法律相談センター検索 弁護士検索
カテゴリー: 日本史

巨大戦艦「大和」全軌跡

カテゴリー:日本史

著者   原 勝洋 、 出版   学研
 大艦巨砲主義の頂点に立つ「大和」は、巨大主砲9門、発砲時の衝撃に耐え、船体の53.5%の主要部のみに防御を集中する「集中防御」を採用した。艦幅が広く、喫水の浅い、速力を出すには不利な船型をした船艦だった。それでも、「大和」は最高時速50キロを発揮した。「大和」型戦艦の建造について山本五十六・航空本部長は次のように反対した。
 「巨艦を造っても不沈はありえない。将来、飛行機の攻撃力はさらに威力を増し、砲戦がおこなわれる前に飛行機によって撃破されるから、今後の戦闘では、戦艦は無用の長物になる」
 まことに至言です。その言葉のとおりになりました。ところが、当時の海軍首脳部は、航空攻撃の威力について「実践では、演習どおりにはいかない」と考え、山本航空本部長の反対意見を押し切った。
 海軍軍令部は、アメリカと量で競争することはできないのでアメリカより前に巨大戦艦を建造し、射程の長い砲を搭載し、アウトレンジで敵が決戦距離に入る前に先勝の端緒を開くという、質で対抗する考え方を強調した。
 主砲40センチ砲の一門の製造に要した鋼塊重量は725トン、鍛錬重量は417トンで、仕上がり重量は166トンだった。
 発射速度は30秒に一発。弾丸を一発発射するのに、29.25~30.5秒かかる。「大和」が9門の主砲を一斉に同一舷、同方向に向かって発砲したときには、8000トンの反動力が生じる。
 「大和」の艦艇からから最上甲板までの船体の高さは6階建てのビルに相当した。「大和」に立ち入った者は、誰一人として、この巨艦が沈むとは思わなかった。
 昭和17年11月のソロモン海戦のころまではアメリカ軍もレーダー操作に不慣れだった。しかし、翌18年7月のころには、アメリカ軍の夜戦能力は射撃用レーダーの進歩と射法の改良によって急速に向上していた。同年11月には、日本海軍はアメリカ軍のレーダー射撃に太刀打ちできなくなっていた。
 大本営発表では勇ましい「戦果」をあげているということだったが、実はアメリカ空母はすべて健在という正しい情報を得ていた第14方面軍もいた。ところが、参謀本部の瀬島龍三少佐が正しい情報を握りつぶしてしまった。
 瀬島龍三については、今なおその崇拝者が少なくありませんが、こんなことをしていたのですね。許せませんよね。
 結局のところ、「大和」はその9門の主砲をまったく活用することがないまま無数の航空攻撃の下に撃沈させられてしまったのでした。
 「大和」の性能そしてその最期に至るまでを、アメリカ軍の記録をも掘り起こして刻明に解明した貴重な本です。宇宙戦艦ヤマトとちがって、ここには「男のロマン」はないというしかありません。
(2011年8月刊。2300円+税)

とめられなかった戦争

カテゴリー:日本史

著者   加藤 陽子 、 出版   NHK出版
 とても知的興奮をかきたてる、刺激的な本でした。なるほど、そういうことだったのかと何度も再認識しました。
 1944年6月のマリアナ沖海戦と7月のサイパン地上戦に日本が敗れ、サイパン島を失ったのは決定的なターニングポイントだった。敗戦の1年前のサイパン失陥の時点で戦争は終わらせるべきだった。この機会を逸したことで、日本はより悲惨な戦いを強いられ、敗北を重ね、被害を一挙に増大させていくことになった。
 1942年8月に始まるガダルカナル島の戦いは、日本軍が攻撃から守勢へと、立場を変えた戦局の転換点だった。マリアナ諸島は、製糖業の拠点であると同時に、軍事拠点でもあった。ここは日本の絶対国防圏内にあり、日米ともに戦略上最重要と認める焦点だった。日本軍にとって死守すべきところなのである。
 この「絶対確保すべき要域」にアメリカ軍の侵攻を許したことは重大であるのに、このサイパン失陥が政府、大本営で問題視された形跡はない。
 サイパン失陥によって、アメリカ軍による本土空襲は日程に上った。B29というアメリカ軍の大型爆撃機は日本本土を空襲して帰ってくるのにちょうど間にあう位置にある。アメリカ軍は、B29による日本本土空襲を当面の最重要戦略に位置づけていた。だからこそ、最強の機動部隊と7万人の兵力をつぎ込んでサイパン・マリアナ諸島を攻略するや、サイパン・テニアン・グアムで航空基地群を建設・整備しはじめた。
 日本も、サイパンの戦略的重要性が分かっていたから、4万人の将兵を送ってサイパンの守備を固めた。堅固なサイパンは守り抜けると確信していたのに失陥したため、9日後に東条英機首相は退陣に追い込まれた。日本はマリアナ沖海戦で決定的な戦力である機動部隊を失ってしまった。そのため、日本海軍は、以後、合理的な作戦を立案できなくなってしまった。
 サイパン失陥のあと、多くの日本人が終戦までに亡くなっていた。東京大空襲で10万人、原爆で広島14万人、長崎50万人もの民間人がサイパン以後の空襲で亡くなった。日中戦争から敗戦までの軍人・軍属の死者230万人、その6割の140万人は、広い意味の餓死だった。
 1941年7月、日本軍が南部仏印に進駐すると、アメリカは日本の予想に反して石油の対日全面禁輸を実行した。なぜか?
 それはソ連を応援するためだった。ドイツとの戦争を始めたばかりのソ連が連合国側から脱落しては、元も子もない。アメリカの軍需産業は動き出したばかりで、まだモノがなかった。翌42年春になればなんとか輸出情勢が整うので、それまではソ連にもちこたえてもらわなければならない。そこで、ソ連が当面の敵ドイツに加えて背後から日本の攻撃を受けることがないように、日本を強く牽制し、注意をアメリカにひきつけた。つまり、ソ連の背後の脅威を除くためにとった措置だった。
 日米開戦の最大の推進力となった陸海軍の将校、とりわけ参謀本部、軍令部の中堅幕僚たちは、当時は40歳代で、いずれも少年のときに日露戦争を体験している。少年時代に刻みつけられた華々しい勝利の記憶が、開戦それも早期開戦を渇望しただろう。
日本が緒戦に大勝すれば勝機はあると思っていたのは、財政的に準備していたことが大きい。日中戦争が始まってから、臨時軍事費を特別会計で組み、膨大な軍事費を確保していた。その3割を日中戦争遂行のためにあて、残る7割は来るべき太平洋戦争の準備にあてていた。4年間で、256億円、今のお金に換算すると20兆円をこす。これだけ軍備につぎ込んで準備していれば、まだアメリカの準備がととのわないうち緒戦に大勝すれば、そのまま戦争に勝てると考えても不思議ではない。
 満州事変は、日本も中国も、宣戦布告はせず、戦争とはみなされない方法ともに選んだ。それが共通のメリットだった。また、アメリカにとっても、日中の関係にアメリカ国民が巻き込まれないですむというメリットがあった。そんな三者の暗黙の了解のもとに日中戦争は展開していった。
中国人の胡適は、中国は豊かな軍事力を持つ日本を自力では倒せない、日本の軍事力に勝てるのはアメリカの海軍力とソ連の陸軍力の二つしかない。だから、この二国を巻き込まない限り中国は日本に勝てない。そのためには、中国との戦争を正面から引き受けて、2~3年間、負け続けることが必要だ、そう言い放った。
なんと鋭い冷静な言葉でしょうか・・・。
 昭和天皇でさえ、自らの意志によって、暴発した軍事行動をとめられないというパターンができていた。これは別に昭和天皇伝記で紹介したとおりですね。
 よく調べてあるし、その論評の確かさには舌を巻いてしまいます。わずか130頁ほどの薄い本ですが、ぎっしり中味の詰まった重厚な本でした。
(2011年7月刊。950円+税)

人間、昭和天皇(上)

カテゴリー:日本史

著者   高橋 紘 、 出版   講談社
 宮内記者会にいて、昭和天皇と出会って40年という記者の手になる本です。人間としての昭和天皇の実像がよく描かれていると思いました。
明治天皇は側室を6人置き、うち5人から15人の皇子皇女が生まれたが、成人したのは嘉仁親王(大正天皇)と4人の内親王のみ。ええーっ、3分の1の生存確率だったのです。十二分に保護されていたはずなのに、どうしてこんなに生存率が低かったのでしょうか・・・。
 皇子の名は「仁」がつき、皇女は「子」がつく。これは平安時代からの遺風である。幼少時代の裕仁親王について、神経質だと書かれている。それには、将来の天皇を事故のないように育てようとする神経質な大人の気持ちが伝わったからだろう。
 大正天皇は子煩悩で、また子どもたちも父親が大好きだった。「親子別居」が制度化されていたが、両親はそれを何とか崩そうとした。
 明治天皇は糖尿病を患っていた。酒が好きで運動が嫌いで、医者の言うことに耳を傾けなかった。日露戦争中の1904年に診断が下っていたが、病気が知れると将兵の士気にかかわるので、極秘事項とされた。
 皇太子嘉仁(大正天皇)は病弱だったので、側近は腫れものに触るようにして育てたので、身勝手でわがまま放題に育った。親王教育は5歳から始まったが、しばしば病に伏せたので系統だっていなかった。
 裕仁親王への歴史教育は皇国史観ではなく、批判的、客観的なものだった。裕仁の御学友は「陸海軍志望者に限る」ということだったが、実は、ご学友のうち軍人になったものは一人もいない。
 宮中ではトイレを「御東所」という。御東とは大便のこと。尿は「おじゃじゃ」。昭和天皇は生涯、便のチェックを受けていた。トイレはもちろん水洗だが、使用後は流さない。待医が見て、「拝診日記」に記録する。たとえば、「御東午前10時30分硬中」というように。
訪欧まで、裕仁親王はテーブルマナーも知らなかった。また、身体を動かすクセがあり、それは晩年まで直らなかった。
伝統墨守派の皇后からすれば、帰国後の裕仁の拳措は軽薄な外国かぶれとしか映らなかった。
20歳の青年皇太子(裕仁)には奔馬のような勢いがあった。その皇太子に対し手網を巧みにさばき、次代の天皇としてバランスよく育てあげるのが牧野伸顕の役目だった。
皇后は何事にもマイペースなところがあった。
 昭和天皇(裕仁)は、人の前で他人を貶(おとし)めたり、批判したり、まして怒ったりしたことがない人という天皇像は伝説でしかない。実のところ、「側近日誌」では何人もが批判の対象になっている。
 田中義一内閣の倒壊は、西園寺以下の宮中側近が天皇の政治関与を認めた結果だった。これ以降、昭和天皇は、「もの言わぬ人」になった。しかし、意に召さないときは、昭和天皇は態度や質問で抵抗することがあった。内閣が上奏するとき、同意のときは「そう」と言うが、不同意のときは黙っている。書類も不賛成のときは、手元に留めておいてしまう。
 昭和天皇は、生涯、朝・昼食に牛乳を飲んだ。戦後も御料牧場から皇居に数頭ずつ3ヵ月交替で送られてきた。牛の世話をする人が少なくとも130人ほどいる。
朕の軍隊は大元師の意向を無視して独断専行する。30歳の若き天皇の悩みは日ごとに増幅していった。陸軍の幹部は、自分たちの思うようにならないと、陛下はあまりに平和論者だとか神経質すぎるとか、かれこれ不平をもらす。結局、側近や元老が悪いからそうなると言いふらした。
 皇太子(平成天皇)は、満3歳3ヵ月で両親の膝元を離れた。昭和天皇は、せめて皇太子が学齢に達するまで手元に置きたいと願ったが、貞明皇后と西園寺が旧慣をがんとして割らなかった。昭和天皇は、自分は両親の愛情が感じられず悲しかったと思い出を語った。
 昭和天皇の悲しく寂しい生い立ちが明らかにされています。帝王って孤独な存在なのですね。
(2012年2月刊。2800円+税)

贈与の歴史学

カテゴリー:日本史

著者   桜 井  英 治 、 出版   中公新書
 年貢契約説というのを初めて知りました。
領主には百姓を保護する義務がある。それに対して、年貢は百姓がその御恩に対する忠節・奉公として納入したもの。だから、年貢の減免要求はあっても、年貢そのものを廃棄しようという動きはまったく見られなかった。
 調(ちょう)の本質は、氏族や官人に分配することではなく、神に対する贈与にあった。
 初穂を特徴づけるのは額の少なさだった。まさしく寸志だった。収穫の3%という低率だった。古代の税は人への課税から土地への課税へと大きく変化した。そのとき、神への捧げ物としての本来的性格は失われた。
 室町幕府の意思決定は、評定会議にせよ、大名意見制にせよ、有力大名の全会一致を原則としていた。専制的な将軍として知られた足利義教でさえ、この原則は無視できなかった。
 有徳銭(うとくせん)は、金持ちにのみ賦課された富裕税のこと。一定以上の財産をもつ者にのみ賦課された。
 いま、アメリカでオバマ大統領が試みている金持ちへの課税ですね。日本でも共産党が提唱していますが、民主党も自民党も強く反対しています。私は必要だと考えています。
 有徳人に徳行を求める民衆意識こそ、中世後期において有徳銭を支えていた主要な倫理的基盤であった。
 有徳銭が民衆に対する間接的贈与であったとすれば、土倉・酒屋などの金融業者に責務の破棄を求めた徳政一揆は、いわば民衆に対する直接的贈与を求めた運動に位置づけられる。富める者は、その富を社会に還元しなければならない。本当に、そのとおりです。アメリカでは大金持ちが自分たちに適正な課税(税率アップ)を求めていますが、日本の超大金持ちから、そんな声は聞けません。残念です。
 中世の日本は、文書の発給や訴訟など、さまざまな場面で、礼銭(非公式の手数料)が求められた社会だった。このような非公式の礼銭収入が実質的に役職に付随する唯一の収入源となっていた。
 中世の人々は、損得勘定、釣りあいということに非常に敏感だった。損得が釣りあっている状態を「相当」、釣りあっていない状態を「不足」と呼ぶ。
 手紙の末尾は、相手の身分に応じて書き分けねばならなかった。謹言、恐々謹言、恐惶謹言、誠恐謹言。ちなみに、拝啓とか前略という書き出し文言は中世日本にはない。
 13世紀後半、それまで米で納められていた年貢が、銭で納める形態に変化した。これを年貢の代銭納制という。この出来事は、中世日本の経済にとって、最大の事件だった。
 年貢の代銭納制は、日本列島に膨大な商品の流れを発生させ、本格的な市場経済が展開するようになった。
 中世後期の日本では、銭を贈答に用いることに抵抗を示さなかった。今日の日本でも現金が平気で贈答されるが、これは日本の特殊性だ。
 ええーっ、そうなんですか。たしかに、結婚式その他で、私たち日本人は全く平気でお金を包んでいますよね。そして、その相場表がマナーの本にのっています。
 中世とは、年始から歳暮に至るまで、一年を通じて際限なく贈答儀礼がくり返されていた時代である。
 私たちが、今日、平気でしていることって、意外にも世界的には珍しいことのようです。しかし、それは中世以来の伝統でもあるというのです。いろいろ知らないことって多いですよね。
(2011年11月刊。800円+税)

写真の裏の真実

カテゴリー:日本史

著者   岸本 達也 、 出版   幻戯書房
 あの硫黄島の戦いで、捕虜となって生き残った日本兵がいたのですね。しかも、この日本兵は栗林忠道中将のそばにいる通信担当兵でした。
 運良く助かった、この日本兵が生き延びることが出来たのはフランス語を話せたからでもありました。戦前の東京でアテネ・フランスに通ってフランス語が話せるようになったのです。そして、アメリカ兵に託した家族写真の裏にはフランス語が書かれていました。しかも、なんと、それはボードレールの「悪の華」の一節だったのです。
 この暗号兵はアメリカ軍に対して自分の知っている日本軍の機密情報を洗いざらい提供したのでした。これを日本への「裏切り」として許せないと怒った元日本兵がいますが、どうでしょうか。むしろ、一刻も早く日本を敗戦にもち込んだほうが多くの罪のない日本人が助かると考えたからですので、本当の意味での愛国者と言えるのではないでしょうか。愛国心というのは、その国に住み生活している人々を大切にすることだと私は思います。
 このように、「スパイ」行為(この暗号兵は決してスパイではありません。念のため)は、真の愛国心と両立することもあるのです。ところが、現代日本でまたもやかつてのスパイ防出法案と同じ秘密保全法を政府は制定しようとしています。情報の国家統制を強めようというわけです。許せません。いま、弁護士会は大きな反対運動に立ち上がろうとしています。
それはさておき、この暗号兵はアメリカ軍に対して本名を偽っていました。なぜか?
 日本兵は捕虜にはならない、なってはいけないという戦陣訓があったからです。捕虜になったことが知られると、日本にいる身内に迷惑がかかります。ですから本名を名乗ることができなかったのです。
 クリント・イーストウッド監督による硫黄島の戦いを描いた映画二部作『父親たちの星条旗』『硫黄島からの手紙』は、私も映画館で見ましたが、感動的な大作でした。戦争の不条理さもよく描いていたと思います。それにしても、あんなに激しい戦闘のなかで、よくも捕虜として生きのびたものだと思います。
 この本は静岡放送のディレクターが、わずかな手がかりをもとにして、この暗号兵を探り出していく過程を描いています。よくぞ判明したものです。厚労省の社会・援護局が調査して突きとめたものでした。フランス語を勉強したのは、フランスに渡って画家になる目標を実現するためだったのです。
 よくもまあ、ここまで調べあげたものだと感心しつつ、捕虜となった日本兵のその後の厳しい人生をしのんだことでした。
(2011年12月刊。2500円+税)

福岡県弁護士会 〒810-0044 福岡市中央区六本松4丁目2番5号 TEL:092-741-6416

Copyright©2011-2025 FukuokakenBengoshikai. All rights reserved.