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イザベラ・バード『日本奥地紀行』を歩く

カテゴリー:日本史(明治)

 著者 金沢 正脩、 JTBパブリッシング 出版
 
 『日本奥地紀行』(平丹社)という本があります。明治11年(1878年)にイギリス人女性(47歳)が横浜から東北地方そして北海道へ単身、もちろん日本人の通訳と従者を連れて旅 行したのを記録した本です。その当時の日本人の習慣が分かって、とても面白い内容になっています。
 この本は、このイザベラ・バードがたどったコースを自ら体験し、当時と現況の写真を添えて紹介していますので、なるほどという思いで興味深く一気に読み通しました。イザベラ・バードは、明治政府から東北と北海道を旅行する許可を得ていました。このころ外国人は居住から40キロを超えて離れてはいけないことになっていたのですが、異例の許可でした。
 人力車を3台連ねて、まずは日光に向けて江戸を出発します。
 日光から鬼怒川に出て、会津に至ります。
 ヨーロッパでは、ときとして外国は、実際の危害を受けなくても無礼や侮辱の仕打ちにあったり、お金をゆすりとられることがあるが、ここでは一度も失礼な目にあったことはなく、過当な料金をとられたこともない。
 西洋人女性の一人旅ですから、当然、村の人々は関心を持ちました。ある村では、2千人をこす村人が一目みようと集まってきて、さすがのバードも唖然としました。ところが、バードが望遠鏡を取り出すと、群集は一斉に散りました。ピストルだと思ったのでした・・・・。
 新潟から秋田へバードたちは向かうのですが、ともかくどこもかしこもてんやわんやの大騒ぎとなったのでした。昔も今も、日本人の好奇心の強さは同じなんですね。
 バードの旅行に通訳兼案内人兼用心棒となったのは、当時20歳の伊藤という日本人青年です。特別に学校で学んだのではなかったようですが、バードから教えられて英語を巧みに駆使したようです。バードが高く評価した伊藤のその後について詳しいことは判明していません。それについて、宮本常一は、伊藤レベルの人なら当時たくさんいたからだろうと解説しています。ふむふむ、なるほど、そういうことなんですか・・・・、とつい納得してしまいました。
 原作を読んだあと、視覚的に同じコースをたどってみたいという方に絶好の手引きになる本です。
 それにしても、当時のイギリスにレディー・トラベラーと呼ばれる自立心の強い女性旅行家たちが多くいたということを知って、大変驚きました。
 
(2010年4月刊。1800円+税)

過労死・過労自殺大国ニッポン

カテゴリー:社会

 著者 川人 博 、編書房 出版 
 
 カローシが国際的に通用する日本語だなんて困ったことですよね。カラオケなら少しばかり誇らしい気もしますが・・・・。ちなみに、カミカゼやツナミもフランス語に入り込んでいて、辞書にも載っています。これもまた、ちょっと複雑な心境です。
 過労死は年間1万人は超える。その直接的な原因は、第1に労働時間の絶対量が明らかに多いこと。日本はヨーロッパより年間500時間は長い。しかも、無給(サービス)残業まである。第2に、労働の密度が濃すぎる。ベルトコンベアーが速すぎる。第3に、経済の国際化。欧米の経済活動にあわせて日本の労働者は深夜まではたらいている。
 2003年3月、大阪高裁の裁判官(53歳)が高層マンションから飛び降り自殺した。これは過労自殺だとして、遺族は公務上災害申請した。亡くなる前の半年間は、1ヶ月の総労働時間が300時間を優に超えていた。これは、1日10時間労働を毎日休みなく続けるという状況である。うへーっ、とうてい人間らしい生活は出来ませんよね、これでは・・・・。
 29歳の外科医が自殺した労働状況もすさまじいものがあります。
 外科医は、2年間にわたって、時間外労働を常に1ヶ月100時間以上しており、200時間以上の月もあり、平均して月170時間。休日は平均して月1回、ゼロ回のこともたびたびだった。大晦日も正月も仕事漬けだった。いやはや、お医者さんって、本当に大変な仕事ですよね。ならなくて良かったと今では思っています。私も高校生のころ、一瞬、なってみようかな、なんて思ったことがあったのです。
 過労自殺が減らない主たる原因の一つが、本来なら自殺予防に力を尽くすべき財界、とくに日本経団連が事態を放置しているからだ。会長を出した金業であるトヨタでもキャノンでも、技術者が自殺して労災に認定されている。
 著者は過労死問題に早くから取り組んできた弁護士です。東大教養学部で川人ゼミを開設して東大生に人権問題を考えるきっかけを絶えず与えていることでも有名です。
 私の大学時代からの知人ですが、川人法律事務所開設15周年を記念してまとめられた本書を贈呈されましたので、紹介します。ありがとうございました。今後、ますますのご健闘を期待します。
                 (2010年6月刊。1500円+税)

日本の城

カテゴリー:日本史(戦国)

著者 西ヶ谷 恭弘・香川 元太郎、出版 世界文化社
 日本の城の多くが、カラー国判で詳しい解説とともに紹介されています。見て、読んで楽しい、日本の城の大国鑑です。
 みなさんに、ぜひ一度は現地に行くことを私がおすすめするのは、安土城と一乗谷城です。
 一乗谷(いちじょうだに)は、越前の朝倉氏の本拠地でした。ここは戦国時代に織田信長に滅ぼされ、そのときの戦火にあったまま埋もれていたのです。現在、大々的な発掘調査が進行中です。私が現地に行ったのは、もう10年ほども前になります。ぜひ、もう一度行ってみたいと思います。
 現地には、朝倉義景(よしかげ)の館が発掘されています。また、被官の屋敷が立ち並び、さらには町屋も軒を連ねています。 
 中世の町並みをほうふつさせる貴重な発掘状況です。
 安土城には2度行ってみました。なにしろ、あの織田信長の居城となった安土城です。ルイス・フロイスの「日本日記」にも紹介されている、豪華けんらんのお城です。
 本丸御殿には、天皇を迎えるための御幸(みゆき)の間とあいました。
 羽柴秀吉邸跡とみられる場所もあります。
 天主に向かって幅広い直線一本道の大手門もあります。豪壮な天主閣を仰ぎながら多くの将兵そして町民たちが朝に夕に登り降りした道です。
 天守の跡が頂上に残っています。私は、案外に小さい、狭いと思いました。でも、少し離れたところに天主の一部を原寸で復元した建物があります。それを見ると、やはり壮大な建物だったようです。 
 織田信長が安土城に移る前に居城としていたのは岐阜城です。ここは完全な山城です。ここで、信長は、ルイス・フロイスと3時間も話し込み、世界各国の話を聞いて、大いに満足したといいます。 
 今は金華山とも呼ばれ、昔は稲葉山城とも呼ばれていました。「まむしの道三」が支配する城でした。木下藤吉郎が攻め落としたことでも有名です。
 私もこのお城に登りましたが、あまりに急峻な名山城なので、驚きました。
 「のぼうの城」で有名になった埼玉県行田市にある忍(おし)城には一度行ってみたいですね。石田光成の水攻めに耐えた壁城です。日本のお城めぐりも楽しいですよね。そのときのガイドとして大変役に立つ本です。
 
(2009年6月刊。2800円+税)

三池炭鉱遺産

カテゴリー:社会

 著者 高木 尚雄、 弦書房 出版 
 
 三池炭鉱にあって、今もわずかに遺跡の残る万田坑(荒尾市)と宮原坑(大牟田市)の古い写真と今の写真が解説つきで紹介されています。
 私自身は、ここにうつっている炭住街のおかげで大学まで進学できたようなものですので、単になつかしいというより、ありがたい存在だったという感謝の念が先に立ちます。
 私の実家は、私が小学1年生のときに当時47歳の父が脱サラを図って、炭鉱で働く人々などを対象とする小売り酒屋を始めたのでした。
 私自身の記憶にはないのですが、メーデーの日などは、店の前をゾロゾロゾロと会場まで歩いていく参加者が切れ目なく続くので、母はびっくり仰天してしまったといいます。当時、大牟田市は人口22万人になろうとしていました。
 私も一度だけ炭鉱に入ったことがあります。坑道は有明海の海底深い地底にあり、真っ暗闇です。マンベルトというむき出しのベルトコンベアーに乗って真っ暗く、不気味な坑道を一時間ほどかけて採炭現場にたどり着きました。
いろんな職業がありますが、採炭現場ほど危険な職場はないのではないでしょうか。ともかく危険きわまりありません。いつガスが噴出してくるか分からない。いつ岩盤がおちてくるか、坑道の底がふくれ上がってくるか、まるで予測のつかない危険と毎日背中あわせの仕事です。ともかく、すべてが真っ暗闇の世界です。そして粉じんがたちこめているという最悪の職場環境でした。
 まだ、有明海の海底には大量の石炭が眠っているということです。でも、そこで働く人間の生命、健康の安全を考えたら、正直なところ、とても炭鉱を再開すべきだという気にはなれません。
なつかしい炭鉱社宅は、映画『フラ・ガール』にもCGで再現されていました。大牟田にせめて一画くらいも残してほしかったと思います。貴重な写真集です。
(2010年4月刊。1900円+税)

新・雨月(下)

カテゴリー:日本史(江戸)

 著者 船戸 与一、 徳間書店 出版 
 
 ときは幕末。戊辰戦後の実相を小説でもって生々しく語り尽くそうという壮大な小説です。明治維新を目前にして、人々がそれぞれの思いで生命をかけて戦い続けます。ここでは維新の生みの苦しみと怨念がしっかり語られている気がします。
 明治1年9月、ようやく会津藩が降伏。2日後に庄内藩が降伏した。だが、戊辰戦役はこれで、終わったわけではない。翌明治2年の箱館戦争へ引き継がれる。榎本釜次郎(武揚)が五稜郭を出て降伏したのは5月。鳥羽伏見の戦いから1年半が経過していた。
 榎本と行動をともにしていたフランス士官ブリュネがフランス本国に宛てた報告書のなかで、北海道に建設される国家は共和制になるだろうと記したうえで、その共和国をフランスは植民地化すればいいとしていた。うむむ、なんということでしょうか・・・・。
会津藩は、敗戦によって明治新政府から下北半島と三戸・五戸地方へ減知転封され、斗南藩と命名された。それは、挙藩流罪とも呼ぶべき処置であり、藩士たちは、誰もが咎人(とがにん)のような仕打ちを受け、すさまじい飢餓にさらされた。
 いずれにせよ、鳥羽伏見から箱館五稜郭まで戊辰戦役の死者数は1万5千人と推計されている。ただし、これには、戦地で徴発された陣夫や戦火の巻きぞえとなった反姓たちの死は含まれていない。そして、この死者数は、後の日清戦争に匹敵する。すごい数ですよね。日本が生まれ変わる苦しみであったことを意味します。
 会津藩の二本松攻撃の戦闘指揮をとった薩摩六番隊長・野津七次(のづしちじ)は、箱館戦争後に、野津道貫(みつら)と改名した。明治7年、大佐となって佐賀の乱に出征。西南の役では、第二旅団参謀長。日清戦争には第五師団長として出征。明治26年、大将となり、近衛師団長、東部都督などを歴任。日露戦争では第四軍司令官。後年、戊辰戦役について、次のように述懐した。
 余は数えきれないほどの戦場を駆け抜けてきたが、二本松の霞ヶ城攻撃のときほど恐怖に駆られたことはない。なにしろ十三か十四の子どもが切先をこっちに向けて次々と飛び込んでくる。剣術は突きしか教わっていない子どもが命を捨てに来る。あの二本松少年隊ほど余の心胆を寒からしめたものはない。霞ヶ城の、あの光景は絶対に脳裏から消えはせんよ。
よくぞここまで調べあげたものだと、ほとほと感嘆した歴史小説です。
(2010年3月刊。1900円+税)

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