自民党の代議士がいたそうです。もちろん、そんな事実はありませんでした。それにしてもなんという心の狭い代議士でしょうか。
 ちひろの絵を見たあと、表紙の裏にあるちひろのニッコリ笑っている顔を見ると、本当に心がほんのり温まってきます。
(2007年8月刊。1500円+税)

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