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神なるオオカミ(上巻)

カテゴリー:中国

著者:姜 戎、出版社:講談社
 うひょー、すごい本です。圧倒されてしまいました。著者は、私より少しだけ年長ですが、同じ団塊世代です。文化大革命のときにモンゴルの草原に下放されました。その苛酷な体験をふまえた、世にも珍しい小説です。
 著者は、北京の知識青年として、志願して内モンゴル辺境のオロン草原に下放され、 1979年に中国社会科学院の大学院試験に合格するまで11年間、過ごしました。
 草原の人間は決してオオカミの毛皮を敷き布団になんかしない。モンゴル人はオオカミを敬っている。オオカミを敬わないのはモンゴル人ではない。草原のモンゴル人は、たとえ凍え死んだって、オオカミの毛皮をつかわない。オオカミの毛皮の敷き布団で寝るようなモンゴル人は、モンゴルの神霊をけなしている。
 オオカミは草原を守る神だ。天は父で、草原は母だ。オオカミは草原の害になる生き物しか殺さない。だから、天がオオカミをかばわない理由はない。
 草原の遊牧民の視力はよいが、オオカミの視力にはかなわない。しかし、単眼鏡をつかうと、オオカミの視力に近づける。
 オオカミとは命がけで戦うだけでは無理だ。根気もなければならない。根気よく地面に伏せておかなければいけない。
 新鮮な黄羊の焼き肉は、モンゴルの代表的なごちそうだ。とくに、猟が終わってから、狩り場で火をおこして焼きながら食べるのは、古くはモンゴルのカーン(汗)や王侯貴族が好んだ楽しみであり、草原の狩人たちにとっても逃してはならない愉快な集まりである。
 オオカミはモンゴル人の命の恩人だ。オオカミがいなかったら、チンギスカンもいないし、モンゴル人もいなかった。草原では、オオカミの餌を食べない人間は、本物のモンゴル人ではない。
 モンゴル人は天葬する。草原へ使者を運び、オオカミに食べてもらう。死者を牛車にのせて草原へ運び、牛車から死者が揺れて落ちたところが、死者の魂が天へ昇る地である。死者を裸にして草原のうえで、仰向けに寝かせる。この世にやってきたときと同じように、無一物で平然とした姿である。死者はすでにオオカミのものである。もし3日後に死体がなくなって、骨しか残っていなければ、死者の魂は天のところへ昇っていったことになる。天葬のあとは、必ず、その場所を確認しなければならない。
 うひゃあー、チベットの鳥葬のようなことが、モンゴルでもあっていたのですね・・・。草原で、もっとも辛抱強くチャンスを探すのはオオカミである。チャンスを待つ戦争の神、それがオオカミなのである。
 モンゴル草原では、オオカミにとって、牙が命である。オオカミのもっとも凶悪で残忍な武器は、上下4本の鋭い牙である。牙がなければ、オオカミの勇猛、果敢、知恵、狡猾、凶暴、残虐、貪婪、傲慢、野心、抱負、根気、機敏、警戒、体力、忍耐などのすべての品性、個性、性格は、一切がゼロになる。オオカミの世界では、片目が失明しても、足を一本ケガしても、耳が二つなくても生きられる。しかし、オオカミは牙をもたなければ、草原での殺生与奪の権を根本から剥奪されることになる。殺すことと食うことを天命とするオオカミにとって、牙がなければ、命がないのも同然だ。
 馬の放牧は、草原でもっとも困難で危険な仕事なので、体が丈夫で、大胆で、機敏で、聡明で、警戒心が強く、飢えや渇き、寒さや暑さに耐えられるようなオオカミか軍人の素質がなければ馬飼いとして選ばれない。
 馬飼いは、オオカミと生きるか死ぬかの戦いの第一線に身を置いているので、オオカミに対する態度が矛盾している。草原では、牛の放牧は一番楽な仕事とされる。牛の群れは朝早く出かけて、夜遅く帰り、草地も家も覚えている。
 馬の群れは、近親相姦を容赦なく取り除くことによって、種の質と戦闘力を高める。
 夏になり、3歳の牝馬が性に目ざめると、牡馬は慈しむ父親の顔をがらりと変えて、自分の娘を冷たく群れから追い出し、母親のそばにいることを決して許さない。狂ったように暴れ出す長いたてがみの父親は、オオカミをかんで追い払うように自分の娘をかんで追い払う。牝の子馬たちは泣いたり騒いだり、懸命にいななき、馬の群れががやがや騒ぎたてる。やっとのことで母親のそばに逃げこんだ牝の子馬を、まだひと息つく間もなく、凶暴な父親が追いかけてきて、けったりひっかいたり、いささかの反抗も許さない。それぞれの家族が娘たちを追い出す騒ぎが一段落すると、もっと残酷な悪戦、つまり新しい配偶者の争奪戦が続く。それがモンゴルの草原の、ほんものの雄性と野性という火山の爆発である。
 牡馬は草原で覇をとなえている。オオカミの群れが、自分の妻と子どもを攻撃してくるのを恐れる以外、世のなかにはほとんど怖いものがない。
 モンゴルの大草原の厳しい掟をかいま見る思いのする、いかにもスケールの大きい小説です。下巻が楽しみです。
(2007年11月刊。1900円+税)

グーグルとの闘い

カテゴリー:アメリカ

著者:ジャン・ノエル・ジャンヌネー、出版社:岩波書店
 アメリカのグーグル社が、6年間で、1500万冊、45億ページをデジタル化すると発表した。2004年12月14日のこと。
 英語(アメリカ語)が他のヨーロッパ言語のほとんどすべてを犠牲にして、いっそう優勢になる。果たして、それでいいのか。著者は鋭い警鐘を鳴らします。
 グーグルは検索者と広告主のニーズを的確にとらえた。グーグルの検索エンジンに占める広告のウェイトは大きい。これまで、本は広告を含まない唯一の情報媒体だった。これは大切なこと。
 グーグルは羽振りの良さの陰にもろさを隠している。もし、グーグルが破産したら、そこでデジタル化された遺産は誰のものになるのか。グーグルの計画の弱点の一つは、長期的な保管・保護について明らかに無関心なこと。これは、商業的な計画に隠された短期性による。投資は何があろうと早々に回収されなければならないからだ。
 英語は多くの国でつかわれているものの、アメリカの影響力が強い。情報ソースがアメリカに集中する可能性が強い。情報ソースの集中は、知らず知らずのうつにアメリカ的な発想へと誘導する。しかし、文化には多様性が不可欠である。
 フランス国立図書館は、1300万冊を収容し、8万点をデジタル作品を所蔵している。フランス文化省によると、国内30の図書館がデジタル化に乗り出している。
 インターネットによって、本の効用がなくなることはない。本は必ず生き残る。インターネット利用者も、結局は、古典的な本の文化に戻る。ウェブは、確実に、書架の奥に埋もれていた作品に光を当てるようになる。
 アメリカが世界を支配しようとしているとき、アメリカはどんな国なのか。改めて確認しておく必要がある。死刑制度が存続する。200万人もの刑務所人口がいる。選挙では、お金が決める。京都議定書を拒否する。人道に対する罪を裁く国際刑事裁判所を拒否する。アメリカ軍はイラク戦争でバクダッドに進駐すると、文化施設ではなく、石油省を保護した。
 アメリカ(ライス長官)は、自由こそがすべての幸福そして平和を保証する手段だという考えを振りかざした。しかし、フランスでは、昔から、自由にも代償があると理解されてきた。
 あのグーグルの言いなりになったら世界の文化の多様性が失われてしまう、そんな危機感をひしひしと感じました。さすがはフランス人です。私もフランス語を勉強し続けて良かったと思いました。
(2007年11月刊。1600円+税)

母べえ

カテゴリー:日本史(戦後)

著者:野上照代、出版社:中央公論新社
 ベルリン映画祭で惜しくも受賞できませんでしたが、山田洋次監督の映画『母べえ』は、実に良い映画でした。見終わったあと、胸のなかに温かい湯たんぽを抱えたような気分にずっと浸っていました。観客150万人突破という宣伝文句が出ていますので、興行成績もまずまずのようで、うれしい限りです。まだ見ていなかったら、今すぐどうぞ映画館に足を運んでくださいね。反戦・平和のためには、今すぐ足を動かすことが求められています。
 山ちゃんが兵隊にとられて南方戦線へ輸送船で運ばれていくシーンがあります。薄っぺらな船です。護送艦隊もないのですから、アメリカ軍の潜水艦に狙われ、魚雷をうち込まれたら、ひとたまりもありません。またたくまに、海のもくずと化していきます。今回、初めて、そのシーンをビジュアルなものとして見ることができました。
 ああ、こうやって、前途有望な多くの日本人青年が無念の死に追いやられたのだなと思うと、それだけで胸が一杯になりました。戦死といっても、まるで意味なく殺されただけなのです。それは、アメリカ軍に殺されたというより、軍上層部の無謀な戦争指揮によって死なされただけ。そうとしか思えませんでした。
 吉永小百合は、私より少し年長なのにもかかわらず、相変わらず凛々しい美しさを保持していて、畏敬の念にかられました。まさに信念の女性ですよね。反戦・平和の志を常日頃から表明しているのにも敬意を表します。
 著者の父親(父べえ)は、1926年に日本大学予科教授に就職し、執筆活動していたところ、治安維持法にひっかかっりました。日大を追放され、1940年から拘置所に入れられた。そのときの家族との往復書簡集がノートに書き写されて残っているのです。
 山田洋次監督の序文のかなに紹介されている詩を紹介します。
 戦死やあわれ
 兵隊の死ぬるや あわれ
 遠い他国で ひょんと死ぬるや
 だまって だれもいないところで
 ひょんと死ぬるや
 ふるさとの風や
 こいびとの眼や
 ひょんと消ゆるや
 国のため
 大君のため
 死んでしまうや
 その心や          (竹内浩三、「骨のうたう」)
 戦争反対です。私は、どんな口実であっても、戦争に反対します。
(2007年12月刊。1100円+税)

虚栄の帝国 ロシア

カテゴリー:ヨーロッパ

著者:中村逸郎、出版社:岩波新書
 プーチンのロシアからは目を離せません。どうやら景気はいいようです。
 高騰する原油価格に支えられるロシアは、近年、石油バブルの様相を呈している。2006年の世界主要都市の生活費ランキングで、モスクワが前年の4位から一気にトップに躍り出た。3年連続して首位だった東京は3位に転落した。
 世論調査によると、82%の回答者がロシアでの生活を気に入っていると答え、この5年間で収入が36%上昇したという。
 1970年代から80年代までのモスクワに長期滞在するソ連邦構成国の出身者は5万人だった。いまや、250万人の出稼ぎ労働者がいる。旧ソ連構成国で外国への出稼ぎを希望する人の75%がロシアに来る。その90%が不法就労者であり、ロシア社会の闇の部分に囲いこまれている。彼らは家族を故郷に置いて単身赴任でやって来る。家族への毎月の平均的な送金額は100ドルほど。
 出稼ぎ労働者はロシア経済に貢献している。しかし、その働く場所は、たとえば建設現場のように危険と隣りあわせ。もし災害で負傷したらどうなるのか。
 転落死亡事故が起きて遺体の処理に困って、建物の壁のなかに埋めこまれ、あとで悪臭に気がついた入居者が遺体を発見したケースもある。
 うむむ、これってポーの『黒猫』でしたか、同じような話がありましたよね。
 ロシア全土の警察署で姿を消す外国人が急増しているという噂がある。警察に抗議して消された人は、永久に遺体が発見されることはないだろう。
 モスクワ市警察が正式に確認した外国人の合法就労者は10万人にみたない。300万人の外国人労働者の3%ほどでしかない。
 警察官は抜きうち検査にやって来て、お金を徴収する。警察官の規律の乱れはひどい。社会秩序の再生は、警察官の犯罪をいかに取り締まるのかにかかっているとさえ言われている。警察官たちの大規模な犯罪集団が形成されている。
 タジキスタン大使館は、自国民がモスクワの警察官に不当な暴行などを受けたときの心得を新聞にのせている。モスクワの警察官による傷害事件が後を絶たないために、その未然防止策と、暴行を受けたときの対処法を示しているわけだ。そのいくつかを紹介します。
 自分が取調室にいた痕跡を残す。机の裏に何かを書き記し、殴られたときの血痕を残す。暴行を受けたら、医師の診察を受ける。殴った警察官の特徴をよく覚えておく。同情的な警察官がいないか、見つけておく。
 ところが、この対処法は形ばかりで、ほとんど効果はあがっていない。大使館は、ロシアに抗議することができないでいる。
 ロシアにも外国人嫌いのスキンヘッドが台頭している。
 いやあ、ロシアの闇の深さは恐ろしいものがありますね。
(2007年10月刊。2600円+税)

画文集・シベリア抑留1450日

カテゴリー:日本史(戦後)

著者:山下静夫、出版社:東京堂出版
 シベリア抑留の実情を初めて目で見ることができました。これまで書物としてはいくつも読んでいましたが、この本によって初めてビジュアルなものになりました。
 著者はシベリアから帰国して25年後の1974年春、抑留されていた4年間を日記風に書きはじめ、10ヶ月間で書きあげた。その過程で挿画を入れ、7年のうちに400枚あまりの画になった。
 B6ケント紙に黒のボールペンで、ペン画のスタイル。経験したものだけを、現場でカメラのシャッターをきった写真のように忠実に描写することを心がけた。
 いやあ、本当によく描けています。シベリアの酷寒の大自然と、抑留されていた日本兵、そして監視していたロシア兵の人間性がよくぞ描けています。感心してしまいます。
 著者は1945年(昭和20年)夏、抑留されたとき27歳でした。昭和18年に召集されて満州に渡り、佳木斯(チャムス)で敗戦を迎えた。輜重兵聯隊の主計軍曹だった。著者は商家の息子で都会っ子、小柄な身体で体力的にも劣っていたが、不屈の気力と日本人の誇りを胸に仲間に助けられながら、収容所で中隊長となり、肺炎・赤痢・マラリアにかかり、膝にケガをしながらも、昭和24年9月に日本に帰国できた。
 日本軍捕虜のシベリア抑留はスターリンによる1945年8月23日の極秘指令、日本軍捕虜50万人をソ連に移送せよという指令にもとづく。
 抑留者は60〜65万人。抑留中の死亡者は6〜9万人。
 戦争により2500万人という膨大な犠牲者を出して国土が荒廃したソ連は、復興のためノドから手の出るほど労働力を必要としていた。
 比較として、ソ連の捕虜になったドイツ軍人は320万人で、そのうち110万人(34%)が死亡した。ドイツの捕虜になったソ連軍人は570万人で、そのうち330万人(58%)が死亡した。この死亡率の高さは独ソ戦の苛酷さを意味している。
 これに比べると、日本軍人の捕虜の死亡率が1割程度ですんだというのは、まだましだったことになります。驚くべき数字です。
 著者が4年のシベリア抑留のあと日本(舞鶴港)に帰ってきたとき、日本政府の高官は、「ながらく御苦労様でした」と挨拶することもなく、ソ連の内情はどうだったか、スパイまがいを強要した。このことに著者は怒っています。なるほど、そうですよね。
 著者がようやく日本に帰れることを知ったとき、ロシア人たちは、「よかった、よかった。達者でお帰り」と喜んでくれたというのです。そして、きみたち日本人のおかげで住みやすい町になった、ありがとうという感謝の言葉をかけられたといいます。
 ひゃあ、そんな感じだったのですか・・・。
 シベリアの極寒の地を日本人捕虜が大変な苦労をして切り拓いていったことが、画と文章によって、ことこまかに紹介されています。
 シベリアでは冬にマイナス25度の日が続くと、今日はぬくい日だなあと喜び、防寒外套を脱ぎ、素手で作業することがあった。日本でマイナス27度と言えば、大変な寒気で異常事態といえるが、常時マイナス30度のシベリアでは服装もそれにあわせてあるため、むしろ暖かさを感じるほど。
 シベリアに日本人捕虜を抑留して多くの犠牲者を出したのは、第1に、日本軍の将校、下士官の横暴をソ連が黙認し、利用したことによる。食糧も公平ではなかった。第2に、作業遂行にノルマを強制し、将校、下士官に追求したため、作業兵を死においやった。第3に、なれない作業への無知のため発生した犠牲者がいる。第4に、生活環境が改善されず、もっぱら野外作業にかり出され、凍死者さえ出た。
 日本軍捕虜は、経費のかからない安い労働力とみられ、限られた期間内に精一杯つかいまくる、ソ連は消耗品視していた。
 木の枝にとまっている三羽のヤマバトをソ連の兵士が一羽ずつ長い歩兵銃で撃ち落としていったというウソのような話も紹介されています。
 シベリア抑留の実情を少しでも知りたい人には欠かせない本だと思いました。
 陽も長くなり、いっそう春めいてきました。それは良いのですが、花粉症に悩まされて困っています。鼻づまりがひどく、夜、口を開けて寝ていたらしく、朝、起きたときに舌がザラザラして嫌な感じでした。涙目になり、目が痛痒いのも困ります。もっとも、こちらは目薬で何とかなります。夜、寝る前に、鼻のあたりに温湿布をあてて温めています。すると、少しは鼻づまりがやわらぎます。黄砂で車体が黄色くなっていて驚きました。いろいろあるのも春なのですね。
(2007年7月刊。2800円+税)

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