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性犯罪被害にあうということ

カテゴリー:司法

著者:小林美佳、出版社:朝日新聞出版
 読んでいるうちに思わず粛然とした思いになり、襟をただされ、背筋の伸びる思いがしました。若い女性の悲痛な叫びが私の心にもいくらかは届いた気がします。
 24歳の夏、私は見知らぬ男2人にレイプされた。道を聞かれ、教えようと近づいたところを、車内に引きずりこまれた。犯人はいまも、誰だか分からない。
 その夜から、私は生まれ変わったと思って過ごし、放たれた矢のように、何かに向かって飛び出した。
 この本は、このような書き出しから始まります。レイプされてからの著者の痛ましいばかりの変わりようが、淡々と描写されていきます。何回となく吐き気を催したという記述があり、読んでいる私のほうまで気が重くなり、胸に重たいしこりを感じました。
 警察に届けに行き、警察官から被害者としての取り調べを受けたとき、著者は被害の事実をありのまま語ることができませんでした。
 事実と嘘が、めちゃくちゃだった。聞いて助けてほしい気持ちと、知られたくない、離したくない、思い出したくない気持ちがまざり、中途半端な証言になってしまっていた。警察とよりは他人に対する防衛本能、拒否感は自然に芽生えていた。
 たとえ相手が警察とはいえ、初対面の人をいきなり信用することができなかったのかもしれない。冷静に、いま起こったことの順を追って話せるほど気持ちも落ち着いていなかった。自分さえ、夢だと言い聞かせていたのだから。
 著者は、事件後、職場を欠勤も遅刻もしなかった。そのとき、事件のことを隠すことや言えないことへの疑問や反感、悔しさがあり、事件そのものを偽って伝えることに抵抗があった。どこまでを他人に話し、どこからを隠したらよいのか判断がつかず、本当は誰かの口から休む理由を伝えてほしかった。毎日の生活は、いつもと変わらない日常をこなすことで精一杯だった。仕事や社会生活など、周りに他人がいて事件のことを公言できない場での私の生活は、何かあったと悟られないように過ごし、それまでと変わらないように見えていたはずだ。しかし、一人の時間には、それまでと同じ生活はまったくできなくなっていた。
 食べることも忘れてしまう日々が続いた。ひと月で13キロも体重が落ちた。そもそも、生きる気力を失った人間が、食べようと思うわけがない。辛くて食べられないのではなく、食べる必要がなかった。だから、お腹も減らなかった。昼休みは飲み物を片手に、一時間、ずっと歩き続けていた。
 セックスで理性が外れることが、とても怖かった。自分の快楽だけのために時間を過ごしている人のために、苦痛に耐えさせられることがとても悔しかった。うむむ、なるほど、この表現って、なんとなく分かりますね。
 カウンセリングは、決して弱い人が行くところではない。自分の考えや気持ちに気づきはじめた人が、他人に合わせることに違和感をもちはじめたとき、その違和感を取り除く方法を見つけに行く。カウンセリングは、そんな場である。
 人が人を裏切った瞬間が、とても汚いものに思えて寂しいし、悲しかった。加害者が著者に手をかけた瞬間は、加害者が道を教えようとした著者の信頼や親切を裏切った瞬間なのだ。その一瞬の信頼を裏切られたときのショックは大きかった。
 著者の顔写真が表紙にのっています。いかにも寂しげです。信頼を裏切られた思いを今も重くひきずっている表情です。
 忘れることのできる体験ではないと思いますが、ぜひ前を向いて生きていってほしい。私は心からそう思います。それにしても、恐らく私とほとんど同じ世代であろう父親の対応が残念でなりませんでした。子どもにもっと寄りそう柔軟性があっても良かったのでは・・・、そう思いました。私も、あまり偉そうなことは言えませんけれども。
(2008年4月刊。1200円+税)

ゲバルト時代

カテゴリー:社会

著者:中野正夫、出版社:バジリコ
 東京は神田に生まれ育った早熟の高校生時に全共闘活動家になり、浪人してからも中核派のデモに参加していた著者の半生をつづった本です。
 共産党に対する敵意心が強く、ひどい悪口もあって辟易するところがありますが、当時の三派系学生の生態をかなりあからさまに描いているところを興味深く読みました。
 ベ平連が党派との距離を置いていた(努力していた)ことも知ることができます。
 三里塚へデモに行ったとき初めて警察に捕まりましたが、19歳の浪人生だと身分を明かして、釈放されます。警察も、こんなチンピラ浪人を相手にしても仕方ないと思ったのでしょう。
 やがて、著者は日大闘争そして東大闘争に浪人生として関わるようになります。
 そのころ、全共闘の必読雑誌として月刊『現代の眼』と週刊『朝日ジャーナル』がありました。『現代の眼』は右翼総会屋からお金を巻き上げるための雑誌だったが、その執筆陣は新左翼の人間で占められていた。総会屋は売れる雑誌であれば、内容は問題にしなかったわけだ。なーるほど、そういうことだったのですね。新左翼と右翼、財界とは黒い結びつきがあったわけです。
 東大駒場の第八本館に全共闘がたてこもっているところにも著者は出かけています。「八本」の内部はまだ整然としていた。全共闘は民青にはゲバルトで勝てなかった。民青の部隊はよく訓練されていて、統制がきいていた。全共闘は掛け声と気合いだけで、自己表現と自己満足のみであり、甘かった。これは本当のことです。私も目撃しました。
 駒場寮(明寮)攻防戦にも参加しています。私は、寮生の一人としてたまたま明寮にいました。それというのも私の部屋が明寮にあったからです。ですから、「既に民青がすべての寮をバリケード封鎖して立てこもっていた」というのは事実に反します。
 700人いた寮生のかなりは依然として寮で生活していました。1969年2月の駒場寮委員長選挙でも、全共闘支持派の寮生が当選こそしませんでしたが、かなりの票数を集めていたことからも裏付けられます。色眼鏡で世の中を見ると、まったく間違ってしまうという見本のようなものです。
 民青と全共闘の捕虜交換があったことは事実ですし、民青の応援部隊に学生ではない人たちがいたのも事実のようです。
 そして安田講堂にも著者は立入っています。大講堂の中にグランドピアノがあり、インターナショナルを弾いてみたそうです。それはありうることです。このピアノは結局、機動隊が進入してきたときに楯につかわれて壊されたようです。
 著者はブントに入り、やがて赤軍派に接近します。ただし、連合赤軍には入っていません。1970年5月に赤軍から逃亡しました。
 連合赤軍の森恒夫と永田洋子に対する評は手厳しいものがあります。
 著者は、その後、共産同RG(エルゲー)派に入りますが、連合赤軍のリンチ殺人事件の発覚を知って、吹っ切れてしまうのです。
 「革命ごっこ」は終わったと心底から思った。
 それはそうでしょうね。あんなひどいことって考えられもしませんよね。
 「努力」や「決意」や「死の覚悟」で革命ができると信ずるなら、それほど簡単なことはない。しかし、それではテロリストと同じレベルだ。飛び込んで自爆すればいいのだから。
 この本には、当時の活動家たちのその後、現況が報告されています。既に何人も亡くなっています。そのなかで、こんな文章が目にとまりました。
 緒方は70年に東大文?に合格し、フロントの活動をしていた。当時のフロントの上司活動家たちの中に、今は衆議院議員になってホラやラッパを吹いている者が何人もいるという。ええーっ、いったい誰のことでしょうか。実名で知りたいものです。
 同じ時代を描いた『清冽の炎』(神水理一郎、花伝社)の第4巻がとくに、この本と同じ時代を描いています。正確かつ詳しく知りたい人は、ぜひこの本を読んでみてください。秋には1969年2月、3月を描いた第5巻が刊行される予定です。そして、その後、登場人物がいま何をしているのかを明らかにする第6巻が出る予定です。やはり、みんな、その後、いま何をしているのか、知りたいですよね。この本は大胆にそこまで踏み込んだところがいいと思いました。
(2008年6月刊。1800円+税)

ぼくは少年兵だった

カテゴリー:アフリカ

著者:イシメール・ベア、出版社:河出書房新社
 初めて戦争の巻き添えをくったとき、ぼくは12歳だった。
 激しい内乱の起きていた西アフリカのシェラレオネで12歳から15歳まで少年兵士として戦闘に従事し、生き抜いた著者の体験記です。この本は「戦場から生きのびて」というのがメイン・タイトルになっていますが、この本を読むと、まさしく実感させられます。よくぞ戦火のなかを生きのびられたものです。大勢の友人・仲間が次々に銃弾で倒れていくなか家族をみんな失い、著者ひとり生きのびました。それだけ運が強かったのです。
 戦争を賛美する人がいるが、戦争にロマンなどはなく、あるのは悲惨さだけ。人間を殺すことは、相手を非人間化させる行為だが、それは同時に自分の人間性もうしなわせてしまう。
 シェラレオネでなぜ内乱が起きたのかは、この本を読んでもさっぱり理解できません。ルワンダのツチ族とフツ族のような争いという明確なものはなかったようです。政府軍と反乱軍との戦いとしか書かれていません。そして、反乱軍はデビル(悪魔)というべき存在でしかありません。
 反乱軍に捕まった少年はすぐに兵士にされ、熱した銃剣で身体のどこかに反乱軍を意味するRUFを刻みつけられる。これは一生消えない傷痕になるばかりか反乱軍から絶対に逃げられないことを意味した。反逆者のイニシャルの刻印をつけて逃げるのは、殺してくださいと言っているようなもの。政府軍の兵士はそれを見たら一も二もなく殺すだろうし、好戦的な民間人だってそうするだろう。
 歌と踊りが大好きだった著者たち6人の少年は、戦争から逃げようとジャングルの中をさまよったあげく、政府軍に組み込まれてしまいます。そして、わずかの訓練を受けると、たちまち本物の戦場へ駆り出されていきます。
 戦闘行為の前に白いカプセルが渡される。それをのむと夜じゅう目がさえて眠れないのが一週間も続いた。そのうち、平気で銃をうてるようになった。
 火薬とコカインを混ぜたブラウン・ブラウニと呼ぶものを吸引し、白いカプセルを大量に飲む。それがたっぷりのエネルギーをくれる。汗びっしょりになり、着ている服をすべて脱いでしまった。身体がふるえ、目はかすみ、耳も聞こえない。あてもなく村を歩きまわる。そわそわした気分になった。何に対しても無感覚になる。何週間も眠れなくなるほどの莫大なエネルギーを感じた。夜にはみんなで戦争映画をみる。『ランボー』や『コマンドー』だ。
 ぼくらは獰猛になった。死という考えは頭をよぎりもしなかった。人を殺すのが、水を飲むのと同じくらい簡単になった。ぼくの頭は、初めて殺しの最中にぷつんと切れた。良心の呵責に耐えられないことを記憶するのをやめた。
 ぼくらは2年あまり戦い続け、殺人が日常茶飯事になっていた。誰にも同情しなかった。
 そんな元少年兵の社会復帰訓練センターに収容されます。収容所のなかで、元少年兵たちは元いた政府軍と反乱軍の2派に分かれて殺しあいもしてしまいます。
 薬の助けを借りずに眠れるようになるまでに数ヶ月かかった。ようやく寝入ることができるようになっても、1時間とたたないうちに目が覚めてしまう。夢のなかで、顔のない武装兵がぼくをしばりあげ、銃剣ののこぎり刃でぼくの喉を切り裂きはじめる。ぼくはそのナイフが与える痛みを感じる。汗びっしょりなって目を覚まし、虚空にパンチをくり出す。それから外に飛び出し、サッカー場の真ん中まで走って行って、膝をかかえこんで身体を前後に揺らす。子どものころのことを必死で思い出そうとしても、できなかった。戦争の記憶が邪魔をするのだ。
 樹皮に赤い樹液がこびりついている木のそばに行くと、捕虜を木にしばりつけて撃つという、何度も実行した処刑の光景を思い出す。彼らの血は木々を染め、雨期の最中でさえ、決して洗い落とされなかった。
 著者は社会復帰訓練センターを経て、おじさんの家庭にあたたかく迎えいれてもらって社会復帰できました。ところが、シェラレオネそのものがまた内乱の危機におそわれ、ついに国外へ脱出することになるのです。
 少年兵士たちのおかれている厳しい現実、そして少年兵士を社会復帰させることがいかに大変な事業であるかを理解させてくれる本です。
 表紙にうつっている、いかにも聡明そうで、明るい笑顔からはとても想像できない過去をもつ元少年兵士です。
 庭にある小さな合歓(ねむ)の木が花を咲かせています。紅い、ぽよぽよとした可愛らしい花です。
(2008年2月刊。1600円+税)

大量虐殺の社会史

カテゴリー:ヨーロッパ

著者:松村高夫・矢野 久、出版社:ミネルヴァ書房
 アメリカのカーター大統領は、1976年にはバンコクのアメリカ大使館を通じてカンボジアの虐殺の事実をつかんでいながら、ポル・ポトのクメール・ルージュを支持し、ポル・ポト政権崩壊後も10年間にわたって国連代表権を認めた。
 南米のチリ、アルゼンチン、グアテマラでの虐殺は軍事政権下で起こったが、これらも背後でアメリカのCIAや軍部が関与していた。
 1984年のルワンダにおける80万人のツチ虐殺は、100日間にわたって1日あたり8000人のツチが虐殺されたことになるが、アメリカのクリントン大統領は、国連安保理への影響力を行使して、国連平和維持軍をルワンダから引き上げさせた。その結果、100日間にわたってアメリカをはじめとする外国からの干渉をまったく受けず、文字どおり自由自在にフツに虐殺させた。
 これってルワンダで起きた大虐殺にアメリカは直接的に手を貸したと同じですよね。映画『ホテル・ルワンダ』には、国連軍としてフランス軍が頼りにならないけれど少しは頼れる存在として登場していました。アメリカは自分にとって利権のない国は見向きもしないわけです。日本はアメリカにとって大変な利権をうむ国ですから、やすやすと手放すことはしないでしょうが・・・。
 この本を読むと、世界が人権意識に目覚めた20世紀のはずが、実は大量殺りくの絶えない「戦慄の20世紀」であったことがよく分かります。まったく、うんざりするほど、殺し合いにみちみちた世の中です。
 でも、こうやってこの本を紹介しようとしているのは、お互いに現実から目をそらさないようにしようということです。だって、それが現実の人間社会なのですから。私の、日本国憲法9条2項には世界に広めるべき今日的意義があるという確信は、こんな本を読むとますます深まります。
 1915年4月。トルコはアルメニア人80万人を虐殺した。これは自然発生的な行動ではなく、周到に準備され明白な計画的国家犯罪だった。
 ナチス・ドイツによるユダヤ人大虐殺は、ここでは紹介を割愛します。別の本で紹介することにします。
 朝鮮戦争のさなか、1950年7月、アメリカ軍が避難民を老斤里で虐殺した事件が紹介されています。避難民に前線を越えさせるな、前線を越えようとする者は誰でも殺せ、という命令が出ていたのです。アメリカ軍は空爆で300人の避難民を殺した。これは、避難民のなかに朝鮮人民の兵士がまぎれこんでいるという情報にもとづいた行動でもあった。アメリカ軍は、直接的な虐殺を韓国でもしていたのです。
 インドネシアでは9.30事件というものがありました。1965年9月からインドネシア共産党とその支持者が軍隊によって大量虐殺された事件です。その時点までインドネシア共産党は250万人の党員をかかえ、得票率16.4%で、国会に39議席を占めていました。その共産党が殺害者リストをもっているというデマ宣伝があり、殺される前に殺せといって、共産党とシンパ層が非合法に殺されていったのです。1968年6月までに殺された被害者は50〜100万人とみられ、正確なデータは今も不明のままとなっています。
 事件に深く関与していたインドネシア国軍のなかには、真相究明に対して根強い抵抗があり、軍やイスラム勢力との強調を重視する政府は、思い切った政策がとれない。ともあれ、この大虐殺事件とその恐怖がインドシナ社会に与えた影響はとてつもなく深刻なものだった。
 私もインドネシアの作家がこの9.30事件にふれて書いた本を2冊ほど読んだ記憶がありますが、深く重く沈んだテーマだと思いました。
 この本は最後に次のように書いています。
 21世紀に生きる我々に課せられたもっとも重要でかつ緊要な課題は、戦争と虐殺のない世界を創出することである。それは、20世紀に戦争と虐殺の被害を受け、犠牲となった人たちが現代に生きる者に発したであろうメッセージである。このメッセージを真摯に受けとめ、戦争と虐殺のない世界を構築するためには、国民和解をふくむ歴史和解が必要であろう。しかし、歴史和解はいかに達成されうるのか、その道筋は明確になっているわけではないし、また容易でもない。歴史和解を達成するためには、真相究明が必要不可欠であることについても疑いの余地はないであろう。
 そうなんです。私たちは、もっともっと現実を知り、真相を探るべきだと思います。そして、軍事的報復に走る前に何をなすべきなのかを考えるべきだと思うのです。
 ずっしり重たい本ですが、心ある人は読むべき本だと思いました。
 7月の半ばに沖縄へ行ってきました。泊まったホテルがモノレール「おもろまち駅」から歩いたところにありましたが、あれっ、この地形はなんだか見たような気がすると思いました。前に紹介した『沖縄シュガーローフの戦い』(光文社)に写真つきで紹介されています。この「おもろまち駅」周辺は、まさに沖縄戦の最激戦地だったのです。
 1945年5月12日から18日の1週間、この丘をめぐる争奪戦でアメリカ第6海兵師団は2000人をこえる戦死傷者を出した。日本軍は首里防衛戦にいた5万人の将兵のうち、無事に撤退できたのは3万人。残る1万5000人がアメリカ軍によって戦死させられた。今は平和で、のどかな沖縄市街地ですが、63年前は猛火に包まれて、人々は殺されていったのでした。無惨です。
 残念なことに、当時をしのぶ説明板は駅周辺に見あたりませんでした。どこかにあって、私が見落としただけでしたら、すみません。
(2007年12月刊。4500円+税)

イラクは食べる

カテゴリー:未分類

著者:酒井啓子、出版社:岩波新書
 タイトルからすると、イラクの人々の食べ物を解説した本のようなイメージがあります。でも、読んでみると、イラクの社会と人々の生活、そしてアメリカによるイラク戦争の現実を知ることのできる本です。
 2003年のイラク攻撃から、シリアに年20万人以上ものイラク人が流れこみ、シリア国内のイラク人は、100万人から170万人にものぼるとみられている。
 ヨルダンに住むイラク人は75万人。これはヨルダン人口の1割になる。エジプトに 10万人、レバノンに4万人のイラク人がいる。国連の発表によると、国外へ脱出したイラク人は250万人にものぼる。毎月5万人のイラク人が国外へ流出している。250万人というと、イラク人口の1割だ。
 イラクの中間層の40%が既に国外へ脱出した。だから、頭脳流出とも言える。バグダッドからの流出は100万人のうち8割にもなる。それは、主として治安上の理由から。2003年からの4年間に2000人もの医師と看護婦が殺され、同じ数が誘拐された。国内難民も220万人いる。毎月5万人が国内難民になっている。2006年に正式政権が成立してからのイラク国内の治安悪化は、シーア派政党同士の対立、民兵の扱いをめぐるイラク政府の対応の不十分さによる。そして、民兵をもった政党に権力を与える「民主化」をすすめたものこそ、アメリカのブッシュ政権なのである。
 2500万人のイラク人口のなかの4割が日々1ドル以下で生活しており、3分の1が貧困層に分類され、100万人が最悪の貧困状態にあるとされている。インフレ率は60%、失業率は5割以上。国内、国外あわせてイラク人難民は450万人以上。その半数が身の危険を感じて故郷を離れた。
 アメリカは2003年から2007年までに、わずか500人のイラク人しか受け入れていない。スウェーデンが2006年の1年間で8000人も受け入れたのと、対照的だ。
 イラクの料理はイラン料理との共通点が多い。ご飯をよく食べるし、どちらも酸っぱい料理が好き。大鍋でご飯をたいて、鍋底のオコゲに、トマト味のシチューをかけるのが庶民の大好物。
 フセイン元大統領が死刑判決のあと絞首刑にされる様子が映像で流れた。フセイン処刑の映像は、2005年以降のイラク政権が、まがうことなきイスラーム政権であり、イスラーム革命を志向する「革命政権」であることを、そして、そこで施行されている司法システムが「革命裁判所」であることを、これ以上ないほどに露呈した。
 サドル潮流が与党内のゲームに加わったことで、統一同盟内の政党間関係は複雑な内部対立を生んでいる。移行政府の成立から現在に至るまで、サドル潮流が与党連合のなかでキャスティングボードを握ることになった。
 マリキ政権において、サドル潮流は、6つの閣僚ポストを得て、最大派閥となった。
 ファルージャは、イラク人にとってカバーブの美味しい街として有名だった。ところが今や、反米抵抗運動のシンボルとみられている。そこでのアメリカ兵の死者は1300人。全体の3分の1を占めている。
 イラクでは、そもそも宗派で政党を形成するという歴史をもっていない。右も左も、欧米式のリベラル派もナショナリストも、党員がどちらかの宗派に偏ることはあっても、はじめからどちらかの宗派のみに支持基盤を限定して政党を結成したことはなかった。
 スンナ派だから、シーア派だからといった理由でイラク人同士が殺しあうという状況は、建国以来なかった。
 イラクの治安は、2006年に2月に宗派対立に火がつき、悪化の一途をたどっている。それは、ちょうど、スンナ派政治家の国政参加のすすむ時期でもあった。
 外国から反米ムスリム義勇兵がイラク国内に入っているのは事実で、1年間にイラクでアメリカ軍が把握した反米義勇兵606人のうち41%がサウジアラビア人だった。
 イラク復興のために開かれたマドリード(スペイン)で決まった330億ドルのうち、アメリカ200億ドルの次に日本の50億ドルが来る。破格の金額だ。
 つかわれた復興資金の半分が警備や保険料などの治安費につかわれ、実際にイラク人の手に届くのは3割以下。世界の腐敗ワーストで、イラクは3番目にひどい。先日は88億ドルという使途不明金が発覚した。
 イラクを軍事支配しようとすることがうまくいくはずもありません。アメリカにいつもいつも追随して、イラクに自衛隊を派遣するなんて、愚の骨頂です。
 先日、新聞のコラムに、アメリカ人だったと思いますが、日本はアメリカにいつも追随しているので、まったく存在感がないという指摘がありました。本当に情けない状況です。フランスみたいに、もっと日本政府はアメリカにモノ申すべきだと、心底から私は思いますよ。
 先日、名古屋高裁は、きわめてまっとうな判決を出しました。久しぶりに胸のすく思いがしました。福岡高裁にも熊本のイラク派遣阻止訴訟がかかっています。たった1回で結審したそうですが、その判決を注目しているところです。
 淡いピンクの朝顔が咲いています。朝、雨戸を明けるとまっ先に目に飛びこんできます。心が洗われる思いのするほど、すがすがしいピンクの朝顔です。やはり夏の朝は朝顔です。
(2008年4月刊。780円+税)

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