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島津久光・幕末政治の焦点

カテゴリー:日本史(江戸)

著者 町田 明広、 出版 講談社選書メチエ
 島津久光こそ、幕末の中央政局に絶大な影響をあたえ、回天の梃子を演じていた。
 この本は、このスタンスで島津久光にスポットライトを与え、その実像を浮き彫りにしています。
 江戸幕府創世記を除き、三代将軍家光以降の将軍家は、御台所を基本的には皇族ないし摂関家から迎えており、大名からの入輿は2例しかなく、そのどちらも外様大名である薩摩藩・島津家からである。この事実は、薩摩藩の勢威・家格を著しく高めた。島津斉彬の権勢の源泉は、将軍家との縁威にあった。
 文久期以降、薩摩藩が幕府以上に調停工作を得意としていたのは、近衛家との濃密な関係を前提として、絶対的な利益代表を有していたからである。
 島津久光は、藩主の座に就いたことはなく、藩主茂久の実父でしかなかった。つまり、久光の政治的基盤は、実は非常に脆弱だった。当時の薩摩藩は、島津家一門が家老職を頂点とする要路を占めており、必ずしも宗家の意向通りに反省は動いていなかった。斉彬といえども、彼らの意向を完全に無視して藩政をすすめることはできなかった。
久光は国父となって人事権を掌握すると、藩内基盤強化に向けて島津豊後派、日置派要路の更迭を繰り返した。その一方、久光四天王を登用し、側近体制の確立につとめた。なかでも、小松帯刀(たてわき)は驚異的な出世を続け、家老となり、御側詰となって、薩摩藩の軍事・外交・財政・産業・教育等の指揮命令権が小松に集中した。
小松28歳、青年宰相が誕生した。小松は幕末期、大久保・西郷以上の存在であり、両雄は小松の指揮下にあった。中央政局においては久光の名代として活躍した。
 文久2年(1862年)、久光は1000人の兵、野戦砲4門、小銃100挺とともに京都に上った。無位無官で、藩主でもなく、対外的には無名に近い久光自身の権威発揚の意図もあった。藩主の参勤交代並みの威儀を正して、しかも江戸ではなく京都を目指したことに特異さがあった。
 久光の京都滞在を許すにあたって、朝廷は浪士鎮撫を条件とした。寺田屋事件(1862年4月23日)は、久光を擁して統幕挙兵を西国志士らと画策する有馬新七らの薩摩藩尊王志士を、久光によって派遣された鎮撫使が寺田屋において鎮圧した事件であり、これによって朝廷における久光の声望は大いに高まった。
 寺田屋事件は、単なる薩摩藩内の抗争事件でも、久光による示威行動でもない、非常に重要な要素をさまざまに含んだ幕末政治史そのものである。
 西郷隆盛は、久光が上京する直前に久光に会っている。復職が認められたうえでのことではあるが、このとき久光に対して、「地五郎」(田舎者)であると言い放った。殿様育ちの久光が、この無礼で歯に衣着せぬ西郷の言動に堪えたのは、西郷の誠忠組における声望の高さ、誠忠組のリーダーでもある側近・大久保の推薦を無視することは、誠忠組の勢威を利用しようとする久光にとって得策ではないこと、それ以上に率兵上京そのものに悪影響を与えかねないとの判断によろう。
 長州藩にとっては、この寺田屋事件こそが藩是を破約攘夷に転換し、中央政局進出への発火点となったし、薩長両藩が反目する直接的起因ともなった。
 寺田屋事件を契機に、天皇の絶大な久光への信頼が確立し、中央政局におけるその存在感は一躍すべての勢力から無視できないレベルに達した。これ以降、久光の意向や動向を気にしなくては、どの勢力も政治的には身動きが取れなくなった。久光時代の到来である。
 しかしながら、久光は京都に長く滞在することはできず、江戸に行った。そして、同年8月、生麦事件が発生した。江戸から京都へ戻ろうとした久光一行の行列に対して、リチャードソンら英国人4人が、非礼であることを承知のうえ、乗馬のまま久光の駕籠近くまで乗り入れたことに起因する。当然のことながら、主君を守ろうとして、久光の家臣たちが英国人を斬りつけた。久光が命じるまでもなかった。しかし、このことによって、意に反して久光は攘夷の権化のように世間から祭り上げられることになった。
 そして、イギリス軍が薩摩を攻撃するとの情報を得て、久光は江戸にも京都にもおれず、薩摩に戻らざるをえなかった。文久3年(1863年)7月に、薩英戦争が勃発した。
 以下、省略しますが、久光に焦点をあてた幕末史として、目新しい視点があり、大変興味深く最後まで読みとおしました。
(2009年1月刊。1600円+税)

セブン・イレブンの真実

カテゴリー:社会

著者 角田 裕育、 出版 日新報道
 私はビジネス書にも関心があり、セブン・イレブン躍進の理由を知りたいと思って、鈴木敏文会長の本を何冊も読み、ここでも紹介してきました。この本は、逆にセブン・イレブンの闇をあばくことを企図した本です。
 実は、私の実家も小売酒屋をしていましたが、父が病気になって引退したとき、若い人に営業権を譲ったのですが、その若い人は数年後にセブン・イレブンに転身してしまいました。
小売酒屋のときには好きな釣りに行くヒマがあったけれど、コンビニのオーナーになったら、とてもそんなヒマはなくて大変だ、とボヤいているという話を間接的に聞いたことがあります。なるほど、聞きしに勝るすさまじい労働実態です。
 前職は酒販店などの自営業者だった人たちが昔は多かったが、バブル崩壊後は脱サラ組が主流だ。
 オーナーたちの労働形態でオーソドックスなのは、夫婦ふたりで、奥さんは昼間、御主人は夜中に入るというパターン。コンビニの従業員は大半がアルバイトだが、無断欠勤する不届き者もいるし、急に休む人間もいる。そんなときにはオーナー自らレジに立たざるを得ない。
 もうかっていない店でも、最近では43%のチャージ(ロイヤルティ)を取られる。もうかっていると、最高76%ものロイヤルティーがとられる。
 店を辞めたいと言い出すと、契約(15年契約が多い)途中なら赤字店で数百万円、黒字店だと数千万円の違約金が請求される。うへーっ、す、すごい大金です。これではうかうか止められませんよね。
 セブン・イレブンで出店するのには、AタイプとCタイプがある。Aタイプは、ロイヤリティは43%と低いが、それは最初に5000万円ほどの出資が必要だから。
 Cタイプは脱サラ組に多く、初期投資は300万円で済む。本部が店舗の土地・建物を用意してくれる。ただし、ロイヤリティ(チャージ)は月56%~76%と高い。
 そして、ここでロスチャージがのしかかる。ロスチャージとは、廃棄や万引きなどでロスになった商品も帳簿上の「売上総利益」という利益項目に組み込まれて、実際に売れた商品と同様のチャージ(ロイヤリティ)が引かれるという仕組み。これが、セブン・イレブンの異常な高収益の秘密の一つとなっている。
 コンビニの日販(一日の売り上げ)は、低いところでは20~30万程度。60万円とか70万円を超える店は少ない。
オーナーの親が死んでも店は閉められない。
 賞味期限切れ間近の商品をオーナーの独自の判断で値引き販売することは認められていない。
 後入れ、先出しを鈴木会長は提唱するけれど、それで成功している店はない。
 おでんは5時間くらいで期限が切れることになっているが、実際には守られていない。そして、8時間ごとに容器を洗浄することになっているが、実行している店はほとんどない。
 たしかに、レジの隣にあるオデンはむき出しですから、不衛生といえば不衛生ですよね。余計な添加物がたくさん入っている気もしますし……。
 コンビニだらけの日本ですが、本当にそれでいいのか、この本を読むと改めて疑問を感じてしまいました。といっても、もはやコンビニしかない、選択の余地はない、という現実があるのですよね。悩ましい現実です。
 東京に泊まって、ホテルの近くにある洋風居酒屋で一人夕食をとりました。6年前、この店は私の行きつけの店でした。久しぶりに行ったのですが、当時も今もサラリーマンでいっぱいです。はじめにタコのカルパッチョを頼みました。さっぱりした味わいです。次に、細切りジャガとチーズ焼きを注文します。店の女性が一人前だと多すぎるでしょうから、半人前にしますかと訊いてきましたので、そのようにしてもらいます。やがて熱々の皿が運ばれてきました。ピザに似てますが、もっとボリュームです。赤ワインをちびりちびり飲みながら食べます。一息ついたところで持参した『源氏物語』を読みすすめます。次に、同じようなものになってしまいましたが、チヂミを頼みました。これも半人前です。チヂミを食べると、つい釜山で食べた有名な店を思い出します。少しずつ注文していきます。ワインの方もちょびちょび飲んでいきます。
 メニューを眺めると、なんと梅干しのカラアゲというのがあります。食べたことがありません。えい、チャレンジしよう。運ばれてきたのはまさしく唐揚げです。タネがありますのでガブリとしないでくださいと注意されました。ハチミツ味で肉厚の大粒紀州梅を薄ころもに包んでカラリと揚げています。甘酸っぱく美味しい梅干しを4個も食べて、すっかり腹がくちくなりました。仕上げはサラダです。
 冷たいのより、温かいものはないかとメニューを探してみると、ありました。ベーコン入りキャベツの温サラダです。これまたアツアツのキャベツいためにベーコンが混じり、たっぷりマヨネーズがかかっていて、うひゃあ、いけますね、これって……。それでも、カラフェの赤ワインを少し残すたしなみはわすれることなく、店をあとにしました。ごちそうさま。
 
(2009年2月刊。1400円+税)

ホーチミン・ルート従軍記

カテゴリー:アジア

著者 レ・カオ・ダイ、 出版 岩波書店
 ある医師のベトナム戦争(1965~1973)というサブタイトルがついています。私が高校生、大学生そして司法修習生であったころ、あの過酷なベトナム戦争に従軍医としてジャングルのなかで戦った体験記です。先に紹介した「トゥーイの日記」(経済界)は若くして戦死してしまった女医の従軍日記でしたが、著者は幸いにもベトナム戦争を生き延びました。
 400頁近い大作ですが、東京そして秋田へ向かう飛行機のなかで、私は一心不乱に読みふけり、いつのまにか目的地に着いていたのでした。
 本書の全体を知るために、オビの解説をまずは紹介します。
 ハノイ第103病院に医師として勤務していた著者は、1965年、南の最前線であるラオス・ベトナム・カンボジア国境にまたがる中部高原戦線に特別の病院を建設する任務を命じられた。翌1966年、ホーチミン・ルートを行軍し、広大なジャングルに潜む野戦病院で医療行動を始めた。そこには、食糧・物資の欠乏、膨大な病死者そして戦死者、敵の猛襲のなかで、頻繁な病院の移転。これまで知られてこなかったホーチミン・ルートにおけるベトナム戦争の真実、ベトナム解放を戦った側の苦難の日々を卓越した観察力で描いた驚異のドキュメント。いやあ、本当に苦難、苦悩の日々です。たまりません。
 兵士が誇らしげに「インドシナを貫く戦略道路」と呼ぶホーチミン・ルートは1000キロメートルをこえる道路網からなる。ベトナム・ラオス・カンボジア国境にまたがるチュオンソン山脈の森林を縫う。1959年5月に貫通した。自動車道路があり、徒歩ルートが数キロメートル離れて並行して走っている。中継所キャンプの間隔は、徒歩で8、9時間だったが、その後5,6時間に短縮された。兵士は、自分の食べるお米を7日から12日分も携帯する。荷物を軽くしたいが、食べるものがなくなったときのことが心配だ。腹いっぱい食べたければ、重い米袋を担ぐしかない。そして、追わねばならない米があるのは幸せなのだった。
ジャングルのなかには毒キノコがあり、空腹のあまりに食べて喚き狂いながら森の中へ走り入る兵士がいた。
 ホーチミン・ルートの山と谷は、有毒な化学剤で裸になったものが多い。見事な緑の葉が数日のうちに褐色になって落ちる。
 徒歩旅行は、通常4、5日続け、その後一日休息する。休息日は水浴と洗濯だ。そのときの楽しみは将棋とラジオだ。ラジオは親友のようなもので、戦場で置き去りにすることはできない。早朝から寝るまで、誰もがラジオを終日聴く。どんな番組でも、選り好みはしない。
 ジャングルにはダニがいる。ダニを引き抜かず、尻を火に近づけると、ダニが熱さのために這い出て来る。それをつかむ。皮膚を焼かずにダニを焼くのがコツだ。
 森で道に迷うのは、初めて中部高原に足を踏み入れた者にとって恐怖の的だ。
 ジャングルが空襲されたとき、倒れていると、黒い大蛇が一匹、太さは腿ほど、竹のように長い奴が、頬をするすると這って森の中へ逃げて行った。
 ジャングルでは食料が乏しい。一か月以上も肉を食べていない。猿(テナガザル)や象を仕留めて食べる。環境保護を尊重するより、野生動物は貴重な栄養源だった。ニワトリを飼っているが、森一帯に響く雄鶏の鳴き声は、敵の注意を引くので、注意を要する。
 病院の設営にあたっては、居住部の部屋は少なくとも30メートルの間隔をとる。そして、一軒の丸太小屋に人々は6人をこえない。各科主任は別々の小屋に住む。一発の爆弾で、指導部全員を失わないための配慮だ。病院は患者で満員で、常時600人から800人いて、毎日増える。そして、マラリアで毎日4.5人ずつ死んでいく。
 食料を入れた倉庫は、20日行程も離れている。指揮官は、階級に応じてミルクと砂糖を配給された。歩兵大隊長あるいはそれ以上の中級将校はミルク2缶と砂糖0.5キログラム。中隊長以下の下級将校はミルク1缶と砂糖300グラム。普通兵士はミルクや砂糖がなく、他の品も配給が少ない。
 直面する最大の難問は、爆弾や銃弾による負傷ではなく、病気だ。中部高原はマラリアの風土で加えて食糧不足、引き続く重労働、それにアメリカ軍による有毒枯葉剤撒布の影響もあって、健康を損ねる。著者自身、マラリアにかかって震えながら外科手術を執刀した。戦場で死はたやすく忍び込む。中部高原での死因には32種類あった。多いのは、病気、爆弾、銃弾、倒木、溺死、毒蛇、毒キノコ、象、味方同士の誤射だった。爆弾、銃弾による負傷兵は、病院の患者の10%にすぎない。食糧不足とマラリアのはびこる環境による病気が多い。
 ハノイから送った1028個の梱包のうち、前線で受け取ったのは、わずか100個ほどにすぎなかった。しかも、なんと小説とか子供服といった不要不急の物が多くあった。
 森の中の少数民族は、「刀手二つの距離だ」と言う。これは、一方の手で刀を持っている間が距離を測る単位だということ。つまり、刀を一方の手で長くもっていて疲れると、一方の手に変える。これが距離の一単位となる。うへーっ、な、なんという距離の測り方でしょうか……。
 ジャングルの中でも、恋は芽生える。しかし、恋愛も結婚も、出産も、みんな延期すべし。これが政策だ。妊娠したら中絶するしかない。それでも、認められて結婚式をあげるカップルもいた……。
 「さらし者の子牛たち」。南の戦場へ行く途中で脱走し、後方へ戻される途中の若者たちを指す言葉。生涯を戦争に捧げる者がいる一方、嘘をついて逃げ、病気を過度に重くいう者がいた。うひゃあ、私なんか、この「さらし者の子牛」になった組ではないかと恐れます。
 カルテの紙がなければ、缶詰のラベルをはがして使う。竹の薄皮もつかえる。部品を集めてX線装置を組み立てる。自転車を看護師の女性がこいで、その灯で手術をする。発電機を動かすガソリンがないから、水力発電所をつくる。注射器やアンプルが欠乏したので、ガラス工場をつくる。敵の武装ヘリコプターをライフルで撃ち落とす。負傷兵に医師が自分の血を輸血する。
 すさまじいジャングルのなかの戦いが生々しく描かれています。ホーチミン・ルートの実情が、先の『トゥイーの日記』とあわせて、よくよく理解できました。よくも、こんな過酷な戦場から生還できたものです。ベトナム戦争に関心のある方に一読をおすすめします。
(2009年4月刊。2800円+税)

カラカウア王のニッポン仰天旅行記

カテゴリー:日本史(明治)

著者 荒俣 宏(訳)、 出版 小学館文庫
 ハワイの王様が、明治時代の日本を訪問したときの見聞録ですが、目新しい話が盛りだくさんでした。
 ときは明治の初めころです。ハワイにとても陽気で学問好きの王様がいました。カラカウア王といいます。いまも日本で流行のフラダンスを復活させた王様でもあります。
 カラカウア王は、カメハメハ大王によって成立したハワイ王国の最後の王です。その死後、妹のリリウオカラニ女王が誕生したのですが、アメリカ人がクーデターを起こし(1893年)王位を追われ、ハワイはアメリカ合衆国に併合されてしまいました。
 そして、このカラカウア王は世襲で王様になったというより、議会の投票によって民主的に選ばれた王様なのでした。ちなみに、先代のルナリロ王も選挙で選ばれています。日本でも幕末のころは、選挙でこそありませんが、将軍は有力幕臣が話し合って決めていたことを思い出します。
 投票したのは立法府の議員、場所はホノルル市裁判所。カラカウアが39票対4票の大差でアメリカべったりのエマ妃を破ったのでした。
白人が持ち込んだ病気によって、ハワイに住んでいたポリネシア人が次々に亡くなり、1778年に38万人いたのが、100年後には4万5000人になっていたのです。
 1881年(明治14年)3月、カラカウア王様御一行は江戸湾に入り、明治政府から盛大なる歓迎を受けたのでした。
 日本人は、フランス人のシェフがつくる料理なら何でも真似てつくれる。ただ、肉と野菜はヨーロッパのよりも味が落ちる。
 むふふ、これって、なんだか現代日本のフランス料理ブームを皮肉っているように聞こえてきますよね。つい、おかしくって笑ってしまいました。
 カラカウア王は、明治天皇と会い、肩を並べて歩いたりしています。
 明治政府がハワイの王様を最大限のもてなしで処遇したのは、欧米列強に押しつけられていた不平等な条約を改正したいという願望があったからでした。そして、日本政府の願望をハワイの王様はいち早く受け入れてやったのです。
 ハワイ政府は、条約問題に関して、日本帝国の主権を十分に理解し尊重し、現在の条約における治外法権的権利から生じる特権を、すべて放棄する。
明治政府は、この対応に大喜びしたのです。そして、カラカウア王は、明治天皇に対して、縁結びを提案したというのです。王の姪で、王位継承者であるカイウラニ姫を、明治天皇の親戚の親王の一人(東伏見宮彰仁親王)と結婚させようとしたのです。
 明治天皇は返事を保留して、御前会議を開いて検討しました。賛成意見が大勢を占めた時期もありましたが、天皇家に国際結婚の例がないこと、アメリカとの関係悪化を恐れて、翌年、正式に断りの返事を出しました。
 このとき、ハワイの王家と日本の皇室との結婚が成立していたら、ハワイ王国がアメリカに併合されることはなかったかもしれない。著者はこのように書いていますが、果たしてどうでしょうか……?
 日本の政治家は、世界に出しても立派に通用する能力を持っているなどと高く評価されています。この点は、現代日本とまるで違いますね。
 ろくに漢字も読めず、一時的なバラまきはしても、相変わらずアメリカのいいなり、というか、アメリカが核廃絶を提唱しても、それに賛成するどころか、唯一の被爆国であることも忘れて、アメリカに核の傘をなくさないようにと、ひたすら嘆願しつづける哀れな政府です。日本政府が世界平和のためのリーダーシップを発揮するのは、いつのことでしょうか。こんなていたらくなのに、常任理事国にだけは立候補し続けようというのですから、呆れたものです。絶版になっていた本なので、インターネットで注文して入手しました。
 歩いて5分とかからないところにホタルが飛び交うところがあります。今年はそこがホタルの里と名付けられて整備され、土曜日の夜、ホタル祭りがありました。
 行ってみると、例年以上に人が出ています。子ども連れの家族が押し寄せてきていました。携帯でパシャパシャとフラッシュをたきながら写真を撮っています。ホタルはうつらないんじゃないかなと心配もします。それより、ホタルがフワリフワリと明滅しながら空中を漂っている様を味わうべきと思うのですが、これは独りよがりでしょうか……。
 ホタルより見物の人間のほうが多いかなという冗談が冗談でないほどの人出でした。
 ホタルの里と整備されたというのは、道の両側に切った竹筒を並べ、その中にローソクを灯しておいたり、昼間は花壇をととのえていたり、という環境がつくり上げられたということです。私の好みにはまったく合いませんが、地元の人たちが良かれと思ってやったというのなら、黙っているしかありません。
 でも、あんまり人工的に整備しすぎるのは、大自然のなかをたゆたうホタルに似つかわしくない気がするのは私だけなのでしょうか……。
 
(2000年7月刊。676円+税)

スパイと公安警察

カテゴリー:警察

著者 泉 修三、 出版 バジリコ
 内外のスパイを尾行したり、摘発したり、公安警部としての自慢話が中心の本ですが、その反面、家庭は崩壊し、自律神経失調症になったり、アル中になったりと心身もボロボロになって、いやはや実に非人間的で大変な仕事だということも伝わってきます。
 過激派の手配写真も、実はニセモノがあったりするそうです。逃亡犯を安心させるためのテクニックなんだそうです。そっかー……、と思いました。
 外国のスパイを摘発するため、罪名がないときの別件逮捕を「引きネタ」と呼ぶことも知りました。その引きネタ探しに2年もかけることがあるといいます。ことの善し悪しはともかくとして、何事も地道な基礎作業の積み重ねだということなんですね。
 内閣調査室、外事一課(ソ連KGB対策)、公安三課(右翼対策)、公安特別捜査隊(中核派対策)、外事一課(国際テロ班々長)、など、警部補10年で要職を渡り歩いているとのことですから、それなりに有能だったのでしょう。
この本を読むと、著者は一匹狼的な性格があまりに強く、チームで動くことは苦手だったように思われます。すると、出世も当然のことながら遅れますよね。
 公安畑の警察官の仕事ぶりの一端を垣間見る思いのした本でした。
 
(2009年2月刊。1600円+税)

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