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カテゴリー: 社会

虚構の日米安保

カテゴリー:社会

(霧山昴)
著者 古関 彰一 、 出版 筑摩選書
 日本の現状に対する鋭い指摘がオンパレードの本です。剣山の針が膚に突き刺さってくるような痛みすら覚えました。
 日米安保条約の危険な本質、それを日本政府が今日に至るまで嘘で塗めてきたこと、多くの日本人が易々と騙されたまま、怒りをもって異議を唱えようとしないこと…、著者は、これらすべてに対して、本当にそんなことでよいのか、そう厳しく告発しています。
 日本敗戦後、日本を支配したアメリカは、憲法を制定させたあと、朝鮮戦争が勃発すると、すぐに自衛隊を発足させて日本の再装備を進めていったし、日本政府もそれを受け入れた。ところが、日米両政府の思惑はまったく異なるものだった。アメリカは、冷戦下、ソ連などの共産勢力の誇張政策を阻止し、アジア・太平洋諸国の安定のために、米軍の指揮下で行動する日本軍を再興しようと考えた。これに対して日本政府は、まさしく戦前の日本軍をアメリカが興してくれるものと考えた。
日本政府は憲法9条と自衛隊の矛盾を真剣に考えてはいなかった。憲法9条を「棚上げ」しておけばいいくらいの考えだった。もちろん、それは立憲主義の考えではない。アメリカ政府は立憲主義を当然視するので、このような日本政府の「見解」を疑問視した。しかし、日本政府は「協議」すればいいと言ってはぐらかし続けた。
アメリカの特使をつとめて来日したジョン・ドーダレスは、「日米政府間で協議していれば憲法9条は改正されるのか?」と嫌味を言ってのけた。
 日米間で、安保共同宣言(1996年)はあるが、それは政府間のものに過ぎず、国家同士の合意ではない。この状態が今に至るまで65年間も続いている。
 幣原喜重郎首相(当時)がマッカーサーと会談して、「戦争の放棄」を発案・提起したという「説」を、著者は否定しています。当時の幣原はGHQ案の9条に反対していたし、マッカーサーに対しても「戦争の放棄などと言っても誰もついてこない」と言って、たしなめられたりしたというのです。
 たしかに、マッカーサーはいつだって長広舌を振るい、他人の進言をとり入れるような性格の人間ではなかったという指摘がされています(他の本で)。アメリカにとって、日本が再軍備して憲法を改正するというのは、アメリカ政府の決定に全面的に従属するための再軍備であり、そのための憲法改正である。自衛隊の司令官は日本人ではなく、アメリカ人がなるということ。こんなことを日本政府が受け入れて日本国民に対して説明できるはずもありません。そこで、日本政府はどうしたか…。
文書に残さない。口頭という奥の手を使った。ところが、電文という公文書で、アメリカ側には文書が残る。日本側に文書はないので、国民に説明しなくてもよい。これが吉田茂首相(当時)のとった高等戦術だったのです。そうはいっても、アメリカ側には不安が残ったので、日米合意を何度も持ちかけた。
米軍基地の管理権は米軍にあり、日本政府は指一本も出せない。これが日米地位協定第3条。オスプレイが配備され、墜落し、有毒ガスが発生し、PFASが検出されても、米軍人が凶悪犯罪を犯しても、まさに日本は植民地同然の治外法権がまかり通っています。米軍にとって、「基地の自由な使用」こそが日米安保なのである。
アメリカ人将兵は、日本の運転免許証がなくても日本全国、どこでも自由に運転できるとのこと。呆れを通りこして、怒りを覚えます。「日本人ファースト」を唱え、外国人排斥を叫ぶ参政党には目を光らせてほしいところですよね。
著者は問いかけます。なぜ日本政府は、ここまで恥も外聞もなく卑屈なのであろうか…。同感です。この本でも砂川事件の最高裁判決について、田中耕太郎最高裁長官が米国大使・マッカーサー2世と密談を重ねていて、その指示を受けていたことを特記しています。本当にひどい話です。私も、それを知って以来、田中耕太郎を史上最低の下衆野郎(げすやろう)として呼び捨てにしています。ところが、現代日本の裁判官は、こんなひどい事実を知っても田中耕太郎を庇(かば)うのです。まさしく自分は田中耕太郎と同類だと自認しているわけです。
岸信介首相とハーター米国務長官の交換公文(1960年)は、核を搭載した米軍機が日本に飛来した際、また米艦船が日本の港湾に侵入した際、日米の事前協議の対象とはしないとした。このことは秘密にされていた。大平首相は、外務大臣のときに知らされたが、沈黙を守った。
非核三原則を提唱したとして佐藤栄作首相はノーベル平和賞を受賞したが、実は、当時沖縄には1300発の核兵器が配備されていて、それは知悉していながら不問に付していた。
また、事前協議については、米軍に「重要な配備の変更」がなければ行わないとされていた。要するに、核兵器の日本への持ち込みは黙認するという密約があった。
「非核三原則」の一つ、「核を持ち込ませない」は空文化していた。
沖縄の返還にあたって、「核抜き、本土並み」となったと表向きされていたが、実のところアメリカ(当時はニクソン大統領)が核兵器を外から持ち込むのについて、日本(当時は佐藤栄作首相)は、事前協議において遅滞なく承認するという合意議事録を作成していた(1969年11月19日)のようです。そして、日本国民に知らせることはありませんでした。佐藤首相が持ち帰った文書は、佐藤栄作の死後、自宅の机の中から発見された。これほど重要な公文書がきちんと保管されていなかったというのも驚かされます。
ライシャワー元駐日大使は、「日本政府は日本国民にウソをついている」と断言した(1981年5月18日)。
この本では、日本政府が日本国民に向かってごまかし用語を多用していることも指摘しています。たとえば、PKOについては「平和維持作戦」と訳すべきところ、「平和維持活動」とし、軍事作戦とは違うと印象づけようとしている。また、国際法上の「難民」なのに、より一般的な「避難民」という用語を用いている。これは、避難民として保護はするけれど、国際法上の難民の権利は認めないことを意味している。
安全後生関連の言葉が、国民に受け入れられるように、いかに数多くの表現が書き換えられ、改記されてきたのか。調べるほどに、その多さに驚かされた。政治用語の改案が大きく変わり始めたのはこの30年、有事法制になってからのこと。武器を「防衛装備品」に、「敵基地反撃能力」を「反撃能力」としている。「敵」を「攻撃する能力」は、「敵」から「攻撃された際に反撃する能力」に変わった。
330頁もの長編力作です。盆休みの半日で必死に読みふけり、大変勉強になりました。
(2025年3月刊。2090円)

統一教会との格闘、22年

カテゴリー:社会

(霧山昴)
著者 鈴木 エイト 、 出版 角川新書
 安倍晋三元首相が奈良県で白昼、手製銃で殺害されたのは今から3年前の2022年7月8日のことでした。ようやく、この秋から裁判が始まります。
銃撃して1人の人間を殺害したことを許すつもりはまったくありませんが、山上被告が統一協会(決して教会ではありません)の被害者であることは間違いありません。
報道によると、山上被告の母親は今でも統一協会の信者だそうです。自分たち一家が経済的に丸裸にされ、生活保護を受けざるをえないほど追い詰められてもなお信者だというのです。まことに洗脳というのは恐ろしいものだと思います。
統一協会の教祖であった文鮮明はとっくに死んでいます。今から13年前の2012年9月3日、風邪をこじらせ肺炎から意識不明となって病死しました。92歳でした。今、その妻が教祖を引き継いでいるようですが、そのナンバー2だった信者は前大統領の妻に高級バッグ等を贈ったとして、つい先日、韓国で逮捕されています。
 文鮮明の息子たちの多くはアメリカにいるようですが、利権をめぐって醜い争いをしていると報道されています。
安倍殺害事件のころから急に全国的に有名になった著者は、実に22年前から、街頭やビデオセンターでの統一協会への勧誘行為への妨害行動をしてきました。驚嘆します。
 実は私も、統一協会のビデオセンターに押しかけて妨害行動をしたことがあります。
 そのとき、ビデオセンターの責任者の女性(当時30代と思います)はすぐに110番しましたので、パトカー2台、警察官が6人ほどやってきました。私はバッジもつけていて弁護士だと名乗って、被害回復のための交渉に来ていると自己紹介しました。すると、警察官は、110番した女性責任者のほうに事情を聴きはじめたのでした。結局、私は騙しとられていた300万円の全額を取り戻すのに成功しました。
 統一協会は駅頭などで「手相を見ています」「自分の運勢を知りたくないですか」などと、宗教色を見せずに声をかけてビデオセンターに誘い込もうとします。そこで著者は、いや、これは宗教団体の勧誘行為だと対象とされた人々に教えてやるのです。たいした度胸です。
 それにしても、統一協会からガッポリ献金と票をもらい、お互いに持ちつ持たれつの関係にある自民党の国会議員がなんと多いことでしょうか。その典型が萩生田光一議員です。今でも、しれっとして国会議員なのですから、呆れてしまいます。
 統一教会の信者は、お金だけでなく、秘書にもなって国会議員を取り込んでいます。本当に怖いです。自民党のほうは利用しているだけ、のつもりでしょうが、客観的にみれば、統一協会のほうが自民党議員をしっかり利用している関係にあります。今、タカ派の若手ホープとして売り出し中の小林鷹之議員も統一協会とは密接なつながりがあるようです。
統一協会の教義によると、日本は韓国に罪滅(ほろ)ぼしのため仕えるべき国なので、献金をするのは当然だというのです。ということは、「日本人ファースト」なんていうものではありません。どうして、超タカ派の自民党議員が「韓国ファースト」の宗教と結びつくのか、不思議でしかたありません。
それにしても、著者が地道な活動を22年間も続けているというのには頭が下がります。
(2025年3月刊。1040円+税)

本ができるまで(増補版)

カテゴリー:社会

(霧山昴)
著者 岩波書店編集部 、 出版 岩波ジュニア新書
 私は地下鉄の電車の中で携帯電話で通話ができることが不思議でなりません。電波って、コンクリートも鉄も瞬時に通過するようですが、理解できないのです。同じように、カラー印刷ができるのも不思議です。いったい、絵の具を誰が、どこで、どうやって混ぜて多彩な色彩を再現できるのでしょうか…。
 黒一色の印刷なら分かります。極小の点々に分けてしまえば、印刷できるというのは理解できます。でも、カラー印刷となると、色を混ぜあわせるわけですが、その仕方がとても理解できないのです。多色刷りの版画なら、きちっと紙をおさえて何回も重ね塗りすれば出来あがるというのをテレビで見ましたし、理解できました。
 この本は、色再現には加法混色(かほうこんしょく)と、減法混色(げんぽうこんしょく)の二つの方法があるとしています。これは絵の具を混ぜるというのとは、根本的に違うもの。CMYK(Cはシアン、Mはマゼンタ、Yはイエロー、Kは黒)の各色について、網点(あみてん)と呼ばれる小さな点のパターンを生成し、それらを重ね合わせることで、色調を再現する。
 ということは、木版画と同じように何回も上から塗っているということなのでしょうか…。誰か教えてください。
 ルネサンスの三大発明は、火薬、羅針盤、活版印刷。このどれもが中国または朝鮮半島に起源がある。なるほど、1300年代に高麗で金属活字を使って印刷された本が今も残っている。すごいことですよね。
活字に用いた金属は鉛。この鉛には、炉から出た瞬間に固まるという特性があり、この性質を生かしている。
 溶けやすく、固まりやすく、かつ硬い金属。グーテンベルクは鉛にいくつかの金属を混ぜあわせて金属活字をつくり出した。そして、油性インキもつくり上げた。
 現代日本では、1年間に32万トンものインキを消費している。
 近代日本で、大量印刷物として出回ったのが、大正14(1925)年に創刊された『キング』。これは創刊号75万部、最盛期100万部というのですから、すごいものです。
オフセット印刷は、多色グラビア輪転機がつくられて始まった。
 インキの厚盛りが可能となり、豊富な色調再現が可能となった。塗り重ねているということでしょうか…。
 かつて印刷所には、金属の活字がたくさんありました。私も見たことがあります。それを取り出して、組み込むのです。その仕事をする人を文選(ぶんせん)工といいました。そして、植字(「しょくじ」と一般には読みますが、印刷業界では「ちょくじ」と読むそうです。初めて知りました)します。
 今では、みんなインターネット(パソコン)にとって代わられています。
 さて、本にするなら、背に接着剤を注入して、すぐに熱風で乾燥させなければなりません。雑誌は針金で閉じこみます。
 今や電子ブックの時代です。私の書いた本もいくつか電子ブックになっています。この電子ブックも進歩していて、「Eペーパー」というのは、液晶画面のように光を発するのではなく、紙に印刷された文字と同じように反射式で人間の目に入ってくるそうです。
私が電子ブックを読まないのは、赤エンピツで傍線を引けないし、フセンを立てることができない、一覧性がないからです。
 入院でもしたら、オーディオブックで落語か古典文学を聴くつもりです。でも、やっぱり紙の本が読みたいです。
 紙製の本がなくなることはない。私の絶対的な確信でもありますが、この本でも再三強調されていて、意を強くしました。
(2025年4月刊。1320円)

日本被団協と出会う

カテゴリー:社会

(霧山昴)
著者 大塚 茂 、 出版 旬報社
 2024年12月10日、日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)はノーベル平和賞を受賞し、代表社員の田中照巳(てるみ)氏がスピーチをしました。とても92歳という高齢者とは思えない、しっかりした足取りで演壇に立ち、明瞭な訴えそのものでした。
田中氏は長崎で、13歳のときに被爆しましたが、奇跡的に無傷でした。爆心地から3キロしか離れていない自宅にいたのです。このとき、田中氏は、被爆直後の長崎市内を歩いて、惨状を目の当たりにしました。
 「そのときに目にした人々の死にざまは、人間の死とはとても言えないありさまでした。…たとえ戦争といえども、こんな殺し方、こんな傷つけ方をしてはいけない。そのとき強く感じたのです」
 広島市民35万人のうちの14万人、長崎市民24万人のうちの7万人が年末までに亡くなりました。今、日本全国にいる被爆者は10万人を下まわり、平均年齢は86歳をこえる。なので、全国にあった被爆者組織が今では35団体にまで減っている。
 原爆を落としたアメリカ軍の将軍は、被爆の真相を覆い隠した。「死ぬべき者は死んでしまい、9月上旬現在、原爆放射能のために苦しんでいるものはいない」と言い放った。許し難い暴言であり、嘘八百です。
日本人が原爆被爆の悲惨な真相を知ったのは、1952年8月に「アサヒグラフ」が原爆被爆の特集号を出したから。この特集号は、なんと70万部も発行された。被害の惨状を知った日本人は大変ショックを受けたのでした。それから原水爆禁止運動が始まりました。
 しかし、被爆者が自らの被爆体験を語るのは、容易なことではなかった。たとえば、家の下敷きになって動けなくなった母親に火の手が迫っているのを「見捨て」て逃げ出した子どもは、とてもそんな体験を語れるはずがない…。被爆体験はとてもデリケートな問題であって、何年、何十年たっても気持ちの整理のつかない人は少なくなかった。
 そして、体験者が高齢化して人数が減るなか、継承者をつくっていこうという取り組みが進められています。この本のサブタイトルは、「私たちは継承者になれるか」なのです。被爆を自らは体験していなくても、原爆被爆の悲惨な状況を語り伝えることは出来る。私も、そう思います。
 「原爆は、人間として死ぬことも、人間らしく生きることも許さない悪魔の兵器である」
 先日の参院選のとき、参政党の候補者(当選したので、今は国会議員)が、「日本も核兵器を持つべきだ。安上がりの兵器なんだから」と主張しました。原爆被爆の恐ろしさを知らない、いかにも軽薄な主張です。参政党という得体のしれない極右政党が国会のなかで大きな顔をしていくのかと思うと、身の震える、凍える思いがします。
 日本政府は、今なお核兵器禁止条約に加盟していません。アメリカの核の傘に入っていたほうがいいと考えているのです。でも、アメリカが日本を守ってくれるなんて、単なる幻想でしかありません。トランプ大統領の嘘の多いハッタリばかりの発言が何より証明してくれています。それより、9条をもつ平和憲法を世界中に広めましょう。
 著者から贈呈していただきました。とてもいい本をありがとうございます。
(2025年8月刊。1870円)

三池炭鉱の社会史

カテゴリー:社会

(霧山昴)
著者 猪飼 隆明 、 出版 岩波書店
 私は一度だけ炭鉱の中に入り、最前線の石炭を掘り出す切羽(きりは)まで行ったことがあります。坑口から、まず炭鉱電車に乗って地底におりて行きます。昭和天皇も炭鉱電車には乗ったようです。それを降りてからが大変なのです。そこから歩いたり、マンベルトに乗ったりして真っ暗闇の中を、頭につけたキャップランプだけを頼りにして、前の人について進みます。マンベルトというのは、ベルトコンベアーに人間が腰かけておりていくものです。なにしろ有明海の海底より更に200メートル以上も深いところに切羽はあります。坑口から切羽までは1時間以上かかったと思います。
坑内は真っ暗です。作業員(坑夫)は昼食とるのも地底で適当にとります。トイレなんてありません。すべては真っ暗闇の中なので、「必要ない」のです。暗闇に慣れるのは決して容易ではありません。正直言って怖かったです。落盤をふくめて坑内で死傷事故は頻発していました。炭坑の経営者は、いつだって出炭成績しか頭になく、安全管理はあと回しなのです。少しくらい給料が良くても、毎日、こんな地底で働くなんて考えられません。身内から相談を受けたら、やめとくように言います。
 オーストラリアの炭鉱は露天堀だと聞きました。すると、そんな暗闇の恐怖は無縁です。でも、イギリスもドイツも地下深く石炭を掘っていましたので、やはり事故は起きていました。
 今でも有明海の海底の地下には炭層があるようです。でも、今の技術ではとても安全に石炭を掘り出すのは難しいと思います。国内の石炭産業を復活させようという声が起きないのは幸いだと私は考えています。
 さて、三池炭鉱です。三井鉱山が国から競争入札に勝って、安く手に入れました。そして、安価な囚人労働を活用して三井資本はボロもうけしたのです。それを推進したのが、暗殺された団琢磨です。今、新幹線の新大牟田駅前に大きな像が建っています。
三井鉱山が直面したのは坑内から湧き上がってくる大量の水の処理問題。これを団琢磨はイギリスから最新式のデービーポンプを購入して設置して解決したのです。そして、石炭積み出しのために港を整備しました。そして囚人労働の活用です。囚人労働の労賃は一般鉱夫の1割ほどだったというのですから、三井はもうかるはずで、やめられません。
 坑内で出火したとき、坑内に鉱夫がいるのを承知のうえで坑口を閉鎖したこともあります。3年後に、水没していた遺体を発見したのでした。
 三井が三池炭鉱を引き継いだとき、鉱夫の7割が囚人だった。いやはや、なんということでしょう…。囚人を使役すると、三井資本は年に5千円以上の利益の差がうまれる。団琢磨は、こう指摘した。
 囚人は真っ赤な獄衣で、素足。そして、出役するときは足に鎖(くさり)でつながっていた。囚人処遇のひどさ、劣悪さを監獄医(菊池常喜医師)が告発するほどだった。
 いまの三池工業高校は、当時、集治監で、1200人前後を収容していた。
 ところが、炭鉱内の機械化が進むと、意欲も能力もない囚人ではまかなえなくなった。
港湾荷役の人夫は、深刻な台風被害を受けて生活できなくなった与論島の島民を連れてきた。
 三池争議のころ、私は小学生でした。自宅のすぐ近くにあった若草幼稚園が全国から駆り出された警官隊の宿泊所と化していました。各地からやって来たオルグ・応援する人々が大牟田市内にあふれました。
 指名解雇して労組の活動家を根こそぎ排除しようという三井資本のあこぎな手口に炭鉱労働者が反発したのは当然です。でも、中労委の斡旋案は、まさしく労組側に屈服させるものでした。
 争議終了後、会社は第一組合といを旧労と呼び、新労組を露骨にエコひいきしました。差別と分断のなか、第一組合員はみるみるうちに脱落していったのです。
 三池炭鉱について、頭を整理するのに、とても役に立ちます。資料価値の高い、貴重な労作です。
 著者は2024年5月14日、80歳で亡くなりました。
(2025年6月刊。3700円+税)

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