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慈しみの女神たち(上)

カテゴリー:ヨーロッパ

著者  ジョナサン・リテル    、 出版  集英社 
 ずっしり重たい本です。読みすすめるのが辛くなる物語です。
 上巻だけで上下2段組、500頁あります。ユダヤ人を大量虐殺したナチ親衛隊将校の手記という構成なので、大虐殺状況を目撃して、それをずっとずっと語っていくのです。気が滅入ってしまいます。
いくらユダヤ人を豚以下の存在だと言われても、目の前にいるユダヤの人々はやはり同じ人間なのだから、どうしても、そこにためらいが生じる。
女性や、それ以上に子どもたちの場合、私たちの仕事はときに非常に困難で、胸を抉られるようなものとなった。兵士たちは絶えず不満を漏らしており、とりわけ家族のいる年長のものたちがそうだった。無防備なあの人々、子どもたちを護ることもできず、ただ殺されるのを見ていなければならない。そして子どもたちとともに死ぬことしか出来ないあの母親たちを前にして、わが軍の兵士たちは極度の無力感に苛まれ、自分たちもまた無防備であることを感じていた。
このような状況に何ヶ月もさらされたなら、健康な精神の持ち主であれば、後遺症、それもときに重大な後遺症に見舞われないことは不可能なのだ。
あるSS少尉は正気を失い、幾人もの将校を殺害したのちに、自らも射殺された。上層部は前代未聞の命令を下した。良心からにせよ、弱さからにせよ、ユダヤ人を殺すことを自らに課すことが出来ないものは、他の任務への配属や、さらにはドイツの送還のために全員が幕僚部へ出頭しなければならないというもの。
恐るべき虐殺が証明していることがひとつあるとすれば、逆説的なことに、それはまさに人類の、痛ましい、変わることのない連帯である。
 どんなに獣のようになり、どんなに慣れてしまっても、我々の兵士の誰ひとりとして、自分の妻、妹、あるいは母を思うことなしにユダヤ女性を殺すことはできないし、目の前の穴に自分自身の子どもたちの姿を見ることなしにユダヤ人を殺すことはできない。
彼らの反応、彼らの暴力、アルコール中毒、神経衰弱、自殺、私自身の悲しみ、これらすべてが証(あかし)立てているのは、他者が存在すること、他者として、人間として存在することであり、また、どんな意志も、どんなイデオロギーも、どれだけの量の愚行やアルコールも、細いけれども堅固なこの絆(きずな)を断ち切ることはできないということだ。これは事実であって、意見ではない。
38歳のアメリカ人が大量の本を読みつくして4ヶ月で書きあげたというのです。恐るべき筆力です。
(2011年2月刊。1000円+税)

ノーザン・ソングス

カテゴリー:ヨーロッパ

著者    ブライアン・サウソールほか  、 出版   シンコーミュージック・エンタテインメント
 なつかしのビートルズの著作権をめぐる本です。ビートルズは私が高校生のころ一世を風靡しました。「イエスタデイ」とか「ミッシェル」と言ったポール・マッカートニーのバラードなんかも最高でしたね。
 夏に市営プールで泳いでいると、ビートルズの「イエローサブマリン」の曲が流れてきたことを今も鮮明に記憶しています。これは高校生というより中学生のときかもしれません。
 ジョン・レノンがアメリカで射殺されたのもショックでしたね。アメリカって、本当に恐ろしい国だと思いました(実は今も思っています)。
 音楽の分野で天才だった四人組も、商売の分野ではなかなか苦労したようです。
音楽出版の世界において著作権ほど重要なものはない。ソングライターと出版社にとって、「著作権は絶対に手放すな」という金言は不変である。
レノン&マッカートニーは、自分たちの曲の著作権を実際に放棄したわけではなかった。相次ぐ契約によって、作品がどんどん資産価値を上げていく渦中で、気がつくと手元から消え失せてしまっていたのだ。
 音楽出版社と契約をかわすことで、ソングライターは楽曲の所有権(つまり著作権)の一部を譲渡する。その代わりに出版社は、その楽曲を売り込み、そこから得られた収入をソングライターと事前に合意した割合にもとづいて分配する。通常は50対50がいいところだが、売れ行きによっては作家側の取り分が増えることもある。普通は純利を分配するので、音楽出版社側はデモ録り、事務所経費、交通費などの費用を控除することができる。したがって、作家とり分50%というのは、総収入を100としたときの50ということではない。
 出版社と作家が受けとる使用料を徴収するのは著作権管理団体であり、その徴収の範囲は、演奏、放送、録音に及ぶ。
 スナックがカラオケを無断で利用していると、この著作権管理会社から請求書が届き、裁判を起こされるというのは、日本でもよくあります。
 1962年の音楽ビジネスは、現在と同じくロンドン中心部に拠点をもつレコード会社と音楽出版社を中心に回っていた。彼らは業界を何十年にもわたって支えてきた不動の原理原則を行使し、才能あふれる若きミュージシャンたちの運命を握っていた。そこでは、クリエイティブな人間よりも、決定権を持つ企業が常に優位な立場にあった。
 1963年、わずか2枚のヒット・レコードを出しただけなのに、ビートルズは既にイギリス業界を席捲しつつあった。ツアーは売り切れ、テレビやラジオに出演すると、ティーンエイジャーにとって、それは「絶対に見なくてはならない」ものになった。たしかに、すごい熱狂でした。
 1963年、「シー・ラブズ・ユー」は数週間のうちに100万枚をこえて売れた。
 1964年の「キャント・バイ・ミー・ラブ」は英米で250万枚の予約注文数を記録した。
 1965年の時点で、四人組は若き大金持ちになっていた。
ところが、イギリスの高額所得税は83%、それに異進付加税として、さらに15%が足された。なんと98%の税率です。これは、いくらなんでもたまりませんね。
そこで、節税対策が始まります。しかし、それはそれで四人組の仲間割れにもつながるのでした。四人組が全員そろってレコーディングスタジオに入ったのは1969年8月が最後だった。
 そして、その結果、ポール・マッカートニーが自分の出演映画で「イエスタデイ」を使おうとすると、会社(ATVミュージック)に許可申請しなければならなかったのです。なんということでしょう。曲をつくった人が自分の曲を自由に使えないなんて・・・。
 音楽著作権の世界の難しさをなんとなく実感させられる本でした。
(2010年4月刊。2400円+税)

想定外シナリオと危機管理

カテゴリー:司法

著者    久保利  英明  、 出版   商事法務
 企業法務の第一人者として名高い著者は、全農全国中央会や原発被害を受けた農家の代理人として東電との交渉にあたっているとのことです。
 著者は、本件は、東電対国民の事件であり、自分は生産者と消費者である国民の側に立つと宣言した。すなわち、福島原発事件は、東電が真面目にリスクと向きあい、時代の変化に応じたリスクマネジメントを採用していれば、防げたという意味で人災であり、東電の責任である。本件については、東電や原子力安全保安院には予見可能性も回避可能性も認められ、巨大津波の影響ではなく、さまざまな人災の集合として重大な注意義務違反が認められる。
 東電の想定は考えられないほど甘いものであり、それに対して運転許可を与えてきた保安院など政府の対応は国民の安全を軽視したものであった。東電も国も、最悪事態を想定し、そこで発生する過酷事故対策マニュアルを用意する義務を怠った。
福島第一原発だけで合計5000本もの高温の燃料棒が浸かっている。原子力発電とは、サイクルが完結していないものであり、それを安価、経済的と説明してきたことの説明責任も問われる。
謝罪するのは社長でなければならない。これがなされなければ何一つ始まらない。真摯な謝罪の意思を社長が表明したうえで、その後の会見は担当役員(総勢3人以内)で行うことを明示する。
 被害者への謝罪はできるだけ低い姿勢で、目線をすりあわせるコミュニケーションが必要である。説明は定性的でなく定量的に、具体的かつ論理的に、また平易に述べる。
 記者会見終了のタイミングは難しい。概ね1時間がすぎたころ、一瞬発言がとぎれたタイミングをすかさず、「それでは本日のところは、この程度とさせていただきます」とびしっと締め、出席者は全員が素早く起立して淡々と一礼し、特設した退場口から引き上げる。
 お詫びの礼は、長めに5秒。一斉にお辞儀をし、一斉に顔を起こす。服装もクールビズはやめ、ダークスーツで、前のボタンをかけ、白いYシャツに地味なネクタイをキッチリ締めておく。汗を拭いたり、眼鏡をずらしたりなどの動作はしない。カメラの前で絵になってしまうから。
 さすがは長らく企業法務を手がけてきた弁護士らしく実践的かつ説得力があります。東電だけではなく、一般に企業の不祥事対応としても役立つ書物だと思いながら読みました。
(2011年6月刊。1600円+税)

運命の人(1~4巻)

カテゴリー:社会

 山崎豊子 文春文庫
 沖縄返還をめぐって、日本政府が密約をかわしていたことが今では客観的に歴史的な事実として定着しています。惜しむらくは、そのことについての国民の怒りが少々足りないということです。日本人って、どうしてこんなに大人しいのでしょうか。
福島原発事故で放射能が現に拡散しているにもかかわらず、既に多くの日本人が慣れて、あきらめている感があるのも同じ日本人として解せないところです。
 それはともかくとして、政府とりわけ外務省がアメリカの言いなりに外交交渉をすすめてきたこと、そして、ずっと国民を欺してきたこと、今も隠し続けていることに腹が立って仕方ありません。
 それをすっぱ抜いた毎日新聞の西山記者に対して、外務省の女性事務官と「情と通じて」と起訴状にわざわざ特記して大キャンペーンを張り、ことの本質から目をそらさせた政府、マスコミも許せません。
 おかげで西山記者は家族ともども長く日陰の身を過ごさざるをえなくなりました。まさに、正義はどこへ行ってしまったのかと慨嘆せざるをえない有り様です。
 著者はそこを本当にうまく書いていきますので、実に自然に感情移入させられ、涙と怒りで頁をめくるのがもどかしくなってしまいます。
 この本は、最後に少しばかり救いがあります。『沈まぬ太陽』にも、いくらかの救いはありました。それでも、その代償がいかに大きかったことか。
そんな不正義を許さないためには、この本を読み、政府と外務省の自主性のなさ、アメリカ言いなりの情ない姿勢に対して怒りの声をあげることではないかと痛感しました。
 依頼者の方から勧められて読んだ本です。
            (2011年2月刊。638円+税)

小牧・長久手の戦いの構造

カテゴリー:日本史(戦国)

著者  藤田 達生    、 出版  岩田書院 
 天正12年(1584年)に羽柴秀吉と織田信雄・徳川家康連合軍との間に勃発した小牧・長久手の戦いは、関が原の戦いにも比肩する「天下分け目の戦い」であった。うひゃあ、そうだったんですか・・・・。
 小牧・長久手の戦いでは、織田信長と徳川家康連合軍の陣営は、長宗我部元親、佐々成政、北条氏政、伊勢・紀伊の一揆勢力などと連携しつつ広大な秀吉包囲網を形成して10ヶ月間にわたって戦争を遂行した。
羽柴秀吉は本能寺の変の起こる直前は備中高松城(岡山市)を攻めていた。このとき、秀吉は毛利氏との講和を結び、急いで京都へ取って返した(中国大返し)。なぜ、毛利氏は秀吉からの講和の申し入れに即座に応じたのか。それは、重臣層が離反していて毛利氏は一丸となって戦える状況になく、弱体化していたからである。
 なーるほど、そういうことだったのですね。毛利氏は、長年に及ぶ戦闘で相当に消耗しておりこれ以上の危機は回避すべきであると対極的に判断していた。秀吉にしても今後の信長の西国政策を考慮すると、有力水軍を従え北九州も影響力の毛利氏を滅亡させてしまうのは、水力軍の劣る織田方とって得策ではないと判断したと思われる。
 小牧・長久手の戦いは、小牧・長くてエリアに限定された局地戦ではなく、広範囲にわたる大規模戦役であった。長久手の戦いによる敗戦以前は、秀吉は野戦による短期決戦をもくろんでいたことがうかがえる。
 信雄・家康は早期に上洛して秀吉を京都から追い払い、天下を取って京都に正当な中央政権を打ち立てることを目ざしていた。それに対して、秀吉の究極的な攻撃目標は家康の領国である三河・遠江への総攻撃であった。
小牧・長久手の戦いは、天正12年3月の羽柴秀吉と織田信雄の戦い、4月から6月にかけての秀吉と家康の戦い、それ以降11月までの和戦両方を見こした戦いという三段階に分けることができる。この全時期を通じて、両陣営とも周辺諸国からの攻撃による相手兵力の分散化を積極的に行っていた。全国の大名・土豪層が信雄・家康対秀吉という図式に組み込まれ、全国を二分する戦争へと拡大することとなった。
 長久手での戦いが徳川氏にとって、華々しい勝利であったことは事実である。しかし、結果的に人質(養子)を出すことになったのは、ここで勝利した信雄・家康方である。この戦いで両者の攻防が終わったのではない。
 確かに秀吉は尾張国では優勢だった。しかし、たとえば本願寺・長宗我部氏が敵方となって秀吉領国まで攻勢に出たとき、その攻勢先に兵力をさかねばならず、そう考えると予断を許さない状況であったと言える。つまり、これまでの戦いとは違って、この戦いは全国的な大規模戦争となったため、たとえ個別に優勢であっても戦争終結までいつ情勢が激変するか分からないことになったのである。
 家康は小牧合戦後、すばやく自覚的かつ一方的に人質を秀吉に出した。なぜか?信雄が戦列を離れた直後の局面で、単独で秀吉に対抗するのは困難だと判断したのが第一の理由だろう。
尾張国での信雄、家康と秀吉の直接退治は、兵力的な差があり、家康から先制する攻撃はなかった。対する秀吉も、大きな被害を伴う直接対決を避けながらの攻略が中心だった。その結果、両陣営は長期対峙することになった。
そのとき、この状態を打破すべく用いた戦術が、周辺諸国からの攻撃による相手兵力の分散化であった。これは両陣営の外交活動は、まさに目に見えない攻撃となった。超陣営とも、このような戦術を大々的に実施した結果、この戦いは尾張、美濃両国に集まった当事者だけでなく、東は関東から西は四国、中国まで、幅広い地域に直接的に影響を与えることになった。その結果、全国の大名・土豪層が信雄・家康対秀吉という図式に組み込まれ、さらには、この戦いのあと、天下を取った秀吉の政権それ自体にも組み込まれていくことになった。つまり、この戦いは、全国を二分する戦争へと拡大した結果、豊臣政権にとっての「天下分け目の戦い」へと発展していったのである。
小牧・長久手の戦いを学者の皆さんがこれほど本格的に研究しているなんて、驚いてしまいました。学者ってすごいですね。とりわけ、秀吉や家康が書いた書状を解析するところなんて、私からすると神業(かみわざ)に思えてなりません。
(2006年4月刊。8900円+税)

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