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清水次郎長

カテゴリー:日本史(江戸)

著者 高橋 敏、 出版 岩波新書
 幕末維新における博打の世界の実態を十分に堪能することのできる本です。
 次郎長親分も悠々と生きていたわけでは決してなく、殺し殺されの世界で幸運にも生き延びたこと、維新のとき政治に深入りしなかったことが延命につながったことなど、面白い記述にあふれています。
 清水次郎長は幕末から明治維新、近代国家の誕生まで変転止まない、血で血を洗う苛酷な大動乱の時代を生き抜き、74年の生涯を畳の上で大往生して閉じた、きわめて稀な博徒であった。若き日、博打と喧嘩の罪で人別から除かれ、無宿者となって以来、博徒の世界に入り、敵を殺しては売り出し、一家を形成、一大勢力を築いてしぶとく生き残った、いわば博徒・侠客の典型の一人である。
 徳川幕府発祥の地である三河国には、小藩が乱立し、網の目のように入り組み錯綜したため、警察力が弱体化し、模範となるべきところ、皮肉にも博徒の金城湯池になってしまった。
 博徒間の相関関係は、任侠の強い絆で結ばれているように見えるが、仁義の紐帯はもろく、常に対立抗争しては手打ちで休戦、棲み分けを繰り返す、実に油断も隙もない世界であった。
 博徒の実力の根底は、喧嘩・出入りに勝つ武力プラス財力にある。
 この点も今の暴力団にもあてはまるようですね。
 次郎長が並みいる博徒のなかで抜きんでていったのは、結果論になるが、立ちはだかる宿敵を次々に葬るか、抑えるか、時には妥協しても自派の勢力を拡大したからである。
 次郎長一家は、親分が一方的に子分を支配統制する集団ではない。個性的子分を巧みに次郎長が操縦している感がある。
 幕末、次郎長に食録20石を与えて家臣とするとの誘いがかかった。博徒が武士になれるという夢のような話である。しかし、これを次郎長は迷わずきっぱり拒絶した。
 このころ、次郎長は、かつての三河への逃げ隠れをパターンとする移動型から、清水港に根をおろし、東海地方ににらみを利かす定着型博徒に変容していた。
 次郎長の宿敵であった黒駒勝蔵は、尊王攘夷運動に加担していたにもかかわらず、明治4年になって、7年前の博徒殺害を理由として斬首されてしまった。
 次郎長は、明治維新を機に、無宿・無頼の博徒渡世から足を洗い、正業で暮らしを立てようとした。
 とびきり面白い、明治維新の裏面史になっています。 
 
(2010年1月刊。800円+税)

収容所に生まれた僕は愛を知らない

カテゴリー:朝鮮・韓国

著者:申東赫、出版社:KKベストセラーズ
 北朝鮮にある14号政治犯収容所完全統制区域出身の若者を見たとき、別の完全統制区域で警備隊員をしていた人(同じ脱北者です)が次のように述べています。
 幼いころからの苛酷な強制労働の結果、右側の肩は曲がってしまっている。腕と手は、厳しい力仕事のせいでサルの腕のように非常に長くなり、内側に湾曲している。その体は、物を運ぶのに便利なように変形してしまった。こんな外形状の身体の特徴は、収容所の中で幼齢から強制労働をしなければ出来あがらない。
 北朝鮮の強制収容所には、2つの種類がある。一つは、ある程度の期間収容されたあと、一般社会に復帰できる「革命化区域」。もう一つは、一度入ると一生そこから出られない完全統制区域。革命化区域は、15号管理所のみで、残りは、すべて完全統制区域である。だから、完全統制区域の情報が外部にもれることは絶対になく、その中で何が起きているか誰も知ることができない。ヒトラーのユダヤ人絶滅収容所のようなものなのでしょう。
 収容者の7割は、なぜここに入れられたか、その理由すら知らないだろう。管理所に入れられた瞬間から、身内の消息であっても知らされず、身分証も全財産も没収されてしまう。独身者は寄宿舎で生活する。結婚しても、男は寄宿舎生活を続け、女だけに家が与えられ、子どもと生活する。
 仕事は1ヶ月に1度、毎月1日が休み。土曜とか日曜に休むことはない。
 食料は配給。その日のうちにすべて消化しなければならず、食糧を貯めておくことはいけない。食糧難なので、ヘビやネズミも食べる。ネズミは焼いて食べる。頭まで、骨をかじって食べ尽くす。ヘビより栄養価は高い。
 この14号収容所に5万人は生活している。収容所内では、メガネをかけることもできない。塩を除いて、すべて自給自足である。
規則に反したとき、たとえば、脱走したとき、盗んだとき、男女間の承認なき身体接触があったときには、即時に銃殺される。公開処刑場があり、収容所から逃亡を図った母と兄が処刑されるのを少年であった著者も一番前で見せつけられたのでした・・・。
収容所内での結婚は、当局の指示による表彰結婚のみ。いやと言えば結婚は許されない。収容所内に学校はあるが、教えられるのは国語と算数と体育だけ。学校に本はない。歴史を教えられることもない。
ここでは、金日成、金正日を賛美する教育もなかったようです。不思議ですね・・・。
高等中学校に進んでも本はなく、生活総括のノートがあるだけ。カエルを捕ったり、ヘビをつかまえて食べたりしていた。
強制収容所の囚人が集団的な抵抗ができないのは、何よりも統制が厳しいこと、収容者が自分は罪を犯してここにいると思っていることにある。
罪を犯した自分は、ここの規則に従うのが当然で、一生、命令されるままにおとなしく暮らすものと考えている。そもそも抵抗意識などない。収容所では、基本的に、人々を食べ物で統制する。
巻末に著者が知らなかった言葉の一覧表があります。驚くべきリストです。
可愛らしい、友好的、善良、純粋、楽観的、心が広い、素朴、平和、楽しい、うっとりする、明朗、快活、幸せ、十分・・・・。
今の日本の若者にも実感のともなわない言葉になってはいないのかと、おじさんは少しばかり心配なんですが・・・。
5万人も暮らしていたという収容所生活の、あまりに苛酷な日常生活が紹介されています。目をそむけたくなる現実です。よくぞ、こんなところから脱出できたものです。
(2008年3月刊。1600円+税)

生き残る判断、生き残れない行動

カテゴリー:アメリカ

著者 アマンダ・リプリー、 出版 光文社
 9.11のとき、ワールド・トレード・センタービル(WTC)にいた人々がどんな行動をとったのか。助かった人と助からなかった人に違いはあったのか、究明されています。たしかに違いはあったようです。
 生存者900人に聞くと、平均して6分間は、廊下に出て行動するまで待っていた。沈黙、笑いは、立ち遅れと同じく、典型的な否認の徴候である。
 危機に直面すると、人々は、一様にのろい反応を示す。無関心な態度をとり、知らないふりをしたり、なかなか反応しなかったりする。
 この否認の段階では、不信の念を抱いている。我が身の不運を受け入れるのには、しばらく時間がかかる。
 人間の脳は、パターンを確認することによって働く。現在、何が起こっているかを理解するために、未来を予測するために、過去からの情報を利用する。この戦略は、大抵の場合、うまくいく。しかし、脳に存在していないパターンに出くわす場合も避けられない。つまり、例外を認識するのは遅くなる。
 WTCから脱出したと推定される1万5千人あまりの人々が各階を降りるのに平均して1分かかっている。これは標準的な工学基準にもとづく予測の2倍の時間がかかっている。
 災害に直面すると、群集は概して、とてももの静かで従順になる。災害時の人間の反応のなかで、逃げることと同じくらい「凍りつくこと」という現象がみられる。
 危機に直面した群集に対しては、大きな声ではっきりした指示をすることが大切だ。
 年輩の人は避難するのが好きではない。年老いた人は変化を好まないからだ。そして、人はしばしば自分の能力を過大評価する。
 車を運転中にケータイで話すと、視野は著しく狭くなる。ところが、よく見かけますよね。夢中で会話している人を……。とても危険なんですから、止めてほしいですよね。
脳は、一生を通じて人間の行動次第で構造も機能も文字どおり変化する。点字を読んでいる目の見えない人々は、触覚を処理する脳の部位が大きくなる。
 回復力のある人には、三つの潜在的な長所も備わっている傾向がある。人生で起きることに自らが影響を及ぼす事ができるという信念。人生に波乱が起きても、そこに意義深い目的を見出す傾向。いい経験からも嫌な経験からも学ぶことができるという確信。このような信念は、一種の緩衝材として、いかなる災害の打撃をも和らげてくれる。こういう人々にとって、危険は御しやすいものに思え、結果として、よりよい行動をとることになる。
 強い自尊心を持っている人たちは、比較的たやすく元気を回復した。IQ値の高い人のほうが、心的外傷を受けた後もうまくやっていく傾向がある。しかし、IQに関係なく、誰もが訓練と経験で自尊心を生み出せる。
 PTSD(心的外傷後ストレス障害)の罹患者は、ただ変わった振舞いをするだけでなく、脳そのものが実際に変わっている。脳の奥深く扁桃体の近くにある海馬が、PTSDの罹患者のものは少し小さくなっていた。
 危機に直面し、パニックになったときに、どうしたら助かるのか、実例をふまえて分かりやすい教訓を導き出している本です。大変参考になりました。
(2009年12月刊。2200円+税)
 連休初日、午後から庭の手入れをしました。よく晴れて気持ち良く作業していると、頭上の樹でウグイスが景気よく大きな声でホーケキョと鳴いてくれました。私が下に居るのに気付かなかったようです。私がびっくりして見上げていると、見つめられたのに気がついて飛んで行ってしまいました。地味な色の小鳥です。
 ジャーマンアイリスの青紫色の花の第一号が咲きました。華麗な花弁に見とれます。アイリスの最後は真っ黄色の花です。いくつか咲いてアイリス軍団フィナーレを飾ります。
 今年はサクランボの赤い実を全く見かけません。天候不順のため、例年だとヒヨドリが見向きもしないのに、食べつくしてしまったのでした。野菜が高値となっていますが、小鳥たちには生存がストレートにかかっているのですね。それにしても、サクランボの実がまったくないというのは異変です。

山田洋次を観る

カテゴリー:社会

著者 吉村 英夫、 出版 リベルタ出版
 日本の大学生も、まだまだ捨てたもんじゃないなと安心できる思いのする本です。
 山田洋次監督のつくった映画を大学の教室で見て、教授からその解説を聞き、さらに学生同士でディスカッションできる。なんてすばらしい授業でしょう。羨ましい限りです。この学生たちはみな幸せです。
 この本には、授業に出た学生の感想文が紹介されていますが、それがまた実によく出来ています。なんといっても感受性が鋭いのです。感嘆、感心、感激というしかありません。その学生たちの前に、本物の山田洋次監督が登場し、対話形式による公演が展開します。
 山田監督のつっこみが実に鋭い。学生たちがオタオタするのも無理はありません。うーん、私だったらなんて答えるかなあ……。自信ないなあ、と、つい頭を抱えてしまったことでした。
 映画『男はつらいよ』は、観客を教化するという姿勢をもたない。人間は善なる存在であり、人と人とはつながっており、家族の絆が人間社会の原点であり、仲間たちがいつくしみ信じあうところから、心休まる世の中は生まれてくるという作者の心情がにじみ出ている。
 映画は、もちろん楽しむために観る。音楽は楽しむために聴く。小説は楽しむために読む。これは当たり前のこと。でも、どういうふうに楽しいかという問題がある。楽しみの質の問題がある。そして、人を楽しませるには、すごい才能と努力と修練がいる。
 『男はつらいよ』の第1作で、さくらが兄に対して結婚したいと言ったときの渥美清のシーン。最初は10秒だったのを、2秒のばすためだけで大騒ぎして撮影した。
 この2秒にこめられたさまざまな思い。ああ、妹が俺に許可を求めている、俺が妹にいったい何をしたのだろうという、そんな寅の後悔と悲しみと、もう一つは喜び、ああ、妹がこんあ幸せな顔をしている、ああ、よかったんだ、そんな内面の葛藤をこの12秒の画面で表現した。
 映画は、そんな想像力を観客に伝える芸術なのである。
 うむむ、たしかに、寅の顔はすごく微妙な表情です。なんとも言えません……。
 大学生の反応が生き生きと伝わってくる本です。それ自体に感動します。良い映画は、10年とか20年たっても、感動があせて消えてしまうことはないのですよね。
 私が『男はつらいよ』第一作を観たのは1969年5月のことでした。五月祭のとき、大教室で観たのです。大爆笑でした。1年近くの大闘争後、まだ殺伐とした雰囲気の色濃い大学で、清涼感あふれるさわやかな風が吹き抜けていきました。
良い本です。一気に読みました。
 
(2010年1月刊。2200円+税)

スターリン、赤い皇帝と廷臣たち(上)

カテゴリー:ヨーロッパ

著者:サイモン・セバーグ・モンテフィオーリ、出版社:白水社
 スターリン。バラとミモザを何よりも愛したこの男は、同時に、人間のあらゆる問題を解決する唯一の手段は死であると信じる人物であり、憑かれたように次から次へと人々を処刑した独裁者だった。
 息子たちにかけるスターリンの期待は大きかった。自分自身の流星のような出世を基準にしていたとすれば、それは過剰な期待だった。しかし、娘に対しては甘い父親だった。
 妻ナージャは、深刻な精神的疾患にかかっていた。娘は、母について統合失調症だったと述べている。妻ナージャは、年中、スターリンをガミガミ叱りつけ、恥をかかせていた。
 スターリンは、生まれつき、左足の2番目と3番目の指が癒着していた。天然痘にかかったため、顔はあばたで、左腕も馬車事故による障害があった。
 スターリンを帝政ロシア(ツァーリ)の秘密警察「オフラーナ」のスパイだったという人がいる。たしかにオフラーナのスパイが革命運動に無数に入りこんでいたが、その多くは、二重スパイどころか三重スパイだった。スターリン(当時はコバ)も同志の中に敵対派を喜んで警察に売り渡したのかもしれない。しかし、スターリンは一貫して狂信的なマルクス主義者だった。
 スターリンは、レーニンの隠れ蓑だった。レーニンはスターリンを窓口にして外部と接触していた。1918年、ソヴィエト政権は存続の危機に瀕し、ボリシェヴィキは悪戦苦闘していた。この事態を救ったのは、赤軍を創設し、装甲列車に乗って指揮をとった軍事人民委員のトロツキーとスターリンの2人だった。この2人だけが事前の許可なしにレーニンの執務室に入ることができた。
 トロツキーの尊大な態度は、実直な地方出身者である「地下活動あがりの党員」たちの反感を抱いていた。彼らは、むしろスターリンの泥臭い現実主義に共感していた。
 スターリンは無慈悲であり、情け容赦なく圧力をかけた。それこそレーニンの望んだことのすべてだった。
 1924年当時、衆目の見るところ、レーニンの後継者はトロツキーだった。しかし、スターリンは、書記局長の絶大な権限を利用して、盟友のモロトフ、ヴォロシーロフ、セルゴ、オルジョニキゼを昇進させることに既に成功していた。
 ジノヴィエフとカーメネフは、トロツキーからその権力基盤である軍事人民委員の地位を奪い、その追放に成功したあと、今や2人と並んで三巨頭の一人となったスターリンこそが真の脅威であったことに気づくが、すでに手遅れだった。スターリンは、1926年までに、この2人をまとめて打倒してしまう。
 ブハーリンは、「スターリン革命」に抵抗したが、面倒見のよさと人間的魅力の点では、ブハーリンやルイコフは、とうていスターリンにかなわなかった。
 スターリンは、腹心たちの暮らし向きにも、みずから気を配った。
 重臣たちは、しばしばお金に困った。幹部の給料が、「党内最高賃金制度」によって頭打ちとなっていたからだ。この制限は1934年にスターリンによって撤廃された。もっとも、そこには抜け道があった。
 共産党は、自分の力でのし上がった人々の集団というだけでなく、党はほとんど同族企業と言ってもよい存在だった。
 スターリンの起床は遅かった。11時ころ起きて朝食をとり、日中は書類の山に埋もって仕事をこなした。書類は、いつも新聞紙にくるんで包んで持ち歩いた。ブリーフケースは嫌いだった。正餐の昼食は午後3時から4時ころ、豪華な「ブランチ」として用意された。昼食には家族全員が勢ぞろいし、いうまでもなく政治局員の半分近くと、その妻たちも同席した。
 スターリンの休暇のときの専用列車はOGPUによって慎重に準備されたが、食糧難の時期には、食料を満載した別編成の特別列車が随行した。
 幹部たちは、先を争ってスターリンと一緒に休暇を過ごそうとした。それはそうですよね。スターリンの一言で、自分と家族の生死がかかっているのですから・・・。
 スターリンは別荘の庭に大いに関心を持ち、レモンの木の枝を這わせたり、オレンジの木立ちをつくったりした。草むしりも自慢だった。
 庭いじりは私も大好きなのです。でも、庭いじりしたり花を愛でる人に悪人はいないと信じていましたが、スターリンが庭いじりを好んでいたことを知り、私の確信は大いに揺らいでしまいました。
 神学校にいた1890年代以来、貪欲な読書家だったスターリンは1日の読書量が500頁に及ぶことを自慢していた。流刑中は、仲間の囚人が死ぬと、その蔵書を盗んで独り占めし、同志たちがいくら憤慨しても決して貸さなかった。文学への渇望は、マルクス主義への信仰と誇大妄想的な権力願望と並んで、スターリンを突き動かした原動力のひとつだった。この三つの情勢がスターリンの人生を支配している。
 うへーっ、こ、これは困りました。スターリンが、私と同じで貪欲な読書家だったとは・・・。庭づくりといい、この本好きといい、私とこんなに共通点があるなんて・・・。まいりました。
 スターリンは、ヒトラーが1933年6月30日に党内の反対派を一挙に大量殺戮したことを知って、これを快挙とみなして賞賛した。
 「あのヒトラーという男は、たいしたものだ。実に鮮やかな手口だ」
 キーロフ暗殺については、スターリンが共犯者だったという気配は今も消えていない。
 キーロフを殺害したにせよ、しなかったにせよ、スターリンが敵だけでなく味方のなかの優柔不断な一派を粉砕するために、キーロフ暗殺事件を利用したことは間違いない。
 スターリンは、常にロシア人は皇帝を崇拝する国民だと信じており、ことあるたびにピョートル大帝、アレクサンドル一世、ニコライ一世などに自分をなぞらえてきた。
 スターリンが、自分をその真の分身とみなしていた師はイワン雷帝であった。
 スターリンが拷問や処刑の現場に立ち会ったことは一度もない。しかし、スターリンは囚人たちが最後の瞬間にどう振る舞うかに多大の関心を抱いていた。敵が集められ、破壊される様子を聞くのが楽しみだったのである。
 スターリンは、赤軍の忠誠心を疑っていた。参謀総長トハチェフスキーは、1920年来の仇敵だった。だから、有能な将軍たちを根こそぎ虐殺してしまったのですね。
 スターリンによる赤軍粛清は、5人の元帥のうち3人、16人の司令官のうち15人、67人の軍団長のうち60人、17人の軍コミッサールは全員が銃殺刑となった。
 大虐殺が始まると、スターリンは公開の場に姿を見せなくなった。エジョフの仕業をスターリンは知らないのだという噂が広まった。たしかに首謀者はスターリンだった。しかし、スターリンは決して単独犯ではなかった。
 スターリンの本性は当初から明白だった。スターリン自身も数千人単位で旧知の人々を殺害していた。殺人を命令し、実行した数十万人の党員には重大な責任があった。スターリンと重臣たちは、見境のない殺人ゲームに熱狂し、ほとんど殺人を楽しんでいた。しかも、命令された人数を超過して命令以上に多数の人間を殺すのが当たり前になっていた。そして、この犯罪で裁かれた人は皆無だった。
 スターリンは、戦争では、ためらうよりも、無実の人間の首をひとつ失う方がマシだと考えていた。この巨大な殺人システムを動かすエンジンは、スターリンその人だった。スターリンは、狙いをつけた犠牲者をいったん安心させたうえで逮捕するというやり方を得意としていた。
 重臣たちは、さらに多数の敵を粛清するように絶えずスターリンをけしかけていた。とはいえ、自分の知り合いから犠牲者が出るとなると、重臣たちは犯罪の証拠の提示を要求した。スターリンが犠牲者の書面による自白と署名を重視した理由は、そこにあった。
 いやはや、とんだ赤い皇帝です。こんな狂気を繰り返してはいけません。そして、これは社会主義とか共産主義の思想によるものではなく、権力者が歯止めなく肥大したことによる弊害だと思いますが、いかがでしょうか。やはり、何らかのチェック・アンド・バランスがシステムとして確立していないと人間は悪に入ってしまうことを意味しているように私は考えました。
(2010年2月刊。4200円+税)

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