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日本国憲法の旅

カテゴリー:司法

著者  藤森 研、    出版  花伝社
この本の序文(はじめに)に著者は次のように書いています。日本国憲法の大切さを自分の仕事と生活のなかで実感したというのはすごいですよね。弁護士をしていても、憲法を日頃意識するのは、実は私にしてもそんなに多くはないのです。反省させられました。
この35年間、新聞記者として事件や司法、教育、労働、戦後処理、ハンセン病、メディア問題などを取材した。その時々の課題を追う社会部記者の暮らしのなかで、いつもどこかで気になっていたのは、私の場合は、日本国憲法だったように思う。
著者は大学時代に、小林直樹教授の憲法ゼミに所属していたとのことです。そして、今は新聞社を退職して、専修大学で学生を教えています。
日露戦争のとき、与謝野晶子が「きみ死にたまうことなかれ」と反戦詩を発表したのは有名ですが、その前に、ロシアの文豪トルストイもイギリスで同じような反戦の論文を発表していました。いったい、晶子はトルストイの論文を読んでいたのか。著者は読んでいたと断言しています。時期として矛盾しないし、内容に類似性があるということが根拠になっています。実は、私は別の本でも、このことを追跡しているのを読んだばかりですので、著者の考えに同感です。
そして、晶子が日露戦争のあと、変節したのかと問いかけています。晶子は満州旅行に出かけたとき、ちょうど奉天で日本軍による張作霖爆殺事件に遭遇したのでした。この事件は、当時の日本では満州某重大事件として真相が秘匿されていましたから、晶子が真相を知っても、その考えを発表することはできなかったでしょう。
軍隊を持たないコスタリカにも著者は行って現地で取材を重ねました。モンヘ元大統領は次のように語ったそうです。
私たちは軍隊を持っていないだけに、どんな小さな紛争も看過せずに調停と仲介を通じて、積極的に平和をつくり上げていく。私たちの中立主義はイデオロギー的な立場で唱えているのではなく、人間の自由と人権を守る方向で考えている。アメリカは複雑な国だ。ペンタゴン(国防総省)やタカ派は反対であっても、アメリカ議会は我々の立場を承認する方向にあった。
そして、コスタリカでも注目すべきは選挙です。サッカーと選挙は国民的な祭典である。投票日直前になると、全国一斉に禁酒となる。過熱によるケンカの予防のため。ただし、これはコスタリカだけではなく、他の多くのラテンアメリカの国と同じ。そして、子ども選挙が行われている。高校生たちが企画・運営し、10歳前後の子どもたちが大人と同じように本物そっくりの投票箱に投票用紙を入れる。こうやって、子どもたちは民主主義とは何かを体験し、学んでいく。実践的な公民・政治教育が盛んにすすめられている。いやあ、これっていいことですね。日本で政治に無関心な人が多いのは、子どものとき学校できちんと教えられていないことにもよりますよね。
 コスタリカ政府がアメリカのイラク侵攻を始めたのを支持する声明を出したとき、一人の法学部生が憲法に反対すると提訴した。そして、最高裁は政府によるアメリカ支持の声明を違法とし、その声明の取り消しを命じる判決を出した。
 うむむ、これってなかなかすごいことですね。こうやって憲法をつかい、定着させていくわけですね。日本では、その点の努力がまだまだ弱いですよね。
 著者は本の最後を次のように締めくくっています。これまた、とても大切な言葉だと思いました。
 日本国憲法を世界に活かしていく歩みは可能だと思う。望めば、その歩みに直接かかわることもできる国に暮らしていることを、恵まれたことだと私は感じる。
 実は、著者は私と同じころ大学(駒場)にいたのでした。学生のころは面識がありませんでしたが、今では年賀状などをやりとりする関係にありますので、この本も贈呈していただきました。ありがとうございました。じっくりと読むに価する本だと思います。 
(2011年1月刊。1800円+税)

ヒロシマ

カテゴリー:日本史(戦後)

著者 ジョン・ハーシー、   出版 法政大学出版局
 
 この本の初版が発行されたのは1949年4月のことです。全世界に原爆の惨禍を知らせ、ピュリッツアー賞を受賞したのでした。広島に原爆が投下された、その瞬間にいあわせて生き残った6人の戦後史が淡々とした筆致で描かれているので、かえって原爆のむごさ、非人道性が浮き彫りになっていきます。もちろん、何十万人もの罪なき人々を一瞬のうちに殺戮した残酷さはもっともっとひどかったことでしょうが、全世界の人々に原爆の惨禍を知らせた点に大きな意義のある本です。
50年たった2003年に7月に刊行された増補版を読んでも、まったく古臭さを感じさせません。それどころか、テロリストへの核拡散の脅威まである今日、ますますその意義は大きくなっています。
原爆投下前、何週間にもわたって、毎夜のようにB29が広島上空を飛んできた。その警報が頻繁なくせに、「Bさん」が相変わらず広島を敬遠しつづけていることが、かえって広島市民をびくびくさせ、アメリカ軍には広島向けの何かとっておきがあるらしいという噂が立った。日本の主要都市のなかで、京都と広島だけが、まだ「Bさん」、日本人は尊敬と不本意ながらもなれなれしさとをこめて、B29をこう呼んでいた、の大挙訪問を受けていなかった。
 投下の直後、驚くべき景観を見た。にごった大気越しに眺めうるかぎりの広島市街から、恐ろしい毒気がもうもうと立ちのぼっていた。やがて、おはじき玉大の水滴が落ちはじめた。
ただの一撃で、人口24万5000人の都会で、即死もしくは致命傷が10万人、負傷者も10万人以上にのぼった。少なくとも1万人の負傷者が、広島市中随一の日赤病院に押しかけてきた。病床は600にすぎず、それも全部ふさがっていた。道路を何百、何千という人が逃げてくる。一人残らず何かしら怪我をしているらしい。眉は焼け落ち、顔や手の皮膚はむけて、ぶらさがった人もいる。痛さのあまりに、両手で物を下げたようなかっこうで、両腕をさしあげたきりの人もある。たいてい裸か、着ていてもボロボロだ。素肌の火傷が、模様のように、シャツの肩やズボン吊の形になった男もいる。白いものは爆弾の熱をはじき、黒っぽい着物はそれを吸収して皮膚に伝えたので、着物の花模様がそのまま肌に焼きついた女の人もいる。
 ほとんどすべての人が、うなだれ、まっすぐに前方を見つめ、押しだまって、何の表情も見せない。
負傷者を船で運ぶとき、どの人の背中も胸も、ねちゃねちゃする。朝みたときは黄色で、それがだんだん赤くふくれ、皮がむけ落ち、夕方には、ついに化膿して臭くなった。ぬるぬる生身を抱いて船から出し、潮のこない斜面にまで運び上げる。これは、みんな人間なんだぞ、と何度も何度もわざわざ自分に言いきかせなければとても我慢できかねた。
爆発後の数日間、あるいは数時間だけでも安静に寝ていた人々は、動きまわったものより発病がはるかに少なかった。
男子は精子を失い、女子は流産し、月経は閉止した。
 いま、弁護士会は国是と言われてきた非核三原則の法制化を検討しています。核兵器をつくらず、持たずについては罰則つきで定めるのは容易なのですが、問題は「持ち込ませず」です。例の核密約がありますから、万一のときは、いつでもアメリカは日本の基地に核兵器を持ち込んでくるのではないかという心配があります。
ただ、時代が変わったことも間違いありません。オバマ大統領のプラハ演説のあと、アメリカもそれなりに核兵器をなくす方向には動いています。沖縄そして岩国や三沢などにあった核兵器は今では、完全に撤去されているようです。そこで、「持ち込ませず」が実現している今こそ法制化のチャンスだということです。国会で承認・可決されるような案を日弁連としてまとめて上げることができたらうれしいのですが・・・・。
ヒロシマそして長崎に落とされた原爆の惨禍を追体験できる貴重な本です。
ちなみにアメリカは配置済みの核兵器を減少させながらも、核攻撃力の強化をはかる政策が巨額の予算で推進しているようです。そのため、アメリカには深刻な経済不況がうまれているわけです。
 いかなる状況であれ、いかなる目的のためであっても、核兵器の使用は重大な人道に対する罪であり、最終的には、いかなる紛争も軍暴力によっては解決できない。
本当に、そのとおりだと確信させられる本です。
(2003年7月刊。1500円+税)
福島の原子力発電所が地震が起きて10日以上にもなるのに依然として爆発の危機を脱していないのは恐るべき事態です。現場で懸命に復旧作業にあたっている東電の社員の皆さんには心から敬意を表しますが、「絶対安全」と言い続けてきた東京電力という会社自体はあまりにもひどいし、津波の規模が「想定外」だったという弁解は成り立ちません。格納容器が破損するなど、あり得ないはずの事態が目の前で今も進行しているのを知ると、身震いしてしまいます。ともかく一刻も早く放射能の拡散を止めてください。そして、政府は「心配ない」と言うだけでなくもう少し具体的に説明してほしいと思います。
この本を読んだのは今年はじめのことです。まさか、現代の日本でこれほど放射能被害を深刻に心配しなくてはいけないとは想像もしていませんでした。それこそ「想定外」の事態です。

宇宙より地球へ

カテゴリー:宇宙

著者  野口 聡一、  出版 大和書店
 
 国際宇宙ステーションに半年近く滞在していた宇宙飛行士の野口さんによる体験記と宇宙から見た地球の写真が満載の楽しい写真集です。宇宙ステーションというと、私の子どものころは鉄腕アトムと同じで夢物語でしかありませんでした。それが今ではなんということでもなく(!?)往復できるものになっているのですね・・・・。
打ち上げから8分後には、宇宙にいる。窓から、丸い地球が見えてくる。
澄み切った青い地球の姿が見えます。公害問題も、環境汚染もまったく感じられない地球です。
 国際宇宙ステーションはサッカー場を超える大きさ。うへーっ、これって超大きいですよね。宇宙ステーションの窓から地上がよく見えます。アフリカの砂漠も、アマゾンの密林も、アメリカも日本も・・・・。
宇宙で食べる献立もメニューが豊富になったようです。夕食はみんなそろって歓談しながらとるといいます。やっぱり団結するには一緒に食事するのが不可欠ですよね。
 シャワータイムもあります。でも、宇宙では水はとても貴重なものです。地上のように、流しっ放しというわけにはいきません。最後に洗い流さなくてもいいシャンプーをつかったりして、なんと全身を洗っても100ccのお湯で足りるというのです。驚きました。
 20年前、フランスのグルノーブルへ一人旅したとき、初めシャワー付きの部屋しかないと言われて、それはダメ、風呂のある部屋にしてほしいと交渉したことを思い出しました。旅先で手足をゆっくり伸ばしてゆっくり風呂に浸かってリラックスしたいと思ったのです。なんとか、つたないフランス語で風呂付の部屋に替えてもらって喜んだことでした。
宇宙船のなかでは、よく物がなくなってしまう。ええーっどうして・・・・?もちろん、他のクルーが盗るなんていうことではありません。重力がなくて、すべての物体がふわふわ浮いているため、空気の流れに乗って動いていってしまうのです。だから、空気を読むのは宇宙でも大切なのだ・・・・。なんだか、ちょっと違いますよね。
宇宙船にじっとしていて、何もしないと骨が弱くなってしまう。そこで、毎日、2時間は運動していた。筋トレは宇宙に長期滞在すると欠かせないのですね。
宇宙から見える地球の姿を眺めていると、地球上の紛争なんて、いかにもちっぽけ過ぎると、つくづく思ってしまいます。まあ、私など、そのおかげでメシを食わせてもらっているのですが・・・・。
(2011年2月刊。1400円+税)
早くもチューリップがつぼみになりました。今週にも咲きはじめることでしょう。隣家のハクモクレンの純白の花が満開です。通勤途中にはコブシの白い花が咲いている並木路があります。
日曜日に事務員さんの結婚披露宴がありました。久しぶりの披露宴です。身近な弁護士に入籍したけれど披露宴はしないという人が何人もいます。今回も仲人はなく、最後の挨拶も新郎のみで、親からのお礼の言葉というのはありませんでした。
私の事務所の全員がビデオレターで登場したのですが、あとから「楽しそうな事務所ですね」と声をかけてもらい、所長としてうれしく誇らしく思いました。
それにしても「絶対安全」のはずの原子力発電所の事故による放射能もれは恐ろしいことです。自衛隊より消防庁のほうが役に立っている現実がありますが、大会社の嘘は絶対に許せません。
一刻もはやく放射能もれを止めさせてほしいですよね。

前方後円墳の世界

カテゴリー:日本史(古代史)

著者 広瀬 和雄、  岩波新書  出版 
 
3世紀中頃から7世紀初めにかけての350年間に、日本列島に5200基もの前方後円墳が築造された。そのうち墳長100メートル以上の大型のものは302基。畿内地域に140基が集中している。 
首長の生活拠点や生産基盤から離れた地点に前方後円墳がつくられた背景には、多数の人々に見せるという目的があった。 
古墳時代の共同体の繁栄には、亡くなった先代と当時の二人の首長によって保証されるという共同幻想があった。 
古墳のふもとに埴輪群像を立てている区画がありました。その再現写真は見事なものです。首長権の継承儀礼、もがり、葬列、生前顕彰、墓前、祭祀などのシーンがさまざまな形をした埴輪によって再現されているのです。
 弥生墳墓によるかぎり、大和地域の政治勢力が他地域の首長層を力で屈服させたという説明は困難である。むしろ、各地の勢力が共存していたのではないか。
 前方後円墳と前方後方墳の併存は、各地の首長層に政治的なランク付けがあったことを物語っている。前期古墳の墳丘規模や埋葬施設、あるいは副葬品の各寡からすれば、東国首長層には一段低い地位が与えられていたと解される。
古市古墳群と百舌鳥古墳群を造営した二つの有力首長が、津堂城山古墳、石津丘古墳、仲津山古墳、誉田山古墳、大山古墳、ニサンザイ古墳、丘ミサンザイ古墳の順で、輪番的に大王の地位を七大にわたって世襲した。したがって、百舌鳥・古市古墳群における巨大古墳の登場を、大和から河内での政治中枢の移動、もしくは河内で力を蓄えた政治勢力が大和勢力から政権を奪取したとみなす「河内政権論」は成立しがたい。
平城宮をつくるとき、巨大前方後円墳である市庭古墳の前方部が削平された。ほかにも、いくつか完全に破壊された古墳がある。
中央と地方の首長たちを結びつけ、代々の系譜的なつながりで政治的正統性を確証し、首長層の一個の価値体系をなしてきた前方後円墳を、奈良時代の貴族は見事に否定している。個々には連続性ではなく断絶、異質のものが認められる。
うむむ、前方後円墳を知らずして日本の古代は語れませんが、そこに新しい視点が持ち込まれています。大変に刺激的な内容ですし、大いに勉強になりました。
(2010年8月刊。720円+税)

細川三代、幽斎・三斎・忠利

カテゴリー:日本史(江戸)

著者  春名 徹、  藤原書店 
 
熊本城の大広間が再現されたのを見ましたが、それはたいしたものです。佐賀城の大広間の再現にも感嘆しましたが、やはり熊本城のほうがはるかにスケールが大きいと思います。その熊本城の主であった細川家は、戦国時代を生き抜いて熊本に定着したわけですが、それに至るまでは決して安穏した状況ではありませんでした。そのことが実によく分かる本です。500頁もある分厚い本ですが、最後まで興味深く読み通しました。
細川家三代の基礎をつくった幽斎・細川藤孝は12代足利将軍義晴(よしはる)の側近、三淵(みつぶち)大和守晴員(はるかず)の次男である。ところが、実は、藤孝の本当の父親は将軍義晴であったとも言われている。いずれにせよ、藤孝は、織田信長と同年の生まれ、秀吉より3歳、家康より8歳上であった。
藤孝は足利将軍義昭につかえていたが、織田信長が抬頭するなかで、信長につかえるようになった。そして、ついに将軍義昭を見限り、信長についた。
藤孝は、信長が安土城を居城として京都一円を支配していたとき、丹後国の支配をまかされた。
天正10年(1582年)光秀が信長を殺害したとき、藤孝は光秀の娘を妻(玉。ガラシャ)としていた息子・忠興を試した。しかし、親子そろって、光秀には組みしなかった。幽斎と忠興父子は、秀吉支持で一貫した。
利休の切腹、朝鮮出兵そして秀次失脚によって細川幽斎も、忠興もきわどいところを切り抜けていったようです。そして、忠興の妻、ガラシャ(光秀の娘)は大坂方(石田三成)に攻められ、自決した。
細川家が本に書かれやすいのは、膨大な手紙が残されているからです。
忠興は、三男忠利に対して、現在するだけで1700通、その他をあわせると2千通も残っている。そして、忠利も、光尚あてに1400通が残っている。忠利の手紙の総数は4千通といいますから、半端な数ではありません。
徳川政権の確立期に、ひたすら情報を集め、政治の推移をうかがい、自らも家を保ち、それを円滑に後継者に継承するための過程を生彩ある筆で描きだしたのである。
すごいですね。細川家が熊本に入ってからも、いろいろありました。その一つが、島原の乱です。そして、阿部一族の事件の真相は・・・。これらについても大変興味深く、読み通しました。
                   (2010年10月刊。3600円+税)

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