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タイガーフォース

カテゴリー:アメリカ

著者:マイケル・サラ、出版社:WAVE出版
 ベトナム戦争のさなかに起きたアメリカ軍によるベトナム住民の虐殺事件を40年たってアメリカのオハイオ州の地方紙「トレド・ブレード」が掘りおこしました。この本は、その過程を明らかにしています。
 それにしても今ごろ、なんで、という思いが、ふと、してしまいました。でも、ベトナム戦争に従軍したアメリカ兵士というのは、ちょうど私と同じ団塊世代が中心なのです。ということは、アメリカ社会を動かしてきた世代だということでもあります。その彼らが今どうしているのか、かつてベトナムで何をしていたのかは、やはり忘れることのできない出来事なのでしょう。
 タイガー・フォースは、1965年11月、デービッド、ハックワース陸軍少佐が「ゲリラの非ゲリラ化」を目的に創設した小隊だった。リコネサンス(偵察)とコマンド(奇襲)の機能をあわせもつことから「リコンド」と呼ばれた。
 タイガーに入隊を許されたのは、わずか45人。タイガーは、グリーンベレーでもあり、戦闘部隊でもあった。2人ないし3人の小単位にわかれてジャングル深く忍びこむ。「やりたいことは何でもやれ」、このように命令されていた。
 索敵行動に加えて、タイガーたちは、しばしば無理な作戦行動を命令された。1966年2月、中央高地の田んぼと山に覆われた場所でタイガーが重装備のベトナム解放民族戦線の軍隊に包囲されたとき、隊長のジェームズ・ガードナー中尉は敢然と3つの掩蔽壕を攻撃した。ガードナー隊長は戦死したが、彼の行動で小隊は脱出することができた。1966年6月、ラオス国境付近の戦闘で11人のタイガー兵士が殺された。
 アメリカ兵はベトナム人を嫌っていた。南ベトナムに足を踏み入れたときから、ベトナム原住民は下等であると言いきかされた。やつらは人間じゃない。将校でさえ、ベトナム人をサル、チビ、つり目などと呼んでいた。新兵訓練キャンプでも、サルという言葉がつかわれた。銃剣術の教練のときには、新兵たちは「サル!」と叫びながら、的を突き刺した。ベトナム戦争を扱ったアメリカ映画『フルメタル・ジャケット』『ハンバーガーヒル』『プラトーン』『7月4日に生まれて』などで、その状況が生々しく再現されています。
 兵士の教育プラグラムでは、敵は人間ではないと思わせる。敵から人間的価値をはぎとってしまえば、殺しやすくなる。
 1967年の半年で5000人近いアメリカ兵が殺されていた。その半分は5月以降の死者だった。1966年の1年間の死者総数に近い数字だ。
 不気味な場所だ。闇、ジャングル、前線中隊から隔絶された。道らしい道はない。太いツタが木々にからみついて光を遮断し、熱を密封している。遠くで咆哮するゾウ、近くで悲鳴をあげる野生の猿が、ひっきりなしに沈黙を破る。ミドリ毒ヘビにかまれると、はげしく痙攣しながら、たちどころに死ぬ。黒いジャングル・ヒルは長さ3センチで、木から落ちてきて肉に吸いつく。吸われたところは、痛いミミズばれが残る。
 新兵たちが朝、隊に入り、夕方には死ぬ。衛生兵は、タイガー兵士がいきなり無防備のベトナム人を撃ち殺すのを目撃した。それは、彼ら自身が非難していた行為だった。ドミノが倒れはじめた。ひとりまたひとり、兵士がこわれていった。多くは恐怖と脅しに屈した。一夜にして起きたことではない。徐々に腐食していった。兵士たちがこわれるなんて、誰も予測していなかった。だが、現実にそれは起きた。
 個々の兵は、死の淵に立たされたとき、倫理と自己破壊の境をこえる危険性を内包している。兵は僚友が殺されるのを見たり、死の恐怖に直面したりすると、指揮官に命を預けられるかどうかを考える。もし指揮官が民間人を殺せば、兵はそれにならおうとするだろう。自分の行動を正当化しようとする。この指揮官は、自分を活かしてくれているのだから、正しいことをしているに違いない。そこで兵は、一気に殺戮に加わっていく。
 アメリカ陸軍がベトナム中央高地の地上戦で敗れつつあることは今や公然の秘密だった。1967年2月以来、陸軍と空軍が何百回もの出撃で何千発の爆弾を落としても、戦況にはまったく影響がなかった。
 兵士は覚せい剤やマリファナがなければ一日をやり過ごすことができなくなっていた。体重は減り、眠れない。スピードと銃撃で神経がすり減っていた。たとえば、ある兵士は昔は医学部に行くことを夢見ていたのに、今は何の夢ももてない。
 カーニーは、ひとつの部隊が完全に崩壊していくのを見ていた。6月には、同志意識と善意の感覚があった。あのころのタイガーは蛮勇の兵士だったが、殺人者ではなかった。隊には大勢いい奴がいた。自己規律が働いていた。しかし、ここ1、2ヶ月のあいだに、小隊は暗黒の力に征服されてしまった。その力を、どう表現したらいいだろう。人間が集団で暴虐と殺戮におちていくのを見るのは、耐えられない。誰もそんなものを目撃したくない。カーニーの場合、罪悪感は圧倒的だった。殺戮を身ながら、止めることができなかった。もし止めようとしたら、自分の命が危なかっただろう。
 こわかったのは、誰も攻撃を止める者がいなかったこと。しかも、指揮官たちが、現実にそれを奨励していた。
 タイガーは凶暴モードに突入したまま、外部から遮断された。この状態におちいると、兵士は戦闘の局外者は理解できない生理学的変化をもろに引き受ける。中脳が情報を処理する前脳にとってかわる。生存本能が支配する。その結果、兵士は理性の働きより、反射神経に頼る。戦闘においてはいいことである。兵士が生き残りモードに入っているからだ。そして、殺す。これこそ兵士のあるべき姿なのだ。
 タイガーという特別部隊が日常的に罪を犯していたにもかかわらず、それを罰する司令官は一人もいなかった。
 タイガー・フォースの元隊員たちは等しく問題をかかえていた。神経が破壊されていた。PTSDをわずらっていた。そして、ベトナム帰還兵の6人に1人がPTSDにかかっていることが分かった。戦争体験の後遺症に悩まされていた。戦争の記憶を心の奥深く押しこんできたが、心理的症候群、記憶の再現、悪夢、うつ症状が、毎日のように思いおこさせた。苦痛を忘れるため、麻薬やアルコールに逃げこむ者も少なくない。彼らは戦争体験を話したがらない。
 しかし、彼らの心は、戦場での行動を、そのつどスナップ写真におさめていた。射殺した者や頭の皮をはいだ者の映像は、コンピューター・プログラムのように脳内に蓄積され、忘れたころに戻ってくる。かつての兵士たちは、一家団欒のさなかに、突然、血まみれのスナップ写真を、目の前に突きつけられるのだ。
 なーるほど、そういうことだったんですね。これって、なんとなく分かる気がします。
 1968年3月13日に起きたミライ事件は一日で504人ものベトナム人を虐殺した。しかし、タイガーフォースは7ヶ月間ものあいだ罪のない普通のベトナムの農民たち、女性や子どもたちをも虐殺しつづけていた。
 タイガーフォースは11日間に49人を殺したと報告した。しかし、同時に発見した武器はゼロとも報告している。これは、明らかにおかしい。報告を受けた司令部が奇妙な事実に気がつかないはずはない。
 タイガーフォースが無差別に殺したベトナム民間人は数百人にのぼる。タイガーフォースの45人編成の小隊に7ヶ月間に在籍したのは120人。そのうち10人が戦死した。
 今もベトナム戦争の後遺症がアメリカ社会に沈潜していることを思い知らされる本です。日本もイラクへ軽々しく出兵すると同じ事態を迎えることになります。
 それにしても防衛省トップだった守屋元次官の汚職はおぞましい限りです。あんな連中が、日本の安全を守るとウソぶいているのですよね。表で言ってることは勇ましくても、その本音は自己の私腹を肥やすことと名誉心でしかないのが、昔から軍人の体質であり習性なのです。
(2007年9月刊。1900円+税)

治安維持法とわたし(戦前編)

カテゴリー:日本史(戦後)

著者:桑原英武、出版社:日本機関紙出版センター
 明治45年(1912年)生まれの著者の、血わき肉おどるような自伝です。
 旧制三高の2年生のとき(昭和4年、1929年)、夏休みのある日、特高警察が自宅にやってきて、有無を言わさず京都・川端警察署に連行されます。非公然の三高社研(社会科学研究会)の読者会が警察にバレていたのです。
 若い著者は、マルクス主義に魅せられ、天皇制打倒と侵略戦争反対を親に向かっても高言してはばからなかった。黒田了一元大阪府知事は三高の一年先輩だった。
 工場の門前でビラまきをして著者は警察につかまった。29日までの勾留は警察署長が即決でできた時代である。
 昭和5年(1930年)、19歳のときに警察に捕まって拷問を受けた。
 20歳になって徴兵検査を受けたが、陸軍大佐の徴兵司令官は思想上の過ちがあったとして、「第2乙」とした。現役徴兵はされないことになった。
 治安維持法違反で、1931年(昭和6年)と1933年(昭和8年)の2回、法廷に立たされた。弁護人は、2回とも井藤誉志雄弁護士だった。
 著者は今の平成天皇の誕生によって減刑されたものの、合計4年半の刑期で大阪刑務所に入った。弁護人であった井藤弁護士も、1933年11月に治安維持法違反で懲役2年、執行猶予1年の判決を受けた。
 先に紹介した『永遠の青春』の桟敷よし子は、日銀総裁であった深井英五と父が懇意にしていたことから、よし子が逮捕されたとき、深井英五は200円もの更生資金をカンパしたという。桟敷よし子は1992年(昭和67年)2月、89歳で亡くなった。
 著者は青春まっただなかの、22歳から26歳までの4年間、大阪刑務所で独房生活を強いられた。1937年(昭和12年)4月に仮釈放されるまでのことである。
 著者は、貴重な青春時代の4年間を刑務所のなか、独房生活を過ごしています。22歳から26歳までのことです。なんとむごい仕打ちでしょうか。私でいうと、司法試験の合格を目ざし、司法修習生になり弁護士生活をスタートしたという激動の年齢です。そのとき、狭い部屋でずっと拘禁生活を余儀なくされて耐えていたというのですから、私はそれだけでも著者を大いに尊敬します。
 戦前の治安維持法による検挙者数が、紹介されています。
 1930年(昭和5年)に6877人、31年に1万1250人、32年に1万6075人、33年(昭和8年)に最高の1万6397人。34年には、5900人あまりと激減してしまいました。これは、ほとんど対象者がいなくなったということです。小林多喜二が特高警察の拷問によって死亡したのは1932年2月のことです。
 著者は1933年2月に2度目の逮捕を受けました。
 特高警察による犠牲者について、政府の公式発表は今もってありません。被害者側の調査によると、明かな虐殺死は80人、拷問・虐待が原因で死亡した人は144人、病気その他による獄死は1500人、逮捕され、送検された人は7万6000人、送検された人は数十万人ということです。驚くべき特高警察の威力です。
 獄中生活は、1日に15分前後の運動時間、週に1回の入浴時間というものだった。
 著者は短歌をつくっていました。
 独房に書(ふみ)読みおれば 合唱の君が代の声は聞こえ来にけり
 この歌が見事に入選し、その賞としてぜんざい一椀が支給されました。甘味品に渇していた著者にとって、何よりありがたい賞でした。
 著者は刑務所を出たあと、医師として再出発します。その勉強は、刑務所にいるときから始めたのです。人脈にも恵まれたのでしょうが、著者の人徳にもよるのでしょう。岩手医専を受験して、成績トップで合格したのでした。すごいですね。刑務所のなかの不自由な受験生活だったわけですからね。
 過去の経歴が知られないように心配しながら岩手医専の4年間を過ごしたといいます。でも、ずっと総代をつとめ、成績トップで卒業しました。30歳にして医師になったのです。戦争中は、軍医として働いています。前科2犯、懲役5年間の実刑を受けた身でありながら将校(軍医)に任ぜられました。まさに奇跡ですよね。
 大阪の石川元也弁護士の推薦で読みました。すごいお医者さんがいるものです。単なる自伝というより、戦前の日本の状況を実感で知ることのできる本です。
 博多駅近くの小さな映画館でハンガリー映画『君の涙ドナウに流れ』をみました。1956年に起きた「ハンガリー動乱」(日本人の私にとってはこのように言うしかありません)を描いた映画です。はじめのプールで繰り広げられる水球試合から息をのむほどの迫力で、ソ連と秘密警察によるすさまじい一斉射撃と、それへの市民の反撃が始まって展開する市街戦も迫真の映像であり、息をこらして画面に見入って、2時間があっというまにたってしまいました。ハンガリーの人々がソ連の支配のくびきから逃れようとして立ち上がったのです。そして、その先頭に大学生たちが立っていました。私の大学生のときの学園闘争は、この映画のシーンに比べるとまるでオモチャの世界です。ただ、それでも真剣ではありましたが・・・。やはり、歴史は正しく伝えられる必要があり、また、それは広く知られる意義があるとつくづく感じたことです。ぜひ大勢の人にみてほしい映画です。
(2007年9月刊。1429円+税)

決闘裁判

カテゴリー:未分類

著者:エリック・ジェイガー、出版社:早川書房
 中世騎士道と裁判の本質を問い返す、大変面白い本でした。うむむ、なるほど、で、一体、この決闘裁判はどうなるんだろうと、思わず頁をめくる手が速くなりました。
 フランスでは、当時、宿敵イングランドとの1世紀に及ぶ「百年戦争」のさなかにあった。たび重なる出兵、遠征。戦争が長引き、黒死病(ペスト)が猛威をふるった。死がすぐ隣りあわせにあった陰鬱な封建時代だった。だからこそ、フランス国王を筆頭に、諸侯や庶民までが「決闘裁判」を壮麗かつ壮絶な見物として楽しみにした。
 中世は訴訟がよく起こされた時代であり、とくにノルマンディの貴族は訴訟好きだった。それでも、ノルマンディの一介の家臣が、伯爵の決定に対して高等法廷に訴訟を起こしたなど、誰も聞いたことがなかった。
 事件が起きたのは、1386年1月。カルージュ夫人が、主人の留守に、有力な騎士ル・グルに強姦された。中世の法典と裁判によると、強姦は重罪であり、極刑に値する罪であった。しかし、強姦の被害者の多くは、他言すれば恥をかいて不名誉な思いをするのはおまえのほうだと脅され、犯罪を公表することで家族や自分の評判に傷をつけるよりは、沈黙を守るほうを選んだ。そのため、法的には強姦は重罪になるはずなのに、現実には強姦した男は罰せられず、訴えられることもないことが多かった。
 カルージュはル・グルを訴えたが、ル・グルは否認する。そこで決闘裁判になった。
 フランス法の下では、国王に上訴する貴族の男性には、相手に決闘裁判を申し込む権利が認められていた。つまり、決闘によって裁判をおこなう。決闘は、侮辱と認められたものについて名誉を守るべく行われたもの。決闘裁判は、当事者のどちらが偽誓したかを決定する正式な法手続きだった。これは古来の習慣だった。民事事件であれば、決闘代理人(チャンピオン)を立てることができた。しかし、刑事事件では、本人同士が闘わなければいけない。敗者への罰は死。
 1200年ころ、フランスでは民事訴訟では決闘はなくなり、刑事訴訟でも、決闘裁判ができるのは、貴族の男性のみに限られた。
 1296年、国王フィリップ4世は、戦時中の決闘を完全に禁じた。1306年、ある種の刑事裁判における上訴についてのみ、決闘裁判が復活した。
 決闘にのぞむ騎士たちは、槍、斧、剣などの武器を手にして盾をかまえ、軍馬に乗って闘う。負けると命を失うだけでなく、家族も敗北の汚辱をこうむる。決闘は当事者同士の闘いであるだけでなく、家同士の闘いでもあった。
 決闘の場には、1本の槍、2本の剣、1本の斧、1本の短剣を持ちこめる。日没までに決着がつかないときには2日目も続行しなければならない。数千人の大群が、修道院の庭に見物につめかけた。
 国王は、もっとも地位の高い見物人であるだけでなく、法律により裁判長でもあった。パリ高等法院は国王の名のもとに決闘裁判をおこなっており、シャルル国王は、神の聖別により、採決を下す、最高の君主かつ判事として行動する。
 決闘裁判は、観衆の声援や野次で邪魔される、騒々しい娯楽ではなかった。見物人は、ほとんど息もつけないくらい押しだまっていなければならなかった。
 決闘が始まったら、二人は、容赦なく、しかも規則もなしに戦う。背中から突き刺そうが、砂をかけて敵の目を見えなくしようが、馬から突き落とそうが、まったくかまわない。騎士道精神なんて、まったく問題にならない。
 決闘で殺されたほうは、絞首台へ引きずられ、有罪を宣告される。そして死刑執行人のもとへ運ばれる。財産も没収される。
 決闘で敗北したとき、「被害者」の女性も嘘つきであることが立証されたことになる。虚偽の告発は厳しく罰せられる。火あぶりの刑に処せられるのだ。
 さあ、この二人の決闘はどうなったでしょうか。果たしてカルージュ夫人は火あぶりになるのでしょうか。ハラハラドキドキです。映画にもなるそうです。フランス映画でしたら、フランス語の勉強のためにも見るつもりです。
(2007年11月刊。2100円+税)

空の王者 イヌワシ

カテゴリー:生物

著者:真木広造、出版社:新日本出版社
 翼を広げると2メートルをこえる日本最大の山ワシ。北海道から九州までの深山霊谷、険しい山や谷にすんでいます。日本全国にたった400〜650羽しかいません。絶滅が心配されています。そのイヌワシを追い続けてきた著者による素晴らしい写真集です。
 イヌワシは目がいいので、近づいて撮るのではなく、来るのを待ち構えて撮る。だから、イヌワシのくせを読んで、この時期には、この木にとまると読んで待ちかまえる。撮影の9割は観察。遠くから望遠鏡で見てイヌワシの行動をつかみ、撮影ポイントを決める。重さ20キロをこえる機材を背負い、息を切らして1時間半かけて山頂に達し、そこから尾根を縦走する。岩棚で転落しないよう注意する。姿をかくすブラインド(小型テント)を張り終えるまでにイヌワシに見つかってしまうこともある。
 500ミリの望遠レンズを三脚にセットし、待つこと4時間。むむむ、長い。大変な忍耐です。天気がいい日ばかりではないでしょうから、すごい苦労です。好きでないと絶対にやれませんよね。
 イヌワシは、1年のサイクルで子育てする。一山に1ペアとは必ずしも限らず、秋田と山形の境にある鳥海山には5ペアいる。2月に産卵し、4月にヒナが誕生する。エサは1日1回から2回。獲物となるのは、カモシカ、サル、キツネ、アナグマ、タヌキ、テン、ノウサギ、イタチ、ネズミ。ヤマドリやヘビもいる。大きなカモシカを空から襲いかかるような行動で威嚇して岩場から落とし、獲物にしたり、子グマも獲物にしてしまう。ひゃあ、すごいですね。こんな大型動物まで狩りの目標にするなんて信じられません。
 雪の中、猟師がイヌワシに体当たりされることがあるのは、サルとまちがえられたことによるだろう。それでもイヌワシは人間と気がつくと、それ以上は追わないようです。
 6月にヒナは巣立つ。その前になると、親鳥はエサを運ぶ。回数が減り、ヒナをダイエットさせて空腹の状態を利用して巣立ちをうながす。
 11月、親鳥は子どもをテリトリーの外へ追い払い、1年間の子育てが終わる。
 著者は、どうやら私と同世代のようです。36歳で脱サラして、高校を卒業して以来41年間、ずっと野鳥の写真撮影をしてきたというのです。偉いものです。
 軽自動車に寝泊まりしながら、一食100円、1日16時間労働、年中無休の生活をしてきたというのですが、辛いと思ったことはないそうです。そうですよね、好きなことをしていたら、充実感があるわけですからね。
 日本の野鳥632種類を写真にとり、残る20数種にトライ中だというのですから、頭が下がります。心躍る見事な写真集です。
 福岡の小さな映画館で『once ダブリンの街角で』というイギリス映画を見てきました。街角で歌をうたうストリート・ミュージシャンがチェコから移民できた女性と出会い、素晴らしいCDをつくってデビューしていくという音楽映画です。本物の歌手が主人公なのですが、その歌唱力には圧倒される思いでした。英語はまったく聞きとれませんでしたが、歌詞が新鮮で、詩人のつくったような心うつものでした。やはり映画っていいですね。
(2007年10月刊。1400円+税)

気のむくまま 思うままに

カテゴリー:司法

著者:鈴木康隆、出版社:清風堂書店
 1967年(昭和42年)に弁護士になった大阪の先輩弁護士の随想記です。1967年と言えば、私が上京して東京の大学に入った年です。あれから、もう40年以上がたってしまいました。当時、私は田舎の因循姑息に耐えられないと思い、ひたすら東京に憧れていました。そこには、きっと自由の新天地があり、素晴らしい女性にも出会えると期待したのです。でもでも、東京はあまりにも広大無辺でした。人が多すぎるのです。私のような田舎者にとって、方言を気にすることからハンディがありました。生まれてこのかた「野蛮な」九州弁しか話したことのない私は、寮のなかはともかくとして、家庭教師先の「上流」家庭に行くと、話すだけでドギマギしてしまうのでした・・・。今でも、そのときに感じた胸の痛みをはっきり覚えています。40年という月日は遠い過去のようで、ひとたび思い出すと、つい昨日のことになってしまいます。脳の働きの不思議の一つです。
 第一章は「旅をする」です。著者はヨーロッパ旅行を何回もしています。フランスにもスペインにも行っています。スペインが他のヨーロッパの国々と異なっているもっとも大きな原因は、中世において800年もイスラムに支配される国だったとあるのを読んで、なるほど、と思いました。そして、サンチャゴというのは、キリストの12人の弟子の一人であるヤコブのスペイン名だということも知りました。
 私は40歳になったとき、毎年1回は外国へ行くことを決めました。それ以来、年に2回、外国へ行ったことはありますが、まったく海外へ行かない年はありません。やはり、Think globaly,act localy を実践するには、自分の身体を年に1回は外国に置いてみるのが一番です。
 第二章は本との出会いです。そのなかに大川真郎さんの本(『豊島(てしま)産業廃棄物不法投棄事件』)が紹介されています。世間一般には弁護団長だった中坊公平元弁護士の活躍の方が有名ですが、実は大川真郎弁護士の働きが、この取り組みを実質的に支えていたことがよく分かる本です。そして、いつも控えめな大川弁護士がNHKの「列島スペシャル」という45分のドキュメンタリー番組で2回も放映されたということを、この本を読んで初めて知りました。大川弁護士の、日弁連事務総長として、謙虚でありながらもきわめて戦闘的な言動を身近に体験した私としては、なるほど、なるほどと賛嘆した次第です。
 また、福山孔市郎弁護士が、「労働弁護士は闘う商人である」と喝破したというので、驚きました。そして、ある長老弁護士が、毎年、正月に神社に参拝するとき、「世間騒動、家内安全と祈念している」という言葉が紹介されています。それがウソかホントかはともかくとして、なるほどそうだなと私も思います。なにしろ、弁護士というのは他人(ひと)のもめごとをエサにしてメシを食っている人種であることだけはたしかなのです。ですから、モメゴトがなくなってしまうと生きていけません。でもでも、もめごとがこの世からなくなるっていうことは、今のヒト族のおごり高ぶりを見たら、ありえないとしか思えません。そうではありませんか・・・。
 楽しく、かつ、戦後日本社会をふり返ることのできるタメになる本でした。
 正月休み中に恒例の人間ドッグ(1泊)に入りました。今はホテルに泊まります。夕食はバイキングでした。家族連れで一杯でしたが、受付にいた係員の男性が流暢な韓国語を話しはじめ、韓国人の客の存在に気がつきました。ホテルは日本語のほか韓国語と中国語の表示があちこちにあります。
(2007年11月刊。1429円+税)

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