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ヒマラヤに咲く子供たち

カテゴリー:アジア

著者:内野克美、出版社:中央大学出版部
 ネパールの子どもたちの実に生き生きとした笑顔にたくさん出会える写真集です。
 でも、ネパールでも、ストリート・チルドレンが増えているそうです。残念なことです。
 ここにも日本語学校があり、数ヶ国語を話す子どもが珍しくないとのこと。たいしたものです。
 ネパールでは兄姉が弟妹の世話をよくしています。兄弟姉妹よく助けあって生きているのですね。
 エベレストにのぼるときに40日間の旅をしたようです。すごいことですね。
 超大型カメラで撮影したエベレスト(8848m)の写真は迫力満点です。ゴツゴツとした威容に思わず息を呑みます。
最後に、その超大型カメラがうつっています。本当に大きいですね。8×10というのは、タテ8センチ、ヨコ10センチというのでしょうか。人間の頭よりも大きいカメラをもって、ヒマラヤの自然や人間を撮りまくっているのです。すごい迫力の写真集です。
 ネパールは、今、10年間続いた内戦がようやく終わって、一応平穏だということです。このまま平和が続くといいのですが・・・。
 内野さん、お疲れさまですね。私と同世代のようですが、無理をしないで、また、超大型カメラで撮った写真を見せてくださいな。
(2010年4月刊。2600円+税)

靖国神社の祭神たち

カテゴリー:日本史(戦後)

著者:秦 郁彦、出版社:新潮新書
 靖国神社は明治維新とともに誕生した。現在、祭神は246万余柱である。
 靖国神社は、国有国営の別格官幣社から単位の一宗教法人へ衣替えして今日に至っている。
 小泉首相(2001~2006年)は1年に1回のペースで参拝を続けたが、そのあとの安倍、福田、麻生、そして鳩山の各首相は公然たる参拝を控えている。
 昭和天皇も靖国神社へA級戦犯が合祀されてから参拝しなかった。1975年(昭和 50年)以降、天皇の参拝はない。
 西郷隆盛は、その死から12年後に罪名を取り消されて正三位を贈位されたが、靖国神社には合祀されていない。
 原則として天皇と天皇の統率する軍隊のために忠節を尽くした死者に限定され、反乱者や賊名を蒙った人々は対象外とされた。
 日清戦争直後までは、戦病死者は「不名誉な犬死」として合祀対象ではなかった。日清戦争の戦病死者の多くは、戦地における軍の衛生管理が不十分なことに起因するのは明らかだったから、救済する必要があった。しかし、民間人でも、日清戦争で軍に雇われ、「戦病死」した人夫(軍夫)は、合祀対象にならなかった。
 日露戦争のころは、捕虜と確認されるや、氏名が新聞発表されるほど、寛容だった。
 昭和10年までの女性の合祀者は累計で49人にすぎなかったが、支那事変以降は急増し、2006年末までの女性祭神は5万6161柱に達する。
 生存捕虜の情報を得ると、陸軍は将校の停年名簿から削除した。しかし、海軍は、終戦まで、士官名簿から外してはいない。
 戦後、遺族のあいだから靖国神社の存続を占領軍に請願する動きもあったが、インフレと食糧難の生活苦にあえいでいた一般国民の関心は急速に薄れ、年間の参拝者数は、ピーク時の192万人(1944年)から25万人(1948年)に落ち込んだ。
 私も一度は靖国神社に行ってみたいと思っています。それにしても、伊藤博文も、乃木希典も靖国神社に合祀されていないのですね・・・。
(2010年1月刊。1300円+税)

東大は誰のために

カテゴリー:社会

 著者 川人 博、 出版 連合出版 
 
 川人(かわひと)ゼミが20年も続いているなんて、すごいことです。心からなる拍手を贈ります。川人弁護士は、一期だけ後輩にあたります。この本は贈呈していただきました。
 私自身は大学の4年間、神奈川県川崎市(古市場)でセツルメント活動に没頭していました。2年生のときに東大「紛争」が勃発しましたので、もっけの幸いとばかり、授業はほとんど受けていません。大学生として必要なことはセツルメントで地域の人たちから、そして先輩たちから、またセツラー同士のふれあいのなかで学んだと思います。ともかく、地域にある現実の重みに圧倒されました。いまの日本で毎日の食事をとれない人々がたくさんいますが、当時も同じでした。これだけ「飽食の日本」なのに「オニギリを食べたい」と叫びながら餓死した人が現にいるのです。私の学生時代も典型的貧困と現代的貧困の異同を真剣に議論していましたが、本質的にはまったく同じ現象が今日なお存在するのに改めて驚くしかありません。
 川人ゼミは正式には「法と社会と人権」ゼミといいます。東大生のなかの最良の部分を結集しています。川人ゼミの卒業生は既に数百人に及びますが、そのなかの41人が手記を寄せています。すごい影響力です。官僚もいますし、医師や弁護士もいます。子育て中の人、農業に専念する人までいるのですから、まさに多士済々です。
 川人ゼミの特徴は、社会との接点を大事にし、現地に出かけたうえで、文系・理系の枠をこえて議論することにある。将来の専門を問わない幅広い学びの場は、学生が自らの体験を議論を通して学問へと高める機会として、社会の辺縁でこの学び舎を巣立った若者たちの力を必要とするためにある。
川人ゼミで味わった驚き、悲しみ、喜びを思い続けていきたいと思ったし、感じ続ける感性を失いたくないと思った。これは、私が大学一年生のときにセツルメント活動に入ったときに痛感したことと、まったく同じです。
川人ゼミは驚きの連続だった。フィールドワークに参加して、自分のまわりの世界が一気に開けた気がして、爽快だった。知らなかった現実をこれでもかと突きつけられ、もっと目を開けて世の中を見ろと、目玉が飛び出るほど目をこじあけられるような思いだった。自分が本当に知っていることはごくわずかで、ほとんどのことは知っているつもりにすぎないのではないかという思い。怖れともいえる感覚を、はっきり自覚するようになった。
川人ゼミが与えてくれたもののなかで一番大事なものは、ゼミの仲間だった。私にとっては、セツラー仲間こそ、もっとも大切なものでした。残念なことに今では日常的な交流はありませんが・・・・。
 川人ゼミは自らの夢や志を見つめる場でもあった。フィリピンのスラム街でホームステイして、理不尽な状況に置かれながらも、日々懸命に生きる人々の存在を、忘れ得ぬ体験として学んだ。川人ゼミの活動の本質は現場体験であり、現状を肌身で感じてくることだった。
 私たちのセツルメント活動でも同じようなことを、お互いに言っていました。そして、それを文章にするのです。総括すると表現していました。
20年間も続いた川人ゼミです。必ずしもイメージの良くない東大生ですが、東大生も捨てたもんじゃないな。そう思わせる内容の本で、うれしくなりました。
 弁護士会活動のなかでも元セツラーが何人もがんばっています。やはり、現実に密着して、若いうちに体験しておくことって、本当に大切なんですよね。いい本でした。
(2010年9月刊。2200円+税)

日弁連・人権行動宣言

カテゴリー:司法

 著者 日本弁護士連合会、 明石書店 出版 
 
 いまの日本で基本的人権がどれくらい守られ、また侵害されているのか、その全体状況がこの1冊を読めば、かなり分かります。本来、日本政府がやるべきことを、日弁連が代わって明らかにしているという意味で貴重な労作でもあります。
日弁連は、過去三度、『人権白書』を刊行している(1968年、1972年、1985年)。残念なことに、日本では、このような人権の全体状況をトータルに明らかにしたものは、政府発行のものをふくめて、他に見つけることができない。この本は、『白書』を補強し、現在の日本の人権状況を浮かび上がらせるものとなっている。
以下、いくつか恣意的にはなりますが、ピックアップして紹介します。
 生活保護世帯数は、1996年度から一貫して増加傾向にあり、2010年4月、135万世帯、187万人となった。この135万世帯というのは、1990年代前半には60万世帯だったから、その2倍となっている。
 貯蓄をまったく持っていない世帯は、1980年代に5%、1990年代に10%、2005年には24%と急増した。2009年の相対的貧困率は16%。
子どものいる一人親世帯の貧困率は54%。複数親の5倍になっている。一人親世帯の貧困率は、日本は59%であり、OECD加盟国30ヶ国のうちで一番高く、平均31%の2倍である。母子世帯は2000年に63万世帯。2005年には75万世帯となった。その平均所得は2007年に243万円で、一般世帯550万円の半分以下である。
 児童虐待は、2004年度は3万件を超し、前年度比で26%増。2007年度には4万件を超えた。1990年度の30倍である。
日本に暮らす外国人は、2008年末で235万人。日本の総人口の1.8%。そのうち韓国・朝鮮籍は59万人で、その人数は年々、減少している。
 難民認定を受けた人は、2008年に57万人で、ほとんどがミャンマー人。
この20年間に、死刑を廃止した国は、139カ国となり、死刑を認める58カ国の倍以上となった。死刑廃止・執行停止が国際的な潮流である。
 死刑を認める国は、日本のほか、アメリカ、中国、北朝鮮、イランなど。これって、アメリカが民主主義がないと非難している国ですよね。アメリカも、同じような国じゃないのかと、つい疑問に思ってしまったことでした。
 刑務所にいる無期懲役の受刑者は、1998年に45人だったのが、2006年には136人と、大幅に増加している。無期懲役刑の受刑者の仮釈放者は1998年には二桁だったのが、2007年にはわずか1人だけ。平均受刑者在所期間は、1998年に20年だったのが、2007年には31年へと大幅に延びている。受刑者の死亡も多くなった。
 この本は、2009年11月に和歌山で開かれた日弁連の人権擁護大会で公表された「人権のための行動宣言2009」の解説版です。大変コンパクトなものになっていますので、日本における人権状況を参照し、引用するときに便利な百科全書という気がします。日弁連の英知を結集したと言える内容ですので、ぜひとも大いに活用したいものです。全国の法律事務所だけでなく、国と地方自治体にぜひ一冊は備えてほしいと思いました。
 編集責任者である京都の村山晃弁護士が盛岡で開かれた人権擁護大会の会場外で自ら売り子となって汗を流していましたので、その熱意にほだされ、こうやって書評を書かせてもらいました。あなたも、ぜひ買って読んでみてくださいね。少しばかり高価な本ですが、その価値は十分ありますよ。
(2010年10月刊。3500円+税)

溥儀の忠臣、工藤忠

カテゴリー:中国

著者:山田勝芳、出版社:朝日新聞出版
 満州国の侍衛処長・工藤忠。ラストエンペラーから「忠」の字をもらった日本人。中国裏社会にも精通、張作霖爆殺事件の真相を握り、陸軍に疎まれながらも、溥儀に影のように付き添った男。中国と皇帝に生涯をささげた人物を通して新たな溥儀像、満州国像、昭和史に迫る。
 これは、この本のオビにある文句です。一人の中国人に最後まで誠心誠意を尽くし、決して裏切ることなかった日本人が紹介されています。客観的に見て、彼の果たした役割がどういう意味をもったのかはさておき、さわやかな読後感の残る日本人です。あの満州国で、駆け引き、打算で動く日本人ばかりではなかったことを知るのは、うれしいものです。
 工藤忠は明治15年(1882年)青森に生まれた。弘前にあった東奥義塾に入り、四年生、16歳のとき中退している。
 上京して中学に入り、剣道を学んだ。そして、朝鮮さらには中国大陸を旅行した。
 工藤は中国で生活するうちに秘密結社・哥老会の会員となった。日本人でこの秘密結社に入会できた人は珍しい。
 そして、1917年、34歳のとき、11歳の溥儀と出会った。運命の出会いである。
 このころ工藤は、陸軍の機密費から活動資金を得ていた。今の内閣機密費よりさらに巨額の機密費を軍部はもち、運用していたのです。お金こそ権力の強さの源泉です。
 1931年9月、満州事変が発生した。このころ、恐慌に苦しんでいた多くの日本人は、これで新たな利権先、就職先、入植先ができたと喜んでいた。軍が満州を制圧したころから、日本人が大挙して満州に押し寄せた。
 1931年11月、溥儀は工藤とともに天津を脱出した。このとき、溥儀は車のトランクに隠れてイギリス租界の港に行き、陸軍の船に乗り込んだ。ところが、この船には、ガソリンを入れた石油缶が一つ、ひそかに積み込まれていた。中国側に捕まったときは、火を放って船ごと溥儀を始末してしまう計画だったのだ。そのことを、工藤は後になって知らされた。
 こうして溥儀は満州に入った。このとき25歳。工藤は49歳だった。ちなみに、張学良は30歳、蒋介石は44歳であり、東條英機は47歳、満州に逃げ込んでいた甘粕正彦(大杉栄を殺した主犯)は41歳、近衛文麿は40歳だった。
 このころ、工藤は、日本陸軍にとって、むしろ煙たい存在であった。しかし、溥儀を動かす切り札として使わざるをえなかった。満州国で工藤が侍従武官・中将に任命されたことについて、陸軍は不満たらたらだった。工藤に軍歴がなかったからである。しかし、溥儀は、工藤に「忠」という名前を与えて、不満を封じた。
 満州国がつくられたとき、関東軍司令官(本庄中将)は、自ら傀儡政権(パペット・ガバーメント)をつくったと書いた本を出版していた。
 満州国皇帝に溥儀が即位したとき28歳、工藤は51歳であった。
 満州国の運営には、中国側(満)と日本側とで認識の違いがあった。外の国務院を内面指導しただけではうまくいかない。内の宮内府にも日本人をふやして、そこも完全な指導下に置こうとした。 溥儀は、常に毒殺されることを恐れていたが、工藤のもってくる食べ物については、まったく疑っていなかった。
 満州国には、国籍法がなかった。「王族協和」と言いながら、日本人が満州国籍をとるのに消極的だった。さらに、満州国内の朝鮮人の位置づけが難問だった。結局、1940年に「満州国暫行民籍法」が制定され、満州にいる日本人は日本戸籍法の適用を受けた。これが満州在住日本人の徴兵の根拠となった。
 1945年8月、溥儀39歳、工藤62歳だった。4月に日本に来て、満州に帰れないまま、工藤は日本で敗戦を迎えた。溥儀も終戦直後、飛行機で日本に来るはずが、ソ連兵に拘束されてしまった。
 戦後も、工藤は溥儀に忠誠を尽くし続けた。満州国は完全に関東軍が支配し、日本のほうが溥儀を裏切ったという思いが工藤には強かった。
 こんなに中国人に忠節をつくした日本人がいたのですね・・・。
(2010年6月刊。1500円+税)
 平泉の中尊寺そして毛越寺を見学してきました。20年ぶりのような気がします。藤原三代のミイラが保存されているというのは驚きですよね。戦国時代など、よくぞ戦火の中で滅失しなかったものです。なんといっても金箔ですからね。荒らされなかったのは奇跡ではないでしょうか。
 毛越寺(もうつうじ)は庭の復元が進んでいて、大宰府の曲水の宴ができるような水路まで再現されていました。
 小高い義経の館跡に昇って、遠くの山の大文字焼の跡を見、かつて人口10万人もいたという、今は水田になっている広大な平地を眺めました。
 国破れて、山河あり……の地に立ち、感慨深いものがありました。

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