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エレーヌ・ベールの日記

カテゴリー:ヨーロッパ

著者 エレーヌ・ベール、 出版 岩波書店
『アンネの日記』のフランス版ともいうべき本です。アンネ・フランクと同じころにアウシュヴィッツ強制収容所に入れられ、終戦によって収容所が解放される直前(5日前)に殺されてしまった若いユダヤ人女性の書き遺した日記です。24歳でした。顔写真を見ると、いかにも知的な美人です。日記の内容も実によく考え抜かれていて、驚嘆するばかりでした。
 訳者あとがきに、戦争を引き起こし、「愛国心」やら「勇敢」の名のもとに踊らされる人間の愚かさに絶望しつつも、「公正」を求め続ける。身の危険が迫るなか、文学を糧にして哲学的な思索を深めていく精神性の高さに、読者は深い感銘を受けるだろう、と書かれています。まさにそのとおりですが、フランスでは、以外にもかなりのユダヤ人が生き残ったことを知りました。
 1940年にフランスに住んでいたユダヤ人35万人のうち、75%が大虐殺のなか生き延びた。ポーランドは8%でしかなく、オランダの生存率は25%だった。
 このフランスにおける高い生存率は、国内でユダヤ人をかくまい助けたフランス人(「正義の人」と呼ばれた)のおかげである。そして、ユダヤ人の子どもの85%が生き延びることができた。有名な歌手であるセルジュ・ゲンズブールも、子ども時代にユダヤ人であることを隠して生き延びた。ええっ、そうだったんですか……。ちっとも知りませんでした。
ああ、でも、私はまだ若いのに、自分の生活の透明さが乱れるなんて不当だ。私は「経験豊か」になんてなりたくない。しらけて幻想なんか捨てた年寄りなんかなりたくない。何が私を救ってくれるのだろうか。
 私は忘れないために急いで事実を急いで記している。忘れてはならないから。
 人々に逃げるように警告した何人かの警官は、銃殺されたという。警官たちは、従わなければ収容所送りだと脅された。
 勇気を持って行動すると、生命を失う危険のある日々だったわけです。
 結局のところ、書物とは、平凡なものだと理解した。つまり、書物の中にあるのは、現実以外のなにものでもない。書くために人々に欠けているのは、観察眼と広い視野だ。
 私が書くことを妨げ、今も心を迷わせている理由は山ほどある。まず、無気力のようなものがあって、これに打ち勝つのはとても大変だ。徹底的に誠実に書くこと、自分の姿勢を曲げないために、他の人が読むなどとは絶対に考えずに、私たちが生きている現実のすべてと悲劇的な事柄を言葉で歪めずに、その赤裸々な重大さのすべてを込めながら書くこと。それは、たえまない努力を要する、とても難しい任務だ。
 要するに、この時代がどうであったか、あとで人々に示せるように、私は書かなければならない。もっと重要な教訓、さらに恐ろしい事実を明るみに出す人がたくさん出てくることは分かっている。
 私は臆病であってはならない。それぞれ自分の小さな範囲内で、何かできるはず。そして、もし何かできるなら、それをしなくてはならない。私にできることは、ここに事実を記すこと。あとで語ろうとか書こうとか思ったときに、記憶の手掛かりとなる事実を書きとめることだけだ。
 人生はあまりに短く、そしてあまりに貴重だ。それなのに今、まわりでは犯罪的に、あるいはムダに、人生が不当に浪費されているのを私は見ている。何をよりどころにしたらいいのだろうか。絶えず死に直面していると、すべては意味を失う。
 今、私は、砂漠の中にいる。「ユダヤ人」と書くとき、それは私の考えを表してはいない。私にとって、そんな区別は存在しない。自分が他の人間と違うとは感じない。分離された人間集団に自分が属しているなんて、絶対に考えられない。
 人間の悪を見るのは苦しい。人間に悪が降りかかるのがつらい。でも、自分が何かの人種や宗教、あるいは人間集団に属しているとは感じないために、自分の考えを主張するときに、私は自分の議論と反応、そして良心しか持たない。
 シオニズムの理想は偏狭すぎると私には思える。
 きのう(1944年1月31日)は、ヒトラー政権が出現して11年目の日だった。今では、この体制を支えている主要な装置が強制収容所とゲッシュタポであることが良くわかった。それが11年も…。一体誰が、そんなことを賞賛できるのだろうか。
 エレーヌ・ベールの知性のほとばしりを受け止め、私の心の中にある邪心が少しばかり洗い清められる気がしました。一読をおすすめします。
 フランス語を勉強している私としては、原書に挑戦しようという気になりましたが……。
 
(2009年10月刊。2800円+税)

回想の松川弁護

カテゴリー:司法

著者 大塚 一男、 出版 日本評論社 
 松川事件が起きたのは、1949年8月17日のこと。私は生まれたばかりで、まだ1歳にもなっていませんでした。今では完全な冤罪事件であり、被告人とされた人々が無実であることは明らかなのですが、警察は事件直後から共産党の犯行だと大々的に宣伝したのでした。これによって、当時の国鉄や東芝の組合運動、当時は今と違って労働運動に力があったのです、は大打撃を受けてしまいました。
 そのデマ宣伝をした新井裕・福島警察隊長(今で言う県警本部長)は、その後、左遷されるどころか、ついには警察庁長官にまで上り詰めた。もう一人。被告人からデタラメな「自白」調書をとった辻辰三郎検事も、検事総長にまでなった。
 これって実に恐ろしいことですよね。これでは警察も検察も反省するはずはありませんね。シロをクロと言いくるめた人間が、それが明るみになっても出世していくという組織では、自浄作用を期待するのが無理でしょう。問題は、それが60年も前のことであって、今では考えられもしないことだと言いきれるかどうかです。私は言いきれないように見えます。最近のマンションへのビラ配布をした人を捕まえて23日間も勾留したというのも恐ろしいことではありませんか。
 松川事件について、警察庁(当時の国警本部)は、盗聴器を警察署内の弁護人接見室にすえつけたが、弁護人らに警戒されてはっきり聞き取れず効果がなかった、と反省する報告書を部外秘で作成した。
 ええーっ、と思いました。今でも、警察の面会室において、否認事件のときには立ち聞きされているんじゃないかと心配することがあります。留置所は弁護人にとって夜でも面会できるし、被疑者も煙草を吸わせてもらえるなど便宜の良い半面、こんな怖さがあるんですよね。
 最近でも、全国刑事裁判官会同をやっているのか知りませんが、かつてはよく開かれていて、法曹会出版として公刊もされていました。
 1954年に松川裁判で第二審・有罪判決を出した鈴木禎次郎裁判長が丸一日、裁判官合同で報告したということです。この鈴木裁判長は、有罪判決を言い渡すとき、「本日の判決は確信をもって言い渡す」との前口上を述べたことでも有名です。ところが、被告団が猛烈に抗議すると、たちまち、「真実は神様にしか分かりません」と逃げたのでした。実のところ、主任裁判官は無罪の心証を持っていて、もう一人の裁判官と鈴木裁判長も、有罪とする被告人の数が異なっていたというのです。ここまで評議内容が外部に漏れるのもどうかと思いますが、それはともかく、当時のマスコミは鈴木裁判長をあらん限りにほめたたえたそうです。マスコミもひどいとしか言いようがありません。権力迎合のマスコミほど、情けないものはないですよね……。
 被告・弁護団が不当な有罪判決に対して即日上告したのに対して、当時のマスコミが「望みなきもの」と非難し、松川裁判を批判していた広津和郎氏などを揶揄していたというのも許せません。マスコミの事大主義的な態度は、今もときどき露見しますよね。
 無実の人々が14年間も戦い続けて、やっと無罪判決を勝ち取った事件を弁護人として担当した著者が振り返っていますが、今日なお大いに学ぶべきものがあると思いました。
(2009年10月刊。2500円+税)

須恵村の女たち

カテゴリー:社会

著者 ロバート・J・スミス、エラ・L・ウィスウェル、 出版 御茶の水書房
 戦前、日本語のできるアメリカ人の学者夫婦が、熊本県人吉市近くの須恵村で1年間にわたって生活して、村の生活実態をじっくり観察した記録ですが、驚くばかりの内容になっています。驚嘆したという言葉こそ、この本の読後感にふさわしいものはありません。
 須恵村の人口1663人、285世帯からなっていた。
 女たちは従属的な地位を占めていたが、女たちは必ずしも、彼女らがそうすると思われていたようには行動しなかった。たしかに、女たちは村の行政のことには、なんら役割を持っていなかったし、家庭でも夫に仕えるという標準的な型に従っていた。しかし、男たちとの日ごろの付き合い、労働の分担、社交的な集会、飲酒、おしゃべりでの役割において、須恵村の女たちは確かに、日本のどんな都市に住む女性よりも、はるかにずっと自由に行動していた。
 その関係はより平等であって、女性は農民、漁民、商人、職人の家という経営体への直接的な貢献ゆえに、はるかに力を持っていた。
 男性がいるときでも、話には制約はない。まったく奔放で、好奇心が強く、物おじせず、はっきりものをいう点で、須恵村の女たちは、強く自分の意見を主張し、外の世界の生活のある特定の側面について好奇心を持ち、噂話をするのに熱心で、若い外国からの訪問者に、養蚕の技術から夫婦生活のもっとも個人的な詳細にいたるまで、すべてのことを教えることに興味を持つ人たちとして現れる。
 かつて花嫁が処女であることに重要性がおかれなかった。昔は多くの離婚や再婚があったが、いまでは事態は変わってしまった。かつては、結婚式は極端に簡素で、それ自体あまり意味をもたなかった。女の子は新しい家でなにか気に食わないことがあれば、家に帰ってやり直すことができた。花嫁の純潔は重要なこととはみなされていなかった。これが、何回も結婚した年寄りの女性が多い理由である。しかし、今では結婚は丹念に作られた事柄になり、女の子もそれを軽く見なくなり、また、簡単に離婚しなくなった。
 昔は結婚はどちらかといえば簡単に行われるものだったので、離婚もそんなに深刻な問題ではなかった。持参金の額もすごく大きくなり、結婚式の費用も多額になったので、離婚についても、夫と妻の両方がその手順をそんなに軽々しく考えなくなり、その解決のために二人が深くかかわるべき問題である、と広く認められるようになった。昔は、一家族に七度または八度くらい離婚があっただろう。以前は婚礼は極めて簡単で、人は五円で結婚できた。それが離婚がそんなに多かった理由で、5円あれば料理屋か、売春宿に行くか、あるいは結婚することができたのだ。その結果、人々はそれほど考えもせず、結婚を破棄した。しかしいまでは、極めて多額の金を結婚に注ぎ込むので、離婚する前に、長い間考えることになる。
女が肉体的に強く、良い働き手であるならば、前の結婚で生まれた小さな子どもたちを持っているという事実でさえ、再婚にとっての打ち勝てない障害ではなかった。
 女性主導型の離婚が多いことの背後には、別の夫を見つけることが極めて容易だということがある。たびたび結婚する女性の多くは、嫌いだと言うことで簡単に男を見捨てた。その男とは過度の酒飲みか、妻を虐待するか、その母親と彼女がうまくやっていけない、という人であった。
女たちの何人かは、自らの資産を持っていたが、それは彼女たちに、財産を持たない人々を拒否する自由を、ある程度与えた。しかし、家庭内の諸条件のために我慢しなければならない限界を知っている、自立心があり、意志の強い女性が多くいるという事実は、無視できないものである。そして、その限界が踏み越えられたとき、彼女たちは夫のもとを去るか、夫を見捨てたのである。
 居心地のよくない結婚生活の環境にもかかわらず、そこにとどまっているものは、夫の領分に侵略することで家を支配していた。結局のところ、強い女たちと同様、弱い男たちがいたのである。男が無能で、先見の明がなく、怠け者であるか、さもなければ家族の中の  事態を管理するのに適していないことがはっきりしたときは、妻がとってかわって、大変うまくやることがある。
われわれは、酒をたくさん飲む妻、意地悪ばあさんである妻、あるいは姦婦として広く知られている妻に出会ったが、これらの妻は、長い間それを耐え忍んできた夫によって離婚されることはなかった。
 彼女たちは、タバコ、酒、性に楽しみを見いだしていた。性的な関係についての話は率直で、隠しだてのないものだった。結婚した女性はときどき不貞を働いたが、それは、そのような行為をするのは通常、夫だけだと言うこの時代の日本において一般に承認された認識ときわだった対照をなすものだった。さらに注目すべきことは、不貞の関係を知った夫によって、妻が離婚されるとは限らない。
寡婦たちは、恋をあさる夫たちと未婚の若い男たちにとって、いいかもとみなされ、またそうであることが証明されていた。
 なぜ男たちは不貞の妻を我慢したのか。どのようにして、離婚した女性は、別の夫をそんなに簡単に見つけられたのか。その解答は、少なくとも部分的には、当時の小さな小売商の家や農民の家が要求していた労働力の性格のなかにある。後者にとっては、協同的な労働集団や労働の協同は、たしかに田植や稲刈りのような忙しい季節には、きわめて重要であった。
 離婚、再婚の非常に多くが、とても狭い地理的範囲で起きていること。近くの隣人同士である人々は、驚くほど多様な組み合わせで、一度またはそれ以上結婚している。
 年とった男女は、しばしば、自分たちだけで結婚を取り決めていた。
 仲人の役割は結婚の取り決めにとって極めて重要であるが、同時に離婚の解決においても大変重要だった。花嫁ないし婿養子の持ってきた全財産は返される。結婚後、夫婦で手に入れた財産は分けられる。
婚礼も盛大で費用がかかるので、離婚による解決もずっとむずかしくなった。今日、離婚率は1935年のそれよりは少し高いが、須恵村の老婦人の若いころに比べればずっと低い。1883年に人口千人あたりの離婚率は3.39だった。1935年にはそれは0.70に下がった。1884~88年の結婚に対する離婚の比率は1:0.37であり、1934~35年には1:0.08だった。1978年の離婚率は1:0.87だった。
貧しい家や結婚を急がなければならない理由のある家でおこなわれる、もっとも一般的な結婚の形式は、最小限の費用とおひろめですますものだった。それは三日加勢(三日間の労働)と呼ばれる、一種の試験結婚である。
妻は、夫からの財政的自立を、文字通りまったく認められていなかった。夫は家計のほんの一部を除いて、すべてを管理した。しかし女たちはあきらかに、いくらかの個人的な現金を所有している。女たちは、絹の家内生産から得た収入のいくらかを自由にできる。
女性およびほとんどの男性が子どもを寛大に扱っている。二人は、日本にいる外国人のほとんどがそうであるように、子どもに対する過度の甘やかしにしばしば驚かされた。少年も少女も、少なくとも就学年齢に達するまでは、目をつけて、欲しいと思ったものは、なんでも男女の成年から手にすることができた。
日本の女性が、身体的・精神的エネルギーの多くを子どもの世話に費やしていることは、いつでも認められることである。女は子どもがいたら、夫と別れると子どもを失うという恐れから、困難な結婚英勝野状態を我慢する。子どもたちはほとんどの大人―男であれ女であれ―によって甘やかされ、かわいがられ、大事にされた。
結婚は、若い女と男のすべてにとっての目標であり、須恵村の女たちが子どものために負う、最後の大きな責任は、その結婚の取り決めであった。その家の男たちも、その過程のある段階ではつねにまきこまれていたし、ほとんどの場合に拒否権を持ってはいたが、交渉を担当するのは、主として女たちであった。
最後に、戦前の庶民の天皇観を紹介します。外国人(ガイジン)に対して、次のように述べたというのを知って、私など腰が抜けるかというほど驚きました。
天皇陛下は神様のようにしとりますが、本当の神様ではなかとです。天皇陛下は人間で、とても偉か人です。
 
(1988年5月刊。3800円+税)

戦争の記憶、記憶の戦争

カテゴリー:朝鮮・韓国

著者 金 賢娥、 出版 三元社
 アメリカのベトナム侵略戦争に韓国軍が加担して兵を送り、ベトナム人を大量に虐殺していた事実は知っていましたが、最近、改めてベトナム現地に訪問して、このことを確認した韓国人団体の活動記録です。
 1965年から1973年までの9年間に韓国軍のべ32万人がベトナムで戦争に従事し、5千人以上がなくなった。
 1965年、アメリカは25ヶ国に参戦を要求したが、それに応じたのは韓国を含めて7ヶ国だけだった。しかも、韓国のほかは砲兵隊や工兵隊など、実際の戦闘とは関係のない部隊を派遣した。イギリスに至っては、わずか6人の儀仗隊を派遣しただけで、名目的な参戦でしかなかった。それだけ名分のない戦争だった。そのとき韓国軍は、のべ32万人もの兵を派遣し、実際に戦闘行為をすすめた。
 この本を読んで、なぜ韓国軍がベトナムに送られたか認識することができました。要するに、当時の韓国の朴正煕政権が、アメリカの支援に政権の存亡をかけていたのです。
 朴政権は、ベトナムへの軍事支援によるベトナム特需という経済的効果と、派兵の対価としての援助を獲得するという目的を設定した。当時の韓国は、外貨不足と物価高による経済的危機が蔓延している状態だった。そのなかで、朴正煕に対する12回もの逆クーデターの試みがあり、しかもクーデター指導者間の内部軋轢が朴政権を脅かしていた。朴正煕は、ベトナム派兵を一つの政治的突破口と考えた。つまり、アメリカから経済的軍事的援助を得て、ベトナムで外貨を獲得しようとした。結果として韓国はベトナム戦争で10億ドルを稼ぎ、おかげで韓進などが大企業に成長することができた。
 朴正煕が32万人もの兵力をベトナムに派遣できたのは、韓国人の協力と黙認があってのこと。メディアと知識人は、政権維持のために韓国民の生命を担保とした朴正煕と暗黙の共謀をしたことになる。ベトナム戦争は、危機に瀕していた朴政権を盤石なものにした。ベトナム戦争で政権の基礎を固めた朴正煕は、長期政権の道を歩み、暗うつな暴圧政治が始まった。この暴圧政治の実現には、大多数の韓国民の手助けがあった。朴正煕の三選のための改憲と維新憲法による暴圧政治の基礎を作ったのが、まさにベトナム戦争だった。
 たとえば、1966年1月にヒシディン省で1200人のベトナム民間人が殺され、同年11月にもクアンガイ省ソンティン県で青龍部隊がベトコン掃討作戦を行い、多くの民間人を虐殺した。韓国軍には現地のベトナム人がみなベトコンに見えた。根絶やしするしかないと考えたのです。恐ろしいことです。
 朝鮮戦争を経て、韓国軍兵士にはアカは殺してもいい、いや殺さねばならないという意識が染みついていたこともその背景にあった。
 非武装の民間人が虐殺されたのです。これは、やりきれなく悲しい。どちらからも認められない死だから。遊撃隊員の死だと、ベトナム政府から烈士補助金が支給されるのに……。
 忘れてはならない戦争の記憶を掘り起こした貴重な本です。『武器の影』(岩波書店)も、小説ですが、同じテーマを扱っていて、大変重たい本でした。
 
 左膝を痛めて、いろいろな治療を受けました。まず湿布です。ホッカイロで温めてみましたが、痛みは止まりませんでした。整体師に見て貰ったところ、鯨飲不明と言われてしまいました。外科医で痛み止めと湿布をもらいましたが、あまり効き目がありませんでした。別の外科医に行って膝にヒアルロン酸の注射を打ってもらい、強力な痛み止めの薬を飲み始めたところ、かなり痛みは和らぎました。もう一回注射してもらおうと思ったところ、知人から注射はよしたほうがいい、それよりカイロプラティックに行って整骨・整体してもらったらどうかとアドバイスされたので行ってみました。1時間ほどの整体を受け、翌日からすっかり痛みがなくなりました。人体の自然治癒力を高めるのが整骨・整体だということで、そのおかげだったのでしょうか。それにしても、足をひきずってしか歩けないため、バリアフリーの必要性を痛感しました。階段の上り下りが大変なのです。エレベーターのないところでは泣きたいほどでした。わが身になって自覚したわけです。
(2009年11月刊。2700円+税)

金融大狂乱

カテゴリー:アメリカ

著者 ローレンス・マクドナルド、 出版 徳間書店
 リーマン・ブラザーズの元社員が、その内情を曝露した本です。サブプライム・ローンの実態を知るにつけ、アメリカは狂っているとしか言いようがありません。
 頭金の確保や月々のローン返済もままならないような人々が、銀行から住宅ローンを提供された。クリントン大統領によって住宅都市開発相の次官補に抜擢されたロバータは、全国的に体制を整備し、各地の出先機関に弁護士と調査員を配置した。この配置の目的は、差別禁止の法律を銀行に対して適用すること、アメリカ国民に住宅ローンの資金を供給することにあった。1993年から1999年までのあいだに、200万人以上の人が新たに住宅の所有者となった。
 2004年の末、不動産の世界には、新たな文化が生まれていた。住宅ローン会社は、自社の資本をリスクにさらしていないため、将来の返済状況を気にする必要がなくなった。
 カリフォルニアで働くセールスマンは、無理やり中低所得者にまで顧客層を広げ、相手が大喜びする条件で見境なくローンを売りまくった。ここには規範もなければ、責任もなければ、非難もなかった。結果を気にする者は皆無だった。いや、結果を気にする必要自体がなかった。
 このころ、カリフォルニア州だけでも、毎日50万人ものセールスマンが住宅ローンを売り歩いていた。サブプライムローンの貸し手の40%以上は、カリフォルニアで設立された企業だった。当時は、新車のローンを組むよりも、新居のローンを組むほうがたやすく、マンションを借りるよりも、住宅を買う方が安くついた。住宅ローンのセールスマンは、史上空前の報酬を得ていた。
 収入も仕事も資産もない人が借りられるローンを、ニンジャ・ローンと呼ぶ。
 買い主は代金の支払いを心配する必要はなかった。ニンジャ・ローンは、お金に困っている多くの家族にとっては奇跡以外の何物でもなく、たいてい住宅価格より10%増の融資が行われた。契約書にサインした人々は、100%分をローンの支払いに充て、10%分を自分のポケットに入れて新居での生活を始めた。
 住宅ローンのセールスマンの顧客の半分は、契約書を理解するどころか、読むこともさえできなかった。ニンジャ・ローンは当初の金利が1~2%と不自然なほど低いものの、数年後には5~10倍に跳ね上がる。これが、結局、住宅ローンの債務不履行の微増に繋がる。
 フロリダのマイアミ地区で10年間に建てられたコンドミニアムはわずか9000棟だった。ところが。最近たったコンドミニアムは2万7000棟。このほか、建設許可待ちが5万棟もある。
 ウォール街の労働者が受け取ったボーナスは、ニューヨークの非金融系労働者の2.5倍。年収額で見ると、2003年に比べて1.5倍となっていた。
リーマンブラザーズの社員にとっては、ボーナスが至高の重要性を持っていた。なぜなら、給与体系上、報酬の大部分がボーナスだったから。しかも、報酬の半分は自社株で支給されているため、生きていく糧を確保するには、会社に収益をあげさせ、株価を高く保たせる必要があった。そうなって初めて、自分たちの財政状況が向上する。
 社員はほぼ同水準の固定給をもらっていた。差がつくのはボーナスの部分だ。たとえば100万ドルのボーナスをもらうためには、会社に2000万ドルの収益をもたらさなければならない。
 倒産した会社の取締役たちが、とてつもない高額をとっていたことが何度も明るみに出ました。まさしく狂っているとしか言いようのないアメリカです。そのせめてもの救いは、こんな本で実態を教えてくれる人がいることでしょうか……。
 庭の紅梅が先に咲き、遅れて隣の白梅も咲き始めました。紅白の花は春の到来を告げてくれます。隣家の庭のピンクの桃の花も盛りで、メジロがチチチとせわしく鳴きながら花の蜜を吸っています。
 
(2009年9月刊。1800円+税)

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