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いつか春が

カテゴリー:司法

著者:副島健一郎、出版社:不知火書房
 佐賀市農協の組合長が背任罪で逮捕され、てっきりいつものような「汚職」事件かと思っていたら、なんと無罪となり、無罪が確定したというのに驚いた記憶があります。この本は、その組合長の実子による無罪判決を得るまでの苦難の日々を再現しています。
 それにしても、取調べにあたった検察官の脅迫と悪口雑言はひど過ぎます。いったい検察庁はどんな内部教育をしているのでしょうか。大いなる疑問を感じてしまいました。「拷問」をするのは警官ばかりではないという典型的見本でもあります。そして、裁判官が、検察官の脅迫言動をきちんと認定して、その検察官が作成した調書を任意性なしとして排除したことを読んで救われた気がしました。これで裁判所が検察官をかばったら、日本の司法は、もうどうしようもないとしか言いようがありません。
 検事は立ったままいきなり右手を頭上に上げた。
 「何をーっ、こん畜生」
 次の瞬間、「ぶち殺すぞおーーー」という怒声とともに、右手の手刀が目の前に振り下ろされた。
 バンッ!
 机が壊れるのでは、と思うほどの大きな音が炸裂した。
 「この野郎、検察をなめるなっ!」
 「お前には第二弾、第三弾があるんだぞ!」
 検事の怒声は止まず、再び手刀が振り下ろされた。バンッ!
 「嘘をつくなー!こん畜生、ぶち殺してやるーっ!」
 ドーン。今度は机がガタンと鳴って大きく動いた。
 検事の怒声は止まず、気が狂ったかのような大声でわめき続けた。
 「法廷には、お前の家族も来るぞ。組合員も来るぞ。裁判官も言われるぞ。検察は闘うぞ。誰がお前の言うことなど信じるか!」
 「この野郎!ぶっ殺すぞー!」
 「なめるな、この野郎!嘘つくな、殺すぞー!」
 「この野郎、顔を上げんか!顔を上げろっ!ぶち殺すぞ!」
 「この野郎、否認するのかっ!こん畜生!」
 バンッ!
 「この野郎っ、署名せんかーっ!署名しろーっ!」
 「こん畜生っ!否認するのか。刑務所にぶち込むぞー!」
 署名したあと、組合長は皮肉のつもりで、「完璧ですね」と言った。
 いやあ、まさかの言葉のオンパレードです。
 ところが、この検事は法廷で次のように述べて、暴言を吐いたことを認めたのです。
 「いや、腹立ったんで、ふざけんなこの野郎、ぶっ殺すぞ、お前、と、こう言ったわけです」
 ええーっ、「ぶっ殺すぞ、お前」と言ったことを検察からの主尋問で早くも認めてしまいました。これにはさすがに驚きます。否認して、ノラリクラリ戦法をとらなかった(とれなかった)わけなのです。
 そして、圧巻なのは、被告人がこの取調べ検事に質問するということで対決した場面です。さすがに迫力がありますよ。当の本人が再現したわけですからね。
 裁判所は、この検事調べのあと、「調書は検察官が威迫して自白を迫ったもので、証拠能力が認められないので、検察官のつくった調書は証拠としてすべて不採用とする」と決定しました。
 この本には、突然、被告人の家族とされて、社会から切り捨てられていく苦悩、被告人の精神的かっとう、そしてマスコミの警察情報たれ流し報道など、さまざまな問題点も紹介されています。惜しむらくは、弁護人の活躍ぶりにも、もう少し焦点をあてていただけたら、同じ弁護士として、うれしいんですが・・・。被告人と家族を支えて立派に弁護活動をやり通した日野・山口両弁護士に敬意を表します。
 夏の朝は目が覚めるのも早くなります。あたりが明るくなると、蝉が鳴き出す前に小鳥たちのさえずりが聞こえてきます。小鳥の名前が分からないのが残念ですが、澄んだ鳴き声が聞こえてくると、心も安まります。午前7時になると、シャンソンが鳴り出します。10分ほどフランス語の聴きとりを兼ねて耳を澄まし、やおら起き上がります。
(2008年6月刊。1785円)

嘘発見器よ、永遠なれ

カテゴリー:アメリカ

著者:ケン・オールダー、出版社:早川書房
 嘘発見器は、今日もなお、容疑者の尋問や不正の摘発や核兵器の機密保持、テロとの戦いにつかわれている。しかし、アメリカ以外に、この方法を積極的に取り入れている国はない。
 そのアメリカでも、嘘発見器は、刑事法廷から門前払いを受け続けているし、アメリカ科学アカデミーなどの一流科学者団体からも不信の目で見られている。いやあ、そうだったんですか・・・。日本でも、昔は刑事裁判手続のなかで嘘発見器の結果が出てきたことがあります。今では、とんとお目にかかりません。
 嘘発見器が被験者の罪悪感を探知できた率には、大きなばらつきがある。成功率は55〜100%があって、どうみてもまちまちである。勘であてるのと大差がない。
 にもかかわらず、アメリカではいぜんとして大々的に使われ続けている。なぜか?
 法が頼りにならないとき、アメリカの伝統的な解決策には2つあった。1920年代のロサンゼルスでは、その2つともおこなわれていた。一つは群衆によるリンチ。人々は当然の報いを受けさせるために集まり、みずからの正義に酔いしれながら犠牲者を殺害した。もうひとつは、第三度(サード・ディグリー)。これは、警察官によるもので、リンチの代替手段として、警察署内でおこなわれていた。
 1920年代のシカゴは、犯罪にひかれる者にとって、おあつらえ向きの町だった。世界一の殺人多発都市であり、ギャングや酒類密造者の新興都市であり、犯罪組織とその構成員のすみかだった。
 警察は腐敗し、怠慢で、誰もが賄賂を要求した。警官は残忍で、検事は不誠実で、判事や看守は買収されていた。政治家は堕落し、犯罪組織のボスの意にかなう人物を判事や看守につけていた。うひゃあ、これぞまさしく、アル・カポネの『アン・タッチャブル』の世界ですね。
 嘘発見器が容疑者の尋問や従業員の審査につかわれた。それはアメリカだけのこと。外国では、アメリカのいつもの怪しげな機械だとして相手にされなかった。
 政治の舞台で嘘発見器が強力な武器になりうることを初めて見いだしたのは、リチャード・ニクソンである。ニクソンは嘘発見器の検査を実際におこなおうとおこなうまいと、新聞の大見出しになることに気づいた。な、なーるほど、そういうことだったのですか。
 ラベンダーの恐怖。同性愛者への攻撃は、共産主義者を攻撃するときと、よく似た恐怖心を利用していた。すなわち、ラベンダーの恐怖というのは、赤の恐怖より多くの人々の生活を破壊し、アメリカの国内政治と外交政策を強硬右派のものへと変えるとき同じくらいの大きな役割を果たした。外交政策を決めるエリートたちが躍起になって男らしさを示そうとするあまり、アメリカをベトナム戦争へ導いたのである。
 嘘発見器は科学から生まれたものではない。だから、科学では抹殺できない。嘘発見器のすみかは研究室でもなければ法廷でもなく、新聞印刷用紙であり、映画であり、テレビであり、大衆誌やコミックやSFである。嘘発見器は需要に主導されている。
 政治の舞台では、嘘発見器はずっと出番を与えられている。2003年、アメリカ科学アカデミーは数十年にわたる嘘発見器の研究結果を分析し、これを職員の審査につかっても効果はなく、むしろ保守体制への過信を生んで国家の安全保障を損なうと警告した。
 いまも昔も、ポリグラフの罠にかかるのは無実の人間であり、悪人は動揺しないことが多い。FBIはテロリストの疑いがある者を何人も嘘発見器にかけているが、必ずしも成果は出せていない。
 ポリグラフは医療技術を利用した平凡な機械にすぎない。つかわれている生理学機器は、どの先進国でも1世紀前から入手できるもの。にもかかわらず、それに尋問という新たな目的を与えた国はアメリカ以外にない。
 いやあ、この本を読んでも、アメリカっていう国は、つくづくいい加減な、野蛮な国だと思いました。そんな国に、いつもいいなりになる日本って、ホント、もっといい加減ですね。いやになってしまいます。
 真夏の夜の楽しみは、ベランダに出て望遠鏡で月面をながめることです。真夏でも、さすがに夜は涼しいので身体のほてりを冷ますこともできます。遠い月世界のデコボコした地表面をみていると、いさかいにかこまれた毎日の生活が嘘のように思え、心のほうも静まります。
(2008年4月刊。2500円+税)

もの思う鳥たち

カテゴリー:生物

著者:セオドア・ゼノフォン・バーバー、出版社:日本教文社
 鳥はバカな生きものではない。そのことがよく分かる本です。
 人間に苦しめられている地域にすむカケスやカラスの群れには、ひとりひとりの人間を細かく観察する監視役ないし番兵がいる。監視役の鳥が、銃をもっている人間を見れば、群れはすぐにそのあたりから離れるし、同じ人物でも銃をもっていなければ、そのことをはっきり認識する。銃をもっている人間と棒をもっている人間とは、きちんと見分ける。
 ハンターに撃たれて傷ついた一群のカラスは、ハンターたちが自分たちを撲殺しようと迫ってきたとき、激しい鳴き声をあげた。それを聞きつけた仲間のカラスたちは、現場に急行すると、ハンターたちを撃退した。
 仲間が傷ついたとき、自分が撃たれる危険をかえりみることなく、哀しそうな鳴き声をあげながらそばに寄りそうという、自己保存本能とはあいいれない行動が目撃されている。
 ボタンインコのつがいは、引き離されると、互いに相手を恋い慕い、思いがけず再会すると非常に喜ぶ。まるで人間と同じですよね、これって。
 鳥類のオスもメスも、性格特徴や身体的特徴をみて相手を決める。基本的には人間と同じだ。いやあ、そういうことなんですね。
 つがいを形成している鳥は、二羽がまるで会話でもしているかのようだ。語りかけられた側は、語りかけている鳥に注意を集中しており、同時に発声することは一度もない。多種多様の柔らかい抑えた音を出すのは、内輪の、親しい間柄にある相手のための、とっておきの声である。ふむふむ、鳥にも恋の語らいがあるわけです。
 ひなのときに捨てられ、親切な家庭で育てられたコクマルガラスは非常に社交的だった。自分の気持ちや感情をはっきり伝えた。無礼な扱いをされると、カラスは相手の爪にかみついた。ただし、傷つけはしなかった。自分が尊重されるべき存在であることを相手に伝えようとした。な、なーるほど、です。
 このカラスはテレビを観たし、はっきりした番組の好みをもっていた。特定の番組はいつも観ていた。気に入った曲(ジャズの一種)が流れると、激しく踊り狂った。自分の歌をうたい、その録音テープを聴くことを喜んだ。
 ブルーバードと名づけられたセキセイインコの観察記録は、さらに驚くべきものがあります。
 オスのブルーバードと一緒に生活するようになったメスのブロンディーは、ひと目ぼれの関係だった。これは、人間と同じく、セキセイインコにおいても、実はまれなことだった。ブルーバードとブロンディとは、陽気で喜びにみちあふれ、満足そうにみえる自然な性的関係を速やかに発展させた。いつも一時間ほど、前戯が長々しく続く。ブルーバードはブロンディに歌をきかせ、2羽は、愛の語らいにふけった。いやあ、すごいです。うらやましいです。
 ブルーバードが死んだとき、ブロンディは落ち込んでしまった。何もせず、いつもよりたくさん食べて、眠ってばかりいた。ブルーバードの代わりにラヴァーという3歳のオス(セキセイインコ)を同居させてもブロンディは相手にしなかった。ラヴァーはブロンディに相手にされないので、鏡の前に行って自慰的行動をしていた。そして、ブロンディが死んだときには、なんと、「かわいそうなブロンディちゃん。かわいいブロンディちゃん」と、ブロンディを思いやる言葉をかけながら、ブロンディの遺体のそばを飛びまわったというのです。これは、想像で簡単につくりあげることのできない、本当の話だと私は思います。いかが、でしょうか・・・。
 この本は、鳥にも人間と同じような感情があり情緒があると主張しています。私は、それを頭から否定するのは正しくないと考えています。
 鳥たちには、人間とまったく同じように、美しいものに対する感覚、美的感覚というものがある。鳥は、自分で歌を作曲して歌うこともできれば、2重唱や5重唱で歌うこともできる。
 私は、ある晴れた日の昼下がり、公園のフェンスに2羽の鳩がとまっているのを見たことがあります。鳩たちは、はじめは少し離れて止まっていたのですが、次第に近寄り、くちばしを重ねあい、やがて、いかにも濃厚なラブシーンを始めました。10メートルと離れてはいない人間の私がいることなど、まったく気にせず、ラブシーンは延々と続いていきます。人間でいうと、濃厚なフレンチキスの段階に至ったあと、鳩の一方が他方におおいかぶさり、交尾しました。その時間は長くはなかったように思います。2羽の鳩は、やがて何事もなかったように2羽とも仲良くフェンスから飛んでいってしまいました。
 相思相愛の鳩の夫婦のむつみあい、そして交尾の瞬間を初めてじっくりと見せつけられたわけです。その間、少なくとも10分間以上はありました。
 私は公園のフェンスの他方で、じーっと動かずに眺めていました。幸いにも、他の人間は誰も来ることがありませんでした。ある晴れた春の日に起きた、本当の出来事です。
(2008年6月刊。1905円+税)

そろそろ旅に

カテゴリー:日本史(江戸)

著者:松井今朝子、出版社:講談社
 やじさん、きたさんで有名な『東海道中膝栗毛』の作者が十返舎一九というのは江戸時代や日本史に詳しくなくても、誰だって知っていることでしょう。初めの題は『浮世道中膝栗毛』というものでした。主人公は神田八丁堀あたりに住む独身男の弥次郎兵衛と居候の北八。ところが、シリーズの最後には、やじさんは弥二郎兵衛、きたさんは喜多八と表記が変わり、この二人はかつて男色の契りをかわしていたという設定になってしまった。
 ひえーっ、驚きですね。
 それはともかく、このコンビは、江戸を発って東海道を上りながら、出会った女を手あたりしだいにくどいてまわり、隙あらば他人に悪さを仕掛け、あげく失敗を重ねて箱根までの滑稽な珍道中をくり広げた。
 街道のかごかき、馬士(まご)のおかしな言葉づかいに、旅籠(はたご)の様子、名物の食べ物などにはやたらに詳しい本である。駅々風土の佳勝、山川の秀異なるは諸家の道中記に詳しいので、ここでは省略する、こんな宣言をし、風景描写は皆無にひとしい。実に特異な旅行記であった。ところが、思いのほか好評のうちに迎えられ、翌年の第2編で大井川まで、さらに第3編、第4編と延びてゆき、ついには、第6、7編で京都、第8編で大坂の町を書きあげた。これで終わりかと思うと、出版元が許さない。なんと、20年にも及ぶ長旅になってしまった。
 すごい、すごい。すごーい、ですよね。私も写真入りの旅行記を自費出版でたくさん出していますが、残念なことに、これほどの反響はありませんでした。
 十返舎一九は、もともとは武士の身。同じように、武士出身で当時、活躍していたのが、山東京伝、滝沢馬琴、式亭三馬(浮世風呂)。そして、この本は、江戸時代の文化を支えていた、これらの文人たちの生きざまを彷彿とさせる楽しい読み物です。
 実は、初めのころはあまり面白くないなあと思って読み飛ばしていたのです。ところが、中盤あたりから急に面白く思い、あとは一気呵成に読みすすめていきました。
 十返舎一九が作家になるまでの苦労といいますか、遊里通いで放蕩する場面、そして、その心境が、ちょっとあまりにもデカダンス(頽廃)すぎて、ついていけなかったということもあります。
 先日、チャップリンについて書かれた本を読んでいますと、「女たらし」とか「女性の敵」とか批判されているときのチャップリンのほうが芸術的には優れたものを生み出している。逆に、品行方正になったときのチャップリンの作品には面白みに欠けるという評価がなされていました。人間の才能というのは、ことほどさように評価が難しいものなのですね。
 それにしても、この本は、江戸の文化、文政時代の雰囲気、つまりは、田沼時代のあと、松平定信の寛政の改革と、その後の社会の様子をよくぞ再現していると感心しながら、後半は一気に読了しました。さすがはプロの物書きです。
(2008年3月刊。1800円+税)

中堅崩壊

カテゴリー:社会

著者:野田 稔、出版社:ダイヤモンド社
 日本の中堅というべき階層が育っていないというのは重大な問題です。著者は次のように指摘します。
 バブルミドルといわれるミドル層の弱体化を嘆く経営陣が、実は、その弱体化を招いた一連の政策変更の企画者であり、実行者であった。経営陣は、10年以上もしっかりした教育を受けさせず、目先の利益だけを追求することを求め、一つの場所に塩漬けにしてきた。ミドル層を責める資格はない。ふむふむ、そうなんですか。ということは団塊以上の世代に大きな責任があるというわけです。
 評価制度には限界がある。評価制度に頼ると、評価する人間が無責任になる。できるだけ運用は柔軟にして、時間と人手をかけてアナログに評価するのが正しい。なるほど、そうなんですね。
 部下を働かせないようにしようと思えば、次の3つを徹底すればいい。無視する。任せない。ほめない。これをしたら、人間は病気になるか、辞めてしまう。逆に、認めて、任せて、ほめるをやったら、みんな、一所懸命に働くだろう。
 なーるほど、ですね。いいことを教わりました。
 好奇心、こだわり、信念、柔軟性、楽観性そしてリスクをとる気概が必要だ。とにかく努力し続ければ、必ずチャンスは向こうからやって来る。没頭してやり続けていないと、そのチャンスは見えない。没頭する喜び、没入体験の醍醐味を一度でも経験したら、また没頭しようとするので、そこに努力のスパイラルが起こってくる。ところが、その体験のない人は、没入することを恐れてしまうし、労を惜しむ。だから、できるだけ早い段階で仕事への没入体験を与えてあげることが必要だ。いやあ、そういうことなんですか。私も実践してみます。
 失敗してもいいからやってみろ、責任は私がとる。これを本気で言えるかどうか。これが、キーポイントだ。こうなると、やってみるしかありません。
 今はそもそも負けん気の強い人が少ない。仕事は仕事と割り切り、言われたことはやるが、言われないことまではやらない。そこまでやっても何の得もないと考える。そういう人材を放っておいても伸びず、停滞してしまう。
 コミュニケーション能力というか、姿勢が大切だ。自分から歩み寄り、関係する。いろんな関係者と話をする。聞く姿勢があって初めて、折衝能力とか調整力が生まれ、危機を察知することもできるようになる。
 いろいろ参考になることの多い本でした。
 私の法律事務所でも、既に3人の希望者をお断りしました。コミュニケーション能力にとても不安を感じたからです。忙しい私たちは、どうしても即戦力を求めたいのです。すみませんが・・・。
(2008年3月刊。1700円+税)

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