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カテゴリー: 日本史

天魔ゆく空

カテゴリー:日本史

著者    真保 裕一  、 出版   講談社
 『ホワイトアウト』など、社会派の推理小説作家とばかり思っていた著者が、このところ歴史、時代小説にも進出していたとは、ちっとも知りませんでした。
 ときは室町時代。足利将軍はとっくに権勢を喪い、細川や山名という有力武将が激しい抗争を展開していた。
 八代将軍の足利義政は政治から逃げ、その正室(妻)の日野富子が幕府の実権を握っている。その子、九代将軍・足利義尚、そして十代将軍・足利義材、さらには八代将軍の兄の子である十一代将軍は、いずれも将軍家の実力を伴っていなかった。すべて武将たちの争闘のなかに漂流する存在でしかない。
 そんな京都の政治のなかで、本書の主人公の細川政元が次第に力をつけてのしあがっていくのです。一度は将軍の座に就いた者(足利義材)を追い落とすために八千の軍勢を率いて細川政元は出撃した。そして、比叡山延暦寺に焼き打ちをかけた。
 うひゃあ、織田信長よりも70年も前に根本中堂を火攻めした武将がいたのですね・・・。そして、細川政元の最期は信頼していた臣下に裏切られたのです。これまた信長と同じです。
 室町時代の情景が活写された本として面白く、一心に読みふけってしまいました。
(2011年4月刊。1700円+税)

「終戦」の政治史、1943-1945

カテゴリー:日本史

著者    鈴木 多聞  、 出版   東京大学出版会
 終戦に至るまでの日本の政界上層部の動きを、昭和天皇や軍部の言動を含めて詳細にたどって分析した本です。とても面白くて、3.11大震災のあと久しぶりに上京する機中で、一心に読みふけりました。
 統帥権の独立とは、内閣が軍の作戦計画に干渉できないこと。戦前の日本では、統帥部と内閣とが政治的に対等の関係で並立し、国内には二つの政府があったと考えられる。敗戦色の濃い1944年2月、東条英機首相・陸相が参謀総長を、海軍大臣嶋田繁太郎は軍令部総長をそれぞれ兼任した。陸軍大臣が陸軍の参謀総長を兼任し、海軍大臣が海軍の軍令部総長を兼任するというのは異例の事態であり、これはそれまでの総帥権独立の伝統に反したものであった。軍人が軍の特権を自ら破壊したということである。この統帥権独立の伝統が破られたため、重臣や議会そして国民は統帥権の独立を楯として、公然と東条と嶋田を批判することが可能となった。これは、逆説的に、戦時内閣を解させて、戦争終結への近道への道を開いたと言える。
ラバウルなどの地域は、「確保」から「持久」する地域へ改められた。「持久」とは、一見すると聞こえが良いが、要するに長期的には「確保」しないこと。前方の作戦地域の将兵を見捨てて、時間稼ぎの捨て石にすることだった。
 1943年9月30日に開かれた御前会議は、昭和天皇を落胆させた。合理的悲観論と観念的強硬論が入りまじり、示された対策は「決意」の表明でしかなかった。昭和天皇の戦局に対する失望は、相反する報告をする陸軍参謀本部と海軍軍令部に対する怒りに転化していった。
 そりゃあ、そうでしょうね。軍部はいつも自分に都合のいいことしか報告しない、そしていつのまにか敗色ばかり濃くなっていったのですから・・・。
 陸軍の参謀本部と海軍の軍令部は相互に秘密主義をとり、陸海軍省には戦況の一部を知らせる程度だった。だから、陸軍省は軍令部の作戦計画を、海軍省は参謀本部の作戦計画を知ることができなかった。つまり、日本軍には、「協同作戦」はあっても、「綜合作戦」というものは存在しなかった。海軍側には陸軍を統制できる人材がいなかった。
実際、航空機が主力兵器となったことから、海軍は次第に空軍化しつつあった。
 1944年7月、サイパン島が陥落した。これは日本本土がB29の爆撃圏に入ったということを意味し、この時点で日本が戦争に勝つ見込みはなくなった。
 7月20日、ヒトラー暗殺計画が失敗した。このころ、日本にも東条暗殺計画があったが、同じ7月20日が予定日であった。ええっ、うっそー、嘘でしょ、と叫んでしまいました。
 日本はドイツの勝利を前提として日米戦争へと踏み出していたのである・・・。
昭和天皇は、「アメリカ軍をぴしゃりと叩くことはできないのか」「どこかでもっと叩きつける工面はないものか」と言って米軍に一撃を与えることを期待していた。つまり、好機講和論であった。
昭和天皇は、参謀総長としての東条には不信任であったが、首相としての東条は信任していた。東条内閣崩壊が戦争終結につながらなかったのは、反東条運動が必ずしも和平運動、終戦工作ではなかったからである。それは戦局打開運動をうみ出し、東条や嶋田では戦争に勝てないという人事刷新運動になった。
 昭和天皇は、沖縄戦までは軍事的な期待を捨てきれないでいた。
「もう一度、戦果をあげてからでないと、なかなか話はむずかしいと思う」
 2.26事件で側近を殺された昭和天皇は、事件に関与した皇道派の軍人、宇垣、香月、真崎、小畑、石原といった人々には強い不信感を抱いていた。
沖縄戦について、昭和天皇は、「なぜ現地軍は攻勢に出ないのか。兵力が足りないのなら、逆上陸をやったらどうか」と攻勢作戦を督促した。そして、戦後になっても、「作戦不一致、まったく馬鹿馬鹿しい戦闘であった」と強い口調で不満を述べている。
大本営と政府の首脳部は、国民に対しては特攻精神を怒号しながら、肝心の航空用ガソリンが10月以降にはなくなることを知っていた。この石油要因は大きく、戦後になって昭和天皇は、「石油のために開戦し、石油のために敗れた」と語った。
 昭和天皇は、7月上旬になっても対ソ外交に進展がないのに不満をもち、7月7日、モスクワへの特使派遣を提案して政府を督励した。昭和天皇は、万が一の場合には、長野の松代大本営において、三種の神器と「運命を共にする」気持ちだった。昭和天皇は、ある一定の状況下においては本土決戦の可能性があると考えていた。昭和天皇と陸海軍にとって、完全な無条件降伏は絶対に受け入れられないことだった。
 沖縄の陥落によって本土決戦が現実味を帯びたとき、昭和天皇は戦備の実態を聞いて、本土決戦不能論者となった。そして、国体護持を目的として、本土決戦を回避しようとした。
 一般に、日本はソ連参戦を予想できなかったと言われるが、正しい歴史理解ではない。日本の予想が外れたのは、ソ連参戦の有無ではなく、参戦の時期だけだった。
 昭和天皇は、「勝算の見込みなし」の理由を、原爆投下でもソ連参戦でもなく、本土決戦不能論に求めた。うひゃあ、そうだったんですね。まあ、まともに考えればなるほど、そうでしょうね。改めて大変勉強になる本でした。
(2011年2月刊。3800円+税)

王朝文学の楽しみ

カテゴリー:日本史

著者    尾崎 左永子 、 出版   岩波新書
「枕草子」の書き出し、春は曙・・・をフランス語訳で読み、それがすっかり気に入って、丸暗記するまでには至っていませんが、何度となく朝に繰り返しています。とてもよく出来たフランス語訳なのです。プロはさすがです。
古典を読むのには、「じっくり、しっかり、ゆっくり」読む法(A)と、何が書いてあるのか、さらっと「ななめ読み」しながら、興味を持ったところに眼を止めて、そこを詳細に読む法(B)とがある。このA法とB法をうまく組み合わせるのが、一番自分に適した読み方を身につける早道だ。私は、この指摘に文句なしに大賛成です。
同じ日本語でも古語と現代語で意味が異なるのですね。たとえば、
やがて・・・・現代語は「しばらくして」、古語では「そのまま」
やをら・・・・現代語は「急に、突然」、古語では「静かに、音を立てずに」
あたらし・・・・現代語は「新しい」、古語では「もったいないことに」
ゆかし・・・・現代語は「控え目で教養の深い」、古語では「見たい、知りたい」
恥(はずか)しは、古語では、褒めことばだ。あまりに立派で、こちらが恥じてしまうほど、見事な態度という意味。うむむ、こんな違いがあるのですね。
『源氏物語』の原文を読み進めるには、『古今和歌集』を十分に身につけていないと、理解が行き届かない。この『古今和歌集』も、当時の王朝人にとっては「現代詩」だった。なーるほど、もちろん、そういうことだったのしょうね・・・。
平安時代、紙は貴重なものだった。『源氏物語』の著者がなぜ厖大な紙を使えたのか。そこに強力な後援者がいたから。『枕草子』には、これを書くのに定子皇后から多くの紙を賜ったことが記されている。『和泉式部日記』についても、和泉式部は道長のすすめがあって書いた。このように、はじめに紙ありき。紙は道長の権威の象徴でもある。
『源氏物語』について、戦時中は、天皇崇拝の軍部指導下にあったから、宮廷内の不倫を題材とするこの物語は、触れてはならぬもののように扱われていた。
『源氏物語』には流麗な文章が小気味よく続いている。それは必ず、和歌が下敷きになっていた。音声的伸動、すなわち五七五七七の歌の伸調が筆致のなかに自然に生かされている。その意味で『源氏物語』は、根本的に「歌物語」なのである。
平安時代の貴族の恋愛が成就するまでには、多くの恋文がいきかった。それは主として歌であり、そこに多少の文章が添えたれた。
当時は、現代のような「信書の秘密」はない。届いた恋文は、姫君に届く前に、周囲にいる乳母(めのと)やお付きの女房たちの審査を経ることになる。恋文の巧拙、文字の巧拙、紙の色合いや、添える折り枝の取り合わせ、届けるタイミングに至るまで、その審査の対象となる。そこで合格となって初めて姫君に恋文を見せる。姫君がよいと言えば、返事を出す。
左手使いのことを「左ぎっちょ」というのは、毬杖(ぎっちょう)からきたもの毬杖とは、馬に乗って毬(まり)を打つ、今でいうとポロ競技のようなもの。なーるほど、そういうことだったのですか・・・。
日本の古典にも改めて親しみたいものだと思いました。
(2011年2月刊。760円+税)

鞠智城を考える

カテゴリー:日本史

著者  笹山 晴生     、 出版  山川出版社   
 
 鞠智城とは、きくちじょうと読みます。熊本県の北部、菊池市にあります。昭和42年からの発掘調査によって、今では現地に八角形の鼓楼(ころう)が復元されているというのです。その写真を見て、ぜひ行ってみたいと思いました。
 校倉(あぜくら)造りの米倉や兵舎と推定されている大型の掘立柱建物も復元されています。55ヘクタールもある広大な城域です。
 663年、朝鮮の白村江(はくすきのえ)で、唐と新羅(しらぎ)の連合軍に敗れた倭(日本)は、唐と新羅の侵攻を恐れ、対馬や域に防人(さきもり)や烽(とぶひ)を置くとともに、亡命してきた百済(くだら)の人の技術者の指導のもとに、大野城や基肄(きい。佐賀県鳥栖)城などを築いて備えた。鞠智城も同じころ、百済人の指導のもとに築かれた城だと考えられる。
このころの情報伝達として、烽が各所に設置された。敵の襲来や外国使臣の到着などの情報を速報するための通信システム。664年(天智3年)防人とともに対馬・壱岐・筑紫に設置され、40里(18キロ)ごとに設置され、昼は煙、夜は火を上げて合図を送った。防人も同じく、対馬・壱岐・筑紫に置かれたが、3年交替で筑紫に2000人から
3000人がいたと思われる。
 白村江の戦いにおいて、唐軍は統制のとれた律令制にもとづく軍団であった。倭軍のほうは各地の地方豪族がそれぞれ率いる「国造軍」の集合体でしかなかった。
なんでこんな菊池市のような山中に城があるのか不思議に思っていました。だって、大宰府から徒歩だったら2日から3日はかかるでしょう・・・・。
 その答えの一つは、官道が通っていたということです。この鞠智城のすぐ近くを古代の官道が通っていました。もう一つは、唐と新羅の連合軍が有明海から上陸してきたときには、これくらい内陸部の方が守って戦いやすいと考えたというところです。いずれも、なるほどな、とは思いますが、大宰府の次が菊池市の城だという古代人の感覚がもう一つぴんときませんでした。いえ、こ
(2010年11月刊。1500円+税)

沖縄決戦

カテゴリー:日本史

著者  新里 堅進    、 出版  クリエイティブマノ   
 
 丸ごと戦場となった沖縄の凄惨な地上戦のイメージがひしひしと伝わってくる劇画です。本土防衛の捨て石とされた沖縄地上戦の顛末の全体像が迫真の画で明らかにされています。現実は、もっと悲惨だったのでしょうが、ここに描かれた絵だけでも、もう十分ですと悲鳴をあげたくなります。
平和な島、日本軍に絶対の信頼を置いていた沖縄の人々が、ある日突然、アメリカ空軍の大規模な空襲にあい、逃げまどいます。そして、アメリカ軍の上陸作戦の前には、とてつもない数の軍艦による艦砲射撃によって地上の市街地は壊滅させられてしまいます。やがて、上陸したアメリカ軍と地下に潜んでいた日本軍との死闘が始まります。
前に紹介しました『シュガーローフの戦い』(光人社)の凄まじい戦闘状況も描かれています。戦史をなるべく忠実に再現しようとした著者の努力によって、沖縄地上戦のすさまじさを十二分に実感できます。それにしても、軍隊とは何を守るものなのかを改めて考えさせられます。
何の武器も持たない住民が逃げまどうなか、それを楯にして軍隊が移動していきます。そして、逃げこめる洞窟が一つしかないとき、軍隊は情容赦もなく、先に入った住民を追い出してしまうのです。
「おまえらを守るために戦っているのだから、出て行け」というのです。おかしな理屈ですが、銃剣とともに迫られたら住民は従うほかありません。
また、沖縄方言で話していると、アメリカ軍のスパイだと疑われて銃殺されたり、アメリカ軍に投降しようとすると裏切りものとして背後から射殺されたり、日本軍の暴虐非道ぶりは目に余るものがあります。
そして、抵抗なく上陸し、すっかり安心して進軍していたアメリカ兵も、内陸部にさしかかったとき日本軍の頑強な抵抗を受けると、たちまち総崩れし、兵士たちのなかに発狂する者が続出するのでした。
姫百合部隊の活躍の場面も紹介されています。大きな地下の穴蔵生活のなかで、どんなにか苦しく、つらい生活だったことでしょう。もっともっと長生きして、人生を楽しみたかったことでしょう。青春まっただなかだった彼女らのつらい日々も偲ばれます。
日頃はマンガ本から遠ざかっている私ですが、心揺さぶられるマンガ本でした。一読を強くおすすめします。ノーモア沖縄、ノーモア戦争を改めて叫びたくなりました。
(2004年1月刊。2136円+税)

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