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スレブレニツァ

カテゴリー:ヨーロッパ

著者 長 有紀枝、 出版 東信堂
 1995年7月、ボスニア東部の小都市スレブレニツァはセルビア軍に攻められて陥落し、その後の10日間にムスリム人男性6000人が処刑された。犠牲者は今なお埋設場所さえ分からず、その半数が行方不明のままである。第二次世界大戦以来のヨーロッパ最悪の虐殺とされている。
 著者は、この事件発生当時、日本のNGOの職員として現地に駐在していました。その時の痛苦の体験もふまえて、学術的な考察を加えて出来上がった貴重な本です。
 2007年、スレブレニツァは、国際司法裁判所(ICJ)において、史上はじめてジェノサイドと認定された。ジェノサイドには、2つの局面がある。被支配集団の国民的パターンの破壊と、支配集団の国民的パターンの強制の2つである。
 ジェノサイドの語源は、民族・部族を意味する古代ギリシャ語ジェノスと、殺害を言いするラテン語サイドを組み合わせたもの。
 ユーゴスラビアは、次のような子どもの数え唄に象徴される複合国家であった。
 ユーゴスラビアは、7つの国と国境を接し、6つの共和国(スロヴェニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、セルビア、モンテネグロ、マケドニア)に、5つの民族(スロヴェニア人、クロアチア人、セルビア人、モンテネグロ人、マケドニア人)が住み、4つの言語(スロヴェニア語、クロアチア語、セルビア語、マケドニア語)を話し、3つの宗教(カトリック、ギリシャ正教、イスラム教)を信じ、2つの文字(キリル文字とローマ字)をつかう。だけど、一つの国なんだ。
 紛争前のボスニア・ヘルツェゴビナ共和国には、イスラム教のムスリム人(44%)、ギリシア正教のセルビア人(31%)、カトリックのクロアチア人(17%)が特定地域に偏在せず、あらゆる場所で混在しており、政治的にも物理的にも単純な3分割は不可能だった。
 ボスニア紛争時の国連軍の犠牲者117人のうち、フランス49人、イギリス25人となっている。
 メディアにおいては、ボスニア政府がアメリカの広告会社と契約を結んで、広報活動を旺盛にしたため、「セルビア悪玉説」が強い影響力をもち、そのことがセルビア人勢力を一層かたくなにさせていった。
 スレブレニツァにいた国連軍オランダ大隊430人は、3回にわたって航空支援を要請したが、いずれも却下され、セルビア軍の進攻を許してしまった。
 スレブレニツァにおけるジェノサイドの特徴は、国際社会の眼前での大量殺害の実行である。6000人にも及ぶムスリム人の殺害と遺体の埋設、時間をおいた発掘と大がかりな再埋設が組織的に実行されたことは、スレブレニツァの大きな特徴をなしている。
 犠牲者、行方不明者をかかえる遺族にとって、スレブレニツァは今もなお国際社会に見捨てられ、裏切られたという感情とともに慟哭の記憶が生々しい。
 セルビアの指導者(ムラディチ)は、スレブレニツァの陥落という予想外の事態を最大限に利用しつつ、スレブレニツァのムスリム人住民の追放を開始し、同時にムスリム兵の一掃を図ろうとした。その過程で発生した偶発的な事象の積み重ねが、ジェノサイドに発展したと推定される。スレブレニツァ・ジェノサイドは、事前の計画がなかった犯罪行為である。
 いったん発生したジェノサイドを、軍事力を行使して停止させる事には大変な困難がつきまとう。だから、ジェノサイドが発生する前の予防措置や早期の警戒が最重要の課題なのである。
 人道の敵は、利己心、無関心、認識不足、想像力の欠如にある。無関心は、長期的には弾丸と同じく、確実に人を殺すものである。
 この最後の指摘を、私たちは重く受け止めるべきですね。400頁ほどもあって、形も内容もずっしり重たい本でした。
 
(2009年1月刊。3800円+税)

ニホンミツバチが日本の農業を救う

カテゴリー:生物

著者 久志 冨士男、出版 高文研
 いやあ、日本にはニホンミツバチがいて、病気知らずで元気に飛びまわって日本の農業を支えてきたんですね。ちっとも知りませんでした。ミツバチと言えば、セイヨウミツバチとばかり思っていました。セイヨウミツバチは、人類と同じで、アフリカが発祥の地だそうです。
 ニホンミツバチはトウヨウミツバチの亜称。アジアの多湿な環境に強いトウヨウミツバチの中でも、さらに寒冷地に適しており、強健なミツバチだ。ニホンミツバチは病気にかからない。
 いまミツバチがいないと騒がれているのはセイヨウミツバチ。一群あたりの集蜜力が他の種に比べると抜群に高く、そのため世界中で飼われている。湿気に弱いため、病気にかかりやすい。人の手を離れたら、1年も生きていくのは難しい。だから野生化することはない。
 ニホンミツバチは生活力が強い。冬は、セイヨウミツバチよりも低い温度で仕事を始めるし、夏は日没後まで働き、暗闇の中を巣箱に帰ってくる。ただ、ニホンミツバチは、セイヨウミツバチのように女王蜂を人工的に産出して群れを増殖させたり、花粉媒介用として利用する技術は、まだ確立していない。
 古来、ニホンミツバチは日本の森林や農業を守ってきた。ニホンミツバチは野生種である。だけど、人間が優しく接すると、優しく対応してくれる。
 ニホンミツバチがいないのは、北海道と沖縄のみ。あとは、日本中どこにでもいる。
 ニホンミツバチを飼うのは容易である。ニホンミツバチは人に馴れるし、とてもおとなしい。面布や燻煙器も必要ない。
 ニホンミツバチは黒っぽい色の縞模様の幅が均等であり、上を向いてとまる。セイヨウミツバチは、腹部の中央部がオレンジ色で先端が黒く、下を向いてとまる。
 ニホンミツバチは、巣箱の中でお互いに寄りあって丸くなって過ごせるので、体温が逃げにくく、ミツも体温で柔らかくなるので、食べやすい。
 ニホンミツバチは一つの巣に平均5000匹いる。その半数が花蜜や花粉を集めに飛びまわる外勤。半数が巣づくりや子育てをする内勤。この仕事分担は生まれつきに決まっているのではなく、年齢ならぬ日齢で決まっている。
 初めは幼虫の世話をして、そのうち外から持ち込まれる花蜜の受け取りやら整理をし、やがて番兵となり、外勤になる。役割はフレキシブルで、必要に応じて変わる。
 女王蜂は1匹だが、1年前に生まれた女王と、今年うまれた女王の2種類がある。
 今年うまれの女王は護衛をともなって1週間ほど毎日、交尾飛行に出かける。このとき交尾をした雄蜂が多いほど産卵力が強い。女王蜂は2年間、毎日、数百個の卵をうみ続ける。そのための精子を1週間で貯めこむ。
 ミツバチの巣分かれは働き蜂の総意で決まることで、女王蜂はそれに従っている。何の卵をうむのかも女王が決めるのではなく、働き蜂たちが決める。
 働き蜂の寿命は忙しいときで2ヶ月、越冬ハチで4ヶ月。
 女王蜂が老齢化し繁殖力がなくなるときは必ずやってくる。それは突然やってくる。女王が誕生して2年数ヶ月後のこと。女王に繁殖力がなくなると、働き蜂は少しずつ数を減らし、王国は消滅に向かう。女王が何らかの事故にあっていなくなると、働き蜂たちは絶望し、生きる意欲をなくし、何もしなくなる。ニホンミツバチは、人間と同じように、愛と生き甲斐をもって生きる動物である。
 ニホンミツバチとは対話ができる。人に馴れ、仲直りすることもできる。最初の出会いが肝心で、これをパスしたら、敵ではないという認識が巣全体に共有され、その後は警戒されなくなり、少々のことをしても寛大に扱われる。
 ニホンミツバチは人間は認識するが、個人の認識まではしない。ニホンミツバチは巣内では、お互いの身体を接触させているので、一匹のハチの感情は瞬時に全体のものになる。
 うれしいときにはうれしそうな羽音を出し、いらだつときには苛立たしそうな羽音、怒ったときには甲高い羽音を出す。まるで人間と同じ心をもっているかのようだ。
 セイヨウミツバチは、いちど手荒く扱うと、いつまでも忘れないくせに、優しく扱っても、なかなかそれに応えてくれるようにはならない。ニホンミツバチのもつ知的能力はオオスズメバチとの戦いを通じて培われてきた。
 ニホンミツバチはオオスズメバチに集団で飛びつき、蜂球の中に取りこんで、体温を上げて5分で熱殺する。このとき44度にまで上がる。
 ニホンミツバチ養蜂が生業として成り立っていないのは、一群あたりの生産量がセイヨウミツバチの8分の1でしかないから。
 ニホンミツバチを長崎県五島で復活させた経験が紹介されています。ニホンミツバチをすっかり見直してしまいました。
(2009年7月刊。1600円+税)

もう一つの日露戦争

カテゴリー:日本史(明治)

著者 コンスタンチン・サルキソフ、 出版 朝日選書
 日本海海戦。東郷平八郎の対戦したロシアのバルチック艦隊の提督が、ロシアから日本海へ向かうまでの20日間に、ロシア本国にいる家族あてに出した手紙30通が残っていました。すごいことですね。しかも、その内容を読むと、ロシア側は敗戦必至を覚悟していたというのです。「無敵」と言われたバルチック艦隊のボロボロの内実があからさまにさらけ出されていて、憐れみと同情すら感じさせます。
 ロジエストヴェンスキー提督に対して、無残な敗北となった結果をふまえて、臆病者と激しくののしる声がロシア国内でかまびすしかったようですが、この本を読む限り、臆病者と決めつけるのはあたらないように思われます。ロシアのほうの皇帝以下、全般的な準備不足を提督一人の責任にしてしまうのは、公平を欠くというほかありません。
 バルチック艦隊がロシアを出たのは、1904年の10月2日。イギリスをまわり、ポルトガルを経て、アフリカをずっと南下していきます。南アフリカから喜望峰を経てマダガスカル島へたどり着いたのは、その年の暮れのこと(12月25日)。そして、ここになんと3月3日まで、2か月以上も滞留します。これも提督の意思によるものではありません。ロシア本国の指令なのです。そして、ようやくインド洋を経て、インドネシアからベトナムを経て、5月14日、ついに対馬海峡にたどり着きます。もうその頃には、バルチック艦隊は全員がへとへとの状態にありました。うへーっ、いくらなんでも、それでは勝てませんよね。
 日本との開戦前、クロパトキン陸軍相は、「朝鮮が原因でロシアが戦争をはじめるのは、ロシアにとって大きな災厄だ」と述べた。アレクサンドル皇帝は見直しを誤った。側近たちが皇帝の見直しを誤らせた。
 「日本には、戦争に打って出るだけの度胸がない」。このように、日本や中国との交渉では、一切の妥協を排する姿勢こそ最良の方法だとロシア皇帝は信じ込んでいた。ロシアは、戦争を望んではいなかったが、開戦したら勝利するとの見込みは持っていた。この戦争でロシアが勝てば、東アジアにおけるロシアの支配領域の範囲は大きく拡大するとロシア指導者の一部は想定していた。
 ロジエストヴェンスキー提督の個人的資質について、次のように高く評価する研究者がいる。
 彼は、部下が絶対的に信頼する司令官である。部下たちは、提督の勇敢さ、能力、人間性、持って生まれた清廉潔白さを疑うことはなかった。
 バルチック艦隊の実態について、アメリカの研究者(フォーク)は、次のように述べている。
 バルチック艦隊と呼べるほどの艦隊は存在しなかった。この艦隊には、未完成の新造艦もあれば、時代錯誤というべきオンボロ船も含まれていた。すべての船で、乗組員は訓練不足のうえ、定員も満たしていなかった。にわか作りで編成された艦隊は、種々雑多な艦船の寄せ集めにすぎず、これを文書の上に船の名前を並べ、軍事力として編成したに過ぎない。
 うひゃひゃ、そ、そういう実情だったのですね……。
 次に、ロジエストヴェンスキー自身の手紙を紹介します。
 「一歩すすむごとに問題が起こる。艦艇での故障、失策、拙劣な指揮、命令の不実行、無知、無能力、怠慢。この世に存在するありとあらゆる罪だ。なんとか蓋を閉めなければならない。次から次へと何かが起こり、もう耐えられないような状況だ。
 バルチック艦隊の艦艇のほとんどが長期航海の設備を整えておらず、石炭を十分に蓄えておけるだけの貯炭庫がなかった。一戦艦で、一昼夜に110トンもの石炭を消費したのに……。ひと言でいえば、今、目隠しで前進しているようなものだ。訓練も教育もない連中が、いったい何の役に立つのか、私にはわからない。それどころか、余計な負担であり、弱点になるだけだろう」
 艦隊には、反乱に近い騒ぎの空気が生まれていた。航海生活の厳しい諸条件、耐えがたい猛暑、炭じんに汚れる毎日の生活、ひどい食事がその背景にあった。しかし、最大の理由は、この先の航海に展開が開けないことだった。
 艦隊が崩壊しなかったのは、ひとえにロジエストヴェンスキー司令長官の功績だった。
 ロジエストヴェンスキーはあらかじめ弁解した。
 「私は悪党でもごろつきでもない。任務を遂行するために必要な人材、資材を与えられなかった司令官だっただけなのだ……」
 バルチック艦隊の前には、間違いなく破滅が待っていると確信していた。
 敗北は必至という予感にも関わらず、ロジエストヴェンスキーは目的地への航行を急いだ。間違いなくやってくる終焉を待つことの方が、終焉そのものよりも苦しいと感じていたのだ。次も提督が手紙に書いた言葉です。
 「マダガスカルに2ヶ月間停泊していたために、それから先の行動に蓄えておいた強力なエネルギーはすべて使い果たした。陸軍が完敗したという最新のニュースを知り、わが艦隊の乗組員たちの弱っていた精神力は、完全に参ってしまった。すっかり意気消沈してしまった者もいる」
 バルチック艦隊の大部分の指揮官たちは、無気力になるか、飲酒にふけるかのどちらかだった。ただ一人、ロジエストヴェンスキーだけが、思わしくない健康にもかかわらず、自分をしっかり律していた。彼だけが、艦隊内に生まれつつあった精神的瓦解をおさえることができた。
 ゴルバチョフ大統領の訪日団の一員であり、現在は日本で大学教授をしているロシア人の研究者による貴重な労作です。
(2009年2月刊。1500円+税)

裁くのは僕たちだ

カテゴリー:司法

著者 水原 秀策、 出版 東京創元社
 裁判員裁判がいよいよ始まります。なんと、裁判員が買収攻勢にあうのです。法廷が終わって、自宅に帰るまでをずっと尾行されていました。フツーの市民ですから、何の警戒心もなく、スーパーに寄り道するくらいで自宅に直行しますから、すぐに素性は分かってしまいます。そこに、「あいつを無罪にしてくれたら500万円やる。今すぐに300万円、成果が出たら200万円」、こんな声がかかったとしたら、どうでしょう。アメでだめなら、ムチもあります。
 「被告には有罪だ。死刑にしろ。死刑に出来なくても、出来る限り重い刑にしろ。さもないと、ただではおかんぞ」
 こんなアメとムチが裁判員に襲いかかったとき、裁判員のみんながすぐに裁判所か警察に届け出をしてくれたらいいのですが、どうするでしょうか……?
 この本は、『このミステリーがすごい!』大賞を受賞した人が書いています。なるほど、こんな誘惑(アメ)と危険(ムチ)があるのか、と改めて自覚させられました。
 裁判員選任手続のとき、裁判長が「テレビや新聞を見てもいいけれど、それによってこの裁判について予断を持たないようにしてください」と訓示した。もちろん、そんなことは無理だ。有罪が確定的であるかのような報道に繰り返し接していたら、影響を受けないはずがない。それは裁判長だって同じこと。いかにも、「とりあえず訓示はしました」という、いいわけ用の言葉と態度だった。なーるほど、そうも言えるのですね……。
 この本の主人公は、学習塾のチェーン店の責任者をしていますので、個人塾の実態についても語られています。本筋ではありませんが、面白い指摘です。
 個人塾というシステムは、ほとんどの子どもにとって成績を伸ばすのには向いていない。伸びるのは最初の2か月のみであって、あとはぱったり止まってしまう。競争のない所に成長はない。これは人類普遍の法則である。そのくせ、個人塾は授業料が高い。
 個人塾に求められるのは、成績の向上ではなく、安心である。親にとって子どもは自分の大切なペットなのだから。
 なーるほど、そういうことなんですかね……。
 この本の最後のナゾ解き部分は、私にはとてもついていけないと思いました。あまりに著者の都合にあわせているような、無理を感じました。
 ただ、裁判員裁判が始まり、いろんな市民が参加して、2時間も3時間も真面目に討議するというのは大変なことだろうと推察します。その予行演習の一つに、この本はなるのかなと思いました。
 
(2009年5月刊。1500円+税)

雪冤

カテゴリー:司法

著者 大門 剛明、 出版 角川書店
 横溝正史ミステリ大賞の受賞作だということですが、なるほど、ぐいぐいと惹きつけられます。神戸からの帰りの新幹線で一心不乱に読みふけりました。
 ミステリー小説ですし、犯人捜しは、いくつものドンデン返しがあって、意外な結末を迎えるのです。したがって、粗筋を紹介するのもやめておきます。ともかく、日本の死刑制度を考えさせる一作であることは間違いありません。
 ただ、最後の謎ときの段階に至って、やや落としどころが乱暴ではなかったかと気になりました。最後まで読者を謎ときに惹きつけ、その期待を裏切らず、また意外性を持たせるというのは、とにかく至難の業だとつくづく思います。
 この本は、司法試験に苦労して合格した人が出てきたり、61歳で弁護士稼業をやめた人が出てきたり、かなり弁護士業界の内幕を知っていないと描けないような状況描写がいくつもあります。もし著者自体がその位置にいないのであれば、かなり弁護士に取材を重ねたことでしょうね。
舞台は京都です。鴨川にホームレスがいて、同志社大学やら龍谷大学の学生たちも登場してきます。殺人罪で死刑囚となった息子をもつ61歳の弁護士が、主人公のような存在で登場します。
 最近、凶悪犯罪を犯した死刑だ、すぐに死刑にしろという風潮が強まっていますが、私はそれはとても危険だと考えています。この本では、死刑執行ボタンを押す国民を抽選によって有権者から選んだらどうかという案が真面目に提案されています。死刑制度を存置するというのなら、他人にやらせずに、自分が死刑執行ボタンを押し、人間が死んでいく姿を見届けさせるべきだというのです。実際には無理なことでしょうが、それを嫌がるようだったら、死刑制度について簡単に賛成してほしくないというのは、私の率直な気持ちでもあります。
 ミステリ大賞の選書の評が最後にのっていますが、さすがに、なるほどと思う評です。
 最後のどんでん返しの連続が逆効果としか思えなかった(北村薫)。
 多少の無理筋を押してでも、最後の最後までどんでん返しを出そうとする本格ミステリ的結構に作者の心意気が感じられた(綾辻行人)。
 まことに、ミステリー小説を書くというのは難しい人生の作業だと思います。つくづくそう思いながら、私も及ばずながら似たような小説に挑戦中なのです。乞う、ご期待です。
 
(2009年5月刊。1500円+税)

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