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カテゴリー: 日本史

原爆が消した廣島

カテゴリー:日本史

著者    田邊  雅章  、 出版   文芸春秋
 広島の原爆ドームの対岸は、いま、平和記念公園になっています。この平和公園は昔から空き地だったのではなく、原爆が投下される前は、中島地区として賑やかな広島一の繁華街だったのです。町が6つあり、500軒にのぼる家や商店があって、2500人もの人々が居住していました。その町の様子がCG再現写真で紹介されています。
 この中島地区には橋があり、太田川との関係でT字型となって原爆投下の目印とされていた。
著者の自宅は原爆ドーム(産業奨励館)に隣接していました。もちろん、原爆によって跡形もなく消失しています。ところが、残った石燈籠や風呂釜などは白昼堂々たる泥棒に目の前で盗られてしまいました。火事場泥棒というのは、原爆投下直後の廣島にもいたのですね・・・。
 小学2年生だった著者は広島市内から田舎(母親の郷里)へ疎開させられていて無事でしたが、母親と弟を亡くしています。父親も二次被曝でまもなく亡くなりました。
 そんな著者ですが、原爆ドームの隣に自宅があったことを長く伏せて生活してきました。しかし、原爆の恐ろしさを後世に伝える必要があると気づいてから、廣島が原爆の投下によって地上から消滅する前の人々の生活の様子をCGで再現しようと立ち上がったのです。
 そんな貴重な写真が満載の本です。戦争は二度と起こさせてはならない。静かな決意をかきたてられました。大切にしたい本です。
(2010年11月刊。1800円+税)

トランクの中の日本

カテゴリー:日本史

著者   ジョー・オダネル 、 出版   小学館
 日本の敗戦直後、進駐してきたアメリカ軍の若き従軍カメラマン(23歳・軍曹)が日本各地を撮影してまわりました。そのとき、彼は自分個人のカメラでも撮影していて、それをトランクに入れてアメリカに持ち帰ったのでした。7ヵ月間にとった300枚の写真のネガです。そのトランクを45年後に開けて公表したのでした。
 アメリカ軍が日本に上陸する直前の写真から始まります。佐世保の高いビルの屋上にのぼり、廃墟となった佐世保市内にカメラを向けている状況写真もあります。まさに、今回の東日本大震災と同じ、まるで何もありません。ところどころにコンクリートビルの残骸があるだけです。
 武装解除された日本軍の将兵が馬車に荷物を積み、歩いて市内を行進していきます。
子どもたちが、チョコレート欲しさにアメリカ兵に群がっています。
 死体を焼く悪臭のため、鼻を着物のそでで押さえながら若い娘たちが歩いて通り過ぎていきます。
アメリカ兵の宿舎となった旅館で風呂に入り、食事をし、仲居さんたちと談笑している状況もあります。
 福岡の町並みは、さすがに木造ばかり、パン屋の前には長い行列ができています。
 驚くべきことに小さな小学校で運動会があっています。障害物競走の様子がうつっています。子どもたちは皆、元気いっぱい。手伝いをして働いている子どもたちもいます。
 広島にも空から行って写真をとりました。佐世保以上に何もない光景が遠くまで広がり続いています。
 長崎の爆心地にも立ちました。瓦礫の山です。そして瓦礫の中に人骨が散らばっています。被曝者は、顔が真っ黒、着ている衣服もボロボロ。背中にひどい火傷を負った少年の写真もあります。
 同時に、小学校では既に授業が始まっています。ところが、机の上には、まだ教科書がありません。
 死んだ弟を背負って焼場に来た少年の健気な様子の写真には心を打たれます。
 カメラ片手に広島・長崎をさまよって放射能を浴びたことで、後年、若者は体調をくずしてしまいました。放射能は、随分たってから影響を及ぼすものなのですね。
1995年夏にスミソニアン博物館で展示が企画されたものの、アメリカ国内の在郷軍人などの反対で中止に追い込まれてしまいました。この大判の写真集はそこで展示されるはずの写真からなっています。少し高価(2500円)な写真集ですが、ぜひ手にとってじっくり眺めてください。つくづく戦争は嫌だという気になります。
(2008年8月刊。2500円+税)

活劇・日本共産党

カテゴリー:日本史

著者   朝倉 喬司   、  出版  毎日新聞社  
 戦前の日本の現実の一端を深く知ることができる本でした。戦前って、激しい社会だったんだなあと思わず慨嘆してしまいました。
 三人の高名な共産党員が登場します。うち二人は、戦後は財界そして右翼の親玉として活躍しました。そんな人って、意外に多いのですよね。残る一人の徳田球一は弁護士ですが、法廷で活躍したというより活動家だったようです。
 初めに登場するのは南喜一です。大正12年9月1日の関東大震災が起きたとき、まだ30歳をこしたばかりの若さで、すでに70人以上の従業員を雇う工場の主だったのです。
ところが、亀戸警察に実弟が引っぱられていき、そこで陸軍の兵士らに銃剣で刺殺されたのでした。それを知って、南喜一は工場を売り飛ばして、大金をもって運動に飛び込んでいった。もちろん、弟の仇を取るためである。うひゃあ、なんとすごい兄弟愛でしょうか・・・・。
亀戸の虐殺は、権力側の意図とは逆の結果を招いた。「こんなひどいことが世の中にあっていいのか?」という義憤にかられ、かねて定評のあった南葛の労働運動に飛び込む若者が激増したのである。うむむ、なるほど、これこそ階級闘争の弁証法というものなんですね。
 南喜一は、その後、浜松の「日本楽器争議」に関わります。ダイナマイトを会社の役員宅に投げ込んだり、決死隊が組織されたり、さながらヤクザの出入りのような状況です。
 1925年(大正14年)9月、共産党の合法機関紙「無産者新聞」は読みやすくもないのに、売上が一気に1万部を突破した。そして、南喜一は1926年に起きた文京区の共同印刷の大ストライキにも関わります。
 次の徳田球一は、ソ連に福本和夫と一緒に渡りました。そこで、ブハーリンの主宰するソ連共産党の権威のもと、福本イズムは完敗させられたのでした。すると、徳田球一も手のひらを返したように福本を冷たくあしらうようになります。
 徳田は、モスクワに着いて、どうも形勢がおもわしくないと感ずると、ガラリと態度を一変した。この余にもあからさまな豹変ぶりは、一堂のひんしゅくを買い、本人にとっても大変な逆効果となり、たちまち党委員長を解任された。
このころって、ソ連とコミンテルンの影響が今日では想像できないほど強大だったのですね・・・・。
徳田球一は沖縄に生まれ育ち、大正年に、貯金局に勤めながら、夜間の日大法律学科に通った。大正10年に、弁護士資格を取得した。苦学3年である。うむむ、実は私の父も大川から上京して通信省に勤めながら法政大学の夜間部に通い、苦学して昼間部に移ったあと、合格はできませんでしたけれど、司法官試験を受験したのでした。
三人目の田中清玄は、戦後右翼の親玉の一人でもあります。戦前の田中清玄は共産党の指導者にまでなりましたが、その指揮下にわずか2ヶ月足らずのことですが、あの有目な太宰治(津島)がいました。武装共産党というのを始めた田中清玄たちは間もなく逮捕されます。要するに、共産党・アカは怖いんだというイメージを定着させることが出来たら、その役目は終わったのでした。
著者の死によって未完となった本ですが、よく調べていると感嘆させられました。
(2011年2月刊。3000円+税)

天皇と天下人

カテゴリー:日本史

著者   藤井 譲治   、 出版   講談社
 信長、秀吉そして家康が天下の実権を握っていたとき、天皇はどうしていたのか、日本の天皇制を考えるうえで知りたいところです。
 正親町(おおぎまち)天皇は、元禄8年(1565年)、キリシタン禁令を発した、豊臣秀吉のキリシタン禁令より22年も前のこと。フランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸(1549年)し、ヴィレラが元禄3年(1560年)に足利義輝から布教の許可を得たあとのことである。
 信長が京都にのぼり、永禄12年(1569年)にフロイスが京都での布教の許可を得た。ところが、正親町天皇は、同月に再び宣教師追放を命じる綸旨(りんじ)を出した。しかし、フロイスたちが信長に泣きつくと、「気にすることはない」との言質を得て、天正3年(1575年)に信長の援助を得て教会を京都に建設した。強制力を持たない正親町天皇のキリシタン追放例は将軍義昭や実権を握る信長から無視されて終わった。
 信長は朝廷から副将軍にすると持ちかけられても無視した。副将軍になることで将軍義昭の下位に位置づけられることを嫌ったのである。
足利将軍義昭は正親町天皇に従順ではなく、両者の調停者は信長であり、かつ、信長も言を弄して正親町天皇の意向どおりには動かない。
 年号を決めるとき、正親町天皇は信長に案を示し、信長が「天正」を選び、それを天皇が追認した。年号も天皇は自由に決められなかったわけです。
信長は内大臣そして右大臣に昇進した。ところが、信長は天正6年(1578年)に、突然、右大臣、右大将の官を辞した信長は、嫡男の信忠に譲与したがっていたのを、正親町天皇がこれを無視した。信長は信忠に朝廷での地位を譲ることによって、自らはさらにその上位に立つことを目論んだのである。しかし、それを正親町天皇は封殺した。
 信長は、朝廷に接近したときもふくめて、正式の参内を一度もしなかった。信長は、予が国王であり、内裏(天皇)であると語った。信長は、自らを天皇の上位に置いていた可能性が十分にある。
本能寺の変のあと実権を握った秀吉は即位費用として1万貫を朝廷に拠出することを約し、官位が授与された。
 天正13年(1585年)には、秀吉は正二位内大臣となった。さらには関白に就任した。秀吉は年に一度は朝廷に参内している。
 御陽成天皇は、秀吉の朝鮮渡海を思いとどまらせ、天皇の北京移徒をやんわり拒否した。
 秀吉は明皇帝からの日本国王に冊封することは受けいれたものの、その怒りの矛先を朝鮮に向け、朝鮮に「礼」がないことを責めて、朝鮮体節には会おうともしなかった。
日本軍が朝鮮半島において劣勢に追い込まれていくなかで、秀吉の関心は徐々に朝鮮から薄れていき、代わって自らの政権の将来へと移っていった。
秀吉は神号を新八幡か正八幡にすることを望んだが、結果は秀吉の思い通りにはならず、豊田大明神に決まった。
 家康は右大臣を辞し、秀吉以来の現職の官から退いた。秀忠が将軍となっても、秀忠が家康にとってかわって「天下人」となったのではなく、依然として天下人は家康だった。
 家康・秀忠は、禁中ならびに公家中諸法度を定めた。史上はじめて天皇の行動を規制したものである。その第一条で、天皇が政治に介入することを間接ながら否定している。  
家康の神号については、明神とするか権現とするか争われたが、幕府の意向によって権現と定められた。このように、天皇の役割は、将軍優位で決められたものを調えるだけに過ぎなかった。天皇が、それなりの権威は認められつつ、当時もほとんどお飾りだったことがよく分かる本です。
(2011年5月刊。2600円+税)

天平の阿修羅  再び

カテゴリー:日本史

著者  関橋 眞理    、 出版  日刊工業新聞社  
 阿修羅像は、彫刻作品として見ても、空間構成の美しさ、三角のお顔に六臂の腕が、合掌から手が解き放たれて、天空に挙がっていく。そういった時空間が表現されている。バランスの美しい傑作である。鎌倉彫刻のような筋肉隆々の肉体美を見せるものでもないし、ヨーロッパのビーナスのようなものでもない。何もないところに時空間を作り出して行くという表現の素晴らしさがある。
 阿修羅像は、まさしく神々しい仏像の最高傑作ですよね。久しくおがんでいませんが、ぜひまた見てみたいものです。
 模造の阿修羅像は、肉身も裳の部分も朱色の鮮やかな姿で、興福寺にある実物とは印象がまったく違う。しかし、造られた当初はまさしくこの色だった。この色は日本画のエキスパートが一日中ルーペをのぞいて、布と布の間に隠れている色の粒子を見つけ出した。それは執念だ。その人が心の眼で見ている。ぼんやりしている人には見えてこない。
模造とは、単に形を真似るのではなく、使われている材料、構造、制作技術に至るまで、すべてを復元するということ。模造制作の目的は、材料、構造、製作技法を解明し、それを学ぶことによる修理技術者の養成と修理技術の向上である。模造は、現状維持修理を支えるという面をもつ。
 模造のためにつかう道具も、最終的には自分でこしらえる。大工道具は、播州とか新潟東京で主に作っている。彫刻の道具は東京に注文する。計測する道具が必要だが、金属だと図るものを傷めるので、木や竹にして、使い勝手がいいように自分で工夫する。
 像の部品を接着するだけなら誰にでも出来る。肝心なことは、いかに美しく処理できるかということ。プロの仕事はそういうもの。
粘土で原型をつくるとき、師匠が「腕は丸いんじゃない。四角いんだ。丸い腕も本来は四角なんだ。丸い腕でも正面があって、側面があって、背面がある。つまり、球だって四角い。必ず正面があって、側面があって、底面があって・・・・」なるほどですね。
美術院の修理技術者は有機溶剤取扱免許、危険物取扱免許、クレーンの運転免許、レントゲン技師など、各種の免許を取得している。
 奈良の興福寺の阿修羅立像はとても素敵なものですが、実は制作当時は朱色の像で、頭髪も金泥で、まさに茶髪なのでした。まあ、しかし、それはそれでいいものです。
いい本でした。奈良時代の技術が、しっかりしていること、それが現代に再現できるのを知ってうれしくなります。
(2011年2月刊。1000円+税)

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