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九州の一揆・打ちこわし

カテゴリー:未分類

著者 宮崎 克則、 出版 海鳥社
百姓一揆といえば、苛酷な年貢にあえぐ大勢の農民たちが発作的にテンデンバラバラに蜂起して藩権力と武力衝突したかのようなイメージがあるが、実態はそうではない。鉄砲などの武器を携えていても、それは武器としてではなく、合図の道具として用いられ、藩側との武力衝突はほとんど起きていない。年貢や夫役、商品生産への統制に反対して政策転換を求めて訴願する行為であり、代表を選出しての越訴(おっそ)や集団での強訴(ごうそ)などがある。つまり、権力へ訴えることを旨とする一揆は、農民たちによる異議申立なのである。
百姓一揆は江戸時代、3000件以上も発生した。久留米藩に起きた享保13年(1728年)の大一揆は、藩の年貢増徴策に反対するものである。
 享保一揆のとき、農民勢の動きに庄屋たちも同調した。5つの村が一つの組をつくって、傘型連判状、円を囲んだ放射状に名前を連ねて判をして、首謀者・発頭人が誰か分からないようにした。藩側の責任者2人は死刑となったが、ほぼ全面勝利を勝ち取った農民側には一人の処罰者もなく終わった。
 宝暦4年(1754年)に再び久留米藩で百姓大一揆が起きた。このときの参加者は16万人にのぼったと言われていますが、この本では2万人が妥当な人数とされています。
 このときの一揆の主力となったのは村役人層ではなく、貧窮化しつつあった中下層の者たちだった。処刑されたなかに大庄屋が一人いるが、これはくじ引きで選ばれたもの。
 宝暦一揆のときには、藩側は譲歩しなかった。
 天草は、全国平均11.2件(1万人あたりの発生件数)を超え、20.3件もある、一揆の激発地帯だった。ここでは、地主と小作の対立にもとづく運動が多いという特徴がある。
 江戸時代の中・後期には、全国的な傾向として、庄屋の公選や年番制が行われ、その交代が頻繁となった。そうなんです。庄屋といっても世襲制だけではなく、選挙で選んでいる地域も多かったようです。案外、民主的だったんですよ。
 打ち壊しの対象となるのは、都市部では両替商や米屋などの富裕層であり、農村部では庄屋や「徳人」などの上農層である。そして、必ず彼らの全員が打ち壊されるというのではなく、ある程度の施行をすれば、打ちこわしを免れることができました。打ちこわしによって没落した家はなく、明治以降の経済変動の中で没落している。打ちこわし勢自身の「私欲」は禁止されていて、金品の略奪やその場での分配はしない。つまり、統制がきいていたのです。
 共同体から抜き出ようとする庄屋や「徳人」を打ち壊す行為は、彼らを共同体から排除するものではなく、「徳」の実施を強要する一時的な制裁であり、制裁のあとは、ともに村の住民として居住していく。つまり、打ちこわしは、前近代の村落共同体が有していた「共生の技法」の一つなのである。
 百姓一揆なるものが、実に組織的なものであること、よく準備された、大規模なものが多いこと、それは村落共同体を守ろうとするものであったことなどが実証されています。
 370頁もあり、少々高値の本ではありますが、なべて日本人は昔からお上に従順だったなどという俗説の間違いも明らかにしていますし、江戸時代の実情を深く知ることのできる興味深い貴重な本です。
 3月末から3週間以上も次々に咲き続けてくれたチューリップも咲き終わりました。地上部を刈ってやり、すっきりさせました。彫り上げるのは先のことです。今はアイリスそしてクレマチスが花ざかりです。
 ちなみに私はチューリップを生花として花瓶に差し飾ることはしていません。地植えで咲いているチューリップの首を切るような気がして、なんだかそんな残酷なことはできないのです。花びらが落ちてしまうまでそっと眺め続けます。
 
(2009年1月刊。5700円+税)

自然に学ぶ・粋なテクノロジー

カテゴリー:生物

著者 石田 秀輝、 出版 化学同人
 土は私たちの生活には不可欠の材料である。西洋紙のなか30%、光沢のあるアート紙は40%以上の粘土鉱物が含まれている。軽い和紙に対して洋紙が重いのは、このため。6Hの鉛筆には55%、化粧品の口紅に15%、ファンデーションには40~70%も含まれている。
 うへーっ、ちっとも知りませんでした。
 カタツムリや卵は、表面に分泌液を出すこともなく、いつもピカピカ、きれいな表面をしている。なぜか?
 カタツムリの表面を電子顕微鏡で見てみると、数十ナノメートルからミリメートルにいたる小さな凸凹がたくさん存在する。この凸凹が材料の表面エネルギーを変化させているから。なんだかよく理解できませんが、いろんな細かい仕掛けがあるのですね。
 水のいらないお風呂が作られている。4リットルのお湯を泡にする。まったく水による圧力のかからない入浴感を楽しめる。うむむ、なるほど、そういうこともできるのですね。
 シマウマの縞は風を起こす役割をもっている。縞の白い部分は熱を吸収しにくく、黒い部分は熱を吸収しやすくなっている。そのため、身体の表面で温度差が発生し、微妙な風の流れ(対流)が起こる。このおかげで、シマウマは常に身体を快適な温度に保つことができている。
 むひょう。す、すごいですね。敵から見つけられにくくするためとばかり思っていましたよ。
 アワビの貝殻は落としたくらいではびくともしない。ハンマーで叩いても、なかなか壊れないほど強靭だ。アワビの貝殻は、厚さ1マイクロメートル以下の薄い炭酸カルシウムの板を有機質の軟らかい接着剤で貼り合わせた「積層構造」になっていて、厚さ1ミリメートルの中に、その薄い板が1000枚以上重ねられている。貝殻にヒビが入っても、柔らかい接着層でヒビが止まり、薄板が一枚一枚、少しずつ壊れることで破壊エネルギーを吸収し、なかなか割れない。破壊するためには、炭酸カルシウム単体と比べて、3000倍の破壊エネルギーを与える必要がある。
 ふむふむ、自然の驚異、そのすごさを改めて実感させられました。
 
(2009年1月刊。1700円+税)

派遣村

カテゴリー:社会

著者 年越し派遣村実行委員会、 出版 毎日新聞社
 私もよく行く日比谷公園に年末年始、2000人もの人々が集中して、ごった返していたといいます。今では、そんなことがあったなんて嘘のように何もなく、いかにも静寂な公園です。
 年越し派遣村のなりたち、そして、その実情がいろんな人の体験談を通じて明らかにされています。実行委員会の人々、ボランティアの人々、そして、何より参集してきた村民の人々に対して、心から敬意と連帯の気持ちを改めて私も表したいと思います。
 この本を読むと、日本という国も、まだまだ決して捨てたもんじゃないと思います。と同時に、どうしてここまで深刻な事態に追いやったのか、政治というものの深い責任を痛感します。
 実行委員会が想定した村民の人数は、100人前後だった。だから、用意したテントは5人用テントが21張。ところが、初日だけで登録した村民は139人。とても足りない。
 寝場所の確保は、最終日まで実行委員会の一番の頭痛の種だった。寝床を確保することが、いかに重要で、いかに大変かを改めて思い知った。
 私はテレビを見ませんからよく分かりませんが、テレビでも大きく報道されたようですね。31日の昼のニュースから、派遣村の映像が繰り返し流されたため、正月の深夜になっても入村の希望者が次々にやってきた。30代後半の男性は、埼玉県北部から10時間も歩いて村にたどり着いた。夕方、たまたま大型電器店の前を通りかかってテレビの報道を見て、ここを目ざしたのだった。
 泊まり込みのボランティアは、ほとんど野営状態。ストーブの横で仮眠をとるか、コートを着込んだまま本部テントに寝転がっていた。携帯カイロを背中と腹に貼り付けて本部テントの中で転がり、少しうとうとしているうちに朝を迎えるのだった。
 派遣村では、多くの村民が生活保護を申請することにしたが、みんながすぐにそうしたのではない。むしろ仕事をして自立したいと望んでいた。でも、とりあえずこれしかないでしょ、という働きかけを受けて、ようやく納得していったのだ。
 派遣村には、暴力飯場の手配師までやってきた。30万円の給与という声に乗せられて、山奥の作業場へ連れて行かれると、布団代、毛布代、食事代、家賃と差し引かれていく。日給1万3000円はなくなるどころか、借金までかかえてしまう仕組みになっている。そこから逃げ出すとリンチが待っている。うひゃあ、今どき、そんなタコ部屋があるんですね……。
 派遣村への入村者は、結局500人を超えた。そのうち、生活保護を申請したのが過半数(302人)。ボランティアとして登録した人は1700人ほど。カンパは現金2300万円のほかに振り込みがあって5000万円を超えた。支出は1000万円。
 ボランティアとして活躍した高校生の書いた文に目を見開きました。
 私は派遣村に一つの希望を見出した。それは結束だ。古い労働運動用語で言うなら、連帯だ。
 うへーっ、連帯って、古い労働運動用語なんですか……。実に新鮮な驚きでした。たしかに、ポーランドのワレサ議長の連帯(ソリダリテ)なんて古いことなんでしょうが、それでも連帯って、私にとっては新しくていい響きの言葉なんですけどね……。
 ボランティアの女性が、50代の暴れる村民(男性)をなだめた話も興味深いものがあります。その男性は、名前を訊かれ、名前で呼ばれるようになると、急に態度が変わっておとなしくなってしまったというのです。
 名前で呼ぶという行為は、私はあなたを認めていますよという一番初めのサインなのだ。久しく名前で呼ばれることがなかった彼にとって、それは自分が認められるという、驚きに値する出来事だったのだろう。
 そうなんでしょうね。あたかも人間ではない存在かのように、この日本社会で久しく扱われてきたのが、ここ派遣村では人格ある人間として処遇されたわけですから、彼としてももう暴れまわるわけにはいかなかったのでしょう。
 とてもいい本です。今の日本の現実を知るうえで、必須の本だと思います。毎日新聞社の発行ですが、朝日も読売も大いに取り上げて宣伝し、広く全国民に読んでもらいたいものです。
  
(2009年3月刊。1500円+税)

サルが木から落ちる

カテゴリー:生物

著者 スーザン・E・クインラン、 出版 さ・え・ら書房
 サルが木から落ちるというのは、たとえ話だと思いながら読み始めたのですが、なんと本当にある話だというのです。驚きました。ジャングルの木の下で、じっとひそんでサルを観察し、その原因を地べたをはいつくばって、サルの糞まで拾い集めて調査・研究するのです。恐れ入ります。ホント、学者って、こんな地道な作業を延々と続けているのですね。頭が下がります。
 それが現代に生きる私たち人間にどんな関係があるの? そんな疑問をもった方は、少し現代社会に毒されすぎていませんか。なんとなんと、それが大ありなんですよ。ジャングルの植物そしてあらゆる生き物の成分は、まだまだ人間に未解明のものがすごく多いわけです。ですから、サルにとって有害または有益な植物の成分を発見したら、人間にとってガンのような病気の特効薬になるかもしれないっていうわけです。そんなわけで、種の多様性を保全するのは、私たち現代人にとっても決して趣味的な世界だけの話ではないのです。
 熱帯に生きる鳥は、温暖地方に住む鳥より、平均するとずっと小さい。それは、熱帯では毎年えさ不足に悩まされる現実にもとづいている。えさ不足の時期があるため、熱帯林では、大部分の野生動物は数も大きさも制限がある。そうなんですか、ちっとも知りませんでしたよ。
 熱帯林の生きものの多くが夜行性で、夜しか活動しない。
 熱帯林に全部で何種類の動物が住んでいるのか、まだ分かっていない。森をくまなく調べれば調べるほど、新しい種が発見される。
 学者は、ホエザルを追跡した。ホエザルは、食べられるときは出来るだけ新しい葉を食べる。果実や花や成熟した葉は、たまにしか食べない。そして、葉柄の部分だけを食べる。サルたちは、好きな種類の木ならどの木の葉でも食べているのではなく、2,3本の木を選んで葉を食べていた。毒のない木を選びとっていた。つまり、ホエザルは、森の自分たちの領分で手に入る木の葉のうち、もっとも栄養があって消化がよく、しかも毒の少ない葉を選んでいた。ホエザルは毒がいっぱいの森で、用心深く、食べ物をより分けて食べているのだ。
 ところが、木のほうも誰かに食べられたときには、それまでより多くの毒を作り出す。同じ植物でも、動物に食べられなければ、少ししか毒を作らない。毒の強さは常に変わり続けているので、サルたちは、どの木の葉の毒で、どの木の葉が食べられるのか、経験で学ぶことが出来ない。そこで、定期的に注意深く地域の中を試食してまわっている。
 サルが木から落ちるのは、ひどい干ばつの年で、ホエザルが食べ物を選り好みできないときだった。すなわち、木から落ちるサルは、まちがった時期にまちがった木の葉を食べたので、毒にあたったのだ。熱帯林は、食べものと、毒の混合物がいっぱい詰まった食料貯蔵室のようなものだ。
サルたちの毒だらけの食料貯蔵室は、人間に希望をあたえてくれるものでもある。有毒な化学物質は、少量使うと薬になることが多い。たとえば、アスピリン、キニーネ、モルヒネ、ジキトキシン、そして抗がん剤など……。
 この本を読むと、熱帯のジャングルを切り開いてハンバーガーを食べるための牛を飼う牧場につくり変えるなんて、そんなバカげたことはやめたいものだと、つくづく思います。第一、ハンバーガー自体も、健康にいいものとはとても思えません。赤坂交差点のハンバーガーショップがいつも客で満員なのを横目で眺めていますが、複雑な気持ちになります。
 
(2008年4月刊。1500円+税)

小林多喜二と宮本百合子

カテゴリー:社会

著者 三浦 光則、 出版 光陽出版社
 著者は、あるとき、手塚英孝に次のように問いかけた。
「プロレタリア文学は、理論では優れていたが、実作の面では大したものがないという批判がありますが…」
 すると、手塚は日頃の温和な表情を変え、「そんなことはありません」と一言怒ったように言い、黙ってしまった。
 戦前、プロレタリア文学は盛んだったと言えるだろうと思います。その証拠の一つが「戦旗」の発行部数です。「戦旗」は、1928年5月創刊号の発行部数7000から出発し、1930年4月号は2万2000部に達した。同年10月号は、2万3000部となった(最高は2万6000部)。
 天皇制権力は、これに対して発禁処分という弾圧を加えた。創刊以来の44冊のうち、13冊だけが発禁処分を免れた。なんという、ひどい弾圧でしょうか…。
 宮本百合子は、治安維持法による弾圧を受け、1932年から1945年10月までの13年間に、わずか3年9ヶ月間しか作品発表の機会をもちえなかった。
 治安維持法とは何だったかというと、その下での天皇制政府、警察の弾圧の残虐さはどのようなものであったかということ、それを具体的に明らかにしたのがプロレタリア文学であった。ある意味で、プロレタリア文学の成果の総体が、「治安維持法という題の小説」であるといっていい。
 著者は、私と同世代であり、同じ時期に学生セツルメント活動を共にした親しい仲間です。当時は、お互いにセツラー名で呼び合っていました。ベースであり、イガグリでした。そんな彼が、高校教員としての仕事のかたわら、小林多喜二と宮本百合子について、ずっと研究し、論文を発表してきたことは知っていましたが、この度、それが一冊の本にまとまったわけです。やはり、本にまとまると、全体像が見えてきます。地平線の先に何があるのか分かることも必要なことです。
 著者が今後ますます健筆をふるわれんことを心より期待しています。
(2009年3月刊。1429円+税)

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