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カテゴリー: 日本史

バターン、死の行進

カテゴリー:日本史

著者   マイケル・ノーマンほか 、 出版   河出書房新社
 日本軍がフィリピンを占領したとき、アメリカ・フィリピン軍の捕虜7万6000人を中部にある収容所まで炎天下100キロ行進させ、1万人近くが亡くなったというバターン死の行進を日米双方の資料をもとに明らかにしています。
日本軍の最高責任者(司令官)だった本間雅晴中将は戦後、戦犯となって死刑になりました。これは、実はマッカーサー将軍が日本軍によってフィリピンから敗退させられたことへの報復惜置だったのではないかという見方があります。
 この本を読んで、マッカーサーが日本軍が攻めてくる前に根拠のない楽観論を振りまいていて、無策のうちに日本軍のフィリピン上陸そして占領を許してしまったという事実を知りました。マッカーサーって、戦前の日本軍の典型的な将軍と同じような観念論者だったようです。
 1941年7月、ルーズベルト大統領はマッカーサーをアメリカ極東陸軍司令官に任命した。8月、マッカーサーは、フィリピン防衛計画が完成に近づいたと米国戦争省に断言した。10月、まもなく20万人の軍隊が用意できるとマッカーサーは報告した。これによって、アメリカ政府はマニラの軍隊がいかなる事態にも対応できると信じた。
 実際に7週間後に戦争が始まったとき、マッカーサーは約束した兵力の半分しかもっていなかった。アメリカ兵1万2000人は、その実戦部隊は実際に敵と戦ったことはなかった。フィリピン兵6万8000人は、テニスシューズをはき、ココナツの殻のヘルメットをかぶって戦うことになった。
 マッカーサーは、開戦前に次のような命令を発した。
 「敵は海岸で迎え撃つ。何があろうと食い止める。撤退はしない」
 ところが、日本軍は12日間でマニラを攻略した。あとは奥地の残敵を掃討するだけだった。米比軍の大半はバターン半島に退却した。バターン半島は、戦場としてはきわめて苛酷な場所だった。
日本軍は敵の兵力について見誤っていた。日本軍の兵力は、米比軍の3分の1にすぎなかった。日本軍の第一次バターン攻略作戦はうまくいかなかった。50日でフィリピンを占領することはできなかった。
本間中将は、戦場だけでなく、祖国日本でも政敵に攻め立てられ窮地におちいっていた。東条英機首相兼陸軍大臣(大将)は本間の古くからの敵対者だった。
 本間は指揮下の兵力の半分2万4000人以上を失っていた。アメリカは、マッカーサーを脱出させる方法を話し合っていた。陸軍最高位の将軍であるマッカーサー大将が敵に捕まえられでもしたら、そのニュースがアメリカに大打撃をもたらすという考えによる。
 1942年3月10日、闇夜にマッカーサーは家族と身近な参謀の数人でフィリピンを脱出した。このときのマッカーサーの言葉は有名です。
「私は戻ってくる」(アイ シャル リターン)
 これは、我々は必ず戻ってくるというのではありません。普通なら、ウィー シャル リターン)ですよね。そこを我々ではなく、私というところが、いかにも独善的です。
 1942年3月、本間中将は3万9000人の将兵で第二次バターン攻撃に移った。
 4月9日、バターン半島の米比軍は日本軍に降伏した。7万6000人をかかえるアメリカ軍の部隊が降伏したのは歴史上初めてのことだった。捕虜の人数は日本軍司令部の推定の2倍以上になった。将兵7万6000人、民間人2万6000人である。
 日本軍の兵卒は捕虜をひどく残忍に殴りつけた。だが、日本軍では、上官の軍曹や少尉にしても、部下の兵卒を殴る際には同じように残忍だった。
 日本兵にとって捕虜を殴ることは義務だったが、一部のものには娯楽だった。故国で教練所を虐待所に変えたサディストたちが、いまや何の力もない捕虜の列の間を歩き回り、彼らに日本語で罵声を浴びせ、命令し、理解できなければ馬鹿だと言って殴り飛ばした。
 4月10日、米比軍の降伏の翌日、日本軍は徒歩による捕虜の移送を開始した。
 日によって15キロすすむ日もあれば、20キロ、あるいは30キロ以上進む日もあった。
 年間でもっとも乾燥する時期だった。太陽が容赦なく照りつけ、地上のあらゆるものを焼き焦がした。昼すぐには大気が熱せられてオーブンのような状態になった。地盤は焼き上がったばかりの煉瓦のようだった。監視兵は、捕虜を常に前進させるよう命じられていた。
 捕虜の中には脱水症状がひどくなり、脳の神経伝達物質がうまく機能しなくなるものもいた。脱水症状の一つの機能障害に陥ったのだ。幻覚をみる者もあらわれた。日本人にしてみれば、捕虜は「敵国人」であり、憎むべき対象だった。フィリピン軍の志願斥候兵は日本軍を手こずらせていたのでとりわけつらくあたった。
 米国兵ばかりの隊列には、40代、50代の士官が何人もいた。参謀をつとめていた、ふっくらと肉づきのいい佐官は、途中で倒れたり、徐々に遅れをとったりして、後方で待ちかまえるハゲタカ部隊の標的になった。
 慢性的な物資不足と常習的な準備不足のせいで、不倶戴点の敵である捕虜を困窮させても、日本兵は何とも思わなかった。捕虜に満足に食べさせる余裕もなければ、そうする意思もなかった。
 行進して5日間、日本軍は当初の計画を捨て、場当たり的なことをはじめた。監視兵の多くは混乱していた。なんといっても捕虜の数が多すぎた。
赤痢にかかっている者は非常に多く、座ったり横になったりする待機所には糞尿、分泌物、血液がそのまま垂れ流された。多くの待機所では死体が放置され、やがて腐敗しはじめた。次の捕虜の集団がそれぞれの待機所に着くころには、腐った死体の悪臭と、汚物のあふれる便所の悪臭とが合わさって、耐えがたいものになっていた。
 捕虜たちは常に北を目ざした。時間や場所の感覚も、目的意識もなかった。行進中に大事なのは歩き続けることだった。道中、日本軍はだいたいにおいて避難民にかまわなかった。
 降伏から一日もたたないうちに、ルソン島の各地に噂が広まった。さまざまな州からフィリピン兵の家族や親類がバターンに集まり、身内の姿を一目見るよう、機会があれば言葉をかわそうと、国道ぞいに並んで待ちかまえた。
 オドネル収容所は、もともとフィリピン軍の兵員2万の師団用の兵舎だった。その狭苦しい敷地に、4月1日以降日本軍はアメリカ兵9270人、フィリピン兵4万7000人、計5万
6000人を詰めこんだ。
 1942年5月5日、本間中将はコレヒドール島を攻撃し、5月6日、守備していた米比軍1万1000人は降伏した。
 1942年9月、フィリピンからアメリカ人捕虜500人が日本に輸送された。日本の国内労働不足をカバーするためである。連合軍捕虜と現地労働者12万6000人が日本への船旅をしたが、そのうち2万1000人は船とともに死んだ。
 この本には、筑豊の炭鉱で働かされた人の体験が紹介されています。そして、戦後、本間中将は戦犯として裁判にかけられ死刑に処されるのでした。日本軍のバターン攻略により、一次フィリピンを脱出してオーストラリアに逃れざるをえなかったマッカーサーは、自分の輝かしい軍歴を傷つけた本間中将が許せなかった。
 悲惨な戦争の実情がよく伝わってくる本です。
(2011年4月刊。3800円+税)

昭和天皇

カテゴリー:日本史

著者   古川 隆久 、 出版   中公新書
 昭和天皇の実像を探求しようとした意欲的な新書です。
 昭和天皇の思い通りに軍部が動かない。動いてくれない軍部に対して昭和天皇は妥協を重ねるしかなかったというトーンが一貫しています。ということは、天皇を錦の御旗として、軍部が思い通りに日本を牛耳っていたことになります。そして、その軍部も内部を見れば、決して一枚岩ではありませんでした。強大な天皇がいて、その一言ですべてが決まっていたという見方は認識を改める必要があることを痛感しました。
 といっても、戦争中40歳だった昭和天皇の一言は実に大きいものがありました。にもかかわらず、容易に貫徹しなかったというのですから、やはり世の中は単純には割り切れないということです。
 少年時代の昭和天皇は、御学問所で歴史の講義を受けている。その時の講義に出てくる最多登場人物は明治天皇(36回)、2位は徳川家康(25回)、3位は仁徳天皇(24回)だった。さらに、アメリカのワシントン大統領やプロシアのフリードリヒ大王も好ましい指導者として繰り返し登場した。それは、天皇神格化とは無縁の内容だった。歴史の授業を担当したのは白鳥庫吉だった。神代については、あくまで神話であることを明示し、その言動が批判された天皇もいた。
 語学はフランス語が教えられた。ヒロヒト皇太子のヨーロッパ外遊は日本で大きく報道され、一種のスター、アイドル化していた。
 ヒロヒトは摂政時代、東京で発行される新聞全紙と大阪・台湾さらには地方新聞まで読んでいた。パリの新聞も取り寄せ、フランス語の勉強を兼ねて読んでいた。「改造」、「解放」、「中公公論」などの総合雑誌も読んでいた。とくにヨーロッパ旅行のあとは、幅広く読むようになった。
 1928年6月4日の張作霖爆殺事件について、昭和天皇は田中義一首相を叱責した。この点に、著者は、ここで政治に介入しなければ、政党政治を擁護するはずの昭和天皇の政治責任が問われることになる事態になると思ったからだと解説しています。
 「聖断」によって内閣が退陣したのは、これが初めてだった。その後、右翼は昭和天皇の側近を攻撃していたが、それは実質的には昭和天皇そのものを批判する狙いがあった。
 満州事変が勃発するときにも、昭和天皇の権威は揺らいでおり、軍部を抑えることができなかった。西園寺は昭和天皇の威信低下を痛感していた。国際関係の緊張が軍部の発言力を高めたため、昭和天皇が国政を掌握するのはますます困難になっていった。
 昭和天皇は美濃部達吉の天皇機関説を理解していた。しかし、対外的には国体論を認めたかたちになってしまった。その結果、昭和天皇は、国内政治に関する思想・政策に関して、もはや完全に孤立してしまった。
 1936年に2.26事件が起きたとき、昭和天皇は断固鎮圧を決意した。決起グループは皇道派に昭和天皇は同情的であると聞いていて、実は批判的であることが知らされていなかった。だから、決起グループは、あくまで天皇の真意実現を妨げる諸勢力を粉砕することが目的だった。しかし、昭和天皇からすると、大局的見地から工業化路線を優先した自分の判断が暴力的に否定されたと受けとめた。
 事件を即時鎮圧し、陸軍の下克上体質を改めよという意向を昭和天皇は示した。ところが、決起集団に同情的な陸軍は、なかなか鎮圧に動こうとしなかった。天皇と陸軍の意思が異なったとき、天皇の意思が「皇祖皇室の遺訓」に合致していないと陸軍が判断できるなら、最高指揮官たる現天皇の意向に反して問題はない。こういう考え方が陸軍の側にあった。このように、陸軍にとって天皇は絶対的な存在ではなかったわけですね。
2.26事件について、陸軍は天皇から叱責されたという不名誉な事実を組織ぐるみで隠蔽してした。
昭和天皇は、生物学を研究していたが、これについても、陸軍武官がこの非常時に生物学の研究なんてはなはだけしからんと批判していたので、昭和天皇は気兼ねしていた。
 うへーっ、好きな歴史学ではなく生物学を逃げ場としていたのに、それすら軍人から批判されていたとは、昭和天皇も大変です。そんなこんなで、昭和天皇は一時期、大変やつれていたとのことです。
 1938年7月、昭和天皇は次のように語った。
 「元来、陸軍のやり方はけしからん・・・。中央の命令にはまったく服しないで、ただ出先の独断で、朕の軍隊としてはあるまじきような卑怯な方法を用いるようなこともしばしばある。今後は朕の命令なくして一兵だも動かすことはならん」
 元老西園寺が老衰で政治的影響力を失いつつあった当時、昭和天皇はますます周囲から理解者を失いつつあった。
 結果的に日中戦争の進展を容認し、太平洋戦争開始の決断を下したのは昭和天皇であった。終戦の「聖断」まで時間がかかったのは、少しでも有利な条件で戦争を終わらせたかったため。昭和天皇は、少しでも有利な条件で講和しようと、局地的戦闘の勝利を期待する一撃講和論者だった。
 この本を読んでも、昭和天皇に戦争責任があることは間違いないところだと確信しました。
(2011年11月刊。1000円+税)

本土決戦の虚像と実像

カテゴリー:日本史

著者  日吉台地下壕保存の会 、 出版   高文研
 第二次世界大戦の末期、当時の日本軍最高指導部は本気で本土決戦を考えていたのですね。信じられませんが、そのことがよく分かる本です。
 館山や九十九里浜にアメリカ軍が上陸することを予測し、多くの特攻基地をふくむ地下壕群が築造されていった。また、長野県松代に大本営を移転すべく地下壕を本格的に築造していった。本土決戦は、決して机上の計画にとどまったものではなく、幻の計画ではなかった。
 当初の本土決戦は、航空攻撃と海岸線の砲台・陣地によってアメリカ軍に上陸以前に大損害を与え、上陸してきたアメリカ軍は内陸部の陣地でくいとめ、アメリカ軍の消耗を待って「決戦兵団」が攻勢に出て、アメリカ軍を一挙に撃滅する作戦であった。
 うへーっっ、なんだか成功しそうで、実はまったくナンセンスな計画ですよねだって、そのころには既に航空機も海岸線の砲台も、そして内陸部の決戦兵団なんて、現実にはどこにもなかったのですよ。
 本土決戦の準備として大本営を移転させること、風船爆弾によってアメリカ本土を攻撃しようという計画がすすめられた。
風船爆弾には、当初、生物兵器をつかう計画だったようです。それによってアメリカの家畜を壊滅させて、社会を大混乱させようというのです。しかし、それをしたときのアメリカ側の反撃が怖くて止めて、爆弾が積まれました。風船爆弾9300発が発射され、アメリカ大陸に1000発は到達した。着弾地が確認されたのが361発で、死者6人という「成果」をあげて終わった。
本土決戦のため、参謀本部は150万人を招集し、一般師団40、混成旅団2つをつくりだす計画だった。
 大本営は、第一線部隊には後退を許さず、玉砕を強要しながらも、最後まで松代大本営工事を督励し、大本営(総司令部)のみは後退し、自己を温存することを図った。玉砕の強要と自己保存である。
 松代大本営は、総延長10キロをこえる3つの地下壕群が今も残っている。つくった労働者は、ほとんどが朝鮮人であった。6~7000人が働いていた。ここには天皇の御座所もつくられた。この工事は鹿島組が請け負い、180人の朝鮮人労働者が働いた。結局、日本の国土が荒廃し、多くの日本人が死んでも天皇制だけは存続させようということだったのですね。いやになってしまいます。
(2011年8月刊。1500円+税)

天子の奴隷

カテゴリー:日本史

著者   ロイ・H・ホワイトクロス 、 出版   秀英書房
 第二次世界大戦中、シンガポールで日本軍の捕虜となり、ビルマのタイメン鉄道建設にに従事させられ、その後、日本へ送られて三池炭坑で働かされたオーストラリア兵の記録です。苛酷な収容所生活のなかでよくぞ生き残ったものだと、つい感嘆してしまいました。
 1942年2月、イギリス軍は改めてきた日本軍に降伏した。
 チャンギ収容所にオーストラリア軍だけで1万5000人が収容された。そこへ、山下奉文将軍が視察にやってきた。
捕虜を乗せた貨物船は、シンガポールに向けて航行中、アメリカ軍艦水艦の魚雷攻撃を受けて沈没した。
 ビルマに連行されて、そこでタイメン鉄道の建設作業に従事された。私はみていませんが、有名な映画になっていますよね。クワイ河マーチも有名です。
 著者は、ここで23歳の誕生日を迎えました。この若さがあったから生きのびることが出来たのです。
 収容所ではコレラが猛威をふるい、次々に死者が出ます。トイレに夜中27回もいったといいます。マラリアも大流行します。隊の死亡率は5割。労働隊320人のうち、200人が病気で寝ていた。毎日のように誰かが脳性マラリアの犠牲になった。
 110キロ・キャンプでは1日に35人の死者を出した。30キロ・病院キャンプでは総員1027人のうち、既に500人以上が死んだ。
 1943年12月。570人のうち295人が働けなかった。1週間後、病人は399人に増えた。著者のところでは43人のうち38人が重体で動けなかった。
 1945年1月、九州になんとか到着した。大牟田の捕虜収容所は九州最大で1500人を収容した。イギリス人、アメリカ人、オランダ人、オーストラリア人がいた。そのうち、オーストラリア人は4棟を占めた。
給料は皆勤すると月に7円が支給された。ただし、これから1日1回のミルク代として2円が差し引かれた。
日本軍は連合軍捕虜への赤十字物資を専断し、倉庫にため込んだ。ときどき、それを勝手に償品として出勤率最高の部隊に贈られた。
 1945年6月、石炭600トンを産出するように勧告され、それから酷使され続けた。
やがて大牟田も空襲されるようになった。空前の規模の空襲は8月9日のこと。
8月15日、突然に戦争が終わり、解放された。大牟田にあった捕虜収容所には、終戦時に、収容者が1737人いた。収容中に138人の捕虜が死亡。オーストラリア人も19人が死亡。その半数は肺炎による。
 大牟田は、大阪や尼ヶ崎と並んで原爆攻撃の2次目標に入っていた。
収容所の初代所長の由利敬は戦犯として第一号に死刑が執行され、二代目所長の福原勲は巣鴨で2番目に紋首刑が執行された。このほか、大牟田収容所関係では2人が死刑となっている。
 著者は1920年の生まれですから、終戦時は25歳でした。2009年に亡くなっていますので、幸いにも89歳まで生きておられたわけです。シドニー大学に学び、またシドニー大学で働いていました。
 大牟田の収容所に入られ、捕虜として三池炭坑で働かされて生きのびた貴重な体験記です。広大な収容所の建物(宿舎棟)がずらりと並ぶ様子は壮観としか言いようがありません。写真をみると海岸沿いにあったようです。
(2010年10月刊。2500円+税)

不思議な宮さま

カテゴリー:日本史

著者   浅見 雅男 、 出版   文芸春秋
 戦後初の首相となった東久邇宮稔彦(ひがしくにのみやなるひこ)王の評伝です。その実像にかなり迫っていると思いました。
 稔彦王の生母は寺尾宇多子という女性である。
 正妃のほかに側室をもつのが当たり前だった皇室では、子どもはすべて正妃の子とされ、生母はあくまでも腹を貸しただけという建前がとられた。生母は自分の腹を痛めた実子に対して臣下の礼をとられなければいけなかったし、生母への思いを公然とあらわすのは慎まねばならなかった。ところが、稔彦王の父である朝彦親王には正妃がいなかった。それにもかかわらず、生母は名乗ることができなかった。
 朝彦親王は四男だったが、宮家を継ぐ王子以外は出家するという江戸時代以前の皇室のならわしにしたがって、8歳で京都の本能寺にあずけられ、14歳のときに奈良の一乗院の院主となった。朝彦親王は孝明天皇の命で還俗(げんぞく)した。ところが、朝彦親王は孝明天皇の期待を裏切って、公式合体派の首領として、京都朝廷で威勢を振るった。そして、明治元年、朝彦親王は岩倉らによって、徳川慶喜と結託して幕府の再興を図ったとの理由で広島に幽閉されてしまった。
 稔彦王は、生後すぐに母親から離され、京都郊外の農家に里親に出された。
 このころ、皇族や公家の幼児が里子に出されるのは珍しいことではなかった。子どものころ稔彦は、皇太子である嘉仁親王を尊重していなかった。それどころか、天皇という存在への敬意も欠如していた。
 皇族の生徒の取り扱いは軍当局にとって難題だった。もともと体力の劣っている皇族を厳しく鍛えると、病気になることがある。特別扱いするのは無理はなかった。ところが、特別扱いされる皇族生徒のほうでは、それがストレスになった。
皇族はトルストイの本を読むのも禁じられていた。
 ええーっ、そうなんですか・・・。信じられません。
 明治天皇には14人の子どもがいた。男子は4人で、成長したのは後の大正天皇ただ1人。10人の女子のうち、成長したのは4人のみだった。
稔彦王は、拘束の多い皇族という身分が嫌で嫌でたまらなかった。稔彦王は、何度も何度も皇族の身分を離れたいと言いはって、周囲から顰蹙を買い、また関係者に迷惑をかけた。
 若い皇族の海外留学は天皇政権が誕生してまもないころから盛んにおこなわれた。
 皇族たちは、続々と海を渡った。どの皇族も、10代半ばから20代半ばの若さだった。ほとんど全員が現地の軍学校で学んだ。明治前半の皇族留学は、軍事修行が主たる目的だった。
 稔彦王がパリに留学したとき、年に20万円が与えられた。これは現在なら10数億円にもなる巨額である。パリの陸軍大学を卒業したあと、稔彦王は政治法律学校に入った。ここでは、フランス語版の「資本論」を読んだという。稔彦王は、画家のクロード・モネと親しくつきあった。そして、稔彦王は、なかなか日本に帰国しようとせず、周囲をやきもきさせた。
 陸軍では、皇族は皇族であるがゆえに経験や能力は度外視され、超スピードで段階が上がっていく。したがって、階級が高いからといって、有能な部下が何でもやってくれる部隊の長ならともかく、責任が重く、判断能力が要求される省部の幹部になるのは無理だった。
 王政復古以来、皇族が戦場におもむくことは珍しくはなかった。しかし、いずれの場合、皇族軍人たちは、その身が危険にさらされないように周囲から周到な注意をはらわれ、その結果、戦死した皇族は一人も出ていない。
 軍司令官としての稔彦王は、賢明にも「お飾り」に甘んじていた。
 内大臣の木戸は稔彦王について、取り巻きがよくないと許した。木戸は神兵隊、天理教、小原龍海、清浦末雄など好ましからざる連中が取り巻きにいることを熟知していた。
 終戦のとき、稔彦王をよく知る人たちは、稔彦王を信頼せず、もろ手をあげて首相就任を歓迎することはなかった。しかし、陸軍の暴発を抑えること、国民に敗戦を納得させ、人心の動揺を防ぐことが目的だった。
皇族の一員として生まれて、その特権を利用しながらも、不自由な皇族から離脱しようとした人物であること、そして、一貫した信念をもたず、取り巻きにいいように利用されてきた人物であることがよく分かる興味深い評伝です。
 今では、こんな人物が皇族としていたことは誰もがすっかり忘れていますよね。
(2011年10月刊。2200円+税)

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