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旅順と南京

カテゴリー:日本史(明治)

著者:一ノ瀬俊也、出版社:文春新書
 日清戦争(1894年、明治27年)に従軍した軍夫の絵日記と上等兵の日記をもとに日清戦争の実際を再現した本です。第二次大戦がなぜ起きたのか、日本人が戦争で何をしたのか、改めて考えさせられる本でした。
 朝鮮半島を制圧すべく日本から送られた第2軍(司令官は大山巌大将)は、3万5000人。うち1万人以上が軍夫だった。絵日記をかいた軍夫は東京出身で、1894年10月に遼東半島に上陸し、ずっと後方輸送に従事した。軍夫の賃金は日給50銭。当時、日本の日雇い賃金は21銭だったので、かなりの高給だ。
 もう一人、日記をつけていた上等兵は千葉県柏市の出身であり、漢文調の日記だった。
 朝鮮半島へ渡る出征軍の歓送はすさまじいものがあった。夜間にもかかわらず、大勢の住民が沿線にまで出ていて、励ました。
 兵士には蒸した米を干した保存食である糒(ほしい)が支給された。定量は1人1日3合。
 日清戦争で、日本軍は旅順で人々を虐殺しました。加害者は歩兵第一旅団(旅団長は、あの乃木希典少将です)をふくむ日本軍です。陸軍は、基本的に捕虜をとらず、無差別に殺害したのです。従軍していた英米の記者がこの事実を世界に向けて発信したため発覚しました。
 ご承知のとおり、乃木希典は、10年後の日露戦争のときにも旅順攻略戦にも参加している。日清戦争のときには、清軍(中国軍)が半日であっけなく抵抗を止めた。もう少し苦戦を余儀なくされていたら、日露戦争で日本軍は強襲したら一挙に陥落できるとは思わなかったのではないかという説もあります。
 日清戦争のときの旅順虐殺事件の実態をみてみると、日本人の道義が日露戦争のときまでは良くて、その後、低下した、ということは決して言えないことがよく分かります。やはり、戦争は人間を鬼に変えてしまうのですね。
(2007年11月刊。870円+税)

警官の血

カテゴリー:未分類

著者:佐々木 譲、出版社:新潮社
 うむむ、すごい、すごい。この著者の小説にはいつも感嘆してしまいます。警察ものでは『嗤う警官』『制服捜査』『警察庁から来た男』どれも素晴らしい出来具合いでした。今回も期待を裏切りません。じわじわ、じっくり読ませます。電車のなかで時間を忘れるほど読みふけりました。
 今回は警官一家の歴史を静かにたどっていきます。私は、警察官2代目が私と同世代であることに途中で気がつきました。
 ときは学園闘争はなやかなりし頃のことです。高校の成績はいいのに、父親のいない民雄は大学に入らず警察学校に入る。ところが、警察学校に入ったら、警察が費用を出すから国立大学を受験しろというのです。それから猛勉強して北大に入学。北大でも学生運動は活発だった。民雄はビラを集め警察へひそかに流します。やがて、民雄は活動家にオルグされます。共産主義同盟(ブント)からです。京大の塩見孝也を中心とするグループがブント主流派を軟弱だと批判して赤軍派を結成。その赤軍派からオルグされたのでした。民雄は、情報収集を命じられた対象である新左翼の活動家に対して拒否感はなく、むしろその真面目さに敬服していました。
 ところが、オルグされた民雄は、活動家と一緒に上京することを命ぜられます。でも、民雄は、もうボロボロでした。2年間、仮面をかぶって生きてきた。どっちが本当の自分なのか、どっちが仮面なのか、分からなくなってきている。これって結構きついことだ。
 そうでしょう、そうでしょう。私にも、なんとなく、よく分かります。それでも民雄は赤軍派と一緒に同行します。私服刑事と列車内で連絡をとりあいながらの上京です。
 ところが、行き着く先は都内ではなく、大菩薩峠、赤軍派の武闘訓練の場でした。50人ほども集まり、ピース缶爆弾などもつかって訓練します。
 やがて民雄の秘密通信も功を奏して、機動隊が山小屋を包囲して一網打尽にしてしまいます。民雄もうまく逮捕されます。しかし、そのあと民雄は、不安神経症と診断されます。神経がボロボロになりかけていました。感情の鈍麻、ものごとに対する関心の減退、幸福感の喪失という症状があらわれていました。
 実は、私も司法試験の苛酷な勉強のせいで、合格したあと不安神経症と診断されたことがあります。自律神経失調症の一歩手前だということでした。
 学生運動のセクトのなかに警察がスパイを送りこんだり、活動家を抱きこんでスパイに仕立てあげるということは多かったようです。スパイ役をさせられた人たちの多くは、この民雄と同じように不安神経症になったのではないでしょうか。
 警察官であって二部(夜間)大学生だという人は当時、少なくありませんでしたから、彼らのなかにはスパイ役をさせられた人もいることでしょう。
 九州(大分)で起きた菅生事件のときのスパイ役であった戸徳公徳(警察官)は、自ら事件を起こしたあと、警察にかくまわれていましたが、新聞記者が摘発したのちは、むしろ警察官の世界で異例の大出世していき、最後まで高給・優遇されて余生を過ごしました。
 人生を考える素材が、また一つ提供されました。
(2007年9月刊。1600円+税)

1491

カテゴリー:アメリカ

著者:チャールズ・C・マン、出版社:NHK出版
 1492年にコロンブスがアメリカ大陸を発見した。私は、これをコロンブス、石の国(1492)発見というゴロあわせで暗記して今も覚えています。
 我々が今日アメリカと呼んでいる大陸には、人類も、その文明も存在しなかった。
 これは、1987年版のアメリカ史の高校教科書です。それって本当でしょうか?
 15世紀。カナダのオンタリオ地方に当時すんでいたウェンダット(ヒューロン)族は、フランス人を自分たちに比べて頭が悪いと考えていた。ヨーロッパ人は体が弱く、性的にだらしがなく、ぞっとするほど醜くて、とにかく臭くてたまらない。イギリス人やフランス人の多くは、生まれてこのかた風呂に入ったこともなかった。インディアンが身体の清潔を心がけていることに驚いていた。
 インカ帝国は、アンデス史上最大の国家だったが、短命だった。15世紀に誕生し、たった100年続いただけで、スペインに滅ぼされてしまった。
 インカの経済制度の特徴は、金銭をつかうことなく機能したこと。インカには、市場さえなかった。
 インカ人は、恐るべき発明をしていた。たき火で石を熱して真っ赤に焼き、松ヤニをたっぷりつけた綿で包んで、標的に向かって投げるのだ。綿は空中で燃え出す。敵にしてみれば、突然、火を噴くミサイルがばらばらと降ってくるわけだ。
 ピサロの成功には、鉄よりも馬のほうが大きく貢献した。当時、アンデスで最大の動物といえば、平均体重130キログラムのリャマだった。馬は、その4倍もあった。インカの人々にとって馬は、得体の知れない何とも恐ろしいけだものだった。
 天然痘には12日間の潜伏期間がある。そのあいだに感染者は、自分が病気にかかっているとは知らずに、会う人みんなにうつしてしまう。すぐれた道路網を発達させ、大規模な民族移動を敢行してきたインカには、強力な伝染病の広がる下地ができあがっていた。天然痘は、インキの染みがティッシュペーパーに広がるようにして、またたくまに国中に広がった。何百万人もの人々が一斉に同じ症状を出した。住民の9割が伝染病で死んでいった。アメリカ先住民は、獲得免疫をもたなかっただけでなく、もともと免疫システムがヨーロッパ人ほど強くはなかった。感染源は、歩く食肉貯蔵庫、つまり、連れてきた300頭の豚だった。豚は馬と同様、なくてはならないものだった。
 ほかの穀類は放っておいても勝手に繁殖するが、トウモロコシは、粒がじょうぶな苞葉に包まれているため、人の手で種を播いて増やしてやらなければいけない。つまり自生しないのだ。6000年以上も前に、メキシコ南部の高地で、インディオがはじめてトウモロコシの祖先種を栽培した。
 アンデスの高地の主要作物はジャガイモだった。トウモロコシとちがって、これは標高4000メートルでも安定した収穫が見込める。品種は何百種にも及び、一年でも地中に埋めて保存しておくことができる。
 インディアンが主張する個人の自由には必ず社会的な平等がともなっていた。北東部のインディアンは、ヨーロッパ人社会では人が階級によって分類され、下位の者は上位の者に従うべしとされているのを知って仰天した。人は、誰もが自分自身の主人であり、同じ土からできているのだから、差別や優劣があってはならないと固く信じていた。
 男女を問わず、白人の子がインディアンに捕らえられ、しばらく彼らと暮らしたときには、身代金を払って取り返し、手を尽くして温かく迎えて居心地よいように配慮してやっても、ほどなく、イギリス人の暮らしにうんざりし、隙をみてまた森に逃げこんでしまう。そうなれば、もう呼び戻すことはできない。うむむ、なんということでしょう。
 インカの神聖暦は、天文学者が金星の動きを丹念に観測していたことによる。金星は263日間、明けの明星として地球から見ることができ、その後、50日ほど太陽のうしろに隠れてしまう。そして、263日間、今度は宵の明星として見ることができるようになる。インカの暦は、同時代のヨーロッパの暦よりも複雑で正確だった。
 ユーラシア大陸で四大文明が興った時代には、アメリカ大陸でもきわめて高度な文明が誕生していた。また、人口も多かった。さらに、景観に手を加えて、驚くべき知恵をもってたくみに生態を管理していた。
 そうです。コロンブスの「発見」の前に、アメリカ大陸には大きな人口をかかえた国があり、高度に発達した文明があったのです。
(2007年7月刊。3200円+税)

田沼意次

カテゴリー:日本史(江戸)

著者:藤田 覚、出版社:ミネルヴァ書房
 田沼意次の父の意行(おきゆき)は、紀伊藩の徳川吉宗に仕えていた。吉宗が将軍になったため江戸へ出て、幕臣となり旗本になった。いわば吉宗子飼いの家来であった。意次は意行の長男として、吉宗の長男である家重の小姓になった。蔵米300俵をもらった。父意行の知行600石を受け継いだ意次は23年に1万石の大名に出世した。600石の旗本が1万石という大名になるのは異例の大出世である。
 田沼意次は、徳川家重の小姓から御用取次、ついで徳川家治の御用取次を経て側用人、さらに老中格からから老中に昇進したが、なお側用人の職務をそのままつとめた。老中と側用人とを兼任したこと。これこそ、意次がまれにみる権勢を手に入れた理由であった。
 1684年、当時の大老堀田正俊が江戸城で若年寄の稲葉正休(まさやす)に刺し殺された。この事件をきっかけに、将軍の身の安全から、老中以下の諸役人と将軍とが直接に接する機会を制限した。その結果、将軍と諸役人との間に、側用人や側衆を介在させる仕組みになり、老中といえども、側衆や側用人を仲介しないと将軍に会えなくなった。その結果、側用人など奥づとめの役人たちの役割が大きくなっていった。
 側用人は、将軍に近侍して政務の相談にあずかるとともに、将軍の命令を老中に伝達し、老中の上申を将軍に伝えるという、将軍と老中との間を取り次ぐのが主な職務である。側用人は将軍の意思を体現する存在である。側用人が幕政に強い権勢をふるうには、将軍の特別な恩顧のほかに、個人的な野心や能力が必要だった。
 側用人政治を否定したとされる吉宗は、幕府政治の改革にあたり、みずから新設した御用取次をつかって、側用人政治とよく似た政治運営をしていた。
 田沼意次が活躍したときの将軍家重と家治は、いずれも幕府政治に積極的に関わろうとしないタイプの将軍だった。
 田沼意次が幕府政治と直接関わるようになったのは、美濃郡上一揆の処理から。この一揆は、宝暦4年から8年にかけてのこと。幕府は、老中、若年寄という重職を罷免し、若年寄を改易、大名金森の改易という、まれにみる厳しい処罰を断行した。これを果断に処理したのが御用取次の田沼意次だった。
 町奉行や勘定奉行など、幕府の重要ポストには、田沼意次と直接の姻戚関係もふくめ、何らかのつながりをもつ役人たちが配置されていた。田沼意次は、子弟や姪らを介して、老中2人、若年寄1人、奏者番2人、勘定奉行などと姻戚関係をがっちり結んでいた。
 重要な政策は、その発議が意次か奉行であるかは別にして、意次と担当の奉行が事前に協力して立案し、そのあとで老中間の評議にかけていた。意次は幕閣の人事を独占しただけでなく、幕府の政府を主導していた。
 意次時代には、幕府の利益を追求する山師が跋扈し、田沼意次こそ山師の頭目であった。しかし、これは、田沼意次の政策が革新的であったとも言えるものだ。
 耕地を増加させるため、新田開発策をとった。意次にとってもっとも大きな問題は、幕府の財政をどうするか、だった。
 明和7年(1770年)、江戸城の奥金蔵や大阪城の金蔵にはあわせて300万両もの金銀が詰まっていた。これが天明8年(1788年)には81万両にまで急減していた。
 この時代の山師中の山師は平賀源内である。源内のパトロンが田沼意次だった。
 意次は、銅と俵物の増産に取りくんだ。また、白砂糖の国産化もすすめた。
 印旛沼の干拓をすすめ、ロシアとの交易、蝦夷地の開発もすすめようとした。
 田沼意次が清廉潔白とは言えないが、当時、賄賂は義務的なものでもあった。
 田沼意次は「はつめい」の人と言われた。「はつめい」とは、かしこい、という意味。家来の下々にまで目を配り、家来たちが気持ちよく働けるようにするための配慮や心づかいのできる人物であり、人心操縦の術にたけた人物でもある。
 意次の長男である意知が殿中で切られて死亡すると、意次もたちまち失脚してしまう。それほど反感を買っていたということでしょう。
 出世や優遇を期待して田沼家と姻戚関係をもった大名家や、意次の家来と姻戚関係をつくった旗本家は、かなりの数にのぼった。しかし、田沼家が凋落したとき、櫛の歯を挽くように離縁が相ついだ。その節操のなさには、呆れるほどだ。
 しかし、意次は、「御不審を蒙るべきこと、身をおいて覚えなし」という書面を書いています。意次にも反論したいことが山ほどあったようです。
 意次の素顔を知ることのできる本です。
(2007年7月刊。2800円+税)

上からの革命

カテゴリー:ヨーロッパ

著者:渓内  謙、出版社:岩波書店
 タイトルだけでは、いったい何の本なのか、よく分かりません。サブ・タイトルにスターリン主義の源流とあります。この本を読んでみて、スターリンの独裁権力形成過程の研究と名づけてほしいという感想を私はもちました。いえ、タイトルにケチをつけているということではありません。読んですごく勉強になりましたが、読む前には何についての本だろうかと皆目見当がつかなかったので惜しいと思ったということです。
 著者の名前は、たにうち・ゆずると読むそうです。2004年2月に亡くなられています。東大名誉教授だったそうです。ロシア現代史が専攻です。レーニンの死後、スターリンがまだ独裁的権力を確立する前、1928年から1929年にかけての2年間のソ連を詳細にあとづけ、分析しています。大変勉強になりました。スターリンといえども一挙に独裁者になったのではないのですね。そのことが改めてよく分かりました。
 スターリンを書記長に選出したソ連共産党の新指導部が最初に直面した重大な課題は、1927年10月以降、深刻化の度合いを深めつつあった穀物調達テンポの低落の阻止だった。これを放置すると、都市その他の消費地の食糧不足を招き、ひいては確立された工業化路線を脅かす危険もはらんでいた。
 12月末には、党指導部はパニック状態に陥っていた。調達テンポの急速な引き上げは至上命令となった。
 1928年のスターリンが起草した政治局決定によると、穀物調達に関する中央委員会の指示を達成しない地方党組織の書記は、党規約所定の手続きによらずに中央委員会が罷免できるとした。これは、党書記の全権のもとに、すべての国家、社会組織を一元化する体制の確立が図られたということである。
 調達方法における強制的契機の強化は、統治構造における党書記の位階制の影響力の拡大と並んで、治安警察(オゲペウ)など強制装置の役割が政策の実現過程において突出する傾向を随伴した。
 穀物危機を緊急に打開するための非常手段として、内戦体制の復活を思わせる組織的措置が採られた。この内戦体制への復帰は、完全に党組織主導により行われた。地方の非同調的態度に対する中央の対応は、威嚇と圧力の加重、とりわけオゲペウ権力の利用であった。
 1928年1月15日、スターリンは中央委員会全権代表としてシベリアに出張した。
 1928年の時点では、スターリンは、まだ機構の人であって、個人的独裁権力を確立してはいなかった。スターリンの意思が自動的に党と国家の意志となるというシステムはこの時期には実在していなかった。
 シベリアでの経験をふまえて、スターリンは党組織の浄化を指令した。その対象となったのは、「農村の誰にも損害を与えないで、すべての農民の間で人気を保つことに務め、クラークと断固たたかうことのできない者たち」のこと。つまりは、農民の気分を無視できない良心的な人ということでしょう。なにしろ内戦状態にあるというのですから。
 穀物の供出を拒否したのは、実際には多くは中農であって、クラークは少なく、貧農も少なくなかった。ある管区では、処罰されたのは、中農64%、貧農25%、クラーク7%という割合だった。
 穀物危機に際して、党組織が非常措置適用主体として農村に君臨し、農民と対峙した局面があった。都市と工場から多数の党員が全権代表として農村に送られ、農村党組織、農民コムニストはその分肢として行動することを要求され、抵抗する組織と個人は排除された。農民は、もはや党の安定的同盟者ではなかった。
 農村では、都市に比べて党の組織的基盤は脆弱であり、農民に対する党の日常的影響力は弱かった。穀物情報を戦時的に規制し、農民の動向をふくめて一種の軍事機密として扱われることになった。
 農村において、クラークはいなくなったと考えられていた。クラークは都市の活動家の想像のなかだけに存在した。しかし、党にとってクラークとの闘いは終わらなかった。むしろ、隠れて機をうかがっている存在としてクラークはみなされた。その実体は、農村にある実体的秩序そのものとの闘いであった。歴史的に都市と工業を社会基盤として生成を遂げたボリシェヴィキ党は、農村では組織的に微力だった。
 革命後、統治の党になって党員数は急増し、1921年に58万人、1925年には 100万人をこえた。農村出身の党員も増加したが、それは内戦に勝利する必要から農民出身の兵士に門戸を広げた結果であり、農村における日常活動の成果ではなかった。
 スターリンは、1929年10月の時点では、農村における党の絶望的無力を率直に認めた。農村には、党とはまったく無縁な数千万の農民の大海が広がっている。
 1929年初め、地方党組織あての党中央の声明は、選挙過程への党の強力な介入を指令した。党とコムソモールの系列から多数の責任活動家を農村に投入すること。
 1927年の選挙では、選挙権を剥奪された者が、前回の3倍(選挙民の3.6%)に達した。1929年の選挙では、それがさらに増え、4.1%になった。そして、その基準が客観性を欠いた恣意的な事例が多発した。剥奪の実際は、中農の選挙過程からの脱落をもたらした。
 1929年4月に開かれた党中央委員会で、ブハーリンらは最後の抵抗をした。スターリンのやり方は農民との結合を重視したレーニンの考えに反すると指摘した。しかし、ブハーリンは圧倒的大差でもって敗れ去った。急速な工業化をすすめるために必要な穀物を農民から入手するためには、国家的強制の行使も辞さないという決意が支持されたのだ。
 こうやって、スターリンの強権的独裁が確立していったのです。なるほど、ですね。パンがなくてどうするんだ、という声には誰しも弱いところですよね。530頁もある大部な学術書ですが、ロシア革命の内実を少しうかがい知ることができました。
(2004年11月刊。11,000円+税)

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