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人間と国家(上)(下)

カテゴリー:社会

坂本 義和 岩波新書
 私が大学2年生のときに始まった東大闘争のとき、著者は加郎一郎総長代行を補佐して活躍していました。もちろん私は直接には何の関係もなかったわけですが、なんとなく東大当局のメンバーの一人として漠然と著者に対してマイナス・イメージを抱いていました。
 ところが、この本を読むと、著者は反核・平和の取り組みも熱心にすすめてこられたことを知り、私の認識不足を恥じいるばかりです。
 今はもう取り壊されてしまった駒場寮に、著者も生活していたようです。ただ、「一部屋10人前後」というのは本当でしょうか。私のときには「一部屋6人」でした。10人だといくら何でも詰め込みすぎです。戦前の一高時代、そして住宅難の終戦直後はそうだったのでしょうか・・・。
 戦前の一高、そして駒場寮には反軍意識がみなぎっていた。
 それはそうでしょうね。だって、勉強をほっぽらかして兵隊にとられて戦場へ死にに行けなんて強制されるって耐えがたいことですからね。
 終戦後の駒場寮で、寮のアパート化が進行したと書かれています。
 ベットの周囲にシーツをカーテン状につるして、共同の部屋をコンパートメントに分断することがあたりまえになっていった。
 ええーっ、これって東大闘争の終わったあとにも見かけた現象なんですよ。それまで、6人で読書会をしたり、みんなで集まって議論していた空間がどんどんなくなっていくのを、私も目のあたりにしたのです。そのころも、同じように「寮のアパート化」と言って問題にしていた気がします。
 著者はアメリカに留学し、帰国してからは、アメリカのベトナム侵略戦争へ反対する運動に関わります。さらには、1968年8月のチェコへソ連軍などが侵攻したことへも抗議しています。
 我妻栄名誉教授がベトナム戦争に反対していたことも知ることができました。
 以上が上巻です。下巻には、いよいよ東大闘争との関わりが登場します。
 著者は、さすがに「東大紛争」と呼びます。しかし、私は渦中にいた学生の一人として「紛争」という言葉には抵抗があります。
 だって、東大当局が警察機動隊を勝手に入れておいて、きちんと釈明しなかい、騒動の発端となった医学部生の処分に事実誤認があったとの指摘をまともに検討しなかったなど、そのときの東大当局の姿勢に大きな不手際があったことは明らかだからです。
 ただ、著者の認識について、「本当かな?」と首をかしげるところもいくつかありました。
 東大闘争を暴力化させたのは全共闘なのです。それなのに、「どちらかと言うと、日共系が武装をエスカレートさせました。・・・その日共系の『武力』に対して、全共闘系は恐怖心を持ったようで・・・。全共闘が武装し、安田講堂に『武器』を蓄えはじめるのは、10月頃からだと推測されます」としていますが、これは、明らかな間違いだと私は思います。9月の東大病院封鎖騒動などがすっぽり抜けています。
 しかも、「はるかに固い樫の棍棒」が日共系の「精鋭部隊」の持つ武器で、このために全共闘より強かったかのような表現は、とんでもないと私は思います。たしかに「樫の棍棒」は、私も手に持ったことがありますが、警察官の警棒と同じく硬いものでした。しかし、全共闘が持ったものには鉄のパイプもあったのですよ。
 「樫の棍棒」は短いので、接近接では役に立つかもしれませんが、衝突する前は長い鉄パイプの方が断然威力があります。脅威でしたよ。これは、中世ヨーロッパで長槍軍が活躍したのと同じことだと思います。
 東大全共闘が学内で孤立化していったのは日共系の「あかつき部隊」とか「硬い樫の棍棒」のせいだというのは、一部のジャーナリストが勝手に言っているに過ぎないものです。
少なくとも私の認識はそうです。このあたりは『清冽の炎』(とりわけ第4巻。花伝社)を読んでいただくと、詳しく理解してもらえると思います。
 それにしても、全共闘が「あれほどの犠牲を払って、一体何をしたかったのか。あの一連の事件と時代を弁護することは非常に難しいと思います」という著者の指摘はまったく同感です。
 さらに、「東大解体」を叫んでいた全共闘の学生が今では東大教授になっているが、「どうして東大教授になれたのか、私には理解できません」という嘆きは、本当にもっともだと思います。学生のとき「東大解体」を叫んでいて、今では東大教授になっている同世代の人が、東大闘争の意義をマスコミや東大新聞で堂々と臆面もなく語っているのを見聞きすると、読んでいる私の方が恥ずかしさを覚えるほどです。
 「全共闘は、みな正義に殉じた犠牲者であるかのように描き出され」たが、「あの凄惨なゲバルトの現場を一目でも見たら、そう簡単に全共闘支持とは書けない」のではないかという指摘こそ、まっとうなものだと、私も当時の東大にいた学生の一人として思います。 
東大闘争の展開についての貴重な証言の一つでもある本です。

(2011年7月刊。800円+税)

「諸君!」「正論」の研究

カテゴリー:社会

著者   上丸 洋一 、 出版   岩波新書
 戦後の「保守」論壇の主張の変遍をたどり、分析した貴重な労作です。
 それにしても「保守」理論家の言説のレベルの低さには呆れます。
 渡辺昇一、上智大学名誉教授は次のように語った。
「シナ文明は朝鮮半島まで到達したが、日本には及んでいない」
 ええっ、日本に中国文明が入っていないだなんて・・・。そして、また次のようにも言っています。
「日本の皇室は男系で続いてきた」
 日本には過去にさかのぼれば、女性天皇が何人もいます。江戸時代まで、皇室の伝統として男性しか天皇にはなれないと言うことはありませんでした。
 「サンケイ」を出している産経新聞社には社史がない。また、縮刷版もない。その理由は、社主だった鹿内信隆とそのファミリーの位置づけが難しく、出すに出せないことにある。
 憲法改正を叫んでいる「サンケイ」に社史も縮刷版もないというのは、よほど過去の自社の歴史を知られたくない、恥ずかしいということなのでしょうね。
 「サンケイ」は自民党の組織をつかって購入を呼びかけてもらった。つまり、「サンケイ」は要するに自民党の準機関誌だというわけです。なーるほど、ですね。
 1973年10月、雑誌「正論」が創刊された。鹿内は、毎号のように誌面に登場した。
 ところが、鹿内が1990年10月に78歳で亡くなると、1992年7月、サンケイの取締役会は鹿内宏明会長を解任した。
 日経連(現在の日本経団連の全身の一つ)は1960年代に「共同調査会」という名前の反共秘密組織をつくっていた。反共産党、反総評、反日教組を目標として、1955年から1968年まで活躍していた。13年間に25億円ほどの大金をつかっている。マスコミ・世論の「偏向」是正対策にも3億円ほど使った。
 保守の論者は、ヒロシマ・ナガサキの被爆体験について何も語らない。また、沖縄戦の犠牲者も無視している。
『諸君!』に小田村四郎・日銀監事は次のように書いた。
「開戦の全責任を東条個人に帰して、当時の議会や新聞の論調・世論を無視してはならない。大東亜戦争は、一握りの指導者が独裁的に起こしたのではない。全国民の支援の下にやむなく受けて立った悲劇の戦争である。その責任者が誰かと問われれば、ABCD(米、英、中国、オランダ)包囲陣の各国と答えるしかない」
 むしろ、ABCD包囲陣は、日本軍部の膨張主義、植民地拡大路線に対抗して作られたものですよね。白と黒というような言説を真に受けて教科書がつくられたら、それこそ日本の将来はお先まっ暗です。
 昭和天皇は戦後、靖国神社への参拝を拒否した。昭和天皇はA級戦犯の合祀、なかでも日独伊三国同盟を推進した松岡洋右(元外相)そして白鳥敏夫(元駐伊大使)の合祀に不快感を表明していた。
 天皇のために命を捧げた軍人・軍属らを神と祀る靖国神社は、天皇が参拝することで初めて「完結」する神社だ。それが天皇に嫌われたとあっては、神社の存立を否定されたにもひとしい深刻な状態である。
 戦後の天皇制は、天皇制にひたすら忠誠を尽くした東条らA級戦犯を占領軍に差し出して「勝者の裁き」を受け入れ、天皇の地位を統治権の総換者から「象徴」へと大胆に転換することによって初めて存続を許されたのであり、天皇自身もまた、そのことを容認するのとひきかえに「平和主義者」として立つことが可能となった。そうした象徴天皇制の存立の根拠を靖国神社はA級戦犯を合祀することによって否定した。東条英機らを神と祀る靖国神社を天皇が参拝する気になるだろうか。
 天皇は、戦後まもない時期に、自身の戦争責任をまるごとA級戦犯に移し替えていた。それは天皇個人の意思でもあったが、マッカーサー司令官との日本政府の意思でもあった。そうすることで、天皇は戦後を「平和主義者」として生き抜くことができた。
 彼らが国を握った。私は立憲君主として、憲法に従って行動しただけ。天皇は、おそらくそう信じていた・・・。
 これは、なるほどと思わせる見事な分析です。私の長年のもやもやの一つがすっきり解決したような気がします。大変な労作で大いに勉強になりました。
(2011年6月刊。2800円+税)

千年震災

カテゴリー:社会

著者  都司   嘉宣   、 出版   ダイヤモンド社 
 この本を読むと、日本は古来、いかにも地震の国だということがつくづくよく分かります。そんな地震の巣の上に危険な原子力発電所を50基以上もつくってきたなんて、歴代自民党・公明党の責任は重大ですよね。民主党のだらしなさを非難する前に、国民の前で真剣な自己批判こそが必要でしょう。反省もせずに依然として原発を推進しようとしてますし、海外へまだ原発を輸出しようとするなんて、まさしく狂気の沙汰ではないでしょうか。
 著者は私とほぼ同じ世代の東京大学地震研究所の准教授です。地震学者ですけれど、歴史地震学の権威でもあります。要するに古文書を読めるのです。
 平安時代の歴史書『三代実録』に記された貞観(じょうがん)地震は貞観11年(869年)に起きた。陸奥国で大きな地震が起きて、そのあと津波がやって来たと書かれている。今回の東日本大震災とよく似ている。
 慶長16年(1611年)の慶長三陸津波でも、伊達・南部の両藩で合計2913人が死亡した。田老地区でも海面から21メートルの高さにあった神社の参道の橋が津波で消失している。
 今回の東日本大震災では今のところ前兆が認められていない。しかし、まったく前兆がなかったとしたら、原理的に地震の予知は不可能という結論を出さざるを得なくなる。
本格的な鉄筋コンクリートのビルは津波に強いことが判明した。
 田老町の高さ10メートルの防潮堤は、4メートルずつ2段のコンクリート構造物が単に積み木のように重ねておいてあるだけだった。かみあわせのほぞがないし、鉄筋で上と下を一体化するというのもなかった。これでは見かけ倒しだ。
 江戸幕府が始まってから、東京には3回の大地震が起きている。元禄6年(1703年)の元禄地震、安政2年(1855年)の安政江戸地震、そして大正12年(1923年)の関東大震災である。安政江戸地震は直下型地震で、あと二つは海溝型の巨大地震だった。
 日本人は地震について、文献だけではなく、被害の状況・惨状を絵にも描いて残しているのですね。お城の破損状況を記録した図面まであります。昔から今に至るまで本当に几帳面な国民性なのですね。
 寛政4年(1792年)の島原大変・肥後迷惑のときには、地震も起きていて、大津波は熊本県側にまで被害を与えた。
 韓国は日本に比べて地震の少ない国だが、それでも16世紀から17世紀にかけての
200年間に、被害の出た地震が18回も起きたという歴史がある。
 地震学者って、あのミミズがのたくりまわっているとしか思えない難解な古文書をすらすらと読めることも求められるようです。すごいことです。
(2011年5月刊。1600円+税)

イカの心を探る

カテゴリー:生物

著者   池田 譲 、 出版   NHKブックス
 なんという奇妙なタイトルでしょう。イルカじゃあるまいし、イカに心なんてあるはずないじゃないのさ。そう思ってしまいました。ところが、どっこい、なのです。なんと、イカは意外なことに巨大な脳をもち、ちゃんと学習効果をあげるのです。
 しかも、ほとんど養殖できない。イケスに入れると、たちまち死んでしまうというのです。ウッソー、マサカでしょ・・・。そんな叫び声が聞こえてきそうです。食べて美味しいイカに、なんとなんと心があったなんて・・・。これから気安くイカが食べられなくなりそうです。
 イカは情報を伝達する細胞である神経が発達し、それを統合したところの脳が大きい。イカは海の賢者とも言える存在なのだ。
 南氷洋だけで、イカは年間3400万トンも捕食者に食べられている。これは人間が食べている量より、はるかに多い。世界の海洋には、総量でで2億トンのイカがいると推定されている。
 淡水に生息するイカ、そしてタコなんていない。海にだけいる生き物だ。イカは変態しない。卵から孵化した時点から親と同じイカの形をしている。
 イカの寿命は1年ほど。それなのに、日本列島を南北に往復する大回遊をしている。
 イカの親であるオスもメスも我が子を見ることなく死んでいく。
 イカの養殖はできていない。水族館で生きたイカを常時展示しているところは少ない。イカを水槽に入れると、半日もしないうちにポロリと死んでしまう。
 ヤリイカ飼育成功の秘訣は水質にあった。ヤリイカは清水を好む。
 イカ、とくにスルメイカは神経質というか慎重であり、人が与えるものを簡単には受けとってくれない。しかも、エサが生きた状態でないと受けとってくれない。
 イカは仲間のお互いの行動を実によく見ている。
 スルメイカは、今もって全生涯を水槽内で飼育することができない。
 イカの眼はヒトと構造がよく似たレンズ眼だ。コウイカの視力は0.6ほど。
 イカは、体の色もパターンも瞬間的に変えることができる。
 群れをつくるアオリイカには順位制が認められる。繁殖相手のメスをめぐり、また、エサをとるときにも順位が形成される。
 イカは奥行きがあることが分かり、記憶力を持つ。
 アオリイカを鐘の前に置くと、強い関心を示す。鐘に映っているアオリイカは自分だと認識している可能性がある。
 イカは体色を変えてカモフラージュするが、それは貝殻という楯を捨てた代替戦略として、神経系を発達させ、高精度のレンズ眼をもち、高度な情報処理が可能な巨大脳を手に入れた。
 うむむ、こうなると、イカの活きづくりも、ただ単に美味しいというだけでは食べられなくなりますよね。学者って、すごいです。
(2011年9月刊。1300円+税)

玉と砕けず

カテゴリー:日本史

著者   秋元 健治 、 出版   現代書館
 大場大尉、サイパンの戦いというサブタイトルのついた本です。最近、映画にもなりました(私はみていません)。
 日本軍が例によって玉砕戦法でバタバタ死んで行ったサイパン島で、終戦のあと、12月まで山中にたてこもり、ついにアメリカ軍と「停戦協定」を結んで投降してきた日本軍集団がいたなんて、驚きますよね。そのリーダーが31歳の大場大尉だったのです。戦後は日本で会社を経営し、市会議員にもなったということです。よほど運も良かったのでしょうし、リーダーシップ(統率力)があった人物なのでしょうね。たいしたものだと感嘆しました。
 サイパン島には、1943年8月、日本人が3万人近く、島人(チヤモロ人)4千人がいた。
 サイパン島ではサトウキビ畑から製糖工場があり、日本本土へ砂糖を販売していた。
 サイパン島の最大の町ガラパンは最盛時、人口1万4千人となり、「南洋の東京」と呼ばれるほどにぎわった。
サイパン島の日本軍守備隊は陸軍が2万8千人、海軍が3万人、合計3万1千人ほど。
 1944年6月15日、アメリカ軍4万3千人が上陸、攻撃を開始した。1週間で日本軍兵士は1万5千人と半減した。そして、民間人1万8千人以上が山中で北方へ逃避行を始めた。
 6月24日、東京の大本営は、サイパン島奪回作戦を中止した。生き残った日本軍将兵は見殺しにされたわけである。
 1945年12月1日、大場大尉の率いる日本兵47人がアメリカ軍と停戦協定を結んで投降した。
 よくぞ終戦後の半年以上も、山中に隠れて生きのびたものですね。アメリカ軍の方も無駄な戦闘でアメリカ兵の死傷者を出したくはなかったようです。
 それにしても、日本軍上層部の玉砕戦法、精神一到主義というのは、おぞましい限りですよね。この過ちが繰り返されないようにするのは、現代に生きる私たちのつとめです。
(2011年3月刊。2000円+税)

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