法律相談センター検索 弁護士検索

回転寿司の経営学

カテゴリー:社会

著者   米川 伸生 、 出版   東洋経済新報社
 私は恥ずかしながら回転寿司店なるものに一度も行ったことがありません。外から店内を見て、あのぐるぐる回るすしの姿にベルトコンベアーに向かって働かされる流れ作業の工員を連想し、そんな状況に我が身を置くことへの拒絶反応を抑えがたいのです。
 この本を読んで、昨今の回転寿司の実情を知り、いささか偏見を取り除きました。でも、まだ店内へ入ってみようという気にはなりません。これはマックやケンタの店に入りたくないのと同じ気分です。
 いまの日本には、回転寿司店が4000店ある。100円寿司の大手チェーン店が、その3割を占める。100円均一の店舗は他に1000店はあるが、100円寿司の業界勢力は全体の半分ほど。業界は100円均一店とグルメ回転寿司に二極化されていて、どっちつかずの店は衰退の一途をたどっている。
 100円寿司大手チェーンの躍進は、ボックス席の成果である。ゆったりとボックス席で家族だけの時間を過ごせる。そもそも回転寿司は、アミューズメント・パークなのである。うむむ、そういうわけなんですか、ちっとも知りませんでした。
一般的な外食産業の原価率が30%であるのに対して、回転寿司では40~50%があたりまえ。
 回転寿司は、仲買人を通さず、漁港や漁船から直接買い付ける。釣り人から釣った魚を直接買い受ける店まである。さらには、海外で養殖している業者もいる。
 回転寿司が誕生したのは1958年。コンベアの特許の切れる1978年までは元禄寿司の一人舞台だった。
 1991年に広辞苑に回転寿司という項目が登場した。
 1998年、高級回転寿司店が誕生。
低価格の回転寿司は、全国的にシャリは甘め。これは子ども向けを意識しているから。東日本ではシャリは酢と塩が立っていて、関西から南へ行くにつれ、シャリは甘くなっていく。
 回転寿司のマグロは、「客寄せパンダ」の役割を担っている。
 回転寿司の市場規模は4358億円。2008年までは毎年5%以上も伸長していた。2010年は前年比2%増。上位三社(「かっぱ寿司」、「あきんどスシロー」、「無添くら寿司」)で55%を占める。
 大手100円寿司チェーンでは、コンピュータシステムを導入して、そのときの来店客数や客層から、どの寿司をどれだけ流せばよいのか適宜指示が発せられる。子どもが多ければ、子どもに人気ネタを多く流すなど、効率よくレーンを埋めている。
 回転寿司、恐るべしだと思いました。
(2011年9月刊。1600円+税)
 日曜日にフランス語検定試験(準一級)を受けました。この一週間は10年間の過去問を復習し、「傾向と対策」を繰り返し勉強しました。
 終わったあと大学の構内を歩く夕暮れの寒風に吹かれて身の縮む思いでした。
 早速、答えあわせをしました。いつものように自己甘の採点で76店(120点満点)です。なんとか一次はパスできそうです。パスしていると、1月に口頭試験を受けます。これがまた緊張の一瞬です。
 最近、大学生のときの夢を久しぶりのに見ました。全然授業に出ていなくて、兄が心配して忠告してくれたのですが、もうどうにもしようがなく、中退するしかない・・・という切羽詰まった状況でした。現実には、そのような状況になったことはありません。というか、大学2年生のころには1年ほど、ストライキのために授業そのものが受けられませんでした。
 それにしても私も若いものですね。大学気分に浸っているのですからね。これも仏検のおかげです。

北朝鮮に潜入せよ

カテゴリー:朝鮮・韓国

著者  青木  理     、 出版  講談社現代新書   
 韓国に潜入してきた北朝鮮の工作員については、これまでも多少の知識はありました。その典型が1968年1月に起きた青瓦台襲撃事件(1.21事態)です。私はこのとき大学1年生です。まだ、東大闘争が始まる前で、平穏な寮生活を楽しく過ごしていました。
北朝鮮の特殊部隊「124部隊」に所属する武装工作員が南側に侵入し、青瓦台までわずか1キロという至近距離に迫った。生け捕られた一人は「朴正熙の首を取りにきた」と目的を語った。
 これに対して朴大統領が報復を考えた末に起きたのが映画『実尾島』で有名となった実尾島事件である。同じく31人から成る「684部隊」は過酷な猛訓練を経て北朝鮮に潜入することになった。ところが、世界情勢の変化により朴大統領も報復を断念する。そうなると、「684部隊」の存在自体が不要となる。隊員の不満が爆発して大惨事が発生した。
 私もここまでは知っていました。しかし、韓国軍も北朝鮮へ多くの「北派工作員」を隠密裡に送り込んでいたのでした。朝鮮戦争後に北派されて失踪死亡した工作員は7726人にのぼる。50年代の北派工作員は、朝鮮戦争の延長線上にあり、北朝鮮出身者が大半を占めていた。そして50年代の工作員の9割は任務から帰還できなかった。60年代に北派工作員となったのは、貧困にあえぐ孤児や前科者・不良・無職の若者たち。軍が高額の報酬をえさとして騙すようにして誘引していた。60年代、2000人以上の北派工作員が死亡・行方不明となった。ところが72年の共同声明のあと、北派工作は劇的に減少した。「諸君たちは国家のため任務に就く。諸君は契約を破るかもしれないが、国家は破らない」 
 このようにして工作員は契約書を書かされた。しかし、国家は契約書を交付しなかった。そして、「国家は裏切らない」というのは大嘘だった。そうなんですよね。国家を構成する個々の公務員は異動してしまうと、前任職場の言動にはまったく何の責任もとらなくなるものです。また、責任の取りようもありません。なにしろ無縁なのですから。これは、今の福島第一原発事故で放射能対策に現場であたっている人にもあてはまってしまう危険があります。放射能によるがん発生が、確率が高まるというものである以上、国は素知らぬ顔をしてしまう恐れは大きいのです。
 国家の非情さも明らかにしてくれる本でした。
(2006年4月刊。740円+税)

悲しきアフガンの美しい人々

カテゴリー:アジア

 著者 白川 徹、 アストラ 
 
 泥沼のアフガニスタンへ今、日本の自衛隊もアメリカの目下の軍隊として出動しようとしています。とんでもないことです。
 福岡県出身の中村哲医師のペシャワール会の営みを支援することこそ日本政府のなすべきことではありませんか。軍隊を派遣して平和を回復することなんて出来っこありません。もし、それが出来るというのなら、世界最強のアメリカ軍だけで足りたはずではありませんか。
 アフガニスタンの実情が写真とともに詳しくレポートされている本です。表紙にある少女が泣いている写真は問題の本質をついたものです。本当に泣きたくなりますよね。
 アメリカ軍は「人道援助」を隠れ蓑とした武装勢力の捜索をする。それによって村民の反発が高まっている。アメリカ軍の「人道援助」なるものは、名ばかりのもので、その内実は旧日本軍の宣撫工作に近い。住民を味方につけ、敵の情報を得るという行為は、「人道」という言葉にそぐわない。
 アフガニスタンでは、男性の識字率は50%、女性は15%未満でしかない。
 アフガニスタンの知識層の多くは戦乱のなかで、祖国を捨てて欧米などに移住した。いまの福島からの「自主避難」と同じことですよね。
 アメリカは、イラク戦争をふくめて6000人以上のアメリカ人青年の生命を失い、また総額1兆ドル(80兆)もの巨費を支出した。それだけの支出に見合う「収入」があったとは、とても思えない。
 ペシャワール会のアフガニスタンでの活動が紹介されています。そして、それが見事に現地で定着していることを知ると、同じ日本人として誇らしい気分になります。
 ペシャワール会が水路をつくった周辺にはケシ畑はない。十分な水があれば小麦や米の栽培が可能であり、わざわざケシ栽培という「やばい橋」を渡る必要がないからだ。
 軍事ですべてが解決するなんて、まったくの幻想だと思いました。もっと日本は平和憲法、九条の精神を世界に広める努力をしていいし、すべきだと思います。
         (2011年9月刊。1700円+税)

死ぬという大仕事

カテゴリー:社会

著者 上坂冬子、 小学館 
 
 作家である著者はがん闘病記を連載しつつ、2009年4月14日、78歳で亡くなりました。
 2005年に卵巣がんが発見されて手術して切除したあと、強い副作用に苦しみながら抗がん剤治療に耐えて、いったんは元気な体を取り戻した。しかし、がんは3年後に再発し、2008年10月、慈恵医大病院に入院した。そこでは緩和ケアを受けることになった。
担当医は次のように語る。
 「がんという病気は、進行するのにある程度の時間がかかる。だから、患者に早い段階で告知し、その後の治療や人生をどう設計するか、じっくり考えてもらうことが必要だ」
 なるほど、と思います。
 緩和ケアが患者より良い人生を考えた全人的治療であるためには、医師には医学の知識だけではない洞察力や人間性が求められる。そしてまた、患者の側も、医師を信頼し、希望を持ち続けることが大切だ。なるほどなるほど、よく分かります。
  ホスピスケアと緩和ケアには決定的には違いがある。ホスピスに入るのは、もう手の施しようがなくなってからのこと。しかし、緩和ケアは、もっと積極的なケアを提供する。
がんの告知を受けた患者はいくつかの心理ステップを踏んでいく。はじめは否認。次は怒り。そして取引が始まる。そのあと、抑うつの時期を経て、最終的に受容という状態になる。あるがままを受け入れようという気持ちになる。
 いやあ、そうはいってもこればかりは、なかなか受容の境地にはなれませんよね・・・。
 腫瘍は、あるところを越えて、加速度的に病状が進むようになると、年齢には関係なく、手がつけられない状態になる。腫瘍は徹底的に自分本位で、自分だけが大きくなろうとする。
 余命が1ヶ月以内だと医師は分かるが、それ以上だと医師の予測はほとんど当たらないというデータがある。それくらい個人差が激しい。
 女性は枯れ木がしぼんでいくような亡くなり方をするのに対して、男性はポキッと折れるような亡くなり方が多い。
 うむむ、こんな表現ができるのですか・・・。
 抗がん剤は効かないことも多いが、それでもだらだら治療を受けている患者がいる。
 患者は、身体がつらくても、希望が持てるから精神的には楽。このため、医師と表面的には利害が一致することになる。
医師であっても、自分の父親に抗がん剤を使ってしまう。副作用が辛いと分かっていても。なぜなら患者も家族も希望をもっていたいから。また、製薬会社が抗がん剤をできるだけ広めようとしている影響もある。
著者は緩和ケアのおかげで、途中で好きなフランス料理を味わって楽しめるようにまでなったのでした。抗がん剤の副作用に苦しんで、歩けなくなったり、吐気がひどくて食事もできないというのでは、どれだけそんな生活に意味があるのか考えさせられますね。
 すごい闘病記でしたが、著者のあっけらかんとした書きっぷりに惹きこまれて一気に読了しました。
         (2009年9月刊。1200円+税)

幻日

カテゴリー:日本史(江戸)

著者  市川 森一    、 出版   講談社   
 島原の乱について、またまた読ませる小説の登場です。先に紹介しました『出星前夜』(小学館)も読ませましたが、今回もなかなかの力作でした。さすがは天下に名高い脚本家だけあります。
 島原と天草は、旧領主の有馬晴信と小西行長がキリシタン大名だった影響もあって、キリシタン信徒の多い地域だった。そこで公布された禁教の触れは、逆にキリシタン信徒の結束をうながした。為政者が改宗させるために試みる残忍な拷問の数々も、かえって邪宗の門徒を増やしていくという不思議な現象を生んだ。
 キリシタンにとって、信仰のための死はパライソ(天国)の狭き門をくぐる免罪符にほかならない。一揆軍の指揮者たちは、戦闘を指揮する評定衆と、信仰生活の指導にあたる談合衆に分かれている。
 高来郡の口之津からキリシタンの布教活動を開始したイエズス会は、ポルトガル語で「コンフラリア」という信徒組織を導入した。その仕組みは、村々のキリシタン信徒が男50人に女子どもを加えた単位を一つの小組として、その小組が10組で大組となる集団をつくり、その大組の長を組親と称し、ほとんどは看坊が組親を兼ねた。
 看坊(かんぼう)は、信徒の懺悔(ざんげ)の聞き役とし、「水方」(みずかた)は洗礼を授ける役。教え方はキリシタンの教理を伝授する役を務めた。
 コンフラリアは、浄土真宗の「講」の仕組みと共通するところも多く、日本人信徒に無理なく受け入れられた。
 幕府・支配層はキリシタン摘発に躍起となったが、その先頭にたつ庄屋層がキリシタンの元締めの看坊であり、コンフラリアの組親だったから、これでは盗賊に夜警を命じるようなものだった。
 庄屋たちは、代官所には「わが村には、もはや一人のキリシタンもおりません」と何年も偽りの報告をしていた。そして、島原半島のキリシタン組織は、強靭な団結の根を芋づるのように地底に張りめぐらしていた。
 島原一揆勢も天草一揆勢も、背後に、有馬勢には有馬家の遺臣団が、天草勢には小西家の遺臣団が、それぞれ参謀格でついていた。
 ローマのイエズス会本部は、慶長2年(1597年)4月、ヴァリニャーノ宛に在日イエズス会宣教師たちの日本での軍事介入を厳禁する指令を公布していた。
 交易商人とポルトガル船長はポルトガル対日本の全面戦争を目論んでいた。ローマから帰国した4人の遣欧使節のうち、3人は司祭に叙任され、千々岩ミゲルだけが棄教して俗界に戻った。このドン・ミゲルこと千々岩清左衛門こそ、天草四郎の実父である。四郎の母親は、イザベルといって、ポルトガルのリスボアから流れてきた、船乗り相手の娼婦だった。天草四郎は、慈悲屋(枚貧施設)の施設で育てられた。つまり、背教者ミゲルが異国の娼婦に生ませた罪の子を、天命をかけた大反乱の棟梁に担ぎあげているというわけだ。
 4人の遣欧使節のうち、伊東マンショは、長崎の教会で司祭に叙任された直後に病死した。39歳だった。
 原マルチノは、慶長19年のキリシタン大追放令で、マカオに追放され、その地で60歳の生涯を閉じた。
 千々岩ミゲルは棄却したあと、ひっそりと63歳のときに長崎の貧民窟で息絶えた。
 ローマに渡った少年たちのなかで、中浦ジュリアンだけが64歳まで生きのびて、殉教した。
原城の籠城者は122万7千人ほど。およそ1万人が決戦前後に原城を脱出した。
 一揆鎮圧の戦費は、40万両、ざっと600億円、1日に7億5千万円も消耗した。
 その結果として、松倉藩は改易され、松倉勝家は斬首の末路をたどった。寺沢賢高は発狂して悶死し、この両家は断絶した。
 原城跡にもう一度行ってみたくなりました。
(2011年6月刊。1700円+税)

福岡県弁護士会 〒810-0044 福岡市中央区六本松4丁目2番5号 TEL:092-741-6416

Copyright©2011-2025 FukuokakenBengoshikai. All rights reserved.