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ゲゲゲの女房

カテゴリー:社会

著者:武良布枝、出版社:実業之日本社
 「ゲゲゲの鬼太郎」の作者である水木しげるの奥様による自伝です。NHKで連続テレビ小説になっているそうですが、私はテレビは見ませんので、そちらは分かりません。
 しみじみとした、いい本です。人生の悲哀を感じさせます。人生は、終わり良ければ、すべて良し。この言葉は奥様のつぶやきです。なんだかホッとさせられますね。
 「少年マガジン」にデビューしたとき43歳、猛烈に忙しくなったのが44歳、それから必死で走り続けて50歳をすぎ、心と体がついに悲鳴をあげた。
 水木しげるは睡眠をとても大切にしてきたようです。それでも、モーレツ時代は、さすがにそうもいかなかったようですが・・・。
 少し前まで、お金になる仕事がほしいとずっと思い続けてきたけれど、ここまで忙しい事態は想像していなかった。成功しても、水木の体がボロボロになってしまったのでは、幸せとはいえない。
 睡眠時間は、すべての健康の基本である。いつもふらふらの寝不足ではいけない。
 水木しげるは、心配する奥様に対してこう答えた。
 オレも眠りたい。ノンキな暮らしがしたい。でも、また貧乏をするかと思うと、怖くて、仕事を断ったりすることは、とても出来ない。締め切りに追われる生活も苦しいが、貧乏に追われる生活は、もっと苦しい。それに、いまが人生の実りの時期なのかもしれない。だから、後にひいてはダメなんだ。
うむむ、力を感じます。すごい言葉ですよね。
 人気商売なので波はあり、1981年(昭和56年)ころ、仕事が急に落ち込んで、連載は一本になってしまった・・・。
 うむむ、そういうこともあったのですか。
 精魂込めてマンガを描き続ける水木の後ろ姿に奥様は、心底から感動しました。
 ひたすらカリカリと音を立てて描く後ろ姿から、目を離せなくなることが、しばしばあった。背中から立ちのぼる不思議な空気、オーラみたいなものに吸い寄せられるような気がした。この人の努力はホンモノだ。
 すごい奥様の言葉です。奥様も偉いですよね。
 貧乏な生活でした。質屋に次々に身のまわりの品を入れて借金し、そんな生活をしながら、ひたすら売れない漫画を描き続け、それを奥様が支えたのでした。ひたすら真面目に努力を重ね、ついに報われたわけですが、それに至るまでの過程が実に明るく、むしろあっけらかんと書きすすめられていて、心に深い余韻を残しています。
 境港にあるという「水木しげるロード」に一度行ってみたいと思いました。
(2009年9月刊。1200円+税)

介護の値段

カテゴリー:社会

著者 結城康博 、 出版 毎日新聞社
 国を守るためと称して軍事予算は惜しみなく使われています。新型戦車、ヘリコプター空母、アメリカ軍のための空中そして海上給油、思いやり予算などなど・・・。ところが、国を構成しているはずの国民生活のほうはちっとも守られていない気がしてなりません。
 病院に入院しても、20日以内に退院させられる。入院費の負担額は毎月18~25万円もかかる。個室に入ったら35~50万円になる。リハビリのための入院だったら、3~5ヶ月で転院させられる。なぜなら、病院が減収するから。中小病院は相次いで倒産している。
65歳以上は2900万人。75歳以上の後期高齢者は1300万人いる。一人暮らしの高齢者は433万人、うち男性117万人、女性316万人。在宅介護の対象者は男性28%、女性72%で、3割以上が70歳以上。
 高齢者のなかには特養ホームで個室を好む人は多いが、4人部屋を好む人も少なくない。個室だと夜になると、不安になったり新しくなって徘徊してしまう人がいる。有料老人ホームの入居金は数百万~1000万円。そして、1ヶ月に都内では25万円、その他の県で20万円ほど必要となる。
誰だって、みんな老人になっていくわけです。老後が安心して過ごせない日本って、困りますよね。こんな国を愛せなんて押しつけられたら反発する人が出てくるのも当然です。
 介護施設にもっと国は投資すべきだと思います。いえ、私が還暦を過ぎたから叫んでいるというのではありませんよ。ほら、あなただって、もういいとしになったでしょ……。
(2009年12月刊。1000円+税)

ある明治女性の世界一周日記

カテゴリー:日本史(明治)

著者 野村 みち、 出版 神奈川新聞社
 すごいです。明治41年(1908年)というと、亡くなった父が生まれた年より1年前のことです。日露戦争のあとで、まだ日英同盟も生きていたようです。
 その年(1908年)3月、東京・大阪の両朝日新聞社の主催する世界一周旅行に、56人の日本人団体客が出かけました。そのうち女性は3人。その一人が32歳の主婦であった著者でした。
 日本を船で出航して、ハワイ、アメリカ、そして大西洋を渡ってイギリス、さらにフランス、イタリア、ドイツ、ロシア、最後に中国東北部を船と汽車をつかって100日ほどで駆け巡ったのです。著者は、その年のうちに「世界一周日記」として出版したのでした。
 主婦と言っても、横浜で外国人相手の古美術店「サムライ商会」を夫とともに営んでいましたし、英語を話せたのです。この本は、現代語に訳されていて、とても読みやすくなっています。日本人女性の勇敢さと行動力には、ほとほと感心します。
 幼い子供たちをかかえた母親として、世界周遊に出かけたい気持ちをかかえて迷っていたとき、実家の母は「行って来なさい。あとは全部引き受けるから」と言って励まし、送り出してくれたと言うのです。偉い母親ですね。
 そして、著者は、旅行中ずっと和装で通したのでした。そして、またそれが結果的に良かったのです。見なれない服装を見て、欧米人は感嘆したのでした。
 このころ、ハワイには日本人が7万人もいた。うち2万人はサトウキビ栽培に従事していた。
 アメリカは大変深刻な不景気だった。モルモン教の本拠地であるソルトレイク市にも行っています。そこで、おはぎや鮨を在米日本人からもらったと言うのですから驚きます。
 シカゴで劇を見て、ナイアガラの滝を見学したあと、ワシントンに入り、ホワイトハウスに出向いて、ときのルーズベルト大統領と面会して握手までしています。それほどの珍客だったのですね。驚きました。
 そのあと、ニューヨークを経て、イギリスにわたります。
 今回の旅行で、日本人は共同一致の精神に乏しく、団結力も弱く、公共を重視しないことを深く感じた。
 ええーっ、後半はともかくとして、前半の評価は逆じゃないのかしらんと思いました。
 イギリスでは、ちょうど、婦人参政権運動が盛り上がっているときでした。
 フランス、イタリア、スイス、ドイツと巡って、ロシアにたどりつきます。
この旅行は、イギリスの旅行会社トマス・クック社の企画したもので、団体旅行・パック旅行として世界初のものでした。旅行費用は1人2340円。当時、民間企業の大卒初任給が35~40円だったので、その5年分にあたる。
 このように、若いときに世界を知っていただけに、著者は、1941年に太平洋戦争がはじまったとき、「アメリカのような国土の広い、資源豊富な国を相手にしても勝てるわけがない」と家族に小さな声で言っていたそうです。当然ですよね。今読んでも面白い本です。
 先日の新聞に、アメリカのハーバード大学に留学している日本人学生が1人しかいないという記事がありました。いま、老壮年はしきりに海外旅行に出かけていますが、むしろ若者ほど国内志向が強く、海外へ目が向いていないと言います。さびしい限りです。
 若者は書を捨てて(本当は捨ててほしくはありませんが……)海外へ旅に出かけよう。若い時こそ、何でも見てやろうの精神が大切です。
 
(2009年10月刊。1400円+税)

宇宙で過ごした137日

カテゴリー:宇宙

著者 若田 光一、 出版 朝日新聞出版
 九大出身の若田光一さん(46歳)は、2009年3月15日から7月31日までの137日間、国際宇宙ステーションに滞在しました。そのときの日記が公開された本です。
 宇宙には空気がなく、陽が当たるところは120度、陰に入ると零下150度。大変な温度差がある。
 日本人初の宇宙飛行に成功したのは、1990年にTBSの記者だった秋山豊寛さん。その後、毛利衛さんなど、計6人の日本人宇宙飛行士が宇宙に飛び立っている。
 宇宙ステーションには、今回初めて日本実験棟「きぼう」が付属し、若田さんはそこで実験を始めた。今回の宇宙滞在には、宇宙ラーメンも持ち込まれた。かなりとろみのあるスープで、濃いめの味付けだ。スプーンですくって食べるといいますから、私たちの食べる普通のラーメンとは違うようです。
 電話ボックスくらいの個室に入って寝る。無重力では身体に無理な力が働かないので、寝がえりや寝違えもなく、快適に眠れる。宇宙酔いに悩まされることもなく運動し、食事もしっかり取ることができた。宇宙では体液が上半身に偏るため、とくに滞在初期には鼻詰まりが起きやすい。
 宇宙ステーションに滞在中の飛行中が一日に使える水は3.5リットル。衣類は洗濯できない。宇宙普段着は蛍光灯でも反応する光触媒をつかって消臭力を高める仕掛けだ。
 おしっこ(尿)を飲み水に変える水リサイクル装置が実用化された。出てくる水は、無色透明で蒸留水と言う感じ。これはNASAが150億円もかけて開発した。トイレから出る尿を集めて、加熱したり、ぐるぐる高速で回して遠心力で分離したりして、飲料水に再生する。
 3カ月に一度だけ、プログレス補給船によって新鮮な食べ物が運ばれてくる。若田さんは、新鮮なリンゴを食べることができた。
 日本の「きぼう」は、開発と製造に7600億円かかった。
 長期滞在する飛行士は、1日2時間の運動が作業予定表に組み込まれている。これを毎日欠かさなくても、一ケ月のうちに下半身は最大2.5%も骨密度が下がる。骨折しやすくなるだけでなく、体内のカルシウムの摂取と輩出のバランスが崩れ、骨から溶けだしたカルシウムが尿に混ざって、尿路結石を引き起こすリスクも高まる。
 宇宙ステーション内の写真がふんだんにあって、ビジュアルに宇宙飛行士の活動の分かる楽しい本です。といっても、高所恐怖症に近い私は、宇宙に飛び出す勇気はありません。本を読むだけでガマンしておきます。
 
(2009年11月刊。1300円+税)

ノモンハン事件

カテゴリー:日本史(戦後)

著者 小林 英夫、 出版 平凡社新書
 今から70年前の1939年、満州国とモンゴルの国境線上にあるノモンハンで、日本軍とソ連軍が戦い、日本軍は壊滅的な敗北を蒙った。
 日本にとって、航空機や戦車が戦場を駆け巡った最初の近代戦であった。このとき、圧倒的な物量を誇り、爪の先まで鋼鉄で武装したソ連・モンゴル軍を前にして、肉弾で対抗した日本軍は粉砕されてしまった。
 1939年時点で、ソ連を100とした時の日本軍の兵力は、師団数で37、航空機で22、戦車で9に過ぎなかった。
 ソ連軍にはスターリンの大粛清の嵐が吹いていて、指揮系統は一時的に不能な状況にあった。しかし、ジューコフ元帥は健在だった。ところが、関東軍は、スターリンの大粛清によって、ソ連軍・モンゴル軍が弱体化していて、一撃で打倒できると踏んでいた。つまり、ノモンハンにソ連は大軍を繰り出すことはできないと想定していた。関東軍にとって、ノモンハンは200キロの地点にあるが、ソ連にとっては750キロも離れているので、輸送力の点でも関東軍が圧倒的に優位だと考えていた。
 しかし、ジューコフ司令官の指揮するソ連軍は、兵力的に日本の1.5倍、砲は2倍、戦車・装甲車で4倍の兵力を集めていた。ソ連軍は、軽戦車に代わる中戦車の投入と火炎放射戦車の登場で、日本軍陣地を蹂躙し、焼き尽くした。
 航空線でも、ソ連軍が日本軍を圧倒した。量的に優れていただけでなく、ソ連の航空機には防御についていろいろ改善され、戦法においても日本の得意とする格闘戦を避け、一撃離脱戦法が一般化するなど、質的向上を遂げていた。
 ノモンハンにおける日本軍第24師団の死傷率は、兵員1万5975人のうち、死傷・行方不明ふくめ1万人以上と、消耗率は7割を超え、ほぼ全滅状態となった。
 そして、ソ連軍に捕虜となった日本兵は、帰還したあと、軍法会議にかけられ、将校には自決勧告、下士官兵には免官、降等、重謹慎、重営倉となった。
 こんなむごいことはありませんよね。日本軍が人間の生命をいかに軽んじていたか、良く分かります。そして、日本軍はこの重大な敗北から何も学ばないまま、太平洋戦争に突入していき、さらに大きな過ちを繰り返したわけです。たとえ悲惨な過去であっても、目を閉ざすわけにはいきません。
 
(2009年8月刊。760円+税)

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