法律相談センター検索 弁護士検索

貸し込み

カテゴリー:社会

著者:黒木 亮、出版社:角川書店
 オビには、モラルなき銀行の実体を暴く超一級の経済ミステリ、と書かれています。脳梗塞患者への過剰融資、書類偽造、元上司の偽証・・・。濡れ衣を着せられた元行員が、組織悪に敢然と立ち向かう。
 いやあ、銀行マンって、ホント、大変な職業なんですね。バンカー、とも呼ばれますが、この本を読むと、なんだか気の毒になるほどダーティー・ワークをさせられるようですね。とりわけ、アンダーワールド(要するに暴力団、ヤクザ)とのつきあいは、大変だろうと思います。
 岩淵頭取は、周囲との調和を図るあまり、実行力に欠けた。個々の案件の問題点を指摘されると、妙に物わかりが良くなって、引き下がってしまうことが多かった。しかし、多少の波風を立ててでもリーダーシップを発揮してほしかった。頭取として成功しなかった理由の一つは、そこにあった。
 アメリカにはディスカバリー(証拠開示)という制度があり、訴訟を提起したら、原告は被告側の文書を広範囲に閲覧し、被告側の役員や従業員に対して質問する権利が認められている。ディスカバリーの対象は、企業の文書にとどまらず、従業員が別に保管している文書、Eメールや会議の非公式メモなど関連するすべての文書に及ぶ。
 しかし、日本には、このような制度はない。そのうえ、裁判官が、文書提出命令の適否が争われるのを避けようとして、提出命令をなかなか出さない。
 銀行がまともに対応してこないため、主人公は週刊誌や月刊誌にとりあげてもらって銀行の非を社会的に明らかにしようと決意します。しかし、銀行側も、お金の力もふまえて機敏に対応し、編集部に圧力をかけます。
 果たして、このあとどうなるのか、ハラハラドキドキの展開です。さすがプロですよね。読ませる本です。
 貸し込め。あらゆる理由を見つけて、貸し込むんだ。
 これは、実際にバブル前までの日本の銀行のモットーだったのでしょうね。恐ろしいことです。
(2007年9月刊。1400円+税)

ネットカフェ難民と貧困ニッポン

カテゴリー:社会

著者:水島宏明、出版社:日テレノンフィクション
 現代日本の青年を取り巻く状況を一語であらわす言葉、それがネットカフェ難民です。フリーターとかハケンとか言っているうちはまだ良かったのです。ネットカフェも、単なる流行語でしかありませんでした。ホームレスも中高年の話だと思っていました。ところが、青年たちがネットカフェで寝泊まりしている。社会のなかに定着できない青年が大量に存在する。そのことを、たったひとつの言葉であらわしたのです。衝撃的な言葉でした。私は、福岡・天神にあるネットカフェを、恐る恐るのぞいてみました。いえ、もちろん暴力団事務所をのぞくような怖さがあったわけではありません。夜10時ころでしたが、たしかに、若い男性も女性も次々に入ってきます。背広姿のサラリーマンもやって来るのです。ええーっ、まさか、帰るところがないはずはないだろうに、なんで、こんな夜遅くに、ネットカフェなんかにやって来るのだろう、不思議に思いました。なんとか全身を伸ばせるようなブースがいくつもあります。でも、こんなところで寝ても、安眠できないでしょうし、身体の節々がきっと痛くなることでしょう・・・。
 著者は、このネットカフェ難民という言葉をつくったジャーナリストです。テレビの世界で報道ドキュメンタリーの制作と、ロンドンとベルリンに9年あまり海外特派員をしていました。日本の東京で、1晩1000円で過ごせるネットカフェで暮らす人たちがじわじわと増えている現象は、なんだかおかしいぞという問題意識をもったのです。なーるほど、ですね。私も、日テレの特集番組はビデオでみましたので、この本に紹介されている写真は記憶があります。
 ネットカフェは、韓国に3万店ある。日本には、まだ4000店ほどしかない。東京・蒲田にある格安ネットカフェは、1時間100円。安くしたところ、店の回転率は上がり、客の入りは倍近くになった。200席ある店内の一日の延べ利用客は300人。ネットカフェを利用する人の食費は、1日1000円。チェーン店の牛丼380円。格安外食レストランのハンバーグ定食380円。ハンバーガー1個100円。赤飯弁当180円。弁当屋の豚汁120円。これを一度でなく、2回に分けて食べる。
 ネットカフェ生活は、アパート暮らしよりも効率が悪い。外食代、コインロッカー代、コインランドリー代、シャワー代など、アパート生活ではかからない費用がかさむ。
 さらに、新品の下着を使い捨てにしたり、意外に高くつくのがネットカフェ生活だ。ほとんど、その日暮らしの自転車操業状態になっている。
 徹底して、自尊感情がない。必死さがなく、無気力で、可愛げがない。できれば放っておきたいタイプ。怠情けとも目に映る。自分はダメな奴・・・、と思っている。
 いま、日本に起きているのは、一般社会の寄せ場化である。かつての山谷などで見られた光景が、いまや日本全国津々浦々に広がっている。それも、日雇い派遣という形をつかって、合法的に。しかも、ケータイ、メールをつかって現代的に・・・。
 専門的なスキルのないハケンが急増している。派遣の対象業種が拡大し、単純労働にまで派遣が恒常化している。日雇い派遣のように細切れで低賃金の労働では、何年やってもスキルの向上や経験の蓄積につながらない。
 1985年に労働者派遣法ができて、派遣は解禁された。1999年の労働者派遣法の改正によって、派遣は原則自由化された。2003年には、製造業への派遣も解禁された。
 そして、日本の大企業は空前の利益を得ている。4年連続で過去最高となった。景気回復にともなう企業業績は好調だ。人材派遣業は、2006年度は4兆351億円で、前年比41%増。01年度の2倍だ。
 働く者が、部品みたいに兵器で使い捨てされる社会。正社員も安心できないし、非正規だともっと人間扱いされない。一度落ちると、トコトン落ちてしまって、はいあがれない。ネットカフェ難民は、そんな社会の象徴だ。とくに若い人たちがボロボロにされている。こんな状態に無関心でいてよいわけはない。社会全体が意識して取りくんでいくべきだ。
 私もまったく同感です。お互い、できるところから、やっていきましょうよ。それにしても、日テレも、たまには、いい番組をつくるものですね。心から拍手を送ります。
 とりたての竹の子が届きました。シャキシャキとした歯ざわりで、美味しくいただきました。食べながら春を実感したことです。
 隣の家のハクモクレンの白い花が咲いています。朝、庭に出ると、ウグイスがあちこちで澄んだ声でホーホケキョと鳴くのが聞こえます。メジロの姿は見えますが、ウグイスのほうは、声はすれど姿は見えず、です。
 鼻づまり解消のため、鼻うがいを始めました。塩を入れると、そんなに苦しくはないのですね。昼間のポカポカ陽気はいいのですが、花粉症には悩まされます。
(2007年12月刊。952円+税)

公認会計士VS特捜検察

カテゴリー:司法

著者:細野祐二、出版社:日経BP社
 粉飾決算したとして無罪を主張しながら一審も二審も有罪となった公認会計士が、いまの司法制度を厳しく弾劾した本です。検察と裁判所だけでなく、弁護士までもが鋭く指弾されています。経理処理のあり方については分からないことだらけですが、著者の憤慨ぶりはよく伝わってくる本です。
 日本の司法は激しい制度疲労を起こしている。制度疲労は、検察官だけでなく、裁判所にも、そして弁護士にもある。
 報道記者は、なぜ真実を報道しないのか。司法記者クラブの存在、そして、99.9%の起訴有罪率のなかで、報道機関自身が本来の健全な批判精神を忘れ、逮捕すなわち有罪という予定調和に安住しているのではないか?
 検察官は取調の冒頭でこう言った。
 あなたには黙秘権がある。しかし、行使するな。黙秘権を行使することは、あなたのためにならない。今日の(任意の)取り調べについては、弁護士にも話してはならない。ところで、テープレコーダーなどを持ち込んでいないだろうな?
 否認すると・・・。
 いい加減にしろ。すべて分かっているのだ。いつまで、ふざけた態度をとっているのだ。検事の声は怒りに震えている。立ったまま大声を出し、足を踏み鳴らしながら、机の上から身を乗り出すようにして、まくし立てる。自分の大声で興奮し、その興奮で、また怒りが加速される。
 著者は高血圧のため常に水分を補給しなければ血液の循環障害が出るので、医師からはこまめに水分を補給するよう注意されているのに、飲むことが許されない。ところが、取り調べにあたった検察官は、大きな湯飲み茶碗でお茶を飲みながら取り調べをした。
 検察官は、こう言った。
 検察官面前調書は、被疑者の言うことをそのまま書くものではない。被疑者と検察官の合作なのだ。したがって、調書には検察官も署名する。
 特捜検察は時流に乗った事件の立案を求める。公認会計士の責任がマスコミをにぎわしているので、本件は立件された・・・。
 著者の勾留期間中の取り調べは、21日間、合計95.5時間にわたって行われた。190日後に、やっと保釈された。逮捕の翌日から最初の日曜日までの6日間は、徹底した脅迫で痛めつける。その後は、罵声や恫喝による脅迫は止む。その後の10日間は、シナリオにあわせた論詰に変わる。最後は、昼に自白調書への署名を説得し、夜になると強要するというパターンだ。
 21日間の勾留期間中の取り調べで、何度も、「もうダメだ。署名するしかない」と観念した。それを踏みとどまったのは、弁護士の励ましがあったから。
 判決は、検察官の論告をそのまま認め、求刑どおりの懲役2年、執行猶予4年だった。即日、控訴した。
 弁護人は、アリバイ証明のための証拠請求をしてくれなかった。
 どうせ、請求しても、検察官が開示するかどうか分からない。裁判官が証拠開示命令を出してくれるかどうかも疑問だ。弁護人は、こう言った。
 でも、やってみないと分からないではないか。著者は、こう批判します。もっともです。でも、私も、ときどき同じようなことを言うことがあります。
 日本の弁護士は、どうせ有罪に決まっているという日本の司法の予定調和のなかで、多かれ少なかれ検察官となれあい、裁判官に対する執行猶予おねだり型の弁護活動しか行わない。容疑を全面否認して検察官と全面対立する被告人の弁護においても、弁護人は裁判所の心証を良くするなどと非論理的な理屈を言い立てて、やはり無罪判決おねだり型の弁護活動を行ってしまう。これでは、検察官も裁判官も、弁護士なんか怖くない。だから弁護士は、検察官からも裁判所からも軽んじられる。なぜ法の正義と被告人の人権を全面に打ち立てた弁護活動をしないのか?
 検察官は、証人尋問の前にリハーサル(証人テストという)をやる。そして、証言が終わると、検察官の部屋で反省をする。これは、前もって証言のあと検察官の部屋に来るよう証人はクギを刺されることによる。検事の手直しを受けたうえ、丸暗記させられた。 40回ものリハーサルをやらせられた。
 要するに、この事件は、著者が捜査段階で公認会計士としての守秘義務を理由に供述調書への署名を拒否したことから、捜査当局が不当な私憤を抱き、その私憤の上に強制捜査を行ったところ、たまたま机の引き出しから100万円の現金が発見されたことから、証拠にもとづかないで逮捕したことによる免罪事件だ、と主張しています。
 著者の怒りが迫力をもって伝わってくる本です。裁判員裁判を批判する人が少なくありませんが、私は今の職業裁判官による裁判に任せていいとは思えませんので、裁判員裁判を地道にすすめていき、少しでもより良いものに改善していったほうが良いと考えています。
(2007年11月刊。1800円+税)

南京事件論争史

カテゴリー:日本史(戦後)

著者:笠原十九司、出版社:平凡社新書
 日本人として、読んでいるうちに、思わず襟を正される思いのする本です。「南京事件の幻」とか、「南京での30万人大虐殺なんて中国政府のデッチ上げだ」という本が書店で山積みされている日本の状況は、本当に異常だと思います。ナチスによるユダヤ人のホロコースト(大虐殺)なんてなかったと叫んだ人がドイツにもいましたが、ちゃんと有罪になりました(と思います)。ところが、現代日本では依然としてマスコミで堂々と通用しており、教科書にもその悪影響が続いています。ほんとうに、日本には懲りない面々があまりにも多いと思います。
 日本人は南京事件を忘れても、世界は忘れない。日本人がなかったことにしても、世界はなかったとは認めない。世界各国は、忘れてはならないし、なかったことにしてはいけないと考えている。なぜなら、このような非人道的な行為が二度と繰り返されてはいけないからだ。南京大虐殺論争は、日本の今日の民主主義にかかわる深刻な問題なのである。
 これには私も、まったく同感です。南京事件、つまり、南京で大虐殺があったことは日本の当時の支配層も認めていたことです。
 前に紹介しましたが、昭和天皇の弟である三笠宮崇仁の『古代オリエント史と私』(学生社、1984年)にも、「日本軍の残虐行為を知らされました」と書かれています。三笠宮は1943年に南京にいたのです。岡村寧次(やすじ)中将(のちに大将)も、「南京攻略時に4.5万に大殺戮、市民に対する掠奪・強姦、多数ありしことは事実なるごとし」と書いています。
 田中新一・陸軍省軍事課長は「陸軍内部における多年の積弊が支那事変を通じて如実に露呈せられた」としています。当時の日本政府も軍部上層部も事実を知っていたものの、国民に対しては隠してしまったのです。
 南京事件は、南京攻略の過程で起きたことではなく、12月17日の南京入城式のあと、兵士たちの休養期間に多発している。南京事件でもっとも犠牲者数が膨大だったのは、中国軍の投降兵、捕虜、敗残兵の殺害であった。そして、違法行為であるとの自覚のもと、徹底して証拠隠滅が図られた。
 南京事件は、戦後の東京裁判で審理の対象となった。それは、発生したときに外交筋や報道関係者を通じて世界に報道され、国際的な非難を巻き起こし、日中戦争における日本軍の残虐事件の象徴として世界に知られていたから。
 南京占領後の1937年12月17日の時点で、南京城にいた憲兵は、わずか17人にすぎず、司令部には法務部もなかった。松井石根・中支那方面軍司令官は、その軍紀・風紀を取り締まるための軍編成をまったく考えず、軍中央の統制を無視し、補給輸送体制も無理なまま、上海戦で消耗した軍隊に南京攻略を強行させたことが南京事件の直接的な原因になった。
 東京裁判において、日本人弁護団も規模はともかくとして、南京事件があった事実は認めていた。インドのパール判事も、日本軍が南京で残虐行為があった事実は認定している。
 南京事件否定論者たちは、すでに東京裁判の審理において否定された弁護側の主張を相も変わらず、くり返しているにすぎない。
 南京は人口100万人とみられていて、日本軍占領下に20〜25万人が残留していた。つまり、大虐殺を免れた住民が20〜25万人いたということである。それを虐殺前の南京の人口としてはいけない。
 文科省(文部省)の歴史教科書検定で、南京事件の記述をさせまいとする姿勢は現在にいたるまで一貫している。
 南京事件を否定する田中正明は、資料の改ざんを平然におこない、原文にない文章を自ら加筆までしている。いやあ、これって、ひどいことですね。許せません。
 「偕行」に南京事件の特集をしたとき、編集者の意図に反して、虐殺した事実が明らかになった。そこで、次のように謝罪した。
 不法殺害1万3千人はもちろん、少なくとも3千人とは途方もなく大きな数字であり、この大量の不法処理には弁解の言葉はない。旧日本軍の縁につながる者として、中国人民に深く詫びるしかない。まことに相すまぬ、むごいことであった。
 これこそ、日本人のとるべき態度だと私も思います。
 いやあ、日本人って、本当に過去の歴史に学ぼうとしない民族なんですよね。それでも、山田洋次監督の映画『母べえ』を150万人の日本人が見たそうですから、まだあきらめたわけではありません・・・。
(2007年12月刊。840円+税)

神なるオオカミ(上巻)

カテゴリー:中国

著者:姜 戎、出版社:講談社
 うひょー、すごい本です。圧倒されてしまいました。著者は、私より少しだけ年長ですが、同じ団塊世代です。文化大革命のときにモンゴルの草原に下放されました。その苛酷な体験をふまえた、世にも珍しい小説です。
 著者は、北京の知識青年として、志願して内モンゴル辺境のオロン草原に下放され、 1979年に中国社会科学院の大学院試験に合格するまで11年間、過ごしました。
 草原の人間は決してオオカミの毛皮を敷き布団になんかしない。モンゴル人はオオカミを敬っている。オオカミを敬わないのはモンゴル人ではない。草原のモンゴル人は、たとえ凍え死んだって、オオカミの毛皮をつかわない。オオカミの毛皮の敷き布団で寝るようなモンゴル人は、モンゴルの神霊をけなしている。
 オオカミは草原を守る神だ。天は父で、草原は母だ。オオカミは草原の害になる生き物しか殺さない。だから、天がオオカミをかばわない理由はない。
 草原の遊牧民の視力はよいが、オオカミの視力にはかなわない。しかし、単眼鏡をつかうと、オオカミの視力に近づける。
 オオカミとは命がけで戦うだけでは無理だ。根気もなければならない。根気よく地面に伏せておかなければいけない。
 新鮮な黄羊の焼き肉は、モンゴルの代表的なごちそうだ。とくに、猟が終わってから、狩り場で火をおこして焼きながら食べるのは、古くはモンゴルのカーン(汗)や王侯貴族が好んだ楽しみであり、草原の狩人たちにとっても逃してはならない愉快な集まりである。
 オオカミはモンゴル人の命の恩人だ。オオカミがいなかったら、チンギスカンもいないし、モンゴル人もいなかった。草原では、オオカミの餌を食べない人間は、本物のモンゴル人ではない。
 モンゴル人は天葬する。草原へ使者を運び、オオカミに食べてもらう。死者を牛車にのせて草原へ運び、牛車から死者が揺れて落ちたところが、死者の魂が天へ昇る地である。死者を裸にして草原のうえで、仰向けに寝かせる。この世にやってきたときと同じように、無一物で平然とした姿である。死者はすでにオオカミのものである。もし3日後に死体がなくなって、骨しか残っていなければ、死者の魂は天のところへ昇っていったことになる。天葬のあとは、必ず、その場所を確認しなければならない。
 うひゃあー、チベットの鳥葬のようなことが、モンゴルでもあっていたのですね・・・。草原で、もっとも辛抱強くチャンスを探すのはオオカミである。チャンスを待つ戦争の神、それがオオカミなのである。
 モンゴル草原では、オオカミにとって、牙が命である。オオカミのもっとも凶悪で残忍な武器は、上下4本の鋭い牙である。牙がなければ、オオカミの勇猛、果敢、知恵、狡猾、凶暴、残虐、貪婪、傲慢、野心、抱負、根気、機敏、警戒、体力、忍耐などのすべての品性、個性、性格は、一切がゼロになる。オオカミの世界では、片目が失明しても、足を一本ケガしても、耳が二つなくても生きられる。しかし、オオカミは牙をもたなければ、草原での殺生与奪の権を根本から剥奪されることになる。殺すことと食うことを天命とするオオカミにとって、牙がなければ、命がないのも同然だ。
 馬の放牧は、草原でもっとも困難で危険な仕事なので、体が丈夫で、大胆で、機敏で、聡明で、警戒心が強く、飢えや渇き、寒さや暑さに耐えられるようなオオカミか軍人の素質がなければ馬飼いとして選ばれない。
 馬飼いは、オオカミと生きるか死ぬかの戦いの第一線に身を置いているので、オオカミに対する態度が矛盾している。草原では、牛の放牧は一番楽な仕事とされる。牛の群れは朝早く出かけて、夜遅く帰り、草地も家も覚えている。
 馬の群れは、近親相姦を容赦なく取り除くことによって、種の質と戦闘力を高める。
 夏になり、3歳の牝馬が性に目ざめると、牡馬は慈しむ父親の顔をがらりと変えて、自分の娘を冷たく群れから追い出し、母親のそばにいることを決して許さない。狂ったように暴れ出す長いたてがみの父親は、オオカミをかんで追い払うように自分の娘をかんで追い払う。牝の子馬たちは泣いたり騒いだり、懸命にいななき、馬の群れががやがや騒ぎたてる。やっとのことで母親のそばに逃げこんだ牝の子馬を、まだひと息つく間もなく、凶暴な父親が追いかけてきて、けったりひっかいたり、いささかの反抗も許さない。それぞれの家族が娘たちを追い出す騒ぎが一段落すると、もっと残酷な悪戦、つまり新しい配偶者の争奪戦が続く。それがモンゴルの草原の、ほんものの雄性と野性という火山の爆発である。
 牡馬は草原で覇をとなえている。オオカミの群れが、自分の妻と子どもを攻撃してくるのを恐れる以外、世のなかにはほとんど怖いものがない。
 モンゴルの大草原の厳しい掟をかいま見る思いのする、いかにもスケールの大きい小説です。下巻が楽しみです。
(2007年11月刊。1900円+税)

福岡県弁護士会 〒810-0044 福岡市中央区六本松4丁目2番5号 TEL:092-741-6416

Copyright©2011-2025 FukuokakenBengoshikai. All rights reserved.