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サザエさんの東京物語

カテゴリー:社会

著者:長谷川洋子、 発行:朝日出版社
 サザエさんの作者、長谷川町子の実妹による町子の実像を紹介する楽しい本です。
 ワンマン母さんと串だんご三姉妹の昭和物語。
オビのこの文句がぴったりくる内容になっています。サザエさん、マスオさん、カツオにワカメ。戦後日本の世相をよくよく描いていたと思います。ほんわかとした絵が読む人の心を大いに惹きつけました。
 長谷川町子は、家の中では「お山の大将」で傍若無人。声も主張も人一番大きかった。我が家の中だけが彼女にとって本当に居心地のいい世界だったから、喜怒哀楽はすべて家庭の中で発散していた。三つ子の魂百まで、というか、かつての悪童は閉鎖的な家庭の中で、そのまま大人になってしまった。
家庭漫画って、清く正しくつつましく、を要求されるでしょう。だけど、それって私の本性じゃないのよね。だから「いじわるばあさん」のほうが気楽に描けるのよ。私の地のままでいいんだもの。
このように、町子は「いじわるばあさん」を自認していた。その割には、反省の色が少しもなかった。町子は一生独身だった。婚約したのに、それを土壇場で断ったのだ。
たくさんの愛読者に答えるためには、昨日より今日のほうが、今日より明日の方が作品はより面白くなくてはならないと、半ば強迫観念に似た思いが町子を苦しめていた。始終、胃が痛いと言って枕で胃の辺りを押さえていたし、病院の薬もあまり効き目がなかった。
 家族は町子の健康を心配して、「こんなしんどい仕事はいいかげんにやめたら」と頼んでいた。それに対して、町子は「でもね、いい作品ができたときの嬉しさや満足感は、あなたたちの誰にも分からないわ」と言って取り合わなかった。
 町子は、人に会うのが苦手で、パーティーや会合にほとんど出席したことがなかったので、友人や知人が極端に少なかった。ユーモアたっぷりの磯野家の雰囲気とは少し違うようですね。ひょっとして対人恐怖症だったのでしょうか…。
 長谷川町子のワンマンぶりがユーモアたっぷりに紹介されています。そして、串だんご三姉妹で末っ子として可愛がられた著者が、町子や姉と分離・独立していくときの心境には、なるほど、人間にとって独立と自由ほど尊いものはないんだなと、つくづく思わされました。なにしろ、「30億円」もの遺産を相続放棄したため、まさかと思った税務署が隠し遺産があるのでは、と疑って調査に来たほどだというのですから…。 
 パリにはタクシーがたくさん走っています。流しのタクシーもいると思います。エクサンプロヴァンスでは駅前にタクシー(車)はあるのに、運転手がいませんでした。タクシーは電話で予約するものなのです。でも、こちらはテレカルト(テレホンカード)を持っていません。仕方なく、ホテルまで20分以上も重たいスーツケースを引っ張って歩きました。しかも、果たしてこの道でいいのか不安のままに…。
 ニースではタクシーがなかなか見つからず、やっと見つけたタクシーには日本人のカモと思われたらしく、65ユーロもぼったくられてしまいました。というのも、バスセンターの周囲にはタクシーが一台もいなかったので、帰りの足をむやみに心配してしまったためでした。
(2008年4月刊。1200円+税)

アシナガがゆく

カテゴリー:ヨーロッパ

著者:辻本 公一・斉藤 護、 発行:徒歩々庵編集工房
 いやあ、驚き、呆れ、恐れ入りました。こんなことを思い立ち、そして、それを実行する人が、この世の中にはいるんですね。信じられません。だって、パリからスペインまでの1800メートルを2ヶ月かけてテクテク歩いていったというのですよ。それも、いい年齢(とし)した弁護士のおっちゃん(67歳)が…。私の方はちょうど膝に神経痛が出て、歩くのも不自由していたときに読みましたから、余計に驚嘆してしまいました。
大阪には、狂歩楽々宗なる得体の知れないグループがあるとのことです。しかも、そのメンバーたるや、今の大阪弁護士会長、元の日弁連副会長まで加わっているというのです。なんだか西欧社会を背後で操っているというフリーメーソンみたいではありませんか…。(失礼しました)
 この本はまず、その狂歩楽々宗の有力信徒の一人である佐伯照道弁護士より贈呈されました。途中まで読んでいたところ、なんと恐れ多くも狂歩楽々宗の教祖様である辻本公一弁護士からも贈呈本が届いたのです。私のかねてより敬愛する石川元也弁護士の紹介で送るとの添え書きがついています。これは大変なことになった。そう思って後半を読み進めていったという次第です。
 いったい、2ヶ月間も、フランスをパリからスペインにかけて歩きとおすなんていう発想はどこから出てきたのでしょうか…?あとがきによると、大阪でも通勤するのに往復を歩いていたということです。1年間に360キロを歩いたと書いてありますので、毎日1キロ歩いたというわけですね。すごいですよね、これって…。それで、音に聞くコンポステル巡礼路へ行ってみよう、そして、美しいというフランスの田舎も見てみたいと思うようになった、というのです。なるほど、フランスの田舎町は美しいです。でも、でもですよ。一人でテクテク歩くのです。それも重たいリュックサックを背負って、なんですよ。私なんか、考えただけでも足が引きつってしまいそうです。
 パリから歩いていく途中で、ロワール川の古城めぐりのお城も登場します。シャンボール城やブロア城などです。私も3年前の夏に行ってきました。タクシーで一日かけて回りました。観光バスよりはゆっくりできたと思いますが、それを歩いて回ったとは…。
 ブロアもいいし、アンボワーズもいいところです。レオナルド・ダヴィンチが生活していたお城でもあります。この本には、歩いた風景が写真で紹介されています。うんうん、こんなのどかな情景って、フランスのあちこちにあるよね、そこをゆっくりのんびり歩くって、人生最高の贅沢だよね。私もそう思います。だけど、でも、ですね…。
 アシナガ氏は、ホテルに泊まって朝食をとって、だいたい午前9時ごろに歩き始めたようです。たまには3日間ほど同じホテルに泊まって、休養もしたようです。それはそうですよね。そして、一日9時間も歩いたことがあるそうです。一日に30キロとか40キロも歩くのです。しかも、雨が降っていても歩いたというのです。すごーい。
 ホテルはケータイで前日のうちに予約していたようですが、たまにはぶっつけ本番であたったりもしています。道に迷ってしまって夜になってもホテルが見つからず、道を尋ねたところ、親切な母娘に車でホテルまで送り届けてもらったこともあるといいます。やはり、見知らぬ国での一人旅は大変な冒険です。
 ところが、フランスではひなびた村にもとびきり美味しい料理を出してくれるレストランとホテルがあるのです。そこが、フランスの旅の良いところです。
 壁には風雅な飾り物。趣味のいい調度品、ゆったりとしたテーブルの配置、テーブルの上には古風なローソクスタンド。実に落ち着いたくつろぎの空間を演出している。若い夫婦二人で切り盛りしているホテル・レストラン。夫は厨房で料理を、妻はテーブルを回ってメニューを配り、注文を聞き、料理やワインを運び、天性の美しい笑顔で、お客と和やかに言葉を交わす。その挙措は精錬され、優雅なことこの上ない。
 アペリティフはカシスのキール。本日のスープはバジリコ入りの熱々スープ。メインデッシュは盛り付けも鮮やかな鴨のステーキ。味も申し分なし。ワインにもハズレたころは一度もない。
 いやあ、ホントなんですよね。さすが、うまし国、フランスだけのことはあります。どんな田舎に行っても、美味しい料理を期待できる。それがフランスです。
 田園地帯を歩いていると、牛が物珍しそうに近寄ってくる。眠たそうな目でじっと見つめ、トコトコと寄ってきて、「おっちゃん、どこ行くん?」と聞いてくるのもいるほど…。
 やはり、狂信的な信者というしかありません。いやはや、見事な道中記です。写真もまた素晴らしいですね。 感心、感嘆、感銘を受けました。
(2008年8月刊。?円)

戦争の法のもとに

カテゴリー:日本史(戦後)

著者:宮道 佳男、 発行:クリタ舎
 1945年8月6日、広島に原子爆弾が落とされた。その直前の7月28日、呉軍港にアメリカ軍が空襲をかけた。このとき、沖縄から発信したB-29が2機、そして艦載機も2機が撃墜され、アメリカ兵12人が捕虜となった。B-29の機長は、尋問のため東京へ護送され、残る捕虜11人が広島に残った。8月3日にはB-24の5機編隊が広島市街地を爆撃し、1機が高射砲で打ち落とされ、9人が捕虜となった。1人は住民に殺され、将校2人は東京へ護送されて、残る6人が広島に残された。
 そこで、アメリカ兵17人(23人説や11人説もある)が、広島師団内の拘置所に収容されていた。8月15日の終戦時にアメリカ兵が広島に何人生存していたのか、明確ではない。8月19日にアメリカ兵2人が死亡したことは確実だが…。結局、広島にいたアメリカ兵の全員がアメリカの原爆によって死亡した。
軍律裁判は軍法会議とは異なるもの。軍法会議は主として自国兵士の規律違反と罰するもの。敵前逃亡兵は銃殺が決まりである。軍律裁判は、戦闘地域とか占領地域で敵国民や被占領国民に対して占領国的違反を罰するものである。軍律裁判は、戦闘地域であるため、即決非公開、弁護人はなく、上訴もない。懲役もなくて、すべて銃殺ばかりという特殊性があった。それでも、少なくとも戦場における即決リンチ処刑よりはましなものだった。戦後、連合国が行ったA級戦犯そしてBC級の戦犯裁判は、この軍律裁判と同じものだ。
 この本は、原子爆弾で壊滅させられた広島にいたアメリカ兵たちに対して、軍律裁判で死刑に処せられようとするに至るまでを克明に描いています。
無差別爆撃は人道無視の暴虐非道の犯罪だ。だから死刑になるのも当然だ。このような暗黙の前提で裁判はあっという間に終わってしまいます。そして、やがて処刑されてしまいます。
 はたして、死刑に処する必要があったのか、あったとして、では軍の最上層部には責任がなかったのか、という疑問にぶち当たります。
 著者は、私の司法研究所での同期の名古屋の弁護士です。先日、箱根で開かれた35周年記念行事のとき、本人からサイン入りでもらいました。手術を受けて入院中に執筆し始めたということでした。実は、東京に出張したとき日弁連会館の地下の本屋にこの本を見かけたので、次のときに買おうと思ったところ、その次にはありませんでした。やはり本は買おうと思ったらすぐに買わなくてはいけません。
 それにしても、よく調べてあるなと感心しながら読みました。 
(2008年5月刊。1400円+税)

金を追う者、追われる者

カテゴリー:社会

著者:室井 忠道、 発行:オン・ブック
 サラ金は回収に絶対の自信(?)を持っている。嫌がらせと、しつこさという武器をなりふりかまわず使う。これには、大手も中小もない。取立てに関しては、ヤミ金業者と五十歩百歩だろう。
 多重債務者からの回収合戦は、ババ抜きのようだ。といっても、ゲームのトランプのように、ババが一枚入っているのではない。スペードのエースが一枚だけで、あとはすべてババという、ババ抜きゲームだ。だから、きつい取立てに一斉に入るのは当たり前のこと。
多重債務者をATMに群がる「振込み蜂」と呼ぶ。それは、人生そのものを削り取られていくことだ。それでも、その毎日を続ける。それが破産予備軍だ。
 月に2度、特別集中回収を行った。男性スタッフ6人が2人ずつのチーム3つに分かれ、回収に走り回る。一回の集中回収は2泊に及ぶため、ビジネスホテルに部屋をとる。
 深夜、管理(回収)が終了すると、回収してきた現金を持って3チームが社長の部屋に集合する。ベッドの上で、社長が現金を数え終わると、自動販売機で買ったビールを飲みながら1時間ほど反省会とも自慢会とも言えるときを過ごす。これが全員の楽しみだった。
 サラ金の取立てから逃れてきて社員になって取り立て側にまわっていた男性の話も出てきます。取り立てをしながら、わが身に思いを至していたようです。
サラ金悲劇というのは、特別な人に起きるのではない。
本書は、油断をしたり、つまらない見栄を張ったりすることで、自分を含めて誰にでも起きる出来事として13話がつづられています。サラ金の回収する側からみた人間社会の実相です。
ふだん回収される側の人々から相談を受けている私にとっても、大変勉強になる本でした。前に、この著者の『借金中毒列島』(岩波書店)を紹介したことがあり、著者より贈呈されましたので、ここに紹介いたしました。ありがとうございました。 
 秋分の日には彼岸花がたくさん咲いていました。黄金の稲穂には朱色の花が良く似合います。我が家の庭には、淡いクリーム色のリコリスがあちこちに咲いています。とても気品のある花です。見てるだけでさわやかな気分になってきます。縁取りがピンクの白いエンゼルストランペットの花、そして芙蓉の花も咲いています。秋の抜けるような青空の下で、花たちが美を競っているようです。
(2008年8月刊。1800円+税)

天皇制の侵略責任と戦後責任

カテゴリー:日本史(戦後)

著者:千本 秀樹、 発行:青木書店
 明治天皇は日本軍の朝鮮半島出兵には積極的だった(1894年)が、清国が乗り出してくると聞いて急に不安になった。そして、日清戦争の始まりは不本意であり、ストライキもやった。ところが、勝った勝ったとの報告が相次ぐと、最後の決戦を行って清国軍主力をたたくため、自ら中国大陸へ乗り込もうとする。大本営を旅順半島、さらには洋河口へ進めようとまでした。これは、さすがに政府・軍首脳部が反対して思いとどまらせた。
 うひゃあ、こ、これは知りませんでした。なんと、大本営を天皇自身が中国大陸へ持っていこうとしたなんて…。そりゃ、身の程知らず、無謀でしょ。
 日露開戦のとき、明治天皇はロシアを恐れていた。ふむふむ、なるほど、ですね。
2.26事件(1936年)のとき、昭和天皇は侍従武官長、軍事参議官会議、東京警備司令官という統帥の要に当たる組織や人物、さらに川島陸相らが反乱軍側に肩入れするなか、孤立しながらも強い意思を持って統帥大権をもつ者として鎮圧の命令を発し続けた。それこそが将軍たちの思惑を排し、2.26事件を4日間で解決する力となった。
張作霖爆殺事件は、関東軍の謀略事件であるが、この陰謀を昭和天皇は承認した。むしろ真相の徹底究明・軍紀粛清を目指した田中義一首相を罷免したことから、侵略的体質の強い関東軍を大いに力づけることになった。昭和天皇は政治に強い関心をもっており、田中義一首相に対して「辞表を出したらよい」とまで言った可能性がある。
 うひょお、そういうこともあり、なんですか…。
 1941年9月に開かれた御前会議で、日本開戦が正式に決まった。このときの昭和天皇の関心は、あくまでも戦争に勝てるかどうかであって、政治的に、あるいは思想的に平和外交を主張するものではなかった。いわば、「勝てるなら戦争、負けそうなら外交」というものであった。つまり、昭和天皇が日米開戦に消極的であったというわけではない。そうなんです。昭和天皇が開戦に消極的で平和主義者だったというのではないのです。
 終戦のときの「聖断」神話は間違いである。昭和天皇は、支配層の中では陸軍に次いでもっとも遅くまで本土決戦論にしがみついていた一人だった。ただし、それを放棄してからは、積極的に終戦の指導にあたった。そして、その結果、さらに多くの沖縄県民が犠牲になったわけです。
 1945年3月に始まった沖縄の地上戦について、昭和天皇に「もう一度、戦果を」という頭があったため、激戦が長引いてしまった。ポツダム宣言が日本に届いてからも、昭和天皇は、大本営の長野県松代への移転と本土決戦を覚悟していた。
 終戦後、昭和天皇はマッカーサーと会見したとき、次のように語った。
 日本人の教養はまだ低く、かつ宗教心の足らない現在、アメリカに行われるストライキを見て、それを行えば民主主義国家になれるかと思うようなものも少なくない…。
 昭和天皇から宗教心が足りないと言われたくはありませんよね。だって戦前の日本では、それこそ日本人は靖国神社にこぞってお参りしていた(させられていた)のではありませんか。
 この本は著者のゼミで学んだ学生(永江さん)が私の事務所で働いていますので、勧められて読みました。私の知らなかったことも多く、大変勉強になりました。ありがとうございます。
(2004年9月刊。2200円+税)

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