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ワルシャワの日本人形

カテゴリー:ヨーロッパ

著者 田村 和子、 出版 岩波ジュニア新書
 ポーランドの人々は日本に対して親近感を持っているそうです。
 第二次大戦前のポーランドで、オペラ『蝶々夫人』が演じられ、プリマドンナをつとめた歌手のテイコ・キワ(喜波貞子)の大ファンとなった女性がナチス・ドイツに捕まり、獄中で可愛らしい日本人形をつくり、今もそれが残っているというのです。不思議ですね。
 実は、この女性はナチスに対するレジスタンス運動に加わっていました。レジスタンス組織は後にワルシャワ蜂起に立ちあがったのです。
 獄中で親切な女性看守がいて、日本人形をつくるのを援助し、身内に届けてくれました。その看守もレジスタンスの一員でした。あとでつかまりましたが、戦後まで生き抜きました。
 ワルシャワ・ゲットーに閉じ込められていたユダヤ人は、1943年4月、3000人の兵士に指令を出して蜂起した。ナチスに包囲攻撃されたからである。1ヶ月後、鎮圧されてしまった。
 そして1年後の1944年8月、今度はゲットーの壁の外でワルシャワ市民がドイツ占領軍に対する武力闘争に立ち上がった。ワルシャワ蜂起である。2ヶ月あまりの戦闘の末、蜂起軍は降伏した。ソ連軍は対岸まで進出していにもかかわらず、何の援助もしなかった。
ワルシャワ・ゲットーには、かの有名なコルチャック先生も子どもたちと一緒に生活していた。ゲットー内には14歳未満の子どもが10万人(住民の4分の1)いた。
 1942年8月6日朝、ナチスは「孤児たちの家」に押しかけてきて、子どもたちの移送が始まった。200人の子どもはコルチャック先生を先頭にして行進を始めた。
 この日、4000人の子どもたちがトレブリンカ絶滅収容所に移送されたのである。
 コルチャック先生はナチスによる特赦をはねつけ、子どもたちと運命をともにした。
 ワルシャワ蜂起には、大勢の若者そして子どもたちが少年レジスタンス兵として参加した。そのなかに孤児部隊という別名を持つ特別蜂起部隊イエジキがあった。部隊長となったイェジは、当時29歳の青年である。イェジはロシア領内のキエフスに生まれ、シベリアで孤児となった。ポーランド人孤児を救済する組織がつくられ、日本赤十字の協力で375人の子どもたちが日本にやってきた(1920~1921年)。そして、翌年までにアメリカ経由でポーランドに戻っていった。さらに、1922年にも同じように390人の孤児が日本にやってきて、健康を回復してポーランドに戻って行った。そのなかに先ほどのイェジがいた。イェジは、ポーランドに戻ってから日本の交流を目的とした「極東青年会」をつくった(1928年)。
 イェジは、失敗したワルシャワ蜂起を生きのび、1991年5月に亡くなるまで、日本の歌を覚えていたそうです。ワルシャワ蜂起と日本とのつながりを、こんな形で知ることができました。
 
(2009年9月刊。740円+税)

寂しい写楽

カテゴリー:日本史(江戸)

著者 宇江佐 真理、 出版 小学館
 東洲斎写楽とは、いったい何者なのか。江戸時代、寛政の世に忽然と現れ、わずか10ヶ月で消えてしまった写楽をめぐって、さまざまな推理がなされています。この本は斉藤十郎兵衛を写楽だとしています。
 老中松平定信の行った寛政の改革は、芝居とも無縁ではなかった。市村座、森田座、中村座の座元と関係者が北町奉行所に呼ばれ、芝居興行における厳しい通達を受けた。要するに役者の衣装などを質素にしろということだった。それに反した役者は奉行所に連行され、派手な着衣を没収されたうえ、5貫文の罰金刑を受けた。
 また、芝居は午後四時(夕七つ)までとし、明かりを灯しての興業は禁じられた。
 東洲斎写楽の本業は能役者だった。名前は出版社である蔦屋の主人がつけた。
刷りは二百枚単位。版木には耐久性が求められる。人物の型紙を置き、にかわにスミと雲母を混ぜた絵具を刷毛で塗る。雲母(キラ)摺りは、絵具が渇くに従い、独特の光を放つ。
 9種類にもおよぶ工程は、摺師が長い間に創意工夫をこらしたものである。
 滝沢馬琴、山東享伝、歌川豊国など、よく知った人たちが登場してきます。
 斉藤十郎兵衛。斎藤をひっくり返せばとうさいとなり、その間に十郎兵衛の「十」を入れると、まぎれもなく東洲斎となる。
 乙粋(おついき)という言葉が登場します。初めて聞く言葉でした。写楽の役者絵は乙粋だったが、商売にならなかった。このように語られています。
 江戸の文化の香りが、そこはかとなく伝わってくる本です。
 
(2009年7月刊。1500円+税)

「二十歳の戦争」

カテゴリー:ヨーロッパ

著者 ミケル・シグアン、 出版 沖積舎
 ある知識人のスペイン内戦回想録というサブ・タイトルのついた本です。
 私は20歳のとき、東大闘争の渦中にいて、いわゆるゲバルトの最前線に立っていたことがあります。もっとも、相手も私もせいぜい角材しか持っていませんでした(なかには鉄パイプとか、釘のついた角材を手にしていた人もいましたが、幸いなことに私は見かけただけで、直接むかいあうことはありませんでした)。はじめはヘルメットもかぶっていませんでした。飛んできた小石が頭に当たり、真っ赤な血が出て白いワイシャツをダメにしたことがあります。しばらく頭に包帯を巻いていましたので、過激派学生と間違えられていやでした。
 この本を読むと、私たちの学園闘争があまりにも子供じみた牧歌的なものであることを自覚させられ、苦笑せざるをえませんでした。それでも、当時、私たちは真剣でしたし、闘争の渦中に過労のため身近なクラスメイトが急性白血病で亡くなったり、精神のバランスを喪って入院したりということは起きていました。
 東大闘争では、ともかく学生に死者を出すなということが至上命題だったことをあとで知りました。東大を舞台とした内ゲバ(全共闘内部のセクトの武力抗争)でも、幸いにして東大では死者は出ませんでした。ただし、あとで内ゲバによって多数の死者が出たのはご承知のとおりです。
 この本は、学園紛争どころではなく、スペイン内戦です。ナチス・ドイツの後押しを受けたフランコ軍と、ソ連の後押しも受けた共和国政府軍が戦争したのです。戦争ですから、当然のことながら双方大量の兵士が戦死しています。
 スペイン内戦は特異な戦争だった。スペイン人がスペイン人を相手に戦った内戦であり、敵味方の陣営が、それぞれ簡単には説明しきれないほど複雑な構成になっていた。
 一方の陣営は反乱を起こした軍人たちで、王制にとってかわった共和制政府に対してクーデターを仕掛けた。それを支持したのがカトリック教会や伝統的な保守勢力。そして、当時台頭しつつあったファシスト勢力のファランヘ党であった。
 もう一方の陣営は、共和国の合法性を擁護する勢力と社会革命を標榜する勢力だった。その中には、無政府主義者もソ連流の共産主義者もいた。そのほか、カタルーニャとバスクの自治を求める勢力も一員だった。
 20歳の著者は、大学生として共和国軍に身を投じた。1937年12月のこと。軍隊に一兵卒として入隊した。著者は学生のとき、カタルーニャ学生連盟の書記長だった。そして、コミュニスト・グループと戦った。しかし、アナキストは知らなかった。マドリッドから敗退してきた共和国軍がテルエルの戦いで激戦のあげくに敗れてしまった。
そのあとの戦線膠着状況で過ごす日々が淡々と描かれています。兵士の辛さが良く分かります。
 そして、テルエルの戦いで敗れたけれど激戦を戦い抜いた兵士たちが後方で休息しているとき、直ちに前線復帰命令が出され、それを拒否した兵士50人が銃殺されたという話が紹介されています。指揮官の命令違反は死刑だというわけです。戦争とはこんなにむごいものなのですね。勇敢な兵士を仲間が処刑してしまうというのはやりきれません。
スペイン内戦の内情を20歳の一兵士の目を通して知ることのできる貴重な本です。
 著者は今年91歳で、今なお、お元気のようです。
(2009年9月刊。3500円+税)

憲法9条と25条、その力と可能性

カテゴリー:社会

著者 渡辺 治、 出版 かもがわ出版
 この本を読みながら、何度も、なるほど、そうなのか、そういうことだったのかと思いいたり、また何かしら元気が湧いてきました。久々に空気の入る思いがしました。空気が入るとか、空気を入れるというのは、私の学生のころに流行していた言葉です。少しばかり元気のない状態にカツを入れて、闘争心を取り戻す、取り戻させることを指す言葉です。
 先日、著者の講演を聞き、そのあとにこの本を読んだのですが、とてもよく分かる本でした。さすがだと感心、感嘆してしまいました。
 民主党は、かつて論憲から創憲といって、改憲を明記していた。ところが、今回の選挙では争点とすることを避けた。ただ、これは自民党も同じだった。いずれも、今、選挙のときに改憲を打ち出すのは国民受けしないという判断からだった。
 鳩山首相は、民主党切っての改憲派であり、祖父鳩山一郎以来の悲願でもあったが、いま改憲を言いだせない状況に置かれている。
ところで、憲法9条や25条は形骸化しているのではないか、役に立っているのか、機能しているのかという疑問を持つ人は多い。9条は日本の自衛隊の海外派兵のときに隠れ蓑として使われているだけではないのか……。
 しかし、よく考えてほしい。もし、9条や25条が醜い現実を覆い隠すイチジクの葉の役割しか果たしていないのなら、なぜ、政府・自民党は必死に改正を目ざしてきたのか。やはり、憲法9条が戦争や貧困を拡大するような政治にとって大きな壁になっているから、また25条が醜い現実を変え、人間らしい暮らしを実現するための武器になっているからだ。
 現実に起きている権利侵害や不平等を座視しているような市民にとっては、憲法がどうであろうと関係がない。しかし、ひとたび現状に不満をもち、それを直そうと立ち上がろうとしたときには、大きな違いが出てくる。立ち上がった人間にとって9条や25条のあるかないかは、雲泥の差がある。そして、そこで確保された人権は、立ちあがった市民だけでなく、立ち上がらなかった広範な人々にも及ぶのである。
 なーるほど、ですね。よく分かる指摘です。
 憲法9条は、もともと東アジアの平和保障のためにつくられたものである。マッカーサーは、非武装条項を単なる理想ではなく、平和保障のための実効的な枠組みとして考えていた。
 先日、アメリカのオバマ大統領がノーベル平和賞を受賞しました。プラハ演説で核廃絶を呼びかけただけで、まだ何の実績もないのにおかしいと批判する人もいますが、私はそうは思いません。1994年、佐藤栄作首相が日本人として初めてノーベル平和賞を受賞しました。非核三原則を堅持する決意を再三言明したことが評価されたからです。核兵器を造らず、持たず、持ち込ませずという非核三原則が実態にあわないものであることは、ノーベル委員会も認識していたと私は思います。それでも、この非核三原則は大切なことなんだ、それを再三、日本の国会で明言したことは、内実がどうであれ評価すべきことなんだというメッセージが発せられたわけです。私は、大賛成です。これが佐藤首相はからめとられて、建て前どおりの行動を余儀なくされたのです。核密約の内実が今明らかにされていますが、現実に合わせて理想を変えたり、捨ててはいけないのです。
 もう一つ。日本の防衛予算は世界の中でも突出して大きいものです。ところが、GNPのなかに占める割合は下がり続けています。そして、海外侵攻用の兵器は持てませんし、軍需産業には大きな制約が課せられています。しかし、このことが日本企業の競争力を強化し、東南アジア諸国の警戒心をゆるめていったという大きな効果もあげたのです。
 この本を読んで本当に勉強になりました。一人でも多くの人にこの本が読まれることを心から願っています。
 
(2009年10月刊。1700円+税)

中流社会を捨てた国

カテゴリー:ヨーロッパ

著者 ポリー・トインビー、デイヴィッド・ウォーカー、 出版 東洋経済新報社
 イギリスについて書かれた本です。初めにイギリスの富裕層の暮らしぶりの一端が紹介されます。
 3675万円の時計、94万円のショール、60万円のバッグなどの広告が富裕層向けの新聞広告にあるそうです。買う人がいるわけです。
1997年に労働党が政権についてから、上位10%のもつ個人資産が全体に占める割合は、47%から54%に増えた。
イギリスとアメリカでは、親が裕福だと子どもも裕福になる傾向にある。
1979年、サッチャー政権は誕生すると同時に、所得税の最高税率を83%から60%へ引き下げた。1988年にはさらに40%へ下げられた。
 イギリスの億万長者54人の資産合計は18兆9000億円であるのにもかかわらず、所得税として納めたのは、わずか22億円ほどでしかない。うち32人は所得税をまったく納めていない。高額所得者たちには、自分たちより質素な生活を送っている人々を思いやる姿勢、共感する姿勢が欠けている。資産を持つ喜び、我が子がすくすくと成長を遂げていく喜び、これらを高額所得者のみが独占していいはずがない。
 会社の取締役たちは、マリー・アントワネットも赤面するような巨額な報酬を受け取っている。
 2007年の会社トップの平均報酬額は1億1055万円。これに、ボーナス・年金・ストックオプションが加わる。だからトータルでは平均4億8000万円になる。
 2003年に13%の上昇、2004年に16%増、2005年に28%アップした。2000年から2007年にかけて、実に150%増となった。
 トップに高額報酬が支払われると、企業の効率性が上がるというのは事実に反する。かえって、それが知れ渡ることにより、不満が社内に充満する。
 報酬引き上げの背後には、自らも莫大な利益にあずかるコンサルタント企業の活躍がある。このような過大な報酬は、1980年代にはじまった。
 地位を脅かされた猿が健康を害するのと同じように、おとしめられたものは、猿であれ人間であれ、健康を害する。ですから、ホームレスになった人は長生きできません。あまりにストレスが大きいからです。
 貧困線を下回る家庭で育った子どもは、赤ん坊のうちに死亡する率が平均の3倍、事故で命を落とす確率が5倍、心を病むリスクも高く、寿命も短い。
イギリスの全世帯の中で自前の交通手段を持っていないのは27%。家を持っていない世帯と同じ。26歳を過ぎてバスに頼っているのは、落伍者のしるしである。
 かつて公営団地には技能と意欲を持った労働者階級が住み、団地は活気に満ちていた。だが、彼らは金を貯め、他の土地に自分の家を買って出て行った。不動産を保有しているかどうかは、階層を分ける指標となる。
 イングランドでは400万人が低所得者用賃貸住宅に住んでおり、その多くを占める団地では貧しい年金生活者と子どもの割合が飛びぬけて高い。賃貸住宅に住む人の3分の2以上は、行政から何らかの援助を受けている。イギリスの人口の5分の1にあたる1300万人近くが、政府のいう貧困線を下回る世帯所得で暮らしている。子どもの貧困の第一原因は、親が結婚していないことではなく、親が受け取る給料が低いことにある。
4歳までに、専門職家庭の子どもなら自分に対して発せられた言葉を5000万語、聞く。労働者家庭の子どもは3000万語、福祉家庭の子どもは1200万語だった。すでに3歳の時点で、専門職家庭の子どもは福祉家庭の両親よりも多くの語彙を持つ。
3歳の時点で、専門職家庭の子どもは肯定的な言葉を70万回かけられ、否定的な言葉は8万回だった。福祉家庭の子どもは肯定的な言葉が6万回、否定的な言葉は12万回だった。
言葉で愛情を注ぎ、きちんと褒め、物事の理由を教え、説明する。これを何百万回と繰り返すことで脳は成長し、心は開く。こうした大切な経験を与えられなかった子供たちの可能性はひからびていく。3歳児の到達度が9歳から10歳にかけての状況をきわめて正確に予言している。
いやあ、なるほど、なるほど、そうだろうなと、つくづく私は思います。それでも、こんな数字をあげられると、思わずわが身も振り返ります。
階層を上昇できるかどうかは、当然ながら、お金のあるなしにかかっている。10代のころに貧しいと、人生の展望は暗い。貧しい10代を過ごした大人は、たとえ30代で貧困から抜け出しても、中年になると貧困状態に戻っているリスクが高い。
今や、人の経済的将来を左右するのは、能力ではなく、バックグラウンドである。どんな能力の子どもでも、その子が学校にとどまり、試験を受け、教育の梯子をあがっていくかどうかは、親の社会階層と密接に関わっている。
イギリスについての本ですが、今の日本にとっても大いに参考になる本だと思いました。
金曜日に日比谷公園を歩きました。前日に雨が降ったおかげで青空は澄み切っていて、黄金色の銀杏の葉が光り輝いていました。大勢の人が写生にいそしんでいました。そのなかの一人の絵描きさんに、見事な出来ですねと声をかけたほどです。
 銀杏の葉が道路にたくさん落ちて黄色いじゅうたんとなっていました。紅葉の方は少し色あせていました。
 師走にしては暖か過ぎるほどです。
 
(2009年9月刊。2000円+税)

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