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悩めるアメリカ

カテゴリー:アメリカ

著者:実 哲也、 発行:日経プレミアシリーズ
 アメリカの国民は、いま3つの大きな不安を抱えている。
 一つは安全に対する不安。9.11同時テロ以来、大きな不安が消え去らない。国民は、どう対応していいのか分からないもどかしさを感じている。
 二つ目は、暮らしの不安。失業や病気になっても病院に行けない、マイホームも値上がりしない。この不安の背景には、急成長する中国やインドが経済大国としてのアメリカの立場を危うくしてしまうのではないかという脅威認識もある。
 三つ目は、社会の変容に対する不安。不法移民を含む移民の増加に対する警戒感である。
 アメリカでは借金を支払えなくなって破産する人が多いが、その半分は治療費が支払えないため。だから、病気になっても医者にかからない人が増えている。それには、医療費の高騰と無保険者の増加がある。
 テキサス州ヒューストンは、世界でも最高レベルの病院が集まっている。しかし、ヒューストンでは無保険者の比率が3割をこえている。テキサス州に中小企業が多いことが、無保険者を作り出している。
 イラクに派遣されているアメリカ軍の3分の1は、パートタイム兵士である。つまり、予備役や州兵である。予備役と州兵の総数は130万人。これは、正規軍140万人とほとんど同数である。
 イラクのアブグレイブ刑務所の虐待事件に関わり処分された女性兵も、予備役だった。大学費用稼ぎが予備役志望の動機になっている。お金にゆとりのない家庭の若者たちが人員募集のターゲットになっている。アメリカの若者にとって、軍隊に入るのは、非常に現実的な選択肢なのである。その意味で、戦争は遠い存在ではない。
 国務省にいたときには、公式答弁から外れることのなかったアメリカの外交官たちは、退官した時に、口をきわめてブッシュ政権の外交を批判する。
 アメリカでは、大学教育さえ受けていれば所得が落ち込む心配はないという時代は遠い昔になってしまった。
 差し押さえによって、せっかく手にしたマイホームを失う人は、2007年は前年比5割アップの150万件、2008年には250万件に達する見込みだ。
 アメリカ発の金融危機が世界の経済を直撃し、日本でも次々に首切り旋風に見舞われています。でも、日本では、まだ赤字になってもいないのに、早々と労働者の大量首切りを断行しようとしています。まさに、大企業は社会的存在ではなく、目先の利益ばかりを追う私企業にすぎないわけです。そんな大企業に対して、税制面で手厚く優遇しているなんて、許せません。
(2008年10月刊。850円+税)

JRのドン葛西の野望を警戒せよ

カテゴリー:社会

著者:樋口 篤三、 発行:同時代社
 葛西敬之(かさいよしゆき)は、JR東海の社長そして会長になり、国家公安委員をつとめる大物財界人です。
 葛西は1980年代の国鉄分割民営化にあたって「改革三人組」の一人と言われた。国鉄職員局次長として「労組とのつばぜりあいの前線指揮官だった」と本人が自らを振り返っている。
 そして、この20年間、松崎明打倒、JR総連解体を執拗に追求してきた。葛西は、その直系のJR連合に、国労をふくめてJRの全労働者を吸収することを目標としている。
 私には、この本に書かれていることが真実なのかよく判断できません。しかし、国鉄を分割して民営化して本当に良かったのかについて、私は根本的な疑問を抱いています。サービスが良くなったとも思いませんし、何より、日本の労働組合全体が決定的に弱体化させられてしまいました。ストライキが死語になって、日本の民主主義を支える基盤の一つがなくなったも同然です。企業・財界が異常に強くなりすぎました。いま、問題になっている非正規雇用の問題についても、労働組合の弱体化と裏腹の関係にあります。なんでも資本の思う通りというのでは、日本の若者から職を奪い、それでは健全な日本の将来がないことは、今の事態が見事に証明しています。
 JR総連を指導してきた松崎明については、本人も革マル派だったことを認めています。しかし、今は革マル派とは関係ないとしています。著者もそれを認めています。
私は何年か前、憲法改正手続法が成立する前の福岡での公聴会のとき、久しぶりに革マル派という大きな旗とヘルメット集団を見て、あれっ、まだいたの、と思ってしまいました。学生時代はよく見かけましたが、その後、内ゲバで他党派との殺し合いをして、ほとんど捕まらないうちに姿を消したとばかり思っていました。
 革マル派には三大拠点があった。早大、沖縄、そして動労。JR内の革マル派は、1992年から93年にかけて全員が脱退した。沖縄の革マル派は、2000年ころに脱退した。そのころ、人間関係を含めてJR内の人間は革マル派と完全に切れた。今あるのは、動労を率いてきた松崎明の周囲に集まった松崎組のようなもの。
 ところが、警察はその実体をよく知りながら依然として、JR総連内に松崎の率いる革マル派が相当数いると国会などで公式答弁を繰り返している。
「週刊現代」は2006年7月から24回にわたって、松崎・JR総連たたきの記事を連載した。テロリスト、労組の革マル派による暴力支配、公金横領など……。
 しかし、公金横領について、2007年12月27日、検察は不起訴とした。
 これは一体、どうなっているのでしょうか。国鉄(いまのJR)には、なんだかドロドロしたものが昔も今もたくさんあるようで不気味です。これでは安心してJRを利用できません。
 私の身近な人に国労争議団のメンバーがいます。とても気のいい方です。資本が労働者をモノとして使い捨てしていいという風潮だけは絶対に改めるべきだと思います。国鉄時代の労使紛争が今も解決していないなんて、日本社会の恥ではないでしょうか。
(2008年12月刊。510円+税)

プルーストとイカ

カテゴリー:人間

著者:メアリアン・ウルフ、 発行:インターシフト
 サブ・タイトルは、読書は脳をどのように変えるのか?です。
 人類が文字を読むようになってわずか数千年しかたっていない。ところが、これによって脳の構造そのものが組み直されて、考え方に広がりが生まれ、それが人類の知能の進化を一変させた。読むというのは、歴史上もっとも素晴らしい発明のひとつだ。
現在のヒトの脳と四万年前の文字を持っていなかったころのヒトの脳に、構造的な違いはほとんどない。なーるほど、字を読むというのも大きな進化だったのですね。
 アルファベットは、文字数を節約したことで、ハイレベルの効率性を手に入れた。楔形文字は900字、ヒエログリフは数千字を数えるのに対して、アルファベットはわずか26文字である。今日、世界にある3000言語のうち、文字をもっているのはわずか78言語でしかない。
 日本語の読み手は、漢字だけを読むときには中国語と同様の経路を使う。ところが、規則性が高く平明なかな文字を読むときは、むしろアルファベットの読み手に近い経路を使う。かたかなとひらがな、そして漢字との間を行き来しながら読み進める能力を備えた日本語の読み手の脳は、現存するもっとも複雑な読字回路のひとつを備えていると言える。     
アルファベット脳は、左半球の一部の領域のみを賦活させているのに対し、中国語脳は左右両半球の多数の領域を賦活させる。その結果、脳梗塞になったとき、中国語は読めなくなったけれど、英語は読めるということが起きる。
 ですから、日本人の多くが英語を苦手としているのは、脳の回路の運用が異なるからだという説には合理性があります。
 脳は、自らの設計を順応させる驚異の能力を備えているので、読み手はどんな言語でも、効率性を極めることができる。
言語の発達にとって大切なことは、子どもに対する話しかけ、読み聞かせ、子どもの言葉に耳を傾けることである。
 幼児期に身につけた語彙が少ないと、その後の成長過程で大きな差となって現れる。親との接触に乏しい子どもが多いせいか、アメリカの子どもの40%が学習不振児である。
 文章を追う目の動きは、一見すると、単純のように見える。いかし、実は、眼球は絶えずサッカードと呼ばれる小さな運動を続けており、その合間にごく瞬間的に停留と呼ばれる眼球がほぼ停止する状態が起こる。読んでいる時間の10%は戻り運動という、既に読んだところに戻って、前の情報を拾い上げる運動にさかれる。
いやあ、そうなんですか。目の働きと視野って、単純ではないのですね。
大人が読むときにサッカードでとらえられる文字数は8文字ほどで、子どもはそれより少ない。このおかげで、文章の行にそって周辺領域まで先読みすることができる。このようにして、常に先にあるものを下見しているので、数ミリ秒後に行う認識が容易になって、自動性が一層高まる。
 ディスレクシア(読字障害)を持つ天才・偉人は多い。トーマス・エジソン、レオナルド・ダ・ヴィンチ、アルベルト・アインシュタインなどである。彼らは小児期に読字障害を抱えていた。
 ところが、ディスレクシアの人々の大半は、非凡な才能に恵まれている。なぜか?
 ディスレクシアの人々の脳は、左半球に問題があるため、右半球を使わざるをえなくなり、その結果として、右半球の接続のすべてが増強されて、何をするにも独自のストラテジーを展開するようになった。文字を読むには不向きでも、建築物や芸術作品の創造やパターン認識には不可欠なものがある。
ディスレクシアは、脳が、そもそも文字を読むようには配線されていなかったことを示す、もっとも分かりやすい証拠である。
日本人が英語を長年にわたって勉強していても、ちっともうまく話せないのは、決して日本人が他の国の人より劣っているからではなく、脳の回路の使い方なんだということがよくわかる本でもあります。
 東京にあるちひろ美術館に行ってきました。高田馬場から西武新宿線に乗って各駅停車で20分ほどの上井草の駅で降ります。駅前に案内表示がありますので、それを見て踏切を渡ります。両側が小さな商店街になっていて、昔懐かしい駄菓子屋もありました。電柱に案内が出ていて、迷うことなく右折し、左折し、また右折するといった具合に住宅街のなかを歩きます。土曜日のお昼前、11月上旬の陽気でしたから、ちょうどいい散歩です。ちひろ美術館は、元は松本善明代議士(弁護士)の自宅をそっくり改造した新しい建物です。すぐ前にマンションも建っていますが、まったくの住宅街です。高級住宅地というのではありません。昔は練馬大根でもとれていたのではないかという感じです。
 空調のよくきいた部屋にちひろの絵があります。やわらかい、ふっくらした子どもたちの顔がなんとも言えず心を落ち着かせます。昔からちひろの絵は大好きなので、うちの子どもたちにもたくさん童話を読み聞かせしてやりました。
 ちひろの絵は、幼い子の小さな手指までしっかり描かれているうえ、ボカシが見事だったり、色彩感覚にも素晴らしいものがあります。絵の中の子どもたちは、動きはありますがどちらかというとじっとたたずんで、こちらを見つめています。変に胸騒ぎのする絵ではありません。
 ただ、戦火の中の女の子は、厳しく、寂しげな表情をしています。視線はあらぬ方向を見ていて、決して私たちと目線をあわせようとはしません。目線をあわせてニッコリ微笑んでくれるなんて期待できないのです。みている人の気持ちを悲しませます。戦争反対とただ叫ぶのより、よほど気持ちがひしひしと伝わってきます。
 たくさんのちひろの絵を眺め、ちひろのアトリエをのぞいて、すっかり満ち足りた思いで、また住宅街のなかをゆっくり駅に向かいました。いい一日でした。
 今度は長野にあるちひろ美術館にもぜひ行ってみたいと思います。
(2008年12月刊。2400円+税)

ランド、世界を支配した研究所

カテゴリー:アメリカ

著者:アレックス・アベラ、 発行:文藝春秋
「研究と開発」Research and Development から来ているランド研究所は、カリフォルニア州の海岸沿いの都市サンタモニカにある。
どのように戦争を展開し、どのように勝つかについて、政府、なかでもアメリカ空軍に助言すること。これがランドの設立目標だ。
ランドは、その時代とともに、その本来の使命を巧妙に隠していった。
ランド出身は多い。ノーベル賞経済学賞受賞者のポール・サミュエルソンもその一人。
私は、大学1年生の時、このポール・サミュエルソンの大都市経済学の本を手にとって、途方に暮れました。さっぱり分からないのです。まるで理解できませんでした。なにやら数値と数式がたくさん書いてありますが、それらが何を意味するものか、全然理解できません。よほどの名著だと言われていたわけですが、なにしろ全く理解できないのですから、悲しくなってしまいます。マルクスの『資本論』は、同じく難解でしたが、こちらのほうは何回か読み直すと、少しは理解できました。ですから、ポール・サミュエルソンという名前を聞くと、私は大学時代の悲しいショックがまざまざとよみがえってきます。
この本ではランドで中心的に活躍してきたウォルステッターが焦点にすえられています。ウォルステッターは1930年代にトロツキー派の革命労働者党同盟の一員だった。1920年代のアメリカには、大学生の中に、ボルシェヴィキ派とトロツキー派とが競合していた。まるで1960年代の日本の大学のような雰囲気があったようです。そして、そのトロツキー派だった学生たちが、ネオコン(新保守主義)の理論家になっている。うひゃあ、これまた日本と似てますね。西部すすむとか青木なんとか、いろいろいますよね。
ウォルステッターは、古いトロツキー主義にとらわれ、ソ連は、完全に思想統制されており、世界征服を目指しているという国家信念にこり固まっていた。そうではないという事実があっても、思いこみは終生変わらなかった。
ウォルステッターは、1950年代以降ランドの教祖的な存在だった。
1979年、電話交換手のミスによって、アメリカが核攻撃を受けているとの誤情報が流れ、三つのアメリカ空軍基地から戦闘機10機が緊急発進した。翌1980年にも、コンピュータの誤作動で、ソ連がアメリカを攻撃中という情報が流れ、危うくB52爆撃機100機が出動、ICBMが反撃準備に入ろうとした。うへーっ、これってケネディのキューバ危機より怖いですよね。
ユダヤ人のハーマン・カーンは、話好きだった。カーンは次のように力説した。
核シェルターは、物理的に民間人を守るだけでなく、ソ連に対する抑止力にもなる。たとえば、アメリカ人2億人のうち、核戦争によって3000万人が死んでも、まだ、1億7000万人が生きている。核シェルターによって死者を1000万人減らせば、国を再建するのに十分な数のアメリカ人を確保できる。核攻撃を受けてもアメリカ人が生き残って反撃に出るとわかっていたら、ソ連は先制攻撃を仕掛けては来ない。
うひょう。こ、これって、中国の毛沢東の「ハリコの虎」理論とウリ二つではありませんか。毛沢東は中国人の1億人か2億人が死んでも、まだ3億人も4億人も残っていると言い放ちました。どちらも人命軽視です。とんでもない連中ですよね。
アメリカの核戦争の発射ボタンは大統領が一つ持っているはずだった。ところが、アイゼンハワーは、核攻撃開始の権限を作戦現場の司令官に委譲していた。そして司令官は、直属の部下へ委譲していた。だから、ちょっとした間違いや職権乱用によって核攻撃が始まる危険は高かった。
ペンタゴン・ペーパーをマスコミに流したダニエル・エルスバーグは、ランド研究所のホープだった。アメリカがベトナム戦争で負けたら東南アジア全体が共産主義化し、最悪の専制政治と国民抑圧体制を招くと信じ込んでいた。ところが、ベトナムへ実情視察に行ってみると、ベトナム戦争が間違いであることをたちまち気づかされた。無意味な領土拡大、 汚職、殺人。そして、ベトコンとは熱烈な愛国者たちであることを深く実感した。
1969年10月10日、エルスバーグはペンタゴン・ペーパーをランド研究所から持ち出した。たとえ売国奴として有罪判決を受け、残りの人生を監獄で暮らすことになってもいいと決意していた。
ダニエル・エルズバーグの行動がなかったら、ニクソン大統領のウォーターゲート事件は起きなかった。そして、民主党の支配する国会はベトナム戦争拡大への歳出をストップした。その後、2年たたないうちにサイゴンは陥落し、ホーチ・ミンは勝利した。
レーガン大統領はランドの進言に沿って個人所得税率を70%から28%へ、法人所得税率を40%から31%へと一気に引き下げた。最大の減税効果を受けたのは高所得者層だった。自由主義の成長と合理的選択の普及を促すレーガンの改革路線は、ランドの改革路線であり、これは現在も続いている。
そうなんです。今世界に金融危機をもたらしている新自由主義経済。なんでも自由にして、強い資本を思うままに野放しにする政策です。今まさに、それが世界市場を滅茶苦茶にし、私たち市民の生活を破壊している元凶となっています。
ベトナム戦争の時、当時の北ベトナムに激しい爆弾の雨を降らせたカーチス・ルメイ将軍もランド研究所に深く関わっていました。ベトナムを石器時代に戻すとうそぶいた男です。そして、このカーチス・ルメイこそ、日本に焼夷爆弾攻撃を仕掛けた張本人です。軍隊や兵器工場だけでなく、一般民間人を無差別に殺しても構わないと指令したのです。戦後、日本政府はそんなカーチス・ルメイに対して、なんと勲章を授与しています。とんでもないことではないでしょうか
ランド出身者のリストを見ると、いやはや、すごいものです。ウォルフォウィッツもコンドリーザ・ライスも出身者ですし、古くは、マクナマラやキッシンジャーもそうです。
日本がアメリカのようになってはいけないと強く思わせる本でもあります。
朝、雨戸を開けると、鮮やかな紅葉が目に飛び込んできます。目が洗われる思いのするほど、輝くばかりの紅色です。かすみの木とも言われますが、スモークツリーの木が紅葉しているのです。そばにある小さなモミジの木も顔負けです。道ぎわにあるロウバイも見事に黄変しています。冬至は過ぎ、春が待ち遠しくなりました。
(2008年10月刊。2095円+税)

われとともに老いよ、楽しみは先にあり

カテゴリー:アメリカ

著者:リング・ラードナー・ジュニア、 発行:清流出版
 タイトルの文句はロバート・ブラウニングの言葉である。著者は、80歳になっても、自分を年寄りだとは考えていない。その理由の一つは、生涯を通して、どのようなグループ属していても、いつも最少年者だったという感覚が残っているから。また、自分が余計ものであるとか、他人の邪魔になっているとか、そういう感覚がないからだ。なーるほど、ですね。
 この本は、ハリウッド・テンの一人として、アメリカの強烈なアカ狩り時代の犠牲者となったシナリオ・ライターが、自分の一生を振り返ったものですが、その楽天的ともいえる処世観には感嘆するほかありません。すごいです。その才能も偉大なものです。というのも、著者とその友人たちがシナリオをつくったという映画は、いずれも私たちもよく知る、今も見たい映画として必ず登場するようなものばかりなのです。そんな才能のある人々を、アカ狩りの対象としてハリウッドから追放しようとしたなんて、狂気の時代のアメリカとしか言いようがありません。著者の映画として有名なのは、1942年の「女性No,1」と1970年の「M☆A☆S☆H」です。残念なことに、私はどちらも見ていません。
 著者はアメリカの国会に喚問され、当時6万4000ドルと言われた質問を次のように投げかけられた。
「あなたは、今、共産党員ですか。あるいは、これまでに共産党員であったことはありますか?」
その答えは、「質問に答えようと思えば、答えられるでしょう。でも、答えてしまえば、あとで自分が嫌いになる」というものだった。トーマス委員長は、著者に退廷を命じた。
著者はアメリカ共産党員だった。しかし、ソ連のスパイでは決してなかった。そして、アメリカをソ連の路線にそって再建させようとは考えてもいなかった。アメリカにおいては、合理的な経済システムへの転換は、選挙によって平和のうちに成し遂げられるものと信じていた。むしろ、ソ連のスパイにとって愚行中の愚行は、アメリカ共産党に入ってFBIの対象となることだった。
 ところで、著者に退廷を命じたトーマス議員は、3年後、連邦刑務所で著者と同じ受刑者仲間として顔を合わせた。著者はトーマス委員長の質問に答えなかった罪で1年の服役を命じられていた。そして、トーマス議員は部下の職員をでっちあげて給与を着服したとして、横領罪で刑務所に入って来た。なんということでしょう。皮肉ですね。
 それまで、ハリウッドでは、共産党員の脚本家ほど、高い生活水準を維持し、社会と融合で来ていた者はいなかった。共産党員であることに伴う不文律のひとつに、党員であることを喧伝しないという暗黙の了解があった。
 著者は、プリンストン大学に入ると、社会主義研究会に入り、活動を始めた。著者が共産党に好意を寄せたのは、ファシズムに対して、真っ向から反対の姿勢を守り通していたからである。
著者は、ハリウッドで共産党に入党した。その当時、25人ほどの党員が、5年後には200人をこえていた。25人の半数は脚本家で、ほかは俳優、監督、スクリプト・リーダー、事務職員だった。党活動には、やたらと時間を奪われた。出席しなければならない夜の会合や行事などが週に4回も5回もあった。
 ただし、誰もソ連と同じ政治体制をアメリカに持ち込もうとは考えていなかった。独裁判はごめんだったし、批判者に対する圧政も、ごまかし選挙も、芸術のプロパガンダ化も、みなお断りだった。アメリカを社会主義に変えられると確信していたが、それは現在もっているアメリカの自由を損なわず達成できるものであり、ロシアにはそもそもそんな自由がなかった。
スペイン市民戦争の激化とナチスの強大化にあわせて、ハリウッドの共産党は党員を増やし、勢力を拡大した。党員は、いわゆるリベラリスト・確信主義者と良好な関係にあった。ところが、1939年8月、独ソ不可侵条約が締結され、翌月、第二次世界大戦が勃発すると、左翼リベラル連合はまっぷたつに引き裂かれた。
 この困難な時期に共産党を離れる者は増え、新しく入党する者は少なかった。その入党者の一人に、著者の友人のドルトン・トランボがいた。
 トランボは、『ジョニーは戦争へ行った』の作者である。私も、この映画を見ましたが、強烈な印象を受けました。
 戦争中、アメリカ国民に同盟国ロシアの美点を理解させるための映画がつくられた。ローズベルト政権の肝入りで、ワーナーとMGMが映画を作った。
 うひゃあ、そうだったんですか……。
戦後、アカ狩りが始まったとき、共産党員であるか否かの質問にどう答えるのかが問題だった。トランボと著者は、唯一悔いを残さない答え方は、質問に答えないことだと主張した。
 ところが、カリフォルニア州の前検事総長だったロバート・ケニー弁護士は、証言拒否に反対した。それぞれの方法で、質問に答えるべく努力したと主張できるようにすべきだというのである。ケニー弁護士の策戦に従った結果、同情的だった第三者には、ハリウッド・テンの狡猾でがさつな姿を印象付けただけだった。そのため、応援していたリベラリストたちに深い落胆を与えてしまった。このとき、一切の質問に答えないという単刀直入の姿勢のほうが、もっと威厳を得たし、著者たちの主張をはっきりさせるうえで、もっと効果的だった。
うむむ、なるほど、なるほど、そうでしょうね。でも、当時のアドバイスとしては難しい判断だったろうとしか、言いようがありません。
著者を含めたハリウッド・テンは刑務所に入り、やがて1951年に出所した。戻っていった先のハリウッドは、まだパニックの渦中にあった。著者もゴースト・ライターとして生きるしかなかった。ゴースト・ライターとしてハリウッド・テンの人々が脚本を書いた映画の題名がすごいんです。『戦場にかける橋』『スパルタカス』『アラビアのロレンス』『野生のエルザ』『M☆A☆S☆H』などなど。
ハリウッド内のアメリカ共産党の影響力の大きさとその活動の実情がてらいなく紹介されている本として特筆されます。それにしても、彼らの才能のすごさには脱帽します。
東京・四谷にある小さなフランス料理店で食事してきました。筑後市出身のシェフががんばっていて、本で紹介されていましたので、一度ぜひ行ってみたかったのです(北島亭)。ついた時は先着の客は1組のみでしたが、やがて6つほどあるテーブルが全部埋まりました。オードブルは生ガキでした。ほっくり身の厚いカキを久しぶりにいただきました。口中に入れてとろけると、うむ、今夜の食事はいけそうだと幸せな予感で一杯になります。ワインはこの夏にはるばる行ったシャトー・ヌヌ・デュ・パープです。05年のハイ・ベルナールを注文します。見事に大きなワイングラスにワインの赤い色がよく映えます。おいしいワインは料理とともに舌になじみ、食欲をそそります。お任せコースで次々に魚料理、そして肉料理が出てきます。しっかりした味付けでした。ああ、おいしい……。
(2008年5月刊。2500円+税)

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