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氷川下セツルメント

カテゴリー:社会

著者:氷川下セツルメント史編纂委員会、出版社:エイデル研究所
 徳川直の小説『太陽のない街』の舞台となった東京・本郷の氷川下地域にあった学生セツルメントの活動を元セツラーたちが語った記念誌です。私は同じ学生セツルメント活動をしていましたが、地域は違い、神奈川県川崎市でした。そこは貧困地域というより、労働者の多く住む古市場という町で、若者サークルの一員として活動していました。
 氷川下にも古市場にもセツルメント診療所(病院)がありました。古市場には今も存続していますが、氷川下のほうは2000年4月に閉鎖されたことをこの本で知り、大変ショックを受けました。ええーっ、なんでー・・・、と思いました。
 氷川下セツルメントは東京教育大学(今の筑波大学の前身)に隣りあわせだったようです。1953年4月に40人でつくられスタートしました。
 氷川下の町は貧しい町ではありませんでした。みるからに可哀相な人もいません。
 全セツ連は、全国30あまりのセツルメントから成り、セツラー3000人が所属していた。全セツ連書記局のを構成するセツルメントは、北から宮城の中江、千葉の寒川、東京の亀有と氷川下、神奈川の川崎、愛知のヤジエ、そして大阪の住吉だった。
 全セツ連大会には600人のセツラーが参加した。1965年の仙台での全セツ連大会では分裂していた川崎セツルメントの中島町と駒場のどちらに代表権を認めるかが議論になった。生産点論を主張したT君はその後、体制側の中枢の裁判官になった。地域を大切にする本間重紀(おやじ)の活動する中島町の方に軍配はあがった。
 多くの元セツラーたちは学生時代にセツルメント活動をして大変学ばされた、そして今もその経験が人生の多くの原点になっていると書いています。私もまったく同感です。
 当時、何を考えたのか、何を学んだのか、地域の人々の暮らしや子どもたちの本当の姿に接しながら、毎日を過ごし、自らの実感にしていたこと。社会に出る前に、エリートの大学生のなかだけで過ごすのではなく、地域の実態に接しながら、社会全体を構造的に見る視点をもつことができたことが大きい。
 実際に社会で出会うさまざまな場面で、自らの意思で選択していく視点と困難から逃げ出さない楽天性を、セツルメント活動を通じて大学時代に身につけることができました。
 40数年前のセツルメント活動を体験して人生観が変わりました。
 医師としての38年間を支えてきた原点は、学生時代の6年間のセツルメント活動にあったと言っても過言ではないくらいに、私の人生にとっては大切なセツルメントでした。
 みんな本当に真面目で、一生懸命で、世の中にこんな純粋な人たちがいるのかと思うようなサークルでした。
 弱い者いじめを連想させるようなゲームをして盛り上がったとき、「セツラーが、こんな資本主義的な遊びをするのか」と叫んだ人がいた。それを聞いて、ああ信頼を裏切ってしまった、やってはいけないことをした、大変なことをしてしまった、と悄然とした。
 弱者を蹴落とす、一生懸命やっている人を表で励まし、裏では笑う。そんなことをしてしまった。それを自覚して、もっとも純粋に誠実になれるよう、自己改造をはじめた。
 20歳まで誰にも言えないこと、一番こだわっていたことをセツルメントのなかで話すことができた。一人に話せると、そこから扉が開いて、外の世界に進んでいくことができる。人間(ひと)は信じてもいいのだと思えるようになった。自分だけで抱えこんでいた悲しみ、苦しさから、それに共感してくれる人たちと出会えたこと。それがセツルメント時代のもっとも大きなドラマだった。
 男女学生が一緒に活動していましたから、男女の共同・協力がすすむセツルメントでは、自然に愛が芽生えることも不思議なことではない。愛の問題がセツルの中心問題となって、屋根裏部屋の恋愛教授と目された学生もいた。結婚にこぎつけたカップルも少なくない。ただ、他人の相談にはよいけれど、自分のことはからきしダメで、愛を実らせることはできないセツラーもいました。なるほど、そういうセツラーがたしかにいましたよね。私も他人(ひと)のことは言えませんが・・・。
 それはともかく、ほのぼの論と命名された雰囲気がセツルメントはあった。セツルメント集団の中には、自然のうちに誰も気づかないうちに醸成されていた。
 女性を真剣に好きになる経験も初めてしました。好きな人と話すときの心の弾みと、切なさを初めて知り、また、失恋の痛切な痛みも知りました。
 セツルメントこそ、私の大学だった。つくづくそう思う。いろんなヒトが、そのように語っています。OS会(オールド・セツラーの会。つまり、学生セツラーであった人々のこと)は、セツルメント大学同窓会である。
 元セツラーで、裁判官なり、いまは弁護士になっている人が次のように語っています。
 セツルメントの経験は、たとえば大学の中で相談をするというのではなく、地域で、生活している現場で相談していることに意義があった。セツルメント法律相談部は、いつか廃部になったそうであるが、今でも存在価値は十分にある。
 私が今年(2008年)受けとった年賀状に、元セツラー、元裁判官で、今は弁護士の人から、東京の亀有セツルメントの法律相談に通っていると書かれているのを読んで、うれしく思いました。学生セツルメントも全滅したのではないようです。
 セツルメント法相部の指導教授は、民法と法社会学の川島武宣、民法学の来栖三郎、加藤一郎の三氏であり、助教授クラスで学生セツラーの相談に乗っていたのは、OSでもある村上淳一、稲本洋之助の両氏だった。
 ところが、セツルメント時代を単に楽しい思い出だと言えない人が想像以上に多いことに気づきます。それは何より、書いた人の年齢で分かります。私と同世代、つまり団塊世代をふくめて、それ以降の人々がきわめて少ないのです。まだ、人生を総括するには早すぎるということでしょうか。過去を振り返りたくないと思っているのでしょうか・・・。
 セツルメントが自分をどう変えたかと回顧する気にはどうしてもならなかった。それを整理する時間と余裕も持ちあわせていない。
 ちゃんと向きあうことが怖いからなのかもしれないと思う。若さにまかせて思い切りいろんなことをした。思い出すだけで恥ずかしくなること、真剣に思い出したら今でも胸を締めつけるような思いに囚われてしまいそうなこと、ああすればよかった、こんな風にふるまえばよかったと後悔ばかりしそうなことがたくさんある。思い出すと胸が苦しくなるばかりだ。だから、それらに触れないようにしているのかもしれない。1966年入学以降の元セツラーからの寄稿が少ないのは、そのせいかもしれない。
 全体的な気分は物悲しさだ。
 私と大学同級生のセツラーであるボソは次のように語っています。身体で学んだ青春だった。民宿の夜は、男女が雑魚寝で話し続けた。いろんな人といっぱい話したかった。いっぱい聞いてほしかった。可能性を信じて、働きかける魅力は捨てがたいものがあった。人生の価値を考えたとき、転職は避けられなかった。少しでも自分の実践を展開するため、ささやかな努力を積み重ねてきた。
 法学部卒業のボソは、民間企業に入り、8年間そこでがんばったが、教職に転じ、今も私立高校の社会科教師としてがんばっている。ときどき実践記録を送ってくれますが、高校生の書いた文章のレベルの高さには毎回驚かされています。
 『清冽の炎』(神水理一郎、花伝社)を読むと、懐かしさとともに、少しこそばゆさもどこかに感じてしまう。自己変革という言葉に当時、大いに惹かれた・・・。
 2007年夏に出版された本ですが、1967年以降に入学した元セツラーの寄稿がとても少ないのです。年に2回の全セツ連大会には全国から1000人以上ものセツラーが参集して大変な熱気を毎回感じていました。あのころの熱気はどこへ行ったのでしょうか。私は、もっともっと大勢の人に、回顧趣味でもいいから、ともかく当時のセツルメント活動を気軽に振り返ってほしいと思っています。きっと、今の自分と過去の活動の接点が見えてきて、それは明日にプラスになることだと思うのです・・・。
(2007年8月刊。3333円+税)

永遠なる青春

カテゴリー:日本史(戦後)

著者:桟敷よし子、出版社:青春社
 明治35年に生まれた著者の自伝です。母方の祖父は黒田藩士でしたが、博多を出て、北海道に移住しました。著者の父はキリスト教の信者であり、教師をしていたが、日露戦争に反対し、札幌で幸徳秋水らの平民新聞社グループの一員であった。明治41年、つとめていた学校の校長と意見があわず、開拓農民となった。
 結婚して15人の子どもをもうけたが、みなメアリーとかナポレオンなどの外国名をつけた。著者はジョセフィンと名づけられた。著者の15人兄弟15人のうち8人が乳児のときに亡くなった。ほかの兄弟も病気につきまとわれた。
 すごい名前ですよね。近ごろは、とても日本人の名前とは思えない名前の赤ちゃんばかりですが、なんと明治35年ころに自分の子どもに外国の名前をつけていた人がいたなんて。しかも、一応インテリなのですからね・・・。
 著者の父親は、貧しい開拓農民の身でありながら、著者を札幌の女学校に入れた。第一次世界大戦が始まったころのこと。
 著者は、女学生として、日曜学校に教えにも出かけた。やがて、関東大震災後の東京へ出て日本女子大に入学した。そこで、社会科学研究会(いわゆる社研)に入り、野坂竜に出会った。野坂参三の妻となった女性だ。この研究会で英文のレーニン『国家と革命』を読んだ。
 昭和2年、大学3年生のとき、授業で英文の「共産党宣言」を学んだ。卒業論文として、徳永直の『太陽のない町』で有名な文京区氷川下の人々の状態を調査するため戸別訪問した。この氷川下には、私の大学生のころ氷川下セツルメントが活動していました。
 そして、昭和3年に日本女子大学を卒業すると、倉敷紡績の工場に入った。今は大原美術館で有名な大原孫三郎のいた会社であり、寮の教化係として働いた。そこでのオルグ活動が成果をあげ、600人の女子労働者がストライキに突入した。すごいですね。昭和5年(1930年)のことです。大原社長の恩を仇で返す結果となったわけです。
 資本主義社会での階級的矛盾は、個人ではどうすることもできない鉄則で回る歯車である。資本家個人の善意とか温情などは、もうけ主義の恥部をおおう「いちじくの葉」にすぎない。著者は、このように述べています。なるほど、ですね。
 このストライキのあと、会社を首になった著者は大阪で地下活動に入ります。その実情はすさまじいものがあります。小林多喜二の『党生活者』を思い出します。ついに警察に捕まります。特高の拷問は、若い女性を裸にし、後ろ手にしばって、あおむけに寝かされ、口の中に汚ない手ぬぐいをつめこむというものでした。
 治安維持法違反で警察に3回検挙され、3つの留置場と4つの拘置所で4回の正月を送り、4年間の刑務所生活を過ごし、昭和11年5月、札幌大通刑務所を満期出所します。昭和9年に刑務所に連行されるときには、青服に深あみ笠の姿で、腰縄をうたれていました。当時の写真によく出てきますね、あれです。そして、大阪に出て、さらに東京に戻り、看護学の勉強をし、昭和13年8月、37歳のとき看護婦試験に合格した。そして、保健婦として活動するようになった。
 昭和20年3月、著者は中国大陸に渡った。満州開拓団の結核予防に取り組むためである。やがて8月に日本敗戦を迎える。日本への引き揚げが大変だった。開拓団難民3万人のなかで、発疹チフスが発生し、90%の患者を出し死亡者が続出、1日100人の死者を出したこともあった。そして、中国共産党の人民解放軍に加わり、後方病院に配属された。
 やがて、中国共産党が中国大陸全土を支配した。1958年5月、ついに日本に帰国することになった。中国で13年のあいだ生活していたことになる。
 そして、大阪で民医連の病院で保健婦として働くようになった。昭和46年、黒田了一革新府政が誕生。 
 古稀という体にねむる青春を きみ起こしたもう 永遠の青春。
 今から32年前の1975年に、著者73歳のときに発刊された本です。戦前の苦難のたたかいが偲ばれます。こんな古い本をなぜ読んだのかというと、いま、私も母の伝記をまとめているからです。話は母の曾祖父、明治時代の初めから始まります。だから、戦前どんな時代だったかというのは当然知っておかないといけないのです。
 私の敬愛する大阪の石川元也弁護士からお借りしました。ありがとうございました。
(1975年12月刊。750円)

受けてみたフィンランドの教育

カテゴリー:ヨーロッパ

著者:実川真由、出版社:文藝春秋
 はじめから私事ですが、私の娘と同じ名前なので、とても親近感を抱きながら読みました。高校生の娘を遠くフィンランドへ一人送り出すというのは親も本人も、とても不安だったと思います。でも、結果オーライでした。大変な自信がついたようです。よかったですね、まゆさん。ぜひ日本でも大いにがんばってください。
フィンランドの教育レベルは世界一です。といっても、先日、フィンランドでも、アメリカと同じように高校生が校内で銃を乱射して人を殺し、自分も自殺したという事件が起きてしまいました。どこの国でも、まったく問題がないというわけではないのですね。それでも、この本を読むと、日本の高校と違って生徒がとてものびのび自由に毎日を過ごしているのがよく伝わってきます。うらやましい限りです。
 フィンランドの学力は、読解、科学で世界1位、数学、問題解決能力で世界2位。日本は、読解力は14位、数学は6位。
 フィンランド経済は年5%のペースで成長している。
 フィンランドには塾も偏差値もまったくない。
 フィンランドの高校は、どのクラスも25人から30人。中高一貫の高校は珍しくない。
 フィンランドの学校は基本的にすべてタダ。学費はタダだし、学校での昼食と軽食もタダ。ただし、おいしくない。大学はすべて国立。学生は毎月、国から奨学金を受ける。寮に入れば、寮費もタダ。塾はないし、高校は単位制。
 フィンランドでは、高校を卒業してすぐに大学に進学する人は少数派である。何年か働いたり、外国を放浪したり、ボランティアをしたり、兵役にいったりして、20歳を過ぎたころに、大学に行くことを考える。これって、いいですよね。自分の生き方、そして人生についてゆっくりじっくり考えることができます。私の娘も何回となく外国に出かけましたが、まだまだ考える時間が必要のようです。やはり、人生にはゆとりが欠かせません。
 フィンランドのテストは、ほとんど作文(エッセイ)。英語・国語はもちろん、化学、生物、音楽までもエッセイ。つまり、自分の考えを文章にして書かせるのが一般的なテスト。フィンランドでは穴埋め問題などなくて、すべて記述式。テストには時間制限がない。テストの前、生徒たちはやたら分厚い本をかかえていて、それを読んで、知識を詰め込む。
 フィンランドの教育の質の高いのは、教師の質が高いことと、義務教育を9年一貫制にしたことによるという。フィンランドでは、教師は絶対に尊敬される職業である。
 教師は、授業中にふざけたり、しゃべったりする生徒がいると、何もいわずにドアを開けて「どうぞ」と言って外に出す。あとで、その生徒を呼び出して怒ることもない。
 うむむ、これはすごいですね。日本でも、もっと教師は大切にされるべきです。
 フィンランド人は暗算をしようとしない。フィンランド人は520万人。日本よりやや狭い面積。医療と教育に手厚いサービスがある。そして、地域コミュニティが機能している。地域のみんなが顔見知りで、挨拶しあう。友だちづきあいは一生続く。
 フィンランドの不動産は日本並みに高い。外食やショッピングをせず、家でごはんをつくって家族で食べて、庭いじりやインテリアを手作りで楽しめば、お金はそれほどかからない。スラムもない。
 フィンランド語は、書き言葉と話し言葉がかなり違う。メールは話し言葉で書く。フィンランド語は、ウラル語族に属していて、ハンガリー語と並んでヨーロッパでは特殊な言語である。フィンランドには、ぜひ一度行ってみたいと思っています。
(2007年9月刊。1524円+税)

君命を受けざる所あり

カテゴリー:社会

著者:渡辺恒雄、出版社:日本経済新聞出版社
 あのナベツネの自伝です。自民党と民主党の大連立を画策した張本人です。いったい日本をどうしようっていうんでしょうか。自分たちの思うように、いま以上に金権政治がまかりとおる日本にしようというのでしょうね。とんでもない権謀術数を駆使する野謀にたけた政治屋であることが、この本にはしなくもあらわれています。
 私がこの本を読んで一番いやな話だと思ったことは、いま読売新聞社の社屋の建っている土地を取得するまでの経緯です。もとは国有地だったのです。そして読売新聞社は通常ならその取得する可能性はとても低かったのです。むしろサンケイ新聞の方が先順位にありました。それを政治力で見事に逆転していったのです。国有地を政治家と有力マスコミで私物化しているのですね、許せません。
 政界トップとマスコミ・トップの密着ぶりは読めば読むほど、嫌な気分にさせます。ええーっ、マスコミって、権力の行き過ぎを少しは牽制する機能を果たすべき役割があるのじゃないのかしらん・・・。そんな疑問を何回となく感じました。
 政治部記者として、ナベツネ記者はさすがに有能だったようです。日米の政界の重要人物と肝胆相照らす仲となって、機密事項の相談にまで乗っていたというのです。ただ単に記事の書ける記者というのではなく、政治家と一緒に政治を動かす記者だったのです。
 同じことは、読売新聞社内部の記者同士の派閥抗争についても言えます。著者は、まさに、その激しい派閥抗争の最終的勝者なのです。著者に負けて脱落していった人には、救いようのないレッテルが何回となく貼られていき、事情を知らない第三者である私などは可哀相に思えるほどです。だから、ひとしお真実を知りたいという気分になります。本当にそうなんでしょうか・・・?。
 自民党政治とマスコミ界の権謀術数の実際の一端を知ることのできる貴重な本だと思いました。
(2007年11月刊。1600円+税)

キムラ弁護士、ミステリーにケンカを売る

カテゴリー:司法

著者:木村晋介、出版社:筑摩書房
 『マークスの山』(高村薫)を1週間かけて精読し、公判調書を読みくだく要領で 70枚ものフセンを貼りつけ、登場人物の相関図を作成しながら読破したというのです。すごーい。それだけで感嘆しました。『マークスの山』は、私は旧版と新版と2度よみましたが、そのたびに感銘を深めるだけで、そこに矛盾があるなどと感じたこともありませんでした。ただ、実は、気がついたことが一つだけありました。登場人物が、なんと私と同世代だったということです。それを考えると、たとえ権力の上層部にいたとしても、そう簡単に事件をもみ消したり、シロをクロと言いくるめるような「権力」の行使なんて無理だよな、ということです。
 横山秀夫の『半落ち』にも挑戦しています。なぜ、被疑者は空白の2日間について真相を語らなかったのか。それを話しても誰も不利益を受けないのに・・・、という指摘は、私も漠然とした疑問を抱いていたところでした。そして、弁護士が被疑者と会うには弁護人選任届が提出されていることが要件ではない。それを著者は知らなかったのではないか、という指摘には、なるほど、そうですね、とうなずいてしまいました。
 そして、夏樹静子の『量刑』にも果敢に挑戦するのです。これには驚きました。『量刑』は、私がとても感心したミステリー小説だったからです。ところが、さすがはキムラ弁護士です。『量刑』のアラをたちまち見破ってしまいました。業務上過失致死傷罪を構成するのを落としているというのです。これは、すごいことです。
 ほかにも、いろんな本が取りあげられ、キムラ弁護士の教養の深さに感じいりながら読みすすめていきました。こんなミステリー小説の読み方もあるのですね。すごいですよね、すごいです。キムラ弁護士の眼力に比べると、私って、まだまだ弁護士力がかなり不足しているようです。でも、これで弁護士35年目に入っているのですけど・・・。少しばかり自信をなくしてしまいました。シュン・・・。
 お正月休みに庭の手入れをして、今はかなりすっきりしています。黄色い小さな花をたくさんつけたロウバイが盛りです。ほんとうにロウのような色をしています。匂いロウバイと言いますが、実は、あまり匂いは感じません。私の鼻が悪いのかもしれません。
(2007年11月刊。1400円+税)

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