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東中光雄という生き方

カテゴリー:司法

 著者 関西合同法律事務所、 清風堂書店 出版 
 
 特攻隊から共産党代議士へ、というサブタイトルのついた本です。東中(ひがしなか)光雄というと、弁護士というより代議士という印象が強いのですが、なんとゼロ戦ファイターであり、特攻隊の隊長だったというのです。そのころの凛々しい写真もありますので、間違いありません。軍国少年は海軍兵学校(海兵)に入り、海軍航空隊に入ってゼロ戦に乗り、教官にもなって、特攻隊に志願したというのです。そんな経歴の青年が、戦後は大学に戻って法学部から弁護士となり、人民の立場に立つ弁護士として頭角をあらわしていくうちに共産党の国会議員になり、30年間、代議士をつとめて引退したのでした。
 これだけでもすごい経歴ですよね。
 そして、奈良の薬師寺の名物管主として高名だった高田好胤(こういん。故人)師と小学生のころに同級生で、寺の修行のために勉強のできない高田師に勉強を教えていたというのです。なんだか不思議な取りあわせですね・・・・。
東中光雄は、当時、「一高、三高、陸士、海兵」と並び称された難関中の難関校に挑戦し、見事に合格した。 海兵を卒業したあと、筑波航空隊に小尉としてつとめ、1945年3月には中尉となった。千歳空港での飛行訓練のとき、乗っていたゼロ戦が故障した。東中中尉は、火災を起こさないよう燃料を使い切って着陸を決断した。数十分も上空を飛んだあと、片足しか出ない機体で、無事になんとか着陸した。
いやはや、なんとも度胸がすわっていますよね。たいしたものです。ほかにも、雲の上で、上下左右みな真っ白という状況におかれ、気がついたときには地面に向かって真っ逆さまという状態になっていたのを機体を立て直して事なきをえたという、心の震えるエピソードも紹介されています。
 特攻隊の募集があったのは1945年6月。20歳の東中中尉は「大熱望」と書いて上官に手渡した。内心は、仕方ない、やるしかないという気持ちだった。
 8月15日の玉音放送を聞いたときには、残念だという気持ちとほっとしたという気持ちが入りまじっていた。海軍兵学校67期(昭和14年卒業)から70期(昭和16年卒業)までの戦死率は60%をこえる。
 戦後、東中光雄は同志社大学に入学した。ところが、卒業の時点で、公職追放令にひっかかり、希望する教師や言論界への道が閉ざされた。そこで、やむなく弁護士を目指すことにした。体力勝負の滅茶苦茶な勉強をして一年たらずで司法試験に合格し、1949年4月に司法修習生(第3期)になった。この年は、7月に下山事件と三鷹事件、8月に松川事件といった謀略事件が相次いで発生した。
 1951年、東中光雄は弁護士となり大阪弁護士会に登録した。先輩の加藤充弁護士から、「絶対に敵の土俵にはいらない」「敵の土俵でケンカしない」ことを教えられた。1954年に独立して東中法律事務所を開設した。
 東中光雄の弁護スタイルの特徴であった、社会的正当性を法的正当性に高めるには、交流や実践を通じて若い弁護士たちに浸透していった。法律の条文形式上は困難に見える主張でも、社会的に正当であれば、とことん主張する。法的に勝ち目を見出すのが難しくても、現実的かつ妥当な解決に持ち込む、こうした観点で、弁護士たちの実践が交流され、点検された。
 そして東中法律事務所は事務所創立20周年を機会に名称を関西合同法律事務所に改めた。このあと、東中代議士の活躍ぶりが紹介されています。今の小選挙区制ではさすがに困難だと思いますが、中選挙区制のもとで、10期連続して当選したというのですから、それだけで感嘆してしまいます。日本共産党の議席が衆議院だけで38議席もあり、多くの弁護士議員が活躍していたのでした。東中代議士はロッキード事件、ダグラス・グラマン事件、リクルート事件、金丸信不正蓄財事件などなどで大活躍した。
 小沢一郎の政治献金事件なども、国会での追及が甘すぎると考えている私にとって、東中代議士のような存在は本当に必須不可欠なものだと痛感します。弁護士になってから、そして代議士としての活躍部分についても、もう少し読みものにしてもらえたら、さらに読みやすく、感動的な本になったのでは・・・。そんな注文はありますが、今なお86歳で、お元気の東中弁護士に大いに学びたいと思いました。
 読んで元気の出る本として、おすすめします。
(2009年2月刊。1600円+税)
 フランスの大都市には、貸自転車システムが整備されています。今回パリだけでなく、ディジョンでもリヨンでも待ちのあちこちに貸自転車が並んでいるのを見ましたし、実際、人々が自転車を走らせていました。
 都心部にこれ以上、車を侵入させたくない、また、渋滞で身動きとれないときに自転車は便利ですよね。
 観光客もクレジットカードがあれば利用できるようですが、その仕方も分かりませんから挑戦はしませんでした。
 なにしろ車は多いので、見知らぬ街での自転車の利用は、いささか危険を伴います。

私は虫である

カテゴリー:生物

著者:熊田千佳慕、出版社:求龍堂
 すごい絵です。生き物が躍動している、その瞬間が、実に細かく絵になっています。静止しているのではありません。飛翔中のカブトムシが、さながらの姿で描かれています。感嘆するばかりです。
 童話の挿絵の原画もあります。ファンタジーの世界が目の前に現出します。そんな絵を98歳までずっと描き続けた著者の言葉ですから、含蓄に富む言葉が多く、胸に響きます。
さっと読めますし、読んでよかったなと素直に思える本です。
 身のまわりにあるものに愛を感じ、美しさを感じ、楽しいひとときを持ち、生活の中に豊かな感性を持つことが本当のゆとりである。
 古来、日本人は、花鳥風月を愛する心を持ち、豊かな感性を持った生活をしていた。そこには本当にゆとりがあった。ゆとりとは作るべきものではなく、自ずからできるものである。
 物をよく見て、見つめて、見きわめる。そして、線を確認して鉛筆を走らすという画法を身につけた。
 17、8のとき、将来、小さい人たちのために仕事をするには、体だけでもピュアにしておこうと思って、それでお酒と煙草はのむまいと決めた。
 うへーっ、煙草は、ともかくとして、お酒まで絶たなくても良かったのでは、と思いました。
 いつも芸の仕事も他のことも、八分のペースを土台にしている。集中力を八分のペースですすめる。十のペースの力を八のペースの中で集中する。残った二の力は芸のゆとりにする。なーるほど、そういうことなんですね・・・。
 自然そのものがアートなんだから、こつを本当になくして、無心で入ってしまえばいい。そうしたら、そのままのものが出てくる。
 花の香りは花の命の香り。花の絵の究極の目的は、その花の香りの描写である。すなわち、花の命の描写である。うむむ、なんという言葉でしょう。言い放しにしないところがすごいですね。
 雑草という言葉は使わない。どんな小さな花でもみんな名前を持っている。どんなものを見ても、それぞれの美しさを持っている。
 虫と同じ目の高さにならないと、虫の本当の姿は見えない。だから腹ばいになる。
 そうやって気づいた。虫は僕であり、僕は虫である、と。人間様がいちばんえらいような顔をしているけれど、虫から見れば、所詮は同じ生き物。動物でも植物でも、根は一緒。この地球の上で共生している存在であり、お互い大切な存在なのだ。
 著者は野外でスケッチしないというのです。これには、さすがに驚きました。頭の中に、その姿を焼きつけておいて、家に帰ったらすぐに描きとめておくのです。
 うへぇ、これって、並の人間にはとても出来ないことです。さすが、ですね。
 活き活きとした緑や花のある家は、お金のあるなしではなく、幸せな、ゆとりある家庭を築いている。こんな論評があります。たしかに、そうは言えるのではないでしょうか。
 最後に、著者のペンネームの由来を聞いて笑ってしまいました。なんと、千人の佳人に慕われるように名付けたというのです。それでは、私も同じペンネームにしなくてはいけませんね・・・。
 著者の描いた絵の現物をじっくり眺めたいと思いました。
(2010年4月刊。1200円+税)
 フランスでは超高級レストランはともかくとして、人々は、ともかく店の外で飲食するのを好みます。
 カフェーもてんないより、歩道に引き出したテーブルで、通行人を眺め、自らも見られながら、ゆっくりコーヒー、ビール、そしてグラスワインを楽しんでいます。
 食事も、外の席から埋まっていきます。テラスのテーブルは、少し離れているだけで、ほとんど相席感覚です。
 なぜか虫がきません。蚊やハエに悩まされたことはほとんどありません。
 そして、不思議なことに、ウェイターもウェイトレスも客の出した勘定をろくに数えずに「メルシー」と言って受け取ります。もちろん、おつりをもらいたいときにはお釣りをくれます。このおうようさが不思議でなりませんでした。

物質のすべては光

カテゴリー:宇宙

著者:フランク・ウィルチェック、出版社:早川書房
 究極の感覚強化装置は、考える精神である。考える精神は、世界にはもっといろいろなことがあって、多くの点で目に映るものとは異なるということに気づかせてくれる。
 世界についての重要な事実の多くは、わたしたちの感覚に直接とび込んでは来ない。
 今や、物質と光は、まったく別のものという古い考え方は捨て去られた。
 たとえば、質量保存の法則は成り立たない。電子と陽電子が光速に近い速度で衝突すると、出てくるものは、入ってきたものより3万倍も重いことになる。
 すなわち、質量は実際に保存されない。質量は存在の根底ではない。
 E=mc2は、実際には静止している孤立した物体にしか当てはまらない。
光の粒子、つまり光子は、質量がゼロである。それなのに、光は重力によって曲がってしまう。光子のエネルギーはゼロではなく、重力はエネルギーに作用する。
 光子は電気的に中性である。光子は、互いに大々的に反応しあうことはまったくない。 超伝導体の内部では、光子は質量を持っている。超伝導体のなかで速度を落とした光子は、本当の質量を持っている粒子と同じ運動方程式に従う。
 宇宙の質量の大半(95%)は、電子、光子、クォーク、グルーオンから出来ているのではない。二つの種類がある。ダーク・マターとダーク・エネルギーと呼ばれている。これらの物質は、検出されるレベルで光を吸収することはなく、光を放出するところも観察されていない。
 ダーク・エネルギーは、よく分からない存在だ。まるで時空の本質的な属性であるかのように、完璧に均一に広がっていて、いたるところで、また過去から未来にわたって、同じ密度のようだ。
 ダーク・エネルギーは、負の圧力を及ぼす。さいわい、ダーク・エネルギーは、宇宙全体の70%を提供していた。ただ、その密度は水の密度の7×10-30倍しかなく、また、その負の圧力が相殺するのは、普通の大気圧の1兆分の1でしかない。
 分かった気にはさせてくれますが、とても難しい内容の宇宙に関する本です。それでも、宇宙の広大さに思いをはせて、楽しく、分からないなりに読みとおしました。
(2010年4月刊。2300円+税)

裸は、いつから恥ずかしくなったか

カテゴリー:日本史(江戸)

 著者 中野 明、 新潮新書 出版 
 
 日本人は江戸時代まで、男も女も人前で裸であることになんのためらいもなかった。風呂は混浴があたりまえだった。明治政府が外国からの批判を受けて禁止してから裸は恥ずかしいものとされ、今や逆説的に見せる下着が流行している。ところが、ドイツなどには、今も混浴サウナがあって、旅行した日本人が驚いている。
 なーるほど、と思う指摘ばかりでした。混浴風呂と言えば、私が小学生の低学年のころ、父の田舎(大川です)に行くと、集落の共同風呂があり、入り口こそ男女別でしたが、なかの浴槽は男女混浴でした。昭和30年代の初めのころです。そして、私が司法試験を受けていたころ(1970年代はじめ)、東北一人旅をしたとき、山の温泉は混浴が普通でした。昼間、私が一人で温泉に入っていると、山登りを終えた女子高生の一団がドヤドヤとにぎやかに乱入してきたので、慌ててはい出した覚えがあります。
私は残念ながら体験していませんが、ドイツやオーストリアでは、サウナに男も女も皆すっぽんぽんで堂々と入っているそうです。驚いた日本人女性がその体験記をブログでいくつも紹介しているとのことです。
江戸時代の銭湯が男女混浴であることに驚いた外国人によるレポートが図入りでいくつも紹介されています。ただし、江戸幕府は何度も禁令を出していたようです。天保の改革のとき、水野忠邦も混浴を厳しく禁じました。これって、7歳になったら男女席を同じくしない、どころではありませんよね。
 そして、夕方になるとタライで水浴びします。若い女性が素っ裸になって道路に面したところで水浴びしているのを、通りかかった外国人が驚嘆して見ていたのでした。
 人前での行水や水浴ばかりか、そもそも日本人は、性器を隠そうとする意識がきわめて低かった。そして、当時の日本人は、裸体を公然と露出していても貞操が危うくなることはなかった。要は、裸体とセックスの結びつきがきわめて緩やかだったのである。
 当時の日本人にとって裸体は、顔の延長のようなものであり、日常品化されていた。明治4年、裸体禁止令が出された。外国人の目を政府が気にしてのことである。
 明治9年、裸体をさらして警察に検挙された者が東京だけで2091人にのぼった。
 明治政府による裸体弾圧以降、日本人は裸を徐々に隠すようになる。この結果、日本人に裸体を隠す習慣が根づいていった。しかし、それには予期しない副作用があった。
 裸体を隠すことで、女性の性的魅力を高めてしまった。明治政府の裸体弾圧は、セクシーな日本人女性を形成するための一大キャンペーンになったのである。
 そもそも日本人は、現代でいうパンツをはく習慣はなかった。まして、ブラジャーをやである。男性は褌、女性は腰巻である。
 下着の一部を見せる現代の女性の行為は、現代社会が下着を隠す社会だからこそ成立するのである。そして、下着を隠す習慣が生まれることで、女性は裸体を五重に隠すようになった。現代の日本人の常識って、案外、底の浅いものだったんですね。
 
(2010年5月刊。1200円+税)

昭和天皇、側近たちの戦争

カテゴリー:日本史(戦後)

著者:茶谷誠一、吉川弘文館
 昭和天皇をめぐって、さまざまな思惑が微妙にすれ違い、天皇自身の意思も必ずしも貫徹してはいなかったという実情が詳細に、また実証的に明らかにされていて、大変面白く、興味深く読みました。著者はまだ30歳台の若手研究者です。学者ってやっぱりすごいなと思いました。
 遅くとも1946年1月までに、マッカーサーをはじめとするGHQは、日本占領統治の円滑化のために天皇制を利用することを決め、アメリカ本国にもその意見を伝えていた。つまり、GHQとアメリカ政府の日本占領統治方針として、天皇制の存続と昭和天皇の在位(退陣させないこと)が申し合わされていた。
 しかし、天皇の周囲には、天皇を戦犯・罪人として裁くべきだという声があり、少なくとも退位させようという声も強かった。
 昭和天皇は、即位直後から「統治権の総攬者」としての地位を自覚し、天皇大権の取り扱いについても、自分の意思を無視した恣意的な運用に厳しい目を向けていた。1927年に田中儀一内閣がおこなった中央・地方の官吏異動につき、天皇は牧野内大臣に対して反対の意思をもらした。
 張作霖爆殺事件が起きたのは1928年6月4日のこと。関東軍の謀略計画によってひき起こされた。翌1929年6月、田中儀一首相が張作霖事件の最終報告のため参内して昭和天皇に拝謁した。昭和天皇は、牧野内大臣らとの手はずどおり、田中首相に前回の上奏内容と矛盾していると叱責し、田中首相からの再説明を拒否して拝謁を打ち切った。結果として、田中内閣は総辞職した。
 牧野グループによる輔導の結果、積極的な政治介入の姿勢を見せる昭和天皇は、田中首相を叱責して内閣総辞職に至らしめるという事態までひき起こしたのである。
 田中首相叱責事件によって、天皇の政治意思の表明や親裁が抑制されていた大正時代とは異なり、あらためて天皇の意思が政局に重大な影響を与えることが各政治勢力に認識させる契機となった。そのため、天皇の意思と異なる政治思想や政策を抱く政治勢力からは、天皇の君徳輔導にあたる側近、とくに牧野グループへの批判が噴出するようになった。
 1930年7月のロンドン条約批准の際の惟幄(いあく)上奏阻止問題により、軍部や右翼から牧野内大臣、鈴木貫太郎侍従長ら天皇側近を批判する声が高まった。側近を批判する人々にとって、牧野や鈴木は、天皇の政治意思を独占し、自分たちに都合のよい聖意を形成させていると認識されていた。1930年代を通じて激化する側近攻撃は、いよいよ本格化のきざしを見せていった。
 1935年、国内では、天皇機関説排撃運動とそれに連動した天皇側近への排斥運動がおこっていた。なかでも、在職歴の長い牧野内大臣と美濃部達吉の師であった一木枢密院議長への批判が激しく、いわゆる重臣ブロック排撃が叫ばれた。
 牧野が内大臣の辞位を決意した背景には、軍部や右翼勢力になすすべなく追随していく時局への憂慮と側近間の意見対立から、それを阻止できないみずからの無力と孤立を感じていたことにある。
 1935年12月、牧野が内大臣を辞任した。これは昭和天皇にとっても衝撃であった。天皇は裁可したあと、声をあげて泣いた。
 1937年、日中戦争が勃発したあと、天皇は重要な外交問題が発生すると、御前会議の招集を主張することがあった。しかし、湯浅内大臣は、天皇の親裁や政治責任の波及という問題を避けるため、御前会議ではなく、閣議に親臨という形式にこだわった。失敗したときの責任追及が天皇に及ばないようにしたいということである。
 即位以来、天皇の大権意識は強く、輔弼(ほひつ)者による勝手な大権の行使には厳しい目を向けてきた。日中戦争以降も、天皇は輔弼者の施政に一任していたわけではなく、天皇大権にかかわる事柄には、とくに注文をつけ、適切な処理を求めていた。
 天皇は、防共協定強化問題に限らず、1939年5月から8月の平沼内閣総辞職までの期間において、天津租界封鎖事件と日英会談、ノモンハン事件、ナチス党大会への寺内寿一元陸相の派遣問題など、自身の信条とする強調外交路線に反する陸軍の行動全般について、不信感をいだいていた。
 天皇や湯浅内大臣の陸軍批判は痛烈となり、7月5日、天皇は板垣陸相に対し、陸軍内部の下剋上風潮や幼年学校からの軍事教育の偏重、板垣陸相の能力にまで言及しながら詰問した。湯浅内大臣は、陸軍は乱脈で、もうとても駄目だ、国を滅ぼすものは陸軍じゃないか、と憤慨していた。逆に、陸軍内では天皇の政治意思や権威が軽視されていた。
 天皇を、タテマエはともかく、ホンネでは単に利用できればいいと考えていた軍部。天皇に失敗した政策の責任が波及しないように汲々としていた側近など、さまざまな思惑が交錯していたことが、この本のなかで生き生きと描かれていて、大変勉強になりました。
(2010年5月刊。1700円+税)
フランスで日本のマンガが大人気であることを知り、大変驚きました。
 ディジョンの中央郵便局の前にはマンガ専門の小さな店があります。そこには日本のマンガ(もちろん、フランス語です)しか置いてありません。実は、2年前にエクサンプロヴァンスでも同じような店を見つけたのでした。ディジョンの店で私は『神の滴』を1冊買い求めました。フランス語にもワインの勉強にもなると考えてのことです。
 そして、中央郵便局の近くの大きな書店の2階にもマンガのコーナーがあり、そのなかには「少女」の棚までありました。こまやかなマンガのストーリーが好まれているようです。

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