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民主化の韓国政治

カテゴリー:朝鮮・韓国

著者:木村 幹、出版社:名古屋大学出版会
 戦後の現代韓国政治の変遷の本質がよく分かる本だと思いました。
 現在の韓国は第六共和国体制と呼ばれている。1987年6月に民主正義党の廬泰愚が大統領に当選した。韓国の民主化は、民主化を求める国民の激しい闘争と、熱狂と絶叫と希望に満ちた大統領選挙の末、結局、民主化以前の軍事政権における与党の流れをくむ、そして、わずか7年前に人々の民主化への思いを押しつぶしたクーデターの首謀者の一人を大統領に選び出して幕を閉じるという皮肉な結果に終わることとなった。
 しかし、重要なことは、惜敗した野党をふくめて、韓国の人々が、この選挙結果と第六共和国体制を受け入れたことにある。
 1948年の大韓民国建国以後、1987年に至るまで8回の憲法改正を経験した韓国において、第六共和国は、一度も憲法改正がなされず20年間も続く最長の安定した共和国なのである。
 「第六共和国」の前、人々は選挙結果を信用せず、選挙に敗れた勢力も、その結果を受け入れようとはしなかった。それがなぜ変わったのか、という点を本書は解明しています。
 朴正熈の1961年の軍事クーデタと1972年の維新クーデタは質的に異なっている。1961年のとき、朴正熈らクーデタ勢力は、クーデタ直後の体制はあくまで暫定的な体制であるという前提のうえに将来の民政移管をちらつかせ、自らの正統性を確保し、野党勢力を懐柔しようとした。
 しかし、1972年には、かつてのような「民主主義」的体制へ戻ろうとはしなかった。自らの新体制を正統化しようとする試みを完全に放棄した。思想・宣伝活動を展開することもなかった。
 「言葉」を失った朴正熈は、「説明」を断念し、「説明」なくして自らの体制を維持しようとした。しかし、それは、朴正熈にとって、出口のない大きな落とし穴でもあった。皮肉なことに、以前よりもさらに強力な政治体制を敷いた結果、はじめて国会議員選挙において得票率において野党に敗北を喫した。この状況を少しでも改善すべく、朴正熈は、政府をしてさらなる野党弾圧へと向かわせた。そのなかで1979年10月26日に側近であった金載圭中央情報部長により暗殺されてしまった。
 金大中と金泳三という二人の政治家はいずれも第三共和国期において、代表的な野党内「穏健派」の「中間ボス」であった。ところが、「40代旗手論」を契機に、二人とも、あたかもそれまでの経歴が嘘であるかのように、急速に強硬論へと傾斜し、野党内における代表的な対政府強硬論者となっていった。
 それは状況の方が変化したからであった。朴正熈政権の側が、二人の本来の活躍の場を奪ってしまったからである。「維新クーデタ」の勃発は、二人の行動を見事に正統化した。「維新憲法」の下、国会の権限が剥奪され、大統領選挙を儀式化された彼らには、もはや「強硬派」に転じる以外の選択肢はなかった。二人が「転向」したのではない。変わったのは状況の方である。二人とも、ただ前と同じように自らが活躍することを求めていたに過ぎない。
 「維新クーデタ」は、韓国内における政府・与党の言説の信頼性を損ない、逆に野党にこれを攻撃する絶好の口実を与えた。以後、野党新民党の多数は強硬派によって占められ、政府・与党への対決姿勢を明確にしていった。金泳三は、この政府・与党に対する「鮮明野党」路線の主唱者であり、政治活動を封印された金大中は「民主化」の象徴的存在となった。
 これに対して朴正熈は力で抑えこむことを選択して緊急措置を連発する。そこには、国民に対して自らの体制を論理的に説明することを事実上放棄した政府・与党があった。
 政治、社会、そして教育面の大きな変化に何回となくさらされた近代以降の朝鮮半島によって、人々の受けた教育の程度や内容が大きく異なる。朝鮮王朝期の科挙受験のための教育を受けた世代と、日本統治下に近代教育を受けた世代、そして解放以後の独立韓国において教育を受けた世代が、現実社会に対する認識を異にするのは当然である。
 1940年代には大学生の数は少なく、彼らが力をもって政局を主導することは考えにくい。1960年代の韓国では、学生の数的増加を背景として学生運動は社会的に大きな意味をもった。そして1960年から70年までの10年間に、それは劇的に変化した。1960年代半ば、韓国の大学生は10万人をこえていて、毎年2万人以上もの卒業生が社会へ送り出されていった。
 うむむ、なーるほど、ですね。こういうのを、まさしく歴史の弁証法というのではありませんか。
(2008年1月刊。5700円+税)

エコノミック・ヒットマン

カテゴリー:アメリカ

著者:ジョン・パーキンス、出版社:東洋経済新報社
 この本の序文に、次のように書かれています。エコノミック・ヒットマン(EHM)とは、世界中の国々を騙して莫大なお金をかすめとる、きわめて高収入の職業だ。EHMは、世界銀行やアメリカ国際開発庁(USAID)などの国際援助組織の資金を、巨大企業の金庫や、天然資源の利権を牛耳っている富裕な一族のふところへと注ぎこむ。その道具につかわれるのは、不正な財務収支報告書や、選挙の裏工作、賄賂、脅し、女、そして殺人だ。EHMは、帝国の成立とともに古代から暗躍していたが、グローバル化のすすむ現代では、質量ともに驚くほど進化している。
 EHMは、いったん仲間入りしたら、一生抜けられない。EHMは、汚い仕事をする特別な存在。どんな仕事をしているのか、誰に話してはいけない。妻に対しても・・・。
 EHMの仕事は、世界各国の指導者たちを、アメリカの商業利益を促進する巨大なネットワークにとりこむこと。EHMは、マフィアのヒットマンと同じく、まずは恩恵を施す。それは、発電プラントや高速道路、港湾施設、空港、工業団地などのインフラ設備を建設するための融資という形をとる。融資の条件は、プロジェクトの建設をアメリカ企業に請け負わせること。要するに、資金の大半はアメリカから流出しない。ワシントンの銀行から、ニューヨークやサンフランシスコなどの企業へ送金されるだけ。しかし、融資を受けた国は、元金だけでなく、利息まで返済を求められる。EHMの働きが成功したら、融資額は莫大で、数年たったら債務国は返済不能になる。そのとき、マフィアと同じように、厳しい代償を求める。たとえば、アメリカ軍の基地の設置など。もちろん、それで借金が帳消しになるわけではない。
 エクアドルは、EHMが政治的経済的にトリコ(虜)にした国の典型だ。エクアドルの産出する原油100ドルあたり、石油会社のとり分は75ドル。残り25ドルのうち4分の3は、対外債務の返済にあてられる。その大半は軍備などに充てられ、公衆衛生や貧しい人々への援助や教育に充てられるのは、2.5ドルほどでしかない。
 ウガンダ(アフリカ)の悪名高い独裁者だったアミン元大統領は、1979年に失脚し、サウジアラビアに亡命した。反体制派の国民を10〜30万人も虐殺したという暴君が、サウジアラビアの王族から保護され、車や召使いを与えられ、豪華な生活を過ごした。アメリカも、反対はしなかった。アミンは2003年、80歳で病死した。
 EHMは、エクアドルを破産に追いこんだ。何十億ドルもの貸付をして、アメリカのエンジニアリング会社に工事を依頼させ、もっとも裕福な人々の利益になるプロジェクトをつくった。その結果、この30年間で、生活困窮者の割合を示す公式な貧困線は50から70%へ、不完全失業者と失業者の割合は15%から70%へと大きく増えた。国家の負債は2億4000万ドルから160億ドルへと増加した。その一方、最貧層のために配分される国家予算の比率は、20%から6%へと減少した。
 今日、エクアドルは借金の支払いのためだけに、国家予算のほぼ半分をつかわなければならない。
 アメリカの実情を再認識させられました。サブ・プライムローン破綻で世界中をゆり動かしましたが、今のままでいくとアメリカの経済繁栄はいずれなくなってしまいますよね。でも、そのとき日本がどうなっているか、お互いにますます心配です。
 庭にミカンを半分に切っておくと、すぐにメジロが二羽飛んできて、ついばみはじめます。可愛らしいですよ。そこへヒヨドリが飛んできてメジロを追い払います。ジョウビタキもやって来ますが、ミカンは食べません。ジョウビタキは茶色で、尻尾が少しだけ長いスズメくらいの大きさの小鳥です。人の見えるところまで近づいてきて、鳴きながら尻尾をチョンチョンと下げて挨拶してくれるのが愛敬です。それよりもうひとまわり大きいツグミのような茶色の小鳥も庭にやって来るようになりました。図鑑をみて調べるのですが、アカハラに似て、それほど赤味はありません。もちろん、常連のキジバト、そしてわが家にすみついているスズメたちも庭中をかっ歩しています。ようやく春になりました。チューリップの咲くのも、もうすぐです。待ち遠しくて、しかたありません。
(2007年12月刊。1800円+税)

ホモセクシャルの世界史

カテゴリー:社会

著者:海野 弘、出版社:文藝春秋
 ヒンズー教は同性愛を一般的に受け入れている。イスラム教徒キリスト教には同性愛の項目がない。ユダヤ教は、ゲイは一般に認めないが、このごろは認めようとする派もある。
 アメリカに渡った宣教師は、ネイティブアメリカンの部族の中に、女装して女の仕事をしている男がいるのを見て驚いた。女装した男たちは、部族の最高会議で助言者の役をつとめ、重大な決定は彼の意見を聞く。占い師、預言者、語り部、ヒーラーでもある。
 ギリシアのスパルタが軍隊組織を発達させたといっても、必ずしも男性社会だったわけではない。アテネよりも、むしろスパルタの方が女性の社会的地位は高かった。
 18世紀、ヨーロッパではホモセクシャル(ソドミー)を処罰する法律が次々に廃止された。とくに啓蒙君主のいた国で早かった。フリードリヒ大王のプロシア、レオポルト2世のオーストリア、エカテリーナ2世のロシアである。先進国のはずのフランスとイギリスは遅れた。フランスでは1791年に犯罪でなくなり、1810年のナポレオン法典で、それが確認された。しかし、ソドミーは犯罪ではなくなったが、差別意識は残り、警察はひそかに監視を続けた。
 イギリスでは男色による死刑は1861年まで残った。この年、それは無期懲役となった。エリザベス女王がつくった男色処罰法は、1967年まで残った。
 アメリカでは、2003年、ホモセクシャルを罰するテキサス州法を連邦最高裁が違憲とし、州刑法が廃止された。
 イギリスのオスカー・ワイルド(1854〜1900)は世界一有名なホモセクシャルであり、その典型だ。
 フランスのランボーとヴェルレーヌもホモセクシャルの関係にあった。ヴェルレーヌのそれは少年時代からだった。ヴェルレーヌもランボーも、圧倒的な母の庇護下にあったことが共通している。2人は、しばしばそこから逃れたが、また引き戻された。母から、女から逃れるため、2人はひかれあった。ヴェルレーヌは言葉を取り戻し、詩を書けるようになった。
 アンドレ・ジッド、プルースト、コクトーはいずれもホモセクシャルの作家である。ジッドは、そのことをもっとも明確に告白した。プルーストとコクトーは、内部では公然の秘密だったが、告白はせず、あいまいにし、言い訳もしなかった。
 ジャン・コクトーは隠れなきホモ・セクシャルであるが、多くの女性を愛し、一緒に暮らしたりもした。だが、結婚はせず、子どもはつくらなかった。人を愛することにおいて、男とか女とかの区別はしなかった。しかし、芸術的な美しさの点で男にひかれた。
 うむむ、なんということでしょう。私には、よく分かりません。
 アメリカ。ハリウッドでは、ホモセクシャルの人々をトワイライト・メン(薄明の人々)、ラヴェンダー・バディ(紫の兄弟)などと呼んだ。彼らは目立たないように暮らしていた。
 サマーセット・モームもキューカーもホモだった。ロック・ハドソンは、1959年から1964年まで、アメリカの人気ナンバーワンの男優だった。多くの女性は、結婚するなら、彼のような男と思った。しかし、ハドソンはホモセクシャルだった。
 YMCA!という歌は、アメリカのゲイ賛歌である。
 ニューヨークのゲイの領土はハーレムである。黒人街ハーレムが、白人たちのもっとも自由にふるまえる場所だった。
 FBI長官のフーヴァー、副長官のクライド・トルソンの2人とも独身であり、ホモセクシャルだと疑われていた。そのウワサを振り払うため、この2人はホモへの厳しい態度を示した。アカ狩りで名高いマッカーシーも、ホモセクシャル問題には深入りしなかった。というのも、彼自身、その疑いがあったから。
 この本を読むと、いかにホモセクシャルに生きる人々(ゲイの人々)に文化人が多いか、驚くべきほどです。いったい、これはどういうことなんでしょうか・・・。
(2005年4月刊。3200円+税)

雪解け道

カテゴリー:社会

著者:青木陽子、出版社:新日本出版社
 団塊世代の青春を描く大河小説。あの「大学紛争」とは何だったのか。「政治の季節」を駆け抜けた情熱が、今よみがえる。これは、オビに書かれている言葉です。
 団塊世代は、いま、私をふくめて還暦を迎えつつあります。私には、残念ながらまだ孫はいませんが、この本の主人公のように孫をもつ人もたくさんいます。
 多くの団塊世代が大学生のころに直面した「大学紛争」とは、いったい何だったのか。革命を議論していた、あの熱気、そして情熱は、いったいどこに消え去ったのか。不思議なほどにおとなしいのが、今の団塊世代の大きな特徴です。ええーっ、おいおい・・・。
ぼくら、20歳(はたち)前後のころは野放図に語り、行動して、世間の顰蹙を買うほどの存在だったんじゃないの?今、どうして、そんなに分別臭い顔をして、横丁の楽隠居みたいに引っこんでいるの・・・。たしかに、私はそう叫びかけたくなります。
 著者は私とまったく同年の生まれのようです。1967年に大学に入学し、私の入ったセツルメント・サークルに似た児文研に入部します。
 児文研は100人近い部員をかかえた大所帯のサークルで、戦前からのセツルメント活動に端を発しているという。
 私の所属していた川崎セツルメントは、20ほどの大学から学生が150人ほども参加していました。もちろん、いろんなパート(部)に分かれていました。子ども会、青年部(若者会)、定時制高校パート、労働文化部、法律相談部、栄養部、保健部といったパートです。子ども会は、いくつもの地域で、そして、青年部はいくつもの若者サークルに入って活動していました。
 実に多くの出会いがあり、発見がありました。私なんか、大学でよりも、このサークルで学んだことのほうが大きいと、今でも思っています。というか、2年生のときに無期限ストライキに突入して、まともな授業を受けていないことも原因のひとつです。でも、授業があっていたとしても、果たして、どれほど真面目に授業に出ていたかは疑問です。
 寮生活をしていましたが、昼と夜とが逆転したような学生は、いくらでもいました。まあ、それはそれでいいような気がします。
 「ぼくは大学に革命をやりに来ました。・・・いろいろ考えた結果、日本には革命が必要だと考えています。学生運動をやりながら、そこから革命の道筋を考えたいと思っています」
 この本に出てくる学生のセリフと同じような言葉を下級生(43年入学)から聞いて驚いたことを覚えています。彼は、寮内にあるセクト全部をまわって論争したというのでした。ええーっ、そんなことをする学生がいるのか・・・、と驚きました。
 デモの中にいて、機動隊とぶつかると、身体も気持ちも、くしゃくしゃになって、すごく昂揚してくる。自分自身がなくなるくらいに周囲に溶け込んでいく。それで、生きているという実感が強く湧いていくる。
 自分たちを今の状況に追いつめている元凶が国家権力なら、権力の暴力装置とじかにぶつかるというのは、すごく納得できる。でも、怖い。自分が自分でなくなるような、あの状況が・・・。あれだけのことで、あんなに充実感を感じてしまうなんて・・・。
 『清冽の炎』(神水理一郎、花伝社)とまったく同じ時期の大学内の様子が描かれています。団塊世代はもっともっと力を発揮すべきではありませんか。そのためにも、これらの本を読んで、若さを取り戻してほしいものです。
(2008年1月刊。2400円+税)

私はなぜ逮捕され、そこで何を見たか

カテゴリー:司法

著者:島村英紀、出版社:講談社文庫
 64歳で逮捕された教授(地震学者)の書いた本です。2006年2月から7月まで、なんと171日間も札幌拘置所暮らしを余儀なくされました。その拘置所での日常生活が、ことこまかく紹介されています。
 札幌拘置所には暖房器具はない。建て替え前は、暖房もなかった。今は廊下に暖房がある。そうなんですね。だから警察の留置場(代用監獄)のほうがいいという被疑者もいるのです。悪いことをした人間にエアコンなんてぜいたくだという「素朴な」国民感情がある限り、冷暖房は難しいでしょうが、本当にそれでいいのでしょうか・・・?
 拘置所の廊下を歩くときには、真ん中を、まっすぐ前を向いて歩くことが要求される。決して拘置所に収容されている人と目を合わせてはいけない。
 昼食は午前11時すぎに配られる。昼食後は昼寝してもいい。平日だと12時半から1時間。土日と休日は、12時半から2時間。これ以外の時間は横になってはいけない。
 就床は曜日にかかわらず18時。フトンを敷いて横になってもいい時間だ。就寝は、曜日にかかわらず21時。これは、寝なければいけない時間。これ以降、起きていてはいけない。
 食事は歯ごたえのあるものは、ほとんどなく、柔らかいものがほとんど。長期収容者に歯の悪い人が多いせいだろう。比較的に低脂肪で、魚タンパク、練り製品が多い。野菜は煮たものが多い。ワカメ、昆布、ヒジキなど海草類は多い。
 塩分は多すぎで、デザートや果物が意外に多い。麦が1割ほど混じった米飯は、想像していたより悪くはない。よくかむと甘い。巨大なコッペパンも出る。焼き魚は、焦げていることが少なく、うまい。
 本は合計して98冊を借りて読んだ。
 著者は詐欺罪で起訴されました。ところが、被害者とされた北欧(ノルウェー)の大学の代表者が法廷で詐欺にはあっていないと証言したにもかかわらず、有罪(懲役3年、執行猶予4年)となりました。研究費を私的流用したという点を検察官は立証できなかったのに・・・。
 ところが、著者は控訴しなかったのです。控訴してもムダだと判断したわけです。
 その理由の一つに、札幌高裁には、有罪を乱発するので有名な裁判官がいて、その裁判官が担当する可能性が高いということがあげられています。なるほど、たしかに、そういうことも、現実には考慮されていることです。控訴したあげく執行猶予どころではなく、実刑になっては大変ですからね。だけど、司法って、そんなにあてにならないものであっていいのでしょうか・・・。
 そして、真実追究とか名誉回復とか悔しいという気持ちより、残された人生を本来やりたいことにつかったほうがよほどいいと判断したというのです。
 なるほど、それも一つの決断だと弁護士生活35年の私も思いました。私の体験でも、司法は、それほど、あてになる存在ではありません。勇気のない裁判官(もっとも、本人はあまりそのような自覚はありません)が、それほど多いのです。
(2007年10月刊。533円+税)

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