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韓国映画史

カテゴリー:朝鮮・韓国

著者 キム・ミヒョン  、  出版  キネマ旬報社   
 
 私は「冬のソナタ」はみていませんが、韓国映画のファンの一人です。つい先日は、『戦火の中へ』 をみました。「ブロックバスター」という言葉があるそうです。1999年の「シュリ」や「JSA」「シルミド」「ブラザーフッド」などを指すようです。1000万人の韓国人がみたというのですからすごいものです。私ももちろん、みんなみています。なにしろ、人口
4700万人の韓国で1000万人の観客というわけですから、15歳以上の人口の27%がみたということです。これって、4人に1人以上の割合ですよ。すごいことです。
「シルミド」「ブラザーフッド」は、それまで劇場に足を運んだことのない40代、50代を新たな観客として呼び込んだからこそ可能となった。
「ウェルメイド映画」という言葉もあるそうです。こちらは、「よく出来た映画」という意味です。「JSA」も「ブラザーフッド」もウェルメイド戦争映画だということです。同じく「大統領の理髪師」もよかったですね。
「トンマッコルへようこそ」は素晴らしい映画だと思いました。韓国(朝鮮)戦争を扱っているのですが、深刻なテーマでありながら笑わせます。これが新人監督のデビュー映画だと知って驚嘆しました。韓国の映画人の底力というか、層の厚さを思い知らされます。
韓国映画と言えば、私はなんといっても「風の丘を越えて~西便制」を必ず挙げます。この映画には本当に心揺さぶられ、全身の皮膚が奮い立つ思いに駆られました。
この映画の興行の成功が一つの歴史的な事件でありえたのは、都市化によって消費社会へ急激に移行しつつあった当時(1993年の上映)、全羅道(チョハラド)という地域を舞台に、パンソリという失われた伝統へのこだわりと憐れみがこめられていたからである。
日本の歌謡曲の原点ともいわれているパンソリの圧倒的な迫力に、みているだけで手に汗を握って、つい身を乗り出してしまいました。まだみていない人には、DVDを借りて、ぜひご覧ください。人生を考えさせてくれる心揺さぶる最良の映画の一つです。ソウルだけで104万人韓国全土で220万人がみたというのも、うべなるかな、です。
私がみていない映画で、ぜひみてみたいのが「太白山脈」(1975年。この本では反共映画だと決めつけられていますが・・・・)、「南部軍」(1990年、智異山のパルチザンを客観的に描写しようとした)、「ホワイト・バッジ」(1992年。ベトナム戦争に派遣された韓国軍のベトナムにおける戦いを描いたもの)です。いずれも日本語版のビデオが入手できたら、ぜひみてみたいと思いますが、なかなか大変のようです。
 韓国映画は政府による反共政策の下で露骨な統制・検閲のなかにあっても、なんとか生きのびてきただけあって、そのタフさはすごいものです。そして、クォーター制という韓国映画保護政策もプラスに働いています。470頁もある大部な、しかも高価な本ですが、写真もたくさんありますから、楽しくなつかしい思いを胸にして読みすすめていきました。
(2010年5月刊。4200円+税)

観測的宇宙論への招待

カテゴリー:宇宙

著者  池内 了、    出版  日経BP社
 
 宇宙の果てはいったいどうなっているんだろう。137億年前に宇宙が誕生したって、どういうことなのかな。人が死んだら宇宙のかけらになるって言うけど、いったいどこに存在するんだろう・・・・。不思議なことだらけの地球と星、そして宇宙の話は昔からとても興味があります。
 1970年代に観測できるのは1億光年だった。1980年代には50億光年への拡大し、今や130億光年の彼方まで及ぼうとしている。すごいですよね。今では人類の目は130億光年をこえた銀河宇宙の果てに及ぶようになったというのですからね。
 今から410年前のころの信長時代には人生50年と歌っていたわけですが、今でも人生80年くらいのものですよね。それなのに1億年とかいうのですから、気も遠くなって見当もつきませんね。
 宇宙の年齢は137億年とされている。最初に生まれた銀河は宇宙の誕生後2億年ころと考えられている。現在、人類は130億光年の彼方の天体に迫っている。つまり、今では銀河宇宙の果てに迫っているわけだ。
 SDSSという日本共同研究は、夜空の4分の1を、およそ50億光年の遠くまでの銀河1億個を調べ尽くすという壮大なプロジェクトである。30年前、星が夜空に無数にあるから、どこを向いても光にあふれているはずなのに、なぜ夜空が暗いのかという面白い本を読みました。
 アインシュタインという天才であっても、宇宙の永遠性を信じていた。しかし宇宙は次々と生まれていると予測できる。すなわち、宇宙は一つだけと考えるのがむしろ不自然なのだ。宇宙は多重に存在すると考えられている。といっても、各々の宇宙は独立していて、お互いに交信することはありえない。
 うむむ、なんだか、分かったようで分からない話ですよ、これって・・・・。宇宙がいくつもあるなんて、どういうことでしょうか。
 クェーサー(準恒星状天体)は現在では3万個も発見されている。このクェーサーは地球の近くにはなく、50億光年から120億光年までという遠い距離に集中して存在している。これは恐竜のように過去に大繁栄したが、現在では絶滅して姿を消してしまったということでもある。
 ほとんどの銀河の中心部には巨大なブラックホールがあり、かつては大量のエネルギーを放出するクェーサーとして激しく活動していた。やがて、ブラックホールへのガス供給がなくなったため、クェーサーとしての輝きを失い、現在は普通の銀河として輝いている。
 ダークマターとは、電磁波では観測できないが質量をもって重力を及ぼす物質のこと。ダークマターは、光とは直接に相互作用はしない。また、ダークマターは、熱エネルギーを放出できない。ダークマターは必ず存在している。しかし、その正体が何であるのか、20年先まで残された難問だ。これまた、なんだかよく分かりません。そして次は・・・。
 ダークエネルギーは空間に付随している。空間が増えれば、その分だけダークエネルギー増加する。その正体はとらえようがない。こうなると、宇宙って不思議だらけです。
 宇宙がいくつもあるなんて、一体どういうことなんでしょうね・・・・?!
(2011年1月刊。2000円+税)

貧困都政

カテゴリー:社会

著者   永尾 俊彦 、  出版  岩波書店
 
 この本を読むと、こんな男に日本の表玄関である東京を任せていることに怒りというより、恥ずかしさに身をよじります。実に呆れた人間です。
 週に3日の出勤で年俸2908万円という超高給とりです。あとの4日は小説を書いたり、映画をつくったり、スポーツを楽しんだりの日々です。公費での海外出張が15回、これで合計2億4350万円つかいました。公費での飲食は7年間で155回、1615万円です。なにしろ1回の高級料亭の接待(9人)で、37万円もつかいます。まるで殿様気分です。
 東京にオリンピックを招致しようというので、IOC総会で着たスーツは1着26万円(もちろん私費なら何も問題ありません。せこいことに税金でまかなったのです)。北京オリンピック開会式に出席するときのホテル代は1泊24万円のスイートルーム。
 都知事という公職について、週3日しか登庁せずに贅沢ざんまいです。
東京オリンピック招致のための150億円(正確には125億円)の費用は、もちろん実現しませんでしたから、全部ムダになりました。このとき、電通に26億円も渡ったそうですから、一部の大企業からは神様のようにありがたがられるのも道理です。
 なぜ、東京オリンピックか? 石原慎太郎は次のように語った。
「周りの国に勝手なことを言われ、何かむしゃくしゃしているときに、面白いことねぇか、お祭一丁やろうじゃないか、オリンピックだぞ、ということでドンと花火を打ち上げればいいじゃないか、気分も浮き浮きして」(2006年3月の記者会見)
 なんという軽さでしょう。大金持ちが自分のお金を浪費するのなら、私は何も言いません。しかし、税金をこんな発想でつかっていいものですか・・・・? 
 東京都の財政規模は年12兆円。これは韓国の14兆円、ノルウェーの12兆円、サウジアラビアの11兆円に匹敵する。その大東京で、1999年には26人、2008年に43人もの餓死者が出ている。そして、年々、少しずつ増えている。
 都の生活保護世帯も、1999年の9万世帯、12万人から、2008年の15万世帯、20万人へ激増している。また、2000年から都営住宅は新設されていない。都有地を売却したところに家賃月300万円という高級マンションが建っている。
都内の特別養護老人ホームの待機者は4万人をこえる。
老人福祉費は1999年度は、2442億円で歳出総額に占める割合は3,8%、これは全国2番目だった。ところが、2007年度には1966億円に減って、2,8%となり、全国最下位に転落した。
 老人医療費の助成を廃止し、地下鉄やバスの無料シルバーパスも有料化された。なんと冷たい都政でしょうか・・・・。東京都にお金がないわけではないのです。オリンピック招致につかうお金はあっても、福祉にまわすお金はないというだけです。そんなのおかしいでしょう。政治は弱者のためにあるはずですよ。お金持ちは政治に頼らなくても自分で自分を守れるのですからね。
こんな都知事をもてはやすマスコミは、ジャーナリズムの自殺行為としか言いようがありません。毎日の新聞に石原慎太郎が記者会見で言った無内容で、ひどい偏見にみちた言葉がもっともらしく報道されるのを読むたびに、私は腹が立ってしかたありません。
(2010年2月刊。1600円+税)

江戸のエロスは血の香り

カテゴリー:日本史(江戸)

著者: 氏家 幹人、  出版: 朝日新聞出版 
 
巻末に主な参考文献・引用史料がたくさん紹介されています。これを見ると、江戸時代について書かれた本を相当よんだつもりになっている私ですが、学者に比べると赤子のようなものです。ちっとも読んでいません。だいいち、原典にあたっていないところが致命的な相違点です。
江戸時代、長崎に滞在していたある中国人は、日本人について、礼儀正しいが貞操を守らないと評した(『甲子夜話』)。江戸時代から今日に至るまで、日本人は老若男女の別なくかなりエッチなのである。
 江戸時代、武士の妻が貞節だったというのは幻想でしかない。文政7年(1824年)、吉原遊郭が炎上し、仮宅での営業が許された。すると、この仮宅を訪れた見物人の8割は女性で、しかも武家屋敷の女性が多かった。
 江戸時代の性の倫理は、過酷な刑が定められた一方で、思いのほか緩やかだった。泰平の世が続くにつれ、その傾向はさらに顕著になった。妻の不倫が発覚しても、処刑や流血沙汰に至るケースは稀になり、通常は間男(不倫相手)から寝取られた亭主に「首代」(くびだい)と呼ばれるお金が支払われて示談が成立した。「首代」は7両2分とされたが、大阪では5両。間男が貧しければ、さらに小さい額で示談が成立し、なかには夫が妻の髪を切るだけで事済みになった例もある。
 不義密通は武士の世界でも庶民の世界でも、日常茶飯化していた。皇族の男女だって駆け落ちしたくらいなので、大名や旗本の妻女駆け落ちも稀ではなかった。
 幕府や藩の役人は心中事件の処理に手心を加えていた。幕府自身が心中未遂で死にそこなった男女の扱いについて、幕府の定めた法を曲げるように勧めていた。心中未遂で晒し者となり非人の配下になっても、親族が非人頭にお金を払って身柄を引き取って、なんのことはない、二人はめでたく結ばれることがあった。そんな魂胆から、狂言心中を企む男女も少なくはなかった。うひゃあ、ここまでくると、驚きですね・・・。
 「茶呑男」という言葉を初めて知りました。正式な夫は持たないが、熟年の性欲を適度に満たしてくれる男友だちのこと。お一人様の老後を、「茶呑男」をこしらえて乗り切ろうという小金もちの女隠居がいた。
 江戸時代の本を読むと、現代の性風俗かと思うばかりです。日本人って、本当に変わらないのですね・・・・。
 
(2010年11月刊。1500円+税)

関東戦国史と御館の乱

カテゴリー:日本史(戦国)

著者   伊東 潤、乃至 政彦、 出版   洋泉社歴史新書
 
 戦国時代のことがすっごくよく分かる面白い本です。なるほど、なるほど、戦国時代の武将たちはこんな考えで、こんなふうに行動していたのかと、感嘆・驚嘆しながら読みすすめていきました。
 御館(おたて)の乱を扱っています。NHKの大河ドラマ『天地人』で有名になりました。
上杉謙信の死によって大正6年(1578年)に勃発した御館の乱こそ、関ヶ原にも匹敵するほどの戦国史上の大事件だった。
 御館の乱をやっとの思いで勝ち抜いた上杉景勝は織田信長勢に押されていたが、天正10年6月に「本能寺の変」が起こって、景勝の苦境は一掃された。その後は、秀吉の忠実な傘下大名として生き永らえた。
 武田勝頼が北条氏政との同盟を死守する気持ちが少しでもあったら、御館の乱は景虎が制し、甲相越三国のあいだには、強固な同盟関係が築けたはず。そうなれば織田信長とて、おいそれとは武田家に手が出せず、日本史は現在あるのとは違った様相を呈したであろう。それは、関ヶ原の勝敗が逆となったときよりも劇的な違いだったはずだ。
 しかし、上杉景虎は景勝に敗れた。それを間接要因として武田家も滅んだ。そして、それが北条家の滅亡をも招き、日本は統一国家の道をひた走ることになった。
父信虎の方針を否定して家督を奪取した武田信玄であったが、結局、その領国拡大策は変わらなかった。否、いっそう積極的になった感さえある。それは甲斐国のかかえる根本的問題に起因していた。つまり、信玄にも外征による領国拡大策以外に甲斐の国内問題、すなわち飢饉と飢餓を解決する術がなかった。
天文22年(1553年)9月、武田信玄と上杉謙信との間に第一次川中島合戦が勃発した。信玄が決戦を避けたので、謙信は撤退した。同年11月、謙信は初めての上洛を果たし、後奈良天皇に拝謁し、天盃と御剣を授かるという栄誉に浴する。これを契機として謙信の勤皇熱が高まった。
天文23年(1554年)、信濃国領有に成功した信玄と、関東領有を目ざす北条氏康のあいだに利害対立はなくなり、さらに西進策をとっていた今川義元もまじえて三国間に同盟締結の機運が盛りあがった。この年に締結された甲相駿三国同盟は相互不可侵と攻守同盟を基本としていた。この同盟の特徴として三国間の婚姻による同盟の補強があげられる。すなわち、信玄が嫡男義信に今川義元の娘を迎え、今川義元が嫡男氏真に氏康の娘を迎え、氏康が嫡男氏政に信玄の娘を迎えることで、三国同盟をより堅固なものとした。この同盟は永禄11年(1568年)まで15年あまりも続いた。
上杉謙信は1556年、27歳のとき出家得度し、すべてを投げ出して高野山に出奔した。若き信玄は戦国大名という職業に嫌気が差してしまった。
上杉謙信には二人の養子がいた。三郎景虎と喜手次景勝である。景虎は北条三郎と名乗っていた。景勝は、かつて謙信に敵対していた上田長尾政景の次男であった。
景虎も景勝もともに、かつて謙信と敵対した勢力を出身する養子だったが、二人とも謙信から実子に優るとも劣らない待遇を受けた。そして、謙信は、景虎の政治基盤を解体せずに景勝の権威昇格を試みた。謙信初名の「景虎」と由来の曖昧な「景勝」では、どう考えても景勝が上位とは言い難い。つまり、謙信は、自らの官途名を譲ることで景勝を引き立てつつも、そこに歯止めをかける存在として、景虎を残したと考えられる。北条方と再び対立した謙信は、またもや反北条の旗頭として、国内や関東の諸士を連れ回し、対北条作戦を継続させねばならなくなった。しかし、北条を実家とする景虎が後継候補では、家中の結束は固まり難く、関東諸士の参戦も危ぶまれた。北条方の矢面に立たされる関東諸士としては、謙信に従って戦うことが北条氏政の実弟である景虎を益することにもつながるというジレンマを抱えることになった。そして、謙信は、北条方との戦いを再開するにあたり、何をおいても景虎を後継とする体制を見直す必要があった。
謙信の祖先は代々、越後守護職・上杉家の家宰として越後国の統治を代行する一族であり、あくまで守護上杉家の補佐役としての権限しか持っていなかった。信玄との川中島合戦において、謙信は正式には主従関係になり国内領主たちを動員してつかい回すのに「勝手に帰国しないこと」という陣中法度があるように苦労していた。このように未熟な権力であったからこそ、謙信は京都の伝統権威に接近した。
うひゃあ、謙信政権の内実って、それほど堅固なものではなかったのですね・・・。まったくイメージが違っていました。
謙信の死は天正6年(1578年)3月のこと。その死から2ヶ月もたって、御館の乱が始まった。以下、御館の乱の推移が詳しく紹介されています。それを読むと、当時の武将たちが気骨のある一城の主(あるじ)だったことがよく分かります。戦国時代の様子を知る絶好の書物です。
(2011年2月刊。860円+税)

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