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カテゴリー: 日本史

逆渡り

カテゴリー:日本史

著者   長谷川 卓 、 出版   毎日新聞社
 
 ときは戦国の世。ところは、上杉憲政と対峙する甲斐の武田晴信軍のぶつかるあたり。
 主人公は四三(しそう)衆の一員。四三衆とは、5、6年おきに山を渡る渡りの民のこと。四三とは北斗の七ツ星のこと。この星を目印として渡ることから、自らを四三衆と名乗っていた。四三衆の山の者の役割は、戦うことではない。傷兵らの傷の手当と救出、重臣に限定されるが、戦場からの遺体の搬出。山の者は薬草などに詳しく、里者よりも金創の治療に長けているからだ。
多くの場合、武将が山の者を駆り出すのは輸送のため。山の者に支払われる金の粒や砂金は、蓄えとして貴重であるうえ、塩や米にも換えやすい。四三衆は、断る理由がない限り、仕事を受けた。
 戦場で手傷を負った者を見つけたときは、傷口を縫うが、薬草(蓬の葉)を貼り、布でしばる。だが、縫うか薬草で間に合う程度の傷の者は少なく、ほとんどの者は少なく、ほとんどの者は見殺しにするか、せいぜい縛って血止めをするのが関の山だった。
 逆渡(さかわた)り。生きるために渡るのに対し、仲間との再会を期さず、死に向かって一人で渡ることを、山の者は逆渡りと言った。
 四三衆では、60を迎えた者の次の渡りに加えず、隠れ里に留め置く。いわば、捨てられるのだ。
 うひゃあー・・・。60歳になったら山のなかに一人置いてけぼりになるのですか・・・。いやはや、まだ、60歳なんて、死ぬる年齢ではありませんよね。早すぎる棄老です。許せません。
 山の民の壮絶な生きざまが活写されています。作者の想像力のすごさには脱帽します。
(2011年2月刊。1500円+税)

戦争と広告

カテゴリー:日本史

著者  馬場マコト、  白水社  出版 
 
 広告クリエーター、山名文夫(やまなあやお)の物語です。
 資生堂の広告をかいていた山名は、戦争に突入してからは、「産業技術は、その技量を今こそ国家のために動員し、民衆を指導し、啓発し、説得し、昂揚させるために、大東亜戦争のもとに集結せよ」と説くことになった。
 山名文夫は、自分の持つ商業美術の技量を総動員し、民衆を緊張させ、結集させ、行進させた。「おねがいです。隊長殿、あの旗を討たせて下さいッ!」という山名のついたポスターは、兵士からの参加性の視点が、きわめてユニークなものにして、衆目を集めた。
 資生堂は、創業以来、商売よりも美を優先してきた。その「百年史」には、メーカーなら第一に語られる商品、流通の歴史よりも、広告の歴史が主体となっている。日本の社史のなかでも珍しい。意匠広告部の社員の入社・退職が細かく記され、広告・商品デザインの担当者の名前をクレジットし、こだわりを見せる。 
資生堂は、陸軍から大量のセッケンを受注し、これをきっかけとして、第二次大戦の軍需に支えられるようになった。女偏の会社が、戦偏の会社に変わったのだ。
 広告というビジネスは、いつも時代におべっかを使いながら、自分自身を時代に変容させて生きるビジネスだ。悲しいかな、自分の思想も何もあったものではない。そうやって、自分が生まれてきた時代を生きてきた。しかし、時代と併走しつづけるのも、これでなかなか大変なのだ。時代の変化を習慣的に読みとり、自分の感性と肉体を反射的に変容させなくてはいけない。時代はなかなかの暴れ馬で、ちょっと油断すると振り落とされてしまう。 
戦争は嫌だと高言している著者です。広告の恐ろしさをまざまざと感じさせる本です。なんといっても、私たちは、あの「小泉劇場」の怖さを体験していますよね。
 どんな世の中になっても、戦争を起こさないこと、これだけを人類は意志しつづけるしかないと著者は強調しています。まったく同感です。日本も核武装しろなんて声が多いというのを聞くと、身震いしてしまいます。核兵器をもて遊んではいけません。核戦争になったら、全地球、全人類が破滅するのですよ・・・。勇ましい掛け声は無責任そのものです。
(2010年9月刊。2400円+税)

ノモンハン戦車戦

カテゴリー:日本史

著者  マクシム・コロミーエツ、   大日本絵画 出版 
 
 1939年5月から9月にかけて、モンゴルとの国境付近で日本軍(関東軍)がソ連軍(赤軍)と正面から戦って惨敗したのがノモンハン事件です。この本は、その地上戦における戦車部隊を中心として戦争の推移を追っています。この本とは別に、『ノモンハン航空戦』という本も出ていますので、追ってご紹介します。
 モンゴル人民共和国と満州国とのあいだの国境はきわめてあいまいだった。全長40キロの国境には、国境標識がわずか35個しかなかった。自然境界もハルハ河とボイル湖を除いてはなく、水域に関する合意もなかった。双方ともお互いに譲らず、外交的な解決は望んでいなかった。ノモンハン戦の原因は満蒙国境の曖昧さと双方が交渉を望まなかったことにある。
 5月の時点では、制空権は完全に日本軍航空隊が握っていた。ソ連軍のパイロットたちの訓練度は低く、中国戦線で経験を積んだパイロットが多い日本軍航空部隊に立ち向かうことはできなかった。
 5月の戦闘は、ソ連軍部隊の訓練に深刻な欠点のあることを暴露した。それは、何より偵察と部隊の指揮統制・通信の面で顕著だった。各種部隊間の相互連携もうまく組織されていなかった。
 1939年6月、ジューコフが第57特別軍団長に就任した。それまでのジューコフには戦闘経験はなかった。ところがジューコフは、前任の軍団幹部らをスパイと決めつめ、「人民の敵」として一掃した。過去に戦闘経験のないジューコフはいきなり砂漠と草原という特殊な条件下で人的・物的損害を惜しまない物量戦を展開した。それは前線の将兵に不評だった。
 日本軍の戦車第4連隊長の玉田大佐は、ソ連の兵器は性能が優れており、敵は機敏で粘り強く、士気も高い。敵の資質は予想よりはるかに高いことを悟った。ソ連軍の砲撃はあまりに強力かつ効果的で、日本軍が中国で経験したことのないほどのものだった。7月の戦闘を総括して玉田大佐はソ連軍に高い評価を与えた。
「敵の戦意を見くびるべきではない。彼らは組織、物質、戦力において明らかに我が方を上回っている。白兵戦になっても退却しようとせず、一部には手榴弾で自爆する者もいた」
 ソ連軍は、ノモンハンにおいて日本軍の損害は最大5万5千、そのうち2万3千が戦死したと見積もった。関東軍の公式報告によると、出動したのは7万5千で、戦死は8632人、負傷9087人としている。他方で、ソ連軍は、戦死9703人、負傷1万6千人となっている。
 ノモンハン戦でのソ連赤軍の勝利に決定的な役割を演じたのは間違いなく戦車部隊だった。ソ連指導部は、ノモンハン戦において日本軍の精強さに甚大なショック受け、ドイツ軍の対ソ侵攻作戦が開始されてなお、赤軍の最強兵力を極東方面に残留させていた。
 ジューコフ元帥は、第二次大戦でもっとも苦戦したのはハルヒン・ゴール(ノモンハン)だったと吐露したほどの激戦だった。
 停戦協定が結ばれたあと、関東軍代表団は遺体をどれだけ回収したいか、その数字をあげたがらなかった。それが公式に認める損害となることを嫌ったからである。10日間の痛い回収作業によって、日本軍は6281人の遺体を収容し、38人のソ連軍将兵の遺体をソ連側に引き渡した。
ノモンハン戦の地上における戦いの様子の一端を多くの写真とともに明らかにした冊子です。
 
(2007年9月刊。2500円+税)

戦場の街、南京

カテゴリー:日本史

著者  松岡 環、  出版  社会評論社
 1937年に日本軍が南京で大虐殺事件を引き起こしたのは歴史的な事実です。それがあたかもなかったかのように主張する日本人が今なおいるのは残念でなりません。虐殺された人が正確に30万人なのかどうか、私にはよく分かりませんが、いずれにしても何万、何十万人という罪なき人々を日本軍が次々に殺戮していったことは、多くの日本軍兵士がつけていた日誌によっても裏付けられています。
 この本は、そのような日誌のいくつかを掘り起こし、中国側の記録と照合しています。
 著者は、12年間に日本軍の元兵士250人以上を訪ねて歩いて証言を聞取っていったとのことです。大変な苦労があったと思います。加害者が生の事実をありのまま素直に語るとは思えないからです。
 多くの日本兵士が日記をつけていました。これは学校教育の成果であると同時に、日本帝国の天皇の赤子(せきし)としての自覚を高めるための軍隊教育の成果でもあった。
 家族への情愛にあふれた手紙を書く一方で、日本軍兵はいったん中国に向かうと残酷な行為を平気で行った。中国の部落に宿営するたびに食料を徴発した。徴発とは泥棒することである。
 日本軍は、兵站基地を十分に計画して設置せず、戦争に直接関係のない民衆から野蛮な略奪によって膨大な軍隊を養おうとした。日本軍は村落を直過するたびに、穀物や家畜を奪い、家屋に容赦なく火を放った。
 無錫に侵攻した第16師団寺兵第33連隊は許巷の村民223人を村の広場に集めて機関銃で撃ち殺し、まだ死に切れない人をふくめて死体を焼いた。1937年11月24日のことである。 日本軍の兵士たちは、中国人を殺すことに後ろめたさはなく、「考えている間もなく、とにかく殺した」と述懐する。
 第16師団の中島今朝吾師団長は、「捕虜はとらぬ方針」なので、部隊の兵士たちは片っ端から元兵士や中国人を殺していった。 7、8百という数の捕虜を「処分」するのには相当に大きな壕が必要で、そんなものはなかなか見つからない。そこで、百、二百に分割して搬送し、適当な場所に連れて行って処分することにした。
「一日に第一分隊で殺した数55名。小隊で250名」
 このように書かれた元兵士の日記があり、書いた本人がそれを見ながら捕虜250人は機関銃で殺したんやろうなと語っています。
さらに日本軍は、南京に残った中国人の女性に対する性暴力を働いています。その被害にあった人は7万人とみられているのです。日本軍は国際安全区のエリアにまで乱入しました。
 日本軍の将接や軍幹部は下級兵士の性暴力を容認したばかりか、自らも性暴力に積極的に加担した。
「南京に入る前から、南京に入ったら女はやりたい放題、ものは取り放題じゃ、といわれておった」と元兵士は語る。
 強姦、強殺が多発した原因は、決して軍紀の弛緩というものではなく、不作為の作為ともいえる日本軍全体の暗黙の容認があったということ。
 このような掘り起こし作業も元兵士の高齢化によって次第に困難になっています。その意味からも貴重な本です。そのころ生きていなかったから関係ないということは許されないと思います。だって、祖父や父たちのしたことなんですから・・・。
(2009年8月刊。2200円+税)
 先日開かれた法曹協議会で、刑務所内でも収容者の高齢化がすすんでいること、不況を反映して窃盗や詐欺などの財産犯が増えていることが報告されました。60歳以上の収容者の比率は平成13年に8.2%だったのが平成21年には14.3%となった。また、万引や無銭飲食などの財産犯が36%から40.5%に増えた。覚せい剤の33.6%とあわせて4分の3を財産犯と薬物犯とで占めている。
 全国の刑務所の収容者は平成18年に3万3千人でピークとなって、その後は減少している。平成21年は2万8千人となり過剰収容の問題はなくなった。
 私は、いまもホームレスの若者の自転車盗の担当しています。3日も食べていなかったので、自ら110番して捕まえてもらったというのです。

特務機関長・許斐氏利

カテゴリー:日本史

著者   牧 久、  ウェッジ 出版 
 
 軍隊・日本軍を美化する風潮も根強いものがありますが、その実体を知れば知るほど、こんなひどい利権集団に国の運命をまかせるわけにはいかないものだと痛感します。国を守るなんて言いながら、その内実は利己主義者の集団だったのではないでしょうか。そんな軍の手先の一つが特務機関でした。中国大陸で金にあかせて暗躍し、暴虐の限りを尽くしたのです。そして、戦後の日本に私物化した大金をひそかに持ち帰って、またもや日本で贅沢三昧しました。
許斐は、このみと読みます。宗像(むなかた)大社を護る許斐城の城主だったということです。私の中学校の同級生にも、この許斐姓がいましたので、私は、抵抗感なく、このみと読めるのです。
 許斐氏利は、沖縄で牛島中将とともに自決した長勇参謀長のナンバー2だった。長勇参謀長を英傑と評価する人も少なくないようですが、私には、無責任な帝国軍人の典型としか思えません。
 日本軍は中国にいくつかの特務機関を設置した。その活動資金は軍の機密費から出ていた。日本軍による南京大虐殺にも、この許斐氏利は、長勇とともに関与しているようです。中国が30万人もの大虐殺があったと主張している大変な事件です。正確な人数はともかくとして、日本軍が大虐殺を敢行したこと自体は間違いないのです。ところが、人数の大小を問題にして、その責任を素直に認めようとしない議論をする日本人がいるのが私には不思議でなりません。
 許斐氏利は27歳のとき、中国人の配下70人をふくめて100人もの人数を擁する特務機関長として暗躍した。そして、軍の機密費は禁制品の阿片取引から出ていた。満州国政府は、阿片を専売制にして、その収入は国家予算の6分の1を占めていた。日本政府も、中国における占拠地の運営の正規予算のなかに阿片による収入計画を組み込み、実行していた。日本は、阿片を計画的に入手し、それを自治政府に分配していた。阿片による収入がなければ、日本は、これだけ大規模な戦争を遂行することは出来なかった。そして、この阿片取引には、日本政府の下で、三井物産も三菱商事もかかわっていた。   
三井と三菱が中国大陸における阿片の売買でもうけていたこと、そして、戦後の中国に対して謝罪もしていないことを知りました。阿片をすすめて多くの人間を廃人にしながら、自分だけは涼しい顔をして「文化的」な生活をするなんて、許せませんよね。
(2010年10月刊。1800円+税)
 先日、あるパーティーの席で福岡の岩本洋一弁護士から、この本は読んだかと尋ねられました。もちろん、こうやって読んでいたわけです。ときどき面白い本を薦めらます。これからも、どうぞご紹介下さい。
 ところで、日曜日と月曜日はすごい雪が降りましたね。高速道路も一時ストップしていたようです。そんな寒さで、いつもなら咲いている水仙の花が今年は開花が遅いそうです。でも、チューリップの芽が地上から、あちこちで顔を出しています。2月は逃げるそうです。もうすぐ春が来るのですよね。

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