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どうすれば「人」を創れるか

カテゴリー:人間

著者  石黒 浩    、 出版   新潮社
 自分にそっくりのロボットがいて、それを操作できるとしたら・・・・。これって、便利なようで、実は怖い話のような気がします。
 アンドロイドとは、人間酷似型ロボットのこと。アンドロイドがいると、何が見えてくるのか、そのアンドロイドは自分に何を教えてくれるのかを、この本は考えています。
 ロボット大国日本と威張っていたように思いますが、福島原発事故では、残念ながら日本のロボットは活躍できませんでした。これも「絶対安全」の神話のもとではロボットの必要性がなかったということなのでしょうか。何億円もかけていたようですが・・・・。
ロボットには不気味の谷というものがある。見かけは人間そっくりなのに、動きがぎこちないと、非常に不気味なアンドロイドになる。まるでゾンビのような不気味さが出る。見かけが人間らしいものであればあるほど、動きも人間らしくないと、人は非常に不気味な感じをもつ。
 ロボットらしい見かけから、人間の生々しい声が聞こえてきたら、見かけと声のバランスが崩れ、奇妙に思ってしまう。だから、ロボットのしゃべる声は、あらかじめ録音された合成音にしている。
アンドロイドを遠隔操作が出来るようにした。長く遠隔操作していると、だんだんそのロボットの体が自分の体のように思えてくるようになる。
 私たちは、他人が見ることのない左右逆転した鏡の中の自分の顔を自分だと重い、他人が見ている写真の顔を本当の自分とは少し違う自分と思ってみている。つまり、私たちは常に自分に対して、少し誤解しながらに日々を過ごしている。左右を入れ替えた画像は一方が男っぽい顔となり、もう一方が女っぽい顔になる。なーるほど、いつも鏡に映った顔を自分の顔とばかり思ってみていましたが、それは他人の見ているものと微妙に異なるのですね・・・・。
 時間さえかければ、人間はたいていのものに人間らしさを感じるようになる。人とは、それほどまでに適応性が高い。
電車の中でケータイで話しているのを聞くと迷惑に感じるが、客同士の会話は、それほどではない。そうでしょうか・・・・。そこで、遠隔操作のアンドロイドと話しているとどうなるか。ケータイと同じ仕組みになのに、人はやがて迷惑と感じなくなる・・・・。
 アンドロイドをつくっていくのは人間とは一体いかなる存在なのかを考えさせるものでもあることがよく分かる本でした。でも、自分そっくりロボットがいて、いつまでも若々しかったら、ちょっとどうでしょうか・・・・。やっぱり、お互い困りますよね。面白い本でした。
(2011年4月刊。1400円+税)

歴史のなかの江戸時代

カテゴリー:日本史(江戸)

著者  速水 融    、 出版  藤原書店 
 江戸時代のイメージは、ひと昔前まで暗かった。搾取と貧困。鎮国、義理人情。これらが江戸時代をあらわす常套句だった。
 ところが、江戸ブームが起こって、一転して賛美する風潮になった。今度は、江戸時代は決してバラ色ではなく、少なからず暗黒面を有する社会であったと述べざるをえない状況になった。
天保の大飢饉といっても、じつは飢饉以上に感染症による被害が大きかった。都市における公衆衛生の欠如から、平均寿命も実は農村より都市のほうが短かった。
庶民を対象とする寺子屋の存在は大きく、基本的な読み書きソロバンの教育により、地域差はあっても一般庶民の識字率はかなり高かった。そこで、出版物の市場が開け、多数の書籍が世に出た。貸本屋によって村々をまわり、書籍が買えない人にも余沢が与えられた。民衆全員が知的好奇心にあふれる社会が出現した。
日本人って、本当に昔から好奇心のかたまりだったようですね。
 江戸時代に農産物の生産量はかなり増大していった。武士層は剰余部分を自分のものにするのに失敗し、商人と農民が手にした。農民の生活水準は向上していった。
 中下層の商人もビジネスチャンスを求めて走り回った。ひとり乗り遅れた武士層は、本来、政治支配層であるのに貧窮化する。藩全体としても貧窮化がすすみ、武士層の富商からの献金・借財は増え続け、中下級の武士のなかには「御仕法替え」と呼ばれた一種の破産宣告を受け、年貢の収取権を失い、決められた額でのつつましい生活を余儀なくされた者までいた。実は、江戸時代が本当に封建社会だったのか、大いに疑問なのである。
 江戸時代の人々は、都会でも田舎でも、非常に穏やかに生活していた。殺しのようなものは、ほとんどなかった。
朝鮮貿易は、ある時期、長崎での中国・オランダ貿易よりも多く取引されていたこともあった。これは、対馬藩が貿易の実態を江戸の幕府に極力隠していたために、最近まで判明しなかった。釜山の倭館には、500人から1000人もの日本人の住む町があった。朝鮮貿易は、銀のほか朝鮮人参、白糸が入ってきていた。
幕府としても、中国大陸で何が起きているかを正確にキャッチしたい。その情報網が必要だった。
 徳川幕府は、日本の銀を朝鮮から結局、中国へ輸出していた。そして、代わりに日本は金を輸入していた。日本は金の島ではなく、銀の島だった。
 江戸時代、年貢は高いとしても、相続税はないし、消費税などの財産税もなかった。
江戸では、武士も町人も一緒になって生活していて、士農工商と、はっきり分けられてはいなかった。
日本人が裁判を重視する習慣は鎌倉時代にまでさかのぼる。
 ザビエルが日本に来て、日本人が次々にとんでもなく難しい質問するので、朝も夜も眠れない、これは法難であると嘆いた。好奇心のかたまりの日本人から質問責めにあって困ったという話です。うそのような本当の話です。
 江戸時代についてのステロタイプな常識を見事にひっくり返してくれる本です。
(2011年3月刊。3000円+税)

世界終末戦争

カテゴリー:アメリカ

著者    マリオ・バルガス・リョサ  、 出版   新潮社
 ノーベル文学賞を受賞した作家の本です。1981年に書かれていて、2段組で700頁もある大長編です。登場人物も多いし、いくつもの異なった場面が断章として次々に登場してくるので、とてもわかりにくい本です。そして、その並べ方が物語の時間とは必ずしも一致しいていないため、読者は頭のなかで行ったり来たりさせられ、まごついてしまいます。私にとっては、とてもわかりにくい本でしたが、最後に訳者は、「とても分かりやすい小説」だとしています。本当でしょうか・・・。
 それはともかく、19世紀のブラジルで実際に起きた事件を顕在とした小説なのです。
 ブラジルには人類ないし肌の色をさし示す単語が300もある。1822年にポルトガルから独立して、ブラジル帝国となり、1888年の奴隷解放をへて、ブラジル共和国となった。
 ブラジルは植民地時代から一貫して海岸部だけで成り立つ国家だった。取り残された内陸部がセルタンウ(閑地)だった。そこに、原住民と白人そしてインディオとの混血者が大多数を占め、カプクロと呼ばれる。セルタンゥ人は、最近でも1958年そして1970年に異動を起こしている。この本は、それよりもずっと以前、1897年に起きたカヌードス反乱を取りあげている。
 民衆の代弁者としてたてまつられるコンセリェイロは1876年ころにはブラジルでよく知られる存在になっていた。ブラジルは、共和制になった1893年に迫害されるようになった。
 コンセリェイロとその信者は、ジャグンソ(反徒・盗人)と呼ばれるようになった。カヌードスという町に集まり、やがて住民は3万人にもなった。そこへ、新生ブラジル共和国が軍隊を派遣して鎮圧しようとした。1896年11月、鎮圧に向かった軍隊が、信者たちに敗北して逃げた。翌年2月のモレイラ・セザル隊は勇猛の名をほしいままにした精鋭の軍隊だったが、一日で壊滅してしまった。
 このようにして一年も続いた鎮圧戦によって信者たちは敗北した。しかし、この1年間にブラジル共和国政府は、7500人もの兵員を送り込んで、そのうち2600人もの死傷者を出した。これは近代軍としては敗北に近い結果だ。
 信者軍は、現地に無能な共和国の正規軍を、あらゆる手段を駆使して徹底的に悩ませ、やっつけた。つまり、ゲリラ戦に勝った。結論はともかくとしてまるで、アメリカによるベトナム戦争を想起させる展開です。
 決して読みやすい本ではありませんが、ブラジル史に興味のある人には必読だと思いました。
(2010年12月刊。3800円+税)

武士の評判記

カテゴリー:日本史(江戸)

著者    山本 博文  、 出版   新人物ブックス
 寛政の改革で有名な松平定信がつくらせた『よしの冊子』をもとに、当時の江戸城内や江戸市中に起きている出来事を分かりやすく紹介した面白い本です。
 松平定信は、八代将軍の孫。定信は田沼意次を恨み、敵視していた。刺し殺そうと決意したこともあるほど。そして田沼を厳しく批判する長文の意見書を将軍家治に提出した。将軍家治が没し、11代将軍家斉が跡を継いだ。
 このとき、田沼時代の老中たちは定信が老中になることを嫌って妨害した。しかし、天明の打ちこわしが起きたりして、ついに定信は老中になった。このとき、幕臣や江戸の庶民から喝采をもって迎えた。ところが、やがて厳しい倹約政策によって不景気となって期待がしぼんでいったのですよね。
 『よしの冊子』は、定信が部下に命じて江戸の実情を探らせたレポート集のようなもの。
定信は田沼とちがってワイロをもらわなかった。そうすると、老中になって、わずか2ヵ月で2332両(4億6千万円ほど)の経費がかかった。当時、老中が進物や賄賂を受けとっていたのは必要悪という側面があった。
定信が大奥の御年寄(大崎)を辞めさせたという話がある。しかし、大奥の人事は、それこそ将軍の専決事項であり、定信といえども即座に辞めさせられなかったはず・・・。
田沼意次の評判の多くは事実無根のことで、単なる噂にすぎない。意次が失脚したあと、悪いことは何でも田沼のせいにされてしまった。実際、田沼意次は相応の賄賂を受けとっていたが、当時は、他の老中を初めとして、役人たちはみな賄賂を受けとっていた。田沼意次は破格の出世を遂げただけに周囲の嫉妬は強く、権力の座から落ちた時の世間の風は冷たかった。
 老中人事は、老中が将軍に提出する複数の候補者のなかから、将軍自身が選ぶという形でおこなわれる。老中に任じられたのは、おおむね早くから評判のよい譜代大名だった。大名の役職は持高勤めで、役職手当はつかないので、基本的に持ち出しになる。
 旗本がつとめる幕府の役職では、第一の大役は町奉行で次が勘定奉行だった。裁判をする人は公事宿(くじやど)という訴訟に出てきた百姓向けの旅館に滞留する。公事宿の主人は、幕府の裁判に精通しており、現在の弁護士のような役割を果たしていた。
 定信が推進した政策はデフレ時代を現出させた。バブルに浮かれた田沼時代と比較され、予期せぬ不満も受けることになった。定信が御役御免になったという情報が伝えられると、幕臣たちはみな驚愕し、江戸城内は大混乱になった。町奉行池田は、城中、人目をはばからず大声で泣いた。というのも、このころの幕閣中枢部は、ほとんど定信の人事による。そのため、誰もが驚き、悲しんだ。表の役人は誰もが定信の辞職を嘆いた。だから、定信を追い落とした黒幕は中奥役人以外には考えられない。
定信の老中辞任は、まず将軍家斉が思いつき、その相談を受けた奥兼帯の老中格大名がそれに賛意を示したことで突然の仰せ出されになったものではないか。家斉は定信がいると、自分の思いどおりにならないことから定信の退任願いを許可したのだろう・・・。
 寛政の改革の裏話のひとつとして面白く読みました。
(2011年2月刊。1400円+税)

パレスチナ・イスラエル紛争史

カテゴリー:ヨーロッパ

著者    ダン・コンシャボク、ダウド・フラミー  、 出版   岩波新書
 エルサレム生まれのパレスチナ研究者とアメリカ生まれのユダヤ人がアラブ・イスラエル紛争史をお互いの視点から語った本です。容易に意見は一致しません。それでも、いま現地で両者が憎しみ、殺しあっているわけですから、このような「平和共存」の本が出版されるのには大きな意義があると思います。
 パレスチナは、大シリアの一部として400年ものあいだ、オスマン朝カリフの支配下にあった。そのパレスチナには小さなユダヤ教徒コミュニティが存在しており、その一部はエルサレムやヘブロンなどの宗教的重要性をもつ主要都市に常住していた。これらのコミュニティはずっと昔からあり、アラブの隣人とともに平和に暮らしていた。
 19世紀末、パレスチナの人口は60万人。10%がキリスト教徒、4%がユダヤ教徒であり、大多数がスンニー派のムスリムだった。さまざまなコミュニティ間の関係は概して平穏で、それぞれが独自の生活を営んでいた。
第一次世界大戦の終わる前に出されたバルフォア宣言は、シオニストとイギリス政府による交渉の結果であり、イギリス政府はユダヤ人が郷土を獲得するための支援を真剣におこなうこと、その郷土はパレスチナに存在することを明言していた。
 嘆きの壁は、ユダヤ教徒とムスリムの双方にとって重大な意義をもつ場所である。
 ユダヤ人の運動には、国際レベルでの財政的・組織的な支援があった。パレスチナへの移民は先進的な社会からやって来た人々であり、最底辺の人々でさえ、アラブ人よりは高い洗練された一般教養をもっていた。多くの人々が高度な教育を受けているか、高度な技術をもっており、しかも、明確な動機につき動かされていた。
 他方、パレスチナの大半は、無気力状態に沈み込んでいた。
 イギリス軍が最終撤退した翌日の1948年5月14日、イスラエルの建国が宣言された。この新国家を最初に承認したのはアメリカで、ソ連がそれに続いた。
1967年6月、イスラエルとエジプトは6日間戦争をたたかった。この日、エジプトにある全飛行場への奇襲空爆によって、エジプト空軍機の大半が離陸する前に破壊された。
 この戦争の結果、イスラエルが中東地域において圧倒的な軍事力を有する国家となったことが明らかとなった。
 1972年の10月戦争は、イスラエルの不意を突いた。10月6日、開戦から90分でエジプト軍はスエズ運河に橋頭壁を築き、翌日には運河の東5キロ地点まで進軍し、運河東岸のイスラエル軍の複数の要寒を完全に掌握した。
 1980年代半ば、イスラエル古領地には煮えたぎる不満が広がっていた。そこにインティファーダが勃発する。物質的および精神的に従属してきたパレスチナ文化は、もはや何も失うものがないことを悟った。石をもった幼い少年たちが、まるでゴリアテの面前に立ちはだかったダヴィデのように、自動小銃で武装したイスラエルの兵士に立ち向かった。
 インティファーダは、現実を生きるパレスチナ人、占領下で暮らす民衆の怒りの爆発であった。ユダヤ人は隣人との平和を模索してきたが、アラブ人は戦争を仕掛けた。
 イスラエルは、その歴史を通じてユダヤ人をその土地から追い出そうとするアラブ民族によって包囲されてきた。最近では、インティファーダによってアラブ住民がイスラエルの支配下を覆そうとしてきた。
 パレスチナ人がイギリスによる統治を選択したのではなく、むしろイギリスの支配が押しつけられた。ユダヤ人は、イギリス政府によって代弁されていた。その一方で、パレスチナ人はイギリスとフランスの利害で分割された中東の従属的民族にすぎなかった。
 パレスチナにおいては、いったい誰が侵略者で、誰が被害者なのか。パレスチナ人は、自分の祖国を防衛する自由の戦士なのだ。
 ヨーロッパのユダヤ人へのホローストはアラブ人ではなく、ヨーロッパ人が犯した罪である。しかし、その代償を払っているのはアラブ人である。今、陵辱された者が陵辱する者になっている。
 以上、よく分からないままに不十分な紹介をしてしまいました。
 アラブ(パレスチナ)人とユダヤ人との和解はきわめて難しいこと、しかし、その手がかりはまだあることを思い知らされる本です。
(2011年3月刊。3400円+税)

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